1年9カ月ぶりの第2弾。
高校女子野球に目をつけた点については買う。しかし,ほかにはなんにもない。女子野球を持ち出した点に関して言えば,ライトノベル的文脈におけるメリットもほとんど活用されていないし,野球シーンにもその他のシーンにも全然生かされてない。
全体にB級マンガ的類型にはまりすぎているという点は前作と同様。小説の作法に関して何もわかってないのか,多少なりともわかってて無視してるのか知らないが(この作品を見るかぎりどちらにしても同じことだが),もうちょっと修業すべきだと思う。一人登場人物が増えるたびに判で押したように「彼女の名は」から始まって容姿を説明するのは勘弁してもらいたい。
後書きが寒い。イラストもよくはない。次は買わないかも。
この作者が大好きなルサンチマン野球を頭から否定するつもりはないけど,野球論にはいろいろと異論を唱えたい部分もある。しかし,まあ巨人も優勝したことだし目をつぶるか(違)。
あちこち手直ししているうちに一日が過ぎる。成果のほどはごらんのとおり(css対応ブラウザで見ると妙に垢抜けしない田舎臭いデザインがお楽しみいただけます,と念のため書いておこう)。ほかにはINTRODUCEを全面改訂。つまんないこと書いてます。
女子が野球する本強化中。『彼女はスーパールーキー』(絶版か……)はあまり面白くない。表紙のイラストは安彦良和だ。
グロンギフィルタのあまりのナンセンスにのけ反る。
職場で自分のページを見る。いろいろと焦る。その場でわかる範囲で手直し。
女の子が大リーグにスカウトされて大活躍,彼女の加入でチームの成績は急上昇,てな話。
『赤毛のサウスポー』は,主人公の成長を通して「野球」を発見する話だったけど,こっちはただのハーレクインでけちな「自分探し」。作者は世界中の男は女を憎んでてレイプしようとしてるかとでも思ってんだろう。安全なのはたった一人の王子様と性欲も枯れた父親の世代だけ,とか。やれやれ。いや,まあ,わたし以外の男は実際そうなのかもしれないなー。
主人公のポジションがショートってところに多少工夫を感じるが,ショートの視点から試合シーンを描く,というような芸はない。ほとんどがスタンドの誰かの視点で遠巻きに眺めてるだけで全体に試合シーンは平板。男社会に女一人で乗り込んでいって迫害されて王子様が助けに来るって話さえ書ければ野球のことはどうでもいいんじゃないかという気になってくる。
主人公の出生秘話にぐったり。そりゃあないでしょう。いま入手困難なのも当然か。
去年話題になった本を今ごろ読んでるのはわたしです。
本書にも収録されている「人間が滅亡せずにすむ道はあったか?」(「バングラデシュの山椒魚たち。」改題)というタイトルのカレル・チャペック『山椒魚戦争』論は既にネット上で読んでいて,ああ良くわかっていらっしゃる,と思ったものだった。
でも,どうすればいいんだろう。裏表紙の解説では,この小説が「人類の本質的な愚かさを鋭く描」いたことになっているけれど,そうじゃないんだ。だって,ここには愚かな人はぜんぜんいないんだもの。人類が愚かだというなら教えてほしい。いったいこの小説の,どの段階で,だれが何をすれば,人間は滅亡せずにすんだんだろう。
そうそう,それは言っとかなきゃいけない。裏表紙の解説を書いた人は「笑えること=愚かなこと」というふうに考えてしまったんじゃないか。そうじゃない,とちゃんと言ってくれる人がいるってのはいいことだ。しかもちゃんと『山椒魚戦争』の楽しさについても書いてある。
あと,「スタニスワフ・レム『虚数』序にかえて」もいいし,昔はゲッと思った例の『死の迷路』の解説も,落ち着いて読むとなかなか味がある(けど,この文章でディックを罵倒してる一方で『暗闇のスキャナー』の解説のような文章を書いていることを既に知っているから,ディックファンのわたしも安心して「味がある」などと言ってられるんだけども)。
そんなわけで,そのうち読まなきゃと思ってた本。実は本文の半分以上がWEB上で読めてしまう,ってことを知ってたりした都合上,延び延びになっていた。
面白くて,いろいろ考えた。でも,帰宅してちょいとうたた寝したら全部忘れてしまった。あれまあ。
わたしは,プロローグに書かれているエリート主義(知的な階級差別体制)だとか教養に対する態度だとかきちんとした啓蒙をしなきゃダメじゃん,とかの主張にはほとんど文句がない。そういう世の中が来たらわたしなど真っ先に落ちこぼれるが,それもまたよし。なんでバカが権力持ってんだコンチキショーとか言わずに安心して落ちこぼれてられるだろう。隅っこで人知れずのたれ死ぬのもなかなかいい感じだし。ああ,早くそういう世の中にならないかなあ。
しかしなんだろ,この語りかけ文体は。いいとか悪いとかじゃないんだけど,ちょっと作為が見えすぎてるような気もしないではない。その作為がどの辺にあるかってのは読めばわかるようになってるし,そこまで作らなくても。それともあえてここまで作らなきゃあかんほど世の中の読者はアレなのか。これがナチュラルだってんなら別に心配いらないんだけど。
職場のヘタレまくった端末をなだめすかして働いて頂きました,という一日。
年度末調整の季節らしくて,なんだか大口の注文が多い。志賀関係全部。とか。そうゆうお金の使い方しておいて予算がないとか愚痴るのはどうなんですか。人として。
新刊でも平気で古本屋に回してくる,某大手書店からの注にはこの季節でなくともいつもびっくりする,というか腹が立つ。だいたいこういうことらしい。
某一部の図書館や学校が,某大手書店の担当者(図書館とかの大口の顧客を担当する部署があるんだろう)に注文を出す。→その担当者は自社に在庫があるかどうか,版元に在庫があるかどうかなどろくに確認せずにうちの営業部に持ち込む。この人たちは本のことなど良く知らないし,知らないことは自分たちで調べるって程度のやる気も誠意もあんまり持ち合わせがないんだろう。→うちの営業としも旨い話ではあるんで,てけとーに受ける。うちの専門とは全然違う本も混じってるから他所の古本屋まで当たって買い付ける。→それにてけとーに上乗せして,伝票上.9掛けにして某大手書店に納品する→ 某大手書店はそれにさらにてけとーに上乗せして発注元に納品する。
ものすごーく無駄がおおいことはおわかりいただけますね?
しょうがない部分も,たしかに,ある。発注側にとっては注文の窓口を一本化すれば,手続き上のロスはその分へるんだろう。公共機関は本一冊買うのにべらぼうな書類を書かなきゃいけないところもあるからねえ(S玉県某市の,ハンコ持って役所に来なさい,てのにはびっくりしたけど)。このご時世,手間のロスより経費のロスのことを考えたほうがいいんじゃないかと思うこともままあるけれども,これはこれでメリットではある。とはいえ,上の「→」1ケにつき,3割ずつくらい本の値段はあがっていくってことを,某大手書店に発注した担当者氏は,わかっているんだろうか。
古本の場合は,これでも,まあなんとか許せるような気も,しないではない。でも,新刊までその中に混じってるとしたらどう思います? 最初のうちは,新刊があるんじゃないの? って教えてあげてたのよ。これほんと。でも,あんまりまともな反応が帰ってこないから,あきらめたのね。その場合,手元に無い新刊は,うちが版元から取り寄せるわけ。当然,売り値は定価です。で,某大手書店としては,そうやって仕入れた本にさえ,平気で2割3割乗せて納品するんでしょうか。つーか,そうじゃないと利益がでないわけだから当然そうしてるんだと思う。
はて。発注者の方は,定価10000円の本が13000円(推定)で納品されることに疑問を抱かないのかね。
本のことを良く知らない人たちがファックスだの電話だので机に座ったまま本を売ったり買ったりしているうちに,予算なんてどんどんむだ遣いされちゃってるわけ。ま,なんつーか。売ってくれって言われたものを売らないわけにもいかんしね,本屋としては。
正しいHTMLをめざして,掲示板のデザイン更新。Another HTML-lint gatewayで97点出ました。
朝9時びったしに,bk1からブルース・スターリング『タクラマカン』届く。
トマス・ダイジャ『白球の王国』(文春文庫)を読んでいる。南北戦争中,北軍の一中隊が,ふとしたきっかけで南軍の兵士と野球の試合をする,って話。重厚な文体で字がびっしり。しかも600ページ以上ある。おかげで全然はかどらないけど,これがなかなか。
雪が降っている。
いつものように朝のテレ朝アニメ特撮セットを見て寝直す。「クウガ」の最終回は無残だった。アホくさ。「どれみ#」は日常描写に味があるアニメなのにこれじゃあね。最終回まではじっと我慢するしか。はやく新シリーズを軌道に乗せて他愛ない日常の話を再開して欲しい。
夕方起きて2時間ほど読書。『白球の王国』は,ようやく半分あたりに差し掛かってきた。登場人物が多くて,しかも視点の移動が頻繁にあって,覚えるのが大変。南北戦争に関してまったく知識が無いためについていけない部分もあるような気がする。ペースがあがらない。
野球に関する記述が面白い。当時は,打球をワンバウンドで捕球すればアウトになるルールがポピュラーだったようで,北軍兵士が試合開始前にわざわざ「フライゲームにしよう」と提案したりしている。
野球の歴史を知るのにコンパクトな本をbk1でさがしてみたのが『野球はなぜ人を夢中にさせるのか』。やれやれ。また余計な本を買ってしまった。
思うに,ある意見が一般論としておかしくないかどうかを手っ取り早く判定するには,言葉を多少入れ換えてみればいいのですね。
アメリカでヴィンテージ・ベースボール(古式野球)を見て実際にプレイしたことで興味をかき立てられた著者が野球の起源を求めてアメリカとイギリスを行ったり来たりするノンフィクション。ときおりオヤジ臭ただよう文体に脱力させられるけれども,全体としてはなかなか面白い。でも,なぜこんなタイトルなんだ? 「なぜ云々」については1行も書いてないような気がするんだけどなあ。
「ベースボール」の直接の先祖にあたるのはタウンボールという素朴なボールゲームだった。これには「マサチューセッツゲーム」だとか「ニューヨークゲーム」だとかのさまざまなローカルルールがあって,最古のものは「フィラデルフィアゲーム」だと言われている。このタウンボールのルールを発展させてベースボールを作りだしたのが,アレグザンダー・カートライトという人物で,ここで初めて三振とかファールとかワンバウンドルール(ノーバウンドもしくはワンバウンドで野手が捕球するとアウトになる),3アウト制のルールが誕生した。
さて,このタウンボールはどこから来たのだろう。19世紀の終わりごろに新聞記者として野球の普及に努め,アメリカの国技にまで高めるのに貢献した人物,ヘンリー・チャドウィックは,タウンボールはイギリスのラウンダーズというスポーツと基本的には同じものだと書いている。その記事を足掛かりにしてイギリスに向かった著者はラウンダーズが現代でも女性中心にプレーされているスポーツだと知る。著者は好奇心が赴くまま,ラウンダースの起源を調べ,ストゥールボールに出会い,ストゥールボールが日本にも渡っていたことを知り,さらにさかのぼってトラップ・ボールという単純で素朴なゲームへとたどりつく。
驚かされるのは,それら起源に関わる野球の全てのスポーツが,イギリスではいまだにプレーされているということ,そして,いずれも女子中心のスポーツだということ。高度に洗練された現代の野球が男のスポーツになっている(『赤毛のサウスポー』や『彼女はスーパールーキー』は主人公の女の子がそうした偏見に悩まされる話だった)ことを考えると,なかなかに思うところもあるというものだ。
この本の中で取り上げられているスポーツは,わたしたちが子どものころにゴムボールとプラスチックのバットを持って空き地や校庭で遊んでいた三角ベースだとかの野球ごっこに少し似ている。たとえば,ラウンダーズでは,ベースではなくポストを立てて走者はバットか手でこれにタッチする。野手が走者にボールを投げ当てるとアウトになる。そうそう,子どものころは「投げ当て」有り・無しで口論になったことも,あったあった。ゴムボールだって思いきり投げ付けられると子どもにとってはけっこう痛い。電柱や立ち木をベース代わりにしてたこともあった。手を放すとアウトになったりする。もともと子どもなりに身の丈にあったルールを勝手に作って遊んでいたに過ぎないんだけど,そのなかで野球が素朴な形に還元されて起源に近づいていたんだと思うとなんだか面白い。
去年の暮れに出来たBOOKMARKET神田小川町店に行ってみた。よく知らないけど,BOOK OFFみたいなリサイクル古書店てやつなのね。おお。入り口と出口が別になってるぞ。ゴージャスだっ。でも,なんだか使いづらい本屋だなー。海外の小説を著者順でならべてあるとこんなに探しづらいのか……。出版社別著者名順に慣れちゃってるからな。2冊ほどささやかな収穫有り。
南北戦争を題材とした重厚な作品。
果てしなく続く血みどろの戦闘,重苦しい死の圧迫,人間性を奈落の底に突き落とす徹底した不条理。ある理念だとか大義だとかを通してどのように語られようとも,実際の戦闘には徹底した殺戮以外のものなど,入り込む余地はない。たとえば南北戦争において北軍が奴隷解放のために戦ったなどというのは,もちろんうそっぱちのプロパガンダだ。したがって,戦争とは,小説にとって限りなく不可能にちかいテーマだといえる。「戦争の悲劇,青春と野球を歌い上げる感動大作」などという貧弱な謳い文句とは裏腹に,重苦しく,ときによって起伏の乏しい描写が続くのは,作者においておおむね以上のような戦争理解のもとに,あえて選び取られた方法なのだろう。読む人によっては退屈と感じられるのも無理はない。
そんな死体の山と廃虚の中から,どのようにして希望を立ち上げていくのか。そのためには戦争と野球を単純に対比して,スポーツ万歳,などとやらかすだけでは,もちろん不十分で,幸いなことにこの作品はそんなに単純ではない。
これを退屈というのであれば,なんの読書か。
『本の雑誌』のティーンズノベル特集を読んだ。なるほどね。ま,しょせん『本の雑誌』だから。腹を立てるだけムダっつーか。バカヤロですね,とだけ言ってあげればいいだけのことなのでは。
『ぼくらは虚空に夜を視る』では,主人公の生活に徐々に異物が入り込みはじめ,ついに「この世界は偽物だ」と告げられる。この世界は宇宙空間をさまよう巨大な移民船の中で冷凍保存された人々にコンピュータが見せている夢にすぎない。現実の宇宙空間で,カプセル船は執拗な虚空牙の攻撃に晒されており,少年のもう一つの(現実世界での)人格は,虚空牙と闘うナイトウォッチャーのコアなのだという。事実を知らされた少年は,戦士としての自分と,平凡な少年としての生活を行き来することになる。ただしそれはあくまで例外的な事態なのであって,こちらの世界の人間はだれも「現実」の宇宙があることを知らない。少年は,どちらの世界にも所属する特殊な立場におかれることになる。世界にとって重要なのは戦士としての彼だ。しかし,彼にとってはどちらの世界も,世界の方が彼に求めるのと同じ意味では重要ではない。
この日常が仮初めのものだ,という着想が,常にある一定の効果を発揮するのは,ここを「偽物」と決めた瞬間に「本物」の存在が約束されるからだ。そこに,書くほうにとっても読むほうにとっても,甘ったるい郷愁やら,癒しという名の自己実現へのちゃちなロマンティズムやら,自己正当化の無限ループを導入する余地がたやすく生まれることになる。こういうふうに書いてしまうとひどく通俗的なテーマであるかのように思われるかもしれない。しかし,考えてみれば,実際,ディックはそうした読まれ方(だけ)をされてきたんじゃなかっただろうか。もちろんそれは読者の側だけに責任があるのではなくて,ディックのほうにも安易な泣きに流れがちな傾向があったのは確かだった。
この作品も同じテーマを扱ったものだが,その切り口はなかなか侮りがたいものがある。しかし,上遠野浩平は,それを支えるだけの文体を持ってない。まだ完全に彼らしい表現というものを手に入れてないんだと思う。たとえば,最初に両方の現実が入り交じって「絶対真空」に引き込まれるシーンはすごくいいんだけど,他のところではとんでもなく陳腐な表現を延々と連ねたりして,たまに日本語を間違ったりもする。そこが克服されたとき,本当に読まれるべき作家になるんだろう。もうすこし様子を見ないとなあ。
『ぼくらは虚空に夜を視る』と一部世界を共有するファンタジー。世間知らずのガキがアタマだけで書いたありがちな話で,しかも下手だし浅い。この程度かよ。ヘナヘナ。
大雪。たっぷり12時間は降り続いたんじゃなかろうか。そんな日に取り置きの本を受け取りに来る客がいるから不思議。いつ来てもいいのに。
日が落ちるころには雨に変わって,こんどは風と雷。エライ目に合ったよ,今日は。
晴れたのでドトールとかミスドとかをハシゴしつつ本読み。帰宅後,ちょっとだけ本の整理。ハマる前に中断す。
わお。谷田貝さんから「どれみ#」ネタを振られてる。驚きのあまり飲み込みかけたコンビニおでんのつゆが逆流。
「幼年期の終り」ってなあ,あれですか。声変わり。違う? 第二次性徴に関わる……。たしかにあの世界は月に支配されてるからなあ(違)。うまく取りこめたらエライとは思いますけど。えと,あの。そんなところで。
「赤ちゃんひとりに対して4人が全員同時にママ」っていうファンタジーは,「どれみ#」でうまく消化してたかどうかというのは別にして,あってもいいと思います。物語のモチーフとしては実現困難な関係の可能性に賭ける,というのはよいものです。実際の展開ではどれみがママ(メイン)で3人がママ(サブ)でありました。
最終回に関して。
はづきちゃんがかわいかったよねっ。
あ。
わたしは「#」の途中から見始めたんでトータルでどうこうとはいえまへん。まあ,一年に1度はとにかく終わらせなきゃいけないつー事情はテレビ的にはしょうがないんかねえ。そういう枠の中でそこそこにけりをつけるって意味ではうまくまとまってて,絵的にももりあがってたし,まあまあえがったんじゃないでしょうか。ただ,次週には続きがあるってばれちゃってるのに,「もう魔女見習いじゃないのね」てのはいくらなんでもしらじらしいんでないかい。次週から主役がぽっぷになっちゃったりしたら感動するけど。
ちょっと鼻に付いたのは,ここへ来て「無償の愛」とか「勇気」とかの抽象的なセリフを導入しちゃったことでしょうか。それでは結局テーマが秘教的なあいまいさの中に埋没してしまう。どれみたちがハナちゃんと関わることによって遭遇したあれこれというのはひとつひとつが日常的な具体的な,かつそれゆえに微妙で,それこそ魔法でも使わなければスッキリ解決できないような問題の連続だったわけで,そういうことを子どもが自分の頭で考えて子どもなりに傷を負うことを覚悟しながら引き受けていくところにさりげない尊さがあった。すくなくともわたしはそういうクサさを買ってたわけ。そういうことすべてをわかったようなわからないような大ざっぱな言葉でまとめちゃいかん。観念的な安全圏に押し込めては何にもならんです。
しかし,自分が日曜の朝アニメを観る人になるとは。「とんがり帽子のメモル」以来だよ。
ミステリーとファンタジーの二重奏なんだそうだ。
わたしはミステリーは年に1冊か2冊読めば多いほうなんで,ジャンルの中でこの作品がどの辺に位置づけられるのかということはよくわかんない。けど,これじゃあものたりないでしょう? ねえ? ほとんど神と言っていいほど絶対的な存在である竜を殺すには,動機が弱すぎる。人物も薄く感じる。トリック……無かったことにしてあげたいくらい。これで納得できるんですか,みなさん。もっともっと暗い領域に出来合いの言葉ではなく,独自の視点で突っ込んでってもらわなくてはいかんのではないですか。
はやくもあとがき作家になってないか,上遠野浩平。はやすぎる。あまりにも。
すべての《創造の小径》を切り拓く人たちの行うところは,常識の相対化と,その批評にある。 「ロラン・バルト『表徴の帝国』解説」宗左近
これは,創作する人の欲求というよりは,倫理的態度であってほしいと思う,今日この頃。
はじめに提示される5つのピース。「さまよえるオランダ人」の伝承,スタンリー・キューブリック『星々の彼方への旅』制作発表資料,などなど。
廃虚の島で発見された身元不明の3体の死体。体育館の餓死死体,アパートの屋上の墜落死体,映画館の感電死体。
思わせぶりな振りは抜群,舞台もいい,情景描写も,心理描写も巧み。しかし,このピースの使い方は……。こりゃあ,ちと哀しいんでないかい。それだけですかっ,と言いたくなる。いいところと物足りないところが半々,てとこ。
本を整理してダンボール箱2ヶを部屋の外に出した。部屋の状態は少しも好転していない。予想はしていたが,不思議なことだ。
おかげさまで,無印のほうもいよいよ観なくてはならない気分になってきましたよ。無印のOPはそんなに凄いですか。「#」のもかなりの名曲だと思ったんだがなあ。「♭した〜」のところのコード進行には感動した。
アニメに限らず「最終回」とか「エンドマーク」なんてのは,物語にとっては不幸な特異点というか不治の病みたいなもんで,そこで多少バタバタしたからって本質的には作品の価値には影響しない,と考えたい。クライマックスに対する過信は禁物である。とかいいつつ,小説の感想だと,「この終わらせかたはねえだろー,コノヤロ」なんて,つい言ってしまうわけなんですが。まあ,ひどいのはホントにひどいからしょうがないけど。アニメやテレビドラマだと,わりあい寛容になれるのよね。
「ブギーポップ」読み直し作戦開始。こんどは全部読み切るゾ。2月には新作が出るらしいし。で,まあ『笑わない』なんだけど,この一人称のたどたどしい文体は,高校生の一人称文体のための演出だと,初めて読んだときには思ったのだったよなあ。そこら辺も含めて「おぬしできるなッ」と。話が進むにつれて,単に文章が下手なんだということがわかってしまって,ちっとも上手くならないから,あとが止まってしまったのだった。
処女作に作家の全てがある,などとは赤面せずに口に出すのは難しいほど月並みな話なんだけど,密度といい,方法意識といい,ちょっと特別なレベルで結晶した作品なんだなあ,と再認識した。高校生ぐらいの子どもが抱えるロマンティシズムと甘美な痛みみたいなものをつかみ出して感傷に訴えるセンスは抜群で,下手な文章ともちょうどいい按配にバランスがとれている。もっとも,感傷は感傷でしかなくて,それ以上の洞察も深化もない,という点で,これは欠点でもある。ブギーポップの道化としての側面もわたしが読んだ範囲ではもっとも色濃く出ている。
Mac用のテキストベースブラウザWannaBeに日本語を通す方法がやっとわかった。おおー,快適快適。こりゃいいや。これでムカツクレイアウトの日記も心安らかに読めるってもんです。やったー。
実家のPBでWannaBeを使うためのメモ。
一時間ほどあちこちみてまわって気づいた点。