I talk about some books (in 2000) vol.6
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トリックは風の噂かパロディネタで聞いたことがあったけど、へぇーこれに使われていたとは寡聞にして知らなかった。 うーん。これはホント好みでしかないんだけど、怪談風味は私にはいらないなぁ。 それも彼の売りの1つなんだから、読んでおいて「いらん、不要。」というのも無粋だね。 HM卿が出てきて謎解きに入ると、かなり加速感がついておもしろくなったけど。 最初、なんていうか、本を読む時には日常から離陸して小説世界に入るって感覚があるのだけれど、 この本ではちょっと離陸に時間がかかるもどかしさがあった。 訳者と相性がイマイチだったのかもしれない。そんな気もする。 あと、お馬鹿な上に全く著者カーとは関係ないことなのだけど、カタカナ化すると似た名前が多くて紛らわしかった。 プレーグとブレーク、マクドネルとマスターズ(あ。マで始まるってだけだった・・・)が時に混乱した。 |
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フロイト1/2を始め、7つの短編が入っている。 良かった。顔がいきなり端正から二頭身になる絵を見て、ちょっと引いていたのだが読んでよかった。特に表題のフロイト1/2には感動。 ある日、大学生の弓彦と小学生の梨生は小田原の提灯売り、風呂糸屋から2つで1組になっている提灯を買う。 そして二人で夢を共有することになるのだ。その二人は10年後、職場で再び出会うことになる・・・。 セリフとかコマわりとか背景とかの、無駄を省いた&計算され尽くした簡にして力強い表現がすっごく良い。 この作品が残す余韻は、頭の周りにちっちゃな天使が舞ってるような幸福感。 ・・・あー。この作品の素敵さを伝えたいんだけど、べらべら語るしか芸がない自分が超くやしい。 ところで、川原泉の作品はこれ一冊しか読んでいないので、この作品集だけの傾向かもしれないんだけど、話の骨格として川原泉的定番ってのがあるのかしら。 つまり、こんな二元対立的な構図。 ・頭の良い、出来の良い、但し、情緒にちょっと欠陥がある。頭の構造も人間心理の把握も理系的な男の子。というより成人男性。 少なくとも少女より年上に設定される。 ・頭の出来はイマイチ。性格はおポンチ。ただし、情緒は満点。包み込むような母性がある女の子。こちらはあくまで少女。 ドジでハナペチャな女の子がハンサムな少年に愛される。 そして「私も生きていていいんだわぁ」と少女の心がお花で満たされる的な古き良き少女マンガの構図と似てるけど、実は全然違う。 川原泉の場合、救われるのは少年。少女の方はそれなり自己充足しているので、恋愛はまぁどっちでもいいし、時に迷惑だったりする。 ふーん。川原泉はどっちに自己投影しているのかしら。理性と情緒が対峙して、遂には情緒が理性を救う。って構図が彼女の頭の中で、 せめぎ合っているのかも知れない。母性に肩入れしているようだけど、ことさら肩入れするってことは彼女の中に対立する存在があるってことだし。 もう何冊か読んでみたいな。 |
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実はちょっと気分が暗いのだ。また、読んじゃったよって。だってもう岡嶋二人の新作って出ないじゃん・・・。 楽しみがどんどん残り少なくなる。多分もう1,2冊しか残っていないんだよー。ふぅ寂しい。 この本について言うと、何でも屋さんの釘丸大蔵さんの語りによる推理小説集。短編が5つ入ってお買い得。 それぞれの題名もしゃれていて小粋。大店の番頭の様な語り口と合わさってどことなくユーモラスで品のある感じがする。 推理小説としても読者に親切な丁寧な展開だと思う。あんまりにも丁寧なので、オチはちょっとわかり易いけど、 大蔵さんの落語的情緒のある話芸に免じて、目こぼしって感じ。(←偉っそーに。何様って感じだね。えぇい!読者様だい!と開き直る。) ただ、なんてゆーか、時代がかった上品な大蔵さんの語り口で包まれているので、一見暖かそうなんだけど、騙されちゃいかんいかんって思った。 実はかなり人間に対してシニカルな視点で見てる、そんな小説達だと思う。 5つの小説のうち、人情物というか犯罪の動機というか話のオチに救いがあるのは1つだけ。 残りの4つのうち、3つは夫婦間のどろどろ。(うち1つは背景として出てくるだけで、犯罪にはからまないけど。) 犯罪愛好者でも、窃盗目的でも、恐喝者や目撃者を殺すでもなく、身近な家族が利己的な感情を膨らました結果の殺人って、 小説の中の殺人としては、一番ネが暗いと思う。 岡嶋二人って語り口が一般にあっさりしていて、おどろおどろしたり、感情的になったりはしない。 でも、時々実は彼らの世界観って暗いなぁ、人間に対する不信感強いなぁって感じる。そこがまた好きなんだけど。 |
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『西洋占星学は「占い」ではなく、人間の主観を客観的に証明する緻密な体系である』と著者は言う。 彼はこの本で様々な音楽作品を通じて、そのこと、つまり、人間の美意識と西洋占星学の体系が現実に 結びついていることを実証しようと試みている。 大変面白かった。ただ、その実証の試みが成功したかどうか、著者の主張が正しいかどうかは今現在、私にはわからない。 理由は主に2つ。 1つ目。音感もリズム感もクラシックの常識もないので、言葉で書かれた説明(例えば、『たたみかけるリズム』、 交響曲と交響詩の違いなど・・)の意味が良くわからない。 2つ目。そんな色々よーわからん状態なのに、「そーだね、その通りだね。」って著者に賛同するっていうのは、 なんだかしっくりこない。著者は実証と言うアプローチを打ち出しているのに、「信じる。」ってな反応はなんだかなって感じがした。 自分の中で一つ一つ納得したいんだよね。 だから、まだ良く分からない。 これから、何か音楽を聴く時にちょっとこの占星学的分類を気に掛けて聴いてみたい。そしてそーすることが楽しみでもある。 よーわからん中で非常に良くわかったこともある。 西洋占星学と芸術家の感性/美意識の一致点、つまりこの本で書かれていること、ではなく、西洋占星学と自分の感性とか、 どうも一致しているようだということだ。 自分が好きだなぁって音楽家の太陽と月のサインを簡単に洗い出してみた。 まず、私はとにかく魚座アーティスト好きなようだ。 中学生の頃ビートルズのバラード集を貰った事がある。「どれが一番好き?」と聞かれて、私は即座に答えた。「something!」。 The long and winding road, Hey jude, yesterdayなどの名だたる名曲の中で、とにかくsomethingだった。 somethingは言わずと知れたGeorge Harrisonの作であり、彼は魚座だ。当時の私はもちろんそんなことは知る由も無し。ちなみにJohnとPaulはそれぞれ天秤座と双子座。 また、私が唯一FAN CLUBに入ってしまったバンドはMr.Children.桜井和寿は太陽も月も魚座の生まれだ。 まぁ、この本にもあるが日本はかなり魚座アーティストの多い国だと言うので、たまたまとも考えられる。 しかし、魚座アーティストに対しては私は好き以外のある感情を抱えている。 「恥ずかしい。」 私にとっては彼ら魚座アーティストの曲の印象を一言で言うと「身もふたも無い。」。 とにかく恥ずかしいのだ。ピアノを弾いていたこともあるのだが、ショパンなんて恥ずかしくて人前ではとても引けない。 感情が生で曲に入ってるので、「いやぁ、赤面しちゃうぞ!」って感じなのだ。 Mr.Childrenも同様。カラオケで歌うなんて以ての外。人と一緒に聞くのも恥ずかしいのでヘッドホンで聞く。 中島みゆき、ASKAも同様。ぶっちゃけた話「よくあんな歌を人前で堂々と歌えるよなぁ。プロデューサーと意見交わしたり出来るよなぁ・・・。」って思う。 何か彼らをバカにしているみたいな言い方だが、もちろんそんな事は全く無くて、とっても好きなのだ。 部屋で一人で浸るって形で彼らの作品を愛しているのだ。 私の場合、エレメントで言うと太陽は理知的な"風"、月は情緒的な"水"にあり90度を取る。 月という感情が彼ら魚座アーティストの作品に反応しているのではないだろうか? そして、太陽というか理性はそれをけっ、感情に流されやがってと横目で軽蔑してるってとこなんだと思う。 もし、才能があって自分で音楽的活動をするとしたらイメージに近いのはGLAYあたりか?とも思う。ちなみに彼らの音楽は別に人前でも聞ける。 GLAYのメンバー4人はみな風のサインに太陽を持つ。ピアノを弾いている時もモーツァルトは弾き易かった。 ただし!退屈なの。特に面白くもないって感じ。(もちろん、音楽的価値とかを云々してるんじゃないよ。) でも自分が作ったり、演奏したりしたら風系の作品はなりそう。イメージは近い気がする。 でも愛しちゃうわ(はぁと)のは魚座アーティストの作品なの。何か不思議。 魚座の次に好きなのは射手座、次に乙女座。 というか、調べた限り、太陽が魚座、射手座、乙女座にないアーティストのCDはうちにほとんどないかもしれない。 桑田圭佑、草野マサムネ、椎名林檎、玉置浩二、井上陽水、甲本ヒロト、ベートーベン、Queen、米米クラブ、Bon Jovi・・・。 この本を参照しつつまとめると、全般的な傾向も何となく読めてきた。 ・魚座: とにかく好きだが、感情が生過ぎて恥ずかしい。 ・射手座:あんまり青っぽい真摯さが熱く表現されると引いちゃうが、何らかの形でsophisticatedされていると好きであるようだ。 ・乙女座:文学的な少女趣味が濃すぎない限りは好きなようだ。 まとめてて気付いたけど、この3星座ってみんな3区分で分けると同じ区分の"変通"なんだね・・・。 まだ、ちゃんと調べていないけど文学の好みにも傾向がありそうな気もする。 ちょっと見た限りじゃ、やっぱ魚座好き。それから射手座、そして水瓶座及び風のサインの星座。 森鴎外、夏目漱石、梶井基次郎、芥川龍之介、スウィフト、種田山頭火、ソルジェニーツィン、いとうせいこう、岡崎京子、尾崎南 (FAN CLUBに入ったのはミスチルと尾崎南のだけだ。2人とも魚座だった。)・・・。 私は射手座、水瓶座に影響の大きい感受点や惑星を持つからか? 音楽に比べると"浸りたい"要求が薄く、作品に自分を投影したいからなのかなんなのか、音楽に比較すると射手座、水瓶座の影響が濃そうな気がする。 うーん。面白い。新しい切り口で物を見るって新鮮で楽しい。 この占星学という切り口なり分類方法が科学的に正しいか、論理的整合性があるかどうかはまだ良く分からない。 でも、「演歌が嫌いでJ-POPが好き。」みたいな分類でものを語ることってよくあるじゃない。 ロマン派音楽とか、古典派とか。そーゆーのだって科学的分類方法ではない。全く分類から漏れる作品がないとも思えない。 だから、占星学って切り口が、まだ私にとっては非合理で曖昧なものであってもかまわない。 (あくまで"まだ"&"私にとって"だ。"著者にとって"は"すでに"実証されているのかも知れない。) 少なくとも、私の好み傾向については「演歌だ、J-popだ、ROCKだ、フォークだ、歌謡曲だ」という分類程度の妥当性はあると言える。 調査対象が増えると、より傾向が見えてくると思う。気長に追ってみたい。 |
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ヴァン・ダインの第9作目。うーん。荒い。荒すぎ。まぁ彼の評価できる作品は最初の6冊だというから、そんなに期待していたわけではないけれど。 ・まず、動機が曖昧というか納得出来る蓋然性がない。 ・ソーンダイク博士じゃないのは知ってるから、そんなに科学分析に長けてなくてもいいけど、毒物殺人なら証拠物件の取り扱いには 注意しはようよ。鑑識にまわそうよ。って感じ。 ただ、傑作ではないにしても彼の様式美的ending守られている。(ネタバレになるので詳しくは書かないけど。)"正義は勝つ"ってとこ。 ちょっとスターウォーズのような陰りの全く無いendingを思い出す。ヨーロッパカブレであったとしても、奴もやっぱアメリカ人なのだなぁって endingを読むと思う。 |
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短編が9つ入っている。舞台は主にアメリカ西海岸。アメリカでの評判は中々よろしいらしい。 「むちゃくちゃ素敵でこんな本があったなんて信じられない。この9つの物語は、現実を完全に越えちゃってる。」って感じで。 私としては、うーん、悪くはないのだけど、別に身の回りにあってもなくてもいいって感じの重要性しかない。 この本の掲載されている短編の主人公はみんな女の子。幼い女の子からteenagerまで。で、もちろん、それぞれにSTORYはある。 幼児あり、ゲイカップルあり、母親の死あり。バラエティに富みすぎるほど主人公の身辺の設定は多種にわたっている。 しかし、それらの9つの物語で一貫して主題となっているものがある。それはtime goes by,"移り行く時"。 いつ迄もこのままじゃいられない、いつか変わるんでしょっていう諦めと焦燥感がある。 黙って待ってるのもイヤだから、わざと取れかけのかさぶたを引っ剥がすみたいに変化に飛び込んでみたりする。 そんな少女の季節のイライラと不安をもの凄く的確に表現した小説だと思う。 感動っていうのはアレルギー反応の様な一種の抗体反応だから、そう、 例えば少女の不安定さが自分の心の80%を占めているとしたら、心の80%が抗体を持つ=反応する=感動する可能性があるということになる。 私の場合、不安定の大部分がノスタルジーに昇華しちゃったからなぁ。 |
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何ていうか、この本の感想は言い難い。 つぼがたくさんあってそれぞれに自分の心の何かが反応しているのだけど、その反応をいちいち上げても散漫になるだけだ。 かと言って、面白かったわぁで終わらせられるほど私にとって軽い本でもない。 主人公はフリーライターのユキ。彼女の兄がアパートの一室で自殺とも病死ともいえない緩慢な死を選んだことから、物語が動き出す。 時折死んだはずの兄の姿が見える。兄の死臭を街の人のそこかしこで感じる。 何かが変だとユキは思う。彼女の周囲で内部で何かが変化し始めていると。 そして、ユキは兄の死の原因を知ることでその変化を把握したいと思い、カウンセリングのために母校に向かう・・・。 兄の死が契機となるというあたりは『白骨観』をという修行を思い出させた。インドから来た仏教の修行だという。 『昔、僧は婦人の死体の前に座り、その死体の移り行く様を観想した。正気に戻ること、つまり無常観を得るために。浮世の人間は 死を見てはじめて正気に戻るわけだな。死体はそれが土に還るまで九つの相を見せると語っている。』(in 東京漂流 by 藤原新也) 何が正気で何が正気じゃないかは良くわからないんだけど、何かモードが変わるってことを言っているようだ。 そしてこの本『コンセント』の見方で言うと代わるのは自分つまりハードディスクではなくOSだという。 自分の本質が変わるというよりInterFaceが変わるのだ、と。 OSのチェンジってかなりタイヘンそうだ。 文字通りのパソコンの世界で考えても中々上手い事いかないもの。大体今までのアプリケーションの幾つかの機能に不具合が生じる。 それは人目には狂気とも言える状況だ。 自分って他人と繋がっていない存在、なんてゆーか硬い殻に包まれた種子ではいられない。 集合無意識という世界にコンセントを差し込んで繋がる。 アンテナ立てて電波受け取る。 表現はどうでも良い。何らかの形で互いに影響を受けつつ存在せざるを得ないみたい。 自分と世界は対峙するものであり、世界は自分でもあり、自分は世界でもある。 世界を波動と考えるならば、自分はその波を分割した高調波の一つなのだ。 私は人の死に深く関わったことはない。(一応、親族の葬式くらいは出たことがあるが。) OSが変わると言った大きな変化の経験はない。ただ、アンテナというかチューニングの変化というものは感じる。 例えばある地名/人名などが気になりだすと、いきなり読む本や人との会話にやたら出てくるってことがある。 私の場合は"セドナ"。アリゾナ州の1都市の名前だ。 最初は本屋、それも帰り道にあるわけでもないのに、なぜか立ち寄った本屋の名前も覚えていない雑誌で読んだ。 2番目はやっぱ本屋で立ち読みした安野モヨコの美人画報に出ていた。3番目は電車のABROADのつり広告。いつも乗るとこでおばちゃんがぐずぐずしていたので、 隣の車両に乗り、ふぅーと息をついて見上げたら、"セドナ"と。 シンクロニシティと考えることも出来なくはないだろう。ただ、私の意見としてはチューニングがあったと言うほうがしっくりする。 きっと世界にはいろいろな電波が飛んでいるのだ。でもチューニングが合わないと聞こえないかノイズになってしまう。 ま、こんな程度の話は誰にでもある。 世界と自分との係わり合いって未だ良く分からない。運命と意思って言うのも、自分の意識が何処まで自分なのかってことも良くわからん。 結局、なぁんにもわからんのだなぁ、でもその時々で何とか落とし何処見つけていくってのもありなのかなぁと思った。 |
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17世紀の女性毒殺魔と隣家の主の死が綾織のようにからむ。怪奇小説としても本格推理小説としても楽しめる。 読み出すと止まらない。傑作であることは間違いない。 読後感はちょっと複雑。落語で言うところの2段落ち。 これを筆が余ったというか、技に勝りすぎととるか、技巧に畏敬の念を抱くか。これは個人の好みでしょう。 私的には尊敬と違和感が8:2って感じです。 |
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