某図書館の注文。全集類を組価ではなくバラの値段を記載した書類でないと受理できないという。各種全集全18点,総冊数約380冊。これをナンセンスと言わずしてなんというのか。バカといえばいいのか。一枚に16行しか記載できない既成の書式では26枚になる。これではそもそもホチキスが通らず,通ったとしても割り印が捺せぬ。伝票入力マクロを組んでチャレンジするも,実行してみると入力だけで15分近くかかってしまうことが判明。結局EXELでもっともらしい伝票を作成。バカの恐ろしさを呪い,コンピュータの便利さに感謝する。これで半日。昔はこんなのを手書きでやってたのだ。その昔,某大の図書館は,バラの値段だけでなく,刊行年度まで記載しなくてはならなかった。数人掛かりで一冊一冊の奥付けを読み上げて伝票に書き込んでいったりした。丸一日かかった。それに比べれば,圧倒的に楽にはなった。ゲイツさん,ありがとう(違)。
陰鬱でいかれたドライブ感のスペオペ(というべきだろうな,やっぱり)。主人公は気弱な特務刑事で,ある任務のために犯罪者になりすまして難攻不落の収容所XXXに潜入する。が,彼自身はほとんど行動らしいことはしないで,「ぼかあダメなやつだあ」と内にこもってくのであった。主人公が優柔不断なために恋人もひでえめに会うし,自分もこてんぱんにやられる。
上の続き。
で,何度も「こんなことじゃだめだあ」と決意を新たにしたりするのだが,結局失敗し,なんとなく見えていた希望も虚偽の物だったりして,ラストに至るまでなんの救いもない。ぶっちゃけた話,長編小説としての構成はメタメタで,あまり褒められたものではない。しかしなぜか最後まで読まされてしまう妙なノリがある。
『銀河帝国の弘法も筆の誤り』巻末のハリー・センボンによる「<人類圏>興亡史年表」には記載されていないが,<人類圏>を背景にした物語であり,『銀河帝国(以下略)』でちらっと名前が出てくる宇宙竜ランダが大暴れする話でもある。
田中啓文『水霊 ミズチ』読み中。
もうこの年になると,一日では体調は元に戻らないのですね。身体の節々が痛くて往生したっすよ。
そんなわけで犬の散歩以外はぐったりと横たわっていたわけなんであります。
たしか,星新一は,SFを日本的文脈の中に定着させる試行錯誤の中でショートショートというスタイルにたどり着いたんだ,という話をどこかで読んだ記憶があって,その星新一が生きてたら,『かめくん』をどんなふうに読んだだろうか,なんて考えてしまった。
いわゆる第1世代のSF作家達に共通するのは,敗戦の記憶と日本的なるものの影,と言っていいと思う。そうした大テーマに正面から敢然と挑みかかっていく武器こそがSFだったのだろう。そんなふうに考えてみると,その世代を代表する小松左京の名を冠した賞を『かめくん』が受けられなかったのは,ある意味では当然なのかもしれない。「敗戦」と「日本的なるもの」に,小松左京とはまるっきり違う形で出された答えが『かめくん』なのだから。で,これ,ちょっと盲点というか,似たタイプのSFって思いつかない。
かめくんは,「木星戦争」のために開発されたレプリカメでありながら,なにを相手にも戦わない。かめくんの戦争の記憶は封印されていて,何かの拍子にふと断片が呼び覚まされたりはする。戦争は,なんだかうやむやに続いているような続いていないようなありさまで,日常にそれとなく影を落としてはいるけれど,どのみちずっと遠くの出来事だ。かめくんを取り巻く日常は,このうえもなく日本的な,あいまいな判断保留で成立している。かめくんは誰もがそうするように,ただのほほん,と一日一日を出来る範囲で生きていくだけだ。
『かめくん』に描かれるのは,それとなく(おそらくは周到に計算して)配置された思考の断片,事件よりは空気,関係とか匂いのような,曖昧でつかみ所のない何か,でしかない。でも,じつはそうしたものが世界の総体なのかも知れないではないか。かめくんやかめくんを取り巻く人たちの会話や思考は,ときには認識論のようでもあり,文学論や「物語」論のようでもあり,生命論のようでもある。解釈し判断し解決するのではなく,ただ推論すること。何かのために考えるのではなく,ただ,あるがままに,思うこと。
『かめくん』て,何を書いてもネタ割れにならないような気がする。こりゃいいや(謎)。
従来の小説の実作作法において姑息な方法を用いていても……そもそも小説の作法として姑息,というのはどうよ,と思います。[みのうらさんの日記(2/18)]
ハイ,そのへんは我ながら脇の甘い書き方をしたと思ってます。一度アップしちまったものはしょうがねえかと思ってあきらめましたけども。まあ,あんなふうに書いたら誤解されるのも当然なんですが,わたくし,ホントのところ,従来の小説作法に沿うべきだなんて,全然思ってないです(これが真意です。過去に矛盾する発言があったとしたら,それは過去のわたしがアホだったということで,勘弁して下さい。ちゃんと整理してから書けばいいんですが……)。したがって,ライトノベルはライトノベル作法にしたがって書かれるべきだ,という考え方があるとするなら,その考えにも「ちょっとまった」と言うでしょう。
筋やら内容なんてのは,実はスタイルの後からついてくるもんなんじゃないのか,などと最近は思っていまして,ライトノベルってのは,とりわけその傾向が強いと見ています。この場合のスタイルってのは,漠然としてて自分でもうまく定義できないんで,あんまり言わないようにしてたんですけども。とりあえず,できるだけ広めに意味をとってください。
ブギーポップで言えば,一作目の『笑わない』は,改行,三点リーダーやダッシュの多さ,などなどのライトノベル風外見をもちながら,なおかつスタイルをして語らしめるタイプの小説として,独自の水準を持っていると思います(ついでに言えば革命的とも新しいとも思いませんでしたが,それと独自のものであるということは実は矛盾しないなず)。『パンドラ』までは良かったんだけど,『歪曲王』『夜明けの』あたりはその点で,かなり凡庸なレベルに退行していたと思う。
な,わけなんで,スタイルにかかる自意識の在り方や見え方,という部分が気になるのです。ライトノベル風の外見に依存しすぎているように見えてしまうと,「ラクしてんじゃねえぞ」なんていうようなことを思ってしまうわけです。
と,いうような言い訳じみたあれこれが長くなりましたが,みのうらさんの「感覚的な話」について少し。
「吹っ切って書いてくれる作者の方が好き」というのは,わかるような気がするんですが……。うーん,吹っ切る,ということと,選択する,ということは,同じことの表裏なんじゃないかなあ,とか。
たとえば,感覚にしたがって改行やら……やら−−をボコボコ打っていったのだとして,その結果,ライトノベル風にありがちな外見に落ち着いてしまったときに,それは一考の余地があるんじゃないか。その「感覚」とは誰のものか,という感じでしょうか。
本屋で見かけたハヤカワのティーンズなんとかフェアのピンクの腰巻きに引いてしまったわたしであった。『シーフォート』をティーンズに売りつけますか。いや,別にいいんだけどさ。なーんかずれてんだよなあ。
あー調子悪い。肩凝りと胸焼けと頭痛。病気か。病気だ。
Coccoの新しいシングル「羽根〜lay down my arms〜」を買う。
オフィシャルサイトを見に行ったら,「4月18日発売の4thアルバムサングローズ」をもって活動を中止」と書いてある。
がぁん。
そういえばこんなのもあったなあ,なんてなことで読みはじめてみたんだけど,あんまし面白くない。チベットの修行僧が予知夢に悩まされて寺を出て旅をして曼陀羅を通して宇宙の真理を探求して山に登る。曼陀羅とかチベット密教に関するわたしの知識はせいぜい中沢新一の『雪片曲線論』から得たものでまるっきり怪しいものなんだけどね(ホントにあやしいなー。まあ,なんつーか,若き日の過ちです),と,あらかじめ逃げを打っておいたうえで,この作品,仏教的世界観をほぼ無条件で受け入れないことには一行たりとも成立しない話なんだけど,なぜ仏教の価値観をわたしと作者(というか作品世界)との間で共有しなくてはならないのかがわからない。「仮に正しかったとしたら」という部分からはじめて説得してくれなくちゃ。その辺を抜きにしていきなり話が進んじゃうもんだから,こっちとしては当惑するばかり。曼陀羅に宇宙の構造が記述されている,といったところで,それはやはり曼陀羅を描いた人の目を通して見た構造でしかないのではなかろうか,ようするにフィクションじゃないのか,といった疑問が残る。その他の仏教に関する説明も同じことで,わたしにとっては仏教もフィクションでしかない。で,クライマックスでいきなりとってつけたようなSF宇宙論に到達しちゃうってのもなー,最近,最後だけいきなり壮大,なパターンの話が多いしなー。大ネタは『終わりなき索敵』と同じだし。それが悪いとは言わないが。
SFマガジンの4月号を買った。翻訳短編が載ってないSFMってやっぱり何か物足りないなー。どうせ読まないけど。
菅浩江の《博物館惑星》の読切と田中啓文特集。田中啓文の短編のタイトルが凶悪。オチは読めたけど(だれにでも読めるか……)地口までは気づかなくて,結局笑ってしまった。
CROSS REVIEWは『かめくん』なのね。
平谷美樹『エンデュミオン エンデュミオン』にとりかかる。120ページほど読むもまったく面白くならないのは何故。どうしてこんなに分厚いのか。
『エンディミオン エンディミオン』2/3くらいまで読む。正直なところ辛い。今日コケたのはこんなの。アメリカのカルト教団《宇宙の舵手》の信者の若者たちの描写である。
若者たちはよく似た服装をしていた。背中に届くほどの長髪。汚いジーンズ。胸をはだけたデニムのシャツ。薄い胸にはインディアン・ジュエリーによく似た銀色のペンダントが光っている。[145P]
今どき,つーか未来だけど,これは,いくらなんでもちょっと……。笑うところなのだろうか。
宇宙意志の交歓と称して免罪符を与えられたかのように繰り広げられるフリー・セックス。[150P]
フリーセックス……死語じゃなかったのか……。この世界のアメリカでは60年代あたりから時間が止まっているらしい。
ああああ。寝坊してしまった日曜の朝に。
オープン戦巨人-広島戦。おーー。野球やってるよーなどと感動しつつ,観る。試合内容は,まあ,この時期なりに。投手をもうちょっと見たかったけど,今日は阿部の日だからね。阿部君,どうなんでしょうか。ルックス的にはかなりオッケーなんですけどぉ(何を書いてるんだおれぁ)。
『エンデュミオン エンデュミオン』あと100ページというあたりで惜しくも撃沈。今日コケたのはこれ。コケたところをいちいち挙げていったら本が一冊書けてしまいそうなんだけど,なかでも悲惨なのを。まあ,作家はある意味何を書いてもいいけど,中学校の先生がこれではこまってしまう。美術の先生であっても。
宗教は道徳であり哲学であって,神は人を救うものではないということがわかった。[P.317]
うーんと,たぶん宗教に権威が無くなったと言いたいところなんだろうけど,残念ながらこれではテストで点は取れないゾ。宗教に権威がなくなっても,哲学にはなりません。くれぐれも生徒の前でこんなデタラメを言わないでいただきたく。
哲学には,知についての学である哲学と,「名選手の野球哲学」とか「なんとか社長の経営哲学」とかの「哲学」の二種類ある。後者はこの際どうでもよろしいわけなんだが,どちらも宗教とはまったくの別物なの。哲学が大なるものへの帰依を要求しますか。信仰を要求しますか。我こそ真実であると主張しますか。まったく逆ではないですか。
さーて,一休みしたら最後のアタックだー。今度こそ頑張るぞ。
最後はわたし自身の気力との戦いでした。苦しい戦いだった……。
今日はここから先は長々と,口を極めて罵りますので,そういうのを不快と感じるかたは読まないほうが無難ですよ,とあらかじめ書いておいたほうがよさそうだな。ネタ割れもあります。えーそりゃーもう。
さて。
はっきり言えばお話にもなーんにもならない作品で,処女作だからしょうがない,というレベルではない。この作者には分不相応な物としかおもえないけど,科学VS.非科学(主に精神活動に類するもの,特に「神」)という問題のたて方はまあいい。が,神の実在とその死という構図一本で消化しようという発想があまりにもセコい。何のひねりもないし。
神が死ねば人間は宗教の蒙昧から解放されるといいたいのか? ばかばかしい。それではまるっきり話が逆なのだ。すごーく雑な言い方をすれば,キリストもブッダも死ぬことによって神になったのではなかったか。仮に神が実在したとして,神が死んだところで,そのことはまた別の「信」の体系を呼び込むだけだろう。人間の精神活動とはそういうものじゃないか。宗教からの解放,などというのであれば,その精神活動の有り様の中に入り込んでいかなくてはならない。問題はもちろん外在する超越者(神)ではなく,人間のうちに内在するのだからだ。神が実在するか否かにかかわりなく,神に帰依するかしないかを決めるのは常に一貫して人のほうの問題だ。そんなことは子どもにだってわかる。神がいなくなれば万事オッケー,なんてそんなお気楽な話ではないのですよ。
だいたい,人間の精神活動に関する理解というのが,もう,ヒサン。宗教ないし神ないし神秘主義ないし単なる迷信ないしトンデモ……というように,この作品では,これらのものがゴチャゴチャに,話の流れの都合と気分でテキトーに同列に語られてしまう。しかも全てが素朴実体論だ。で,サイキックは科学の側で,SETIはトンデモ側ってなぐあいに,なにからなにまでデタラメである。科学が人間の精神活動を圧殺するかのような言い方をしてるのも,批判するのも気恥ずかしいくらいに素朴な考え違い。よーするに何もわかってないのか考えてないのか,だ(同じか)。わかってないくせにごちゃごちゃ書こうとしてわかってないことがばれないようにしょーもない描写でごまかしていくからこんなに長くなる。なーにがユングだっ。
なんでも,ギリシャ神話にはエンデュミオンに恋したセレナがエンデュミオンに永遠の美しさを与えるために神の世の終わりまで眠らせることにしちゃった,という逸話があるんだそうで,その逸話から着想した話ではあるらしい。
が,エンデュミオンが憑依(という言い方でいいのか? 生まれ変わり?)した子どもを神々が付け狙うというのは,話がおかしいのではないか,とギリシア神話などまったく知らないわたしは思ってしまうのである。神の世界の終わりまで眠らされた,という話と,エンデュミオンが目覚めないようにエンデュミオンの子を片っ端から殺して無理にでも眠らせておけばいい,という神々の発想(せ,セコすぎる!)は,繋がるようで繋がらない。神話世界が終わるとエンデュミオンが目覚めるということと,エンデュミオンが目覚めると神話世界が終わる,ということと,はたして同じことといえるのか? 神の世界の終焉が先か,エンデュミオンが先か,ニワトリが先か,卵が先か(違)? この話は,スタート地点からどうも調子がおかしい。
そんでさあ。すべてのエピソードが中途半端なんだよなー。月面上にアメリカの田舎町の幻影が見えたり,アメリカの田舎町が吹雪と竜巻で月みたいになっちゃったりとかするわけなんだけど,神がどうしてそんなことしたのか,神の戦いにとってどんな意味があったのか,ぜんぜんわかりません。わからなくてもいいんですか。あ,そう。《宇宙の舵手》なんてカルト教団の乗っ取りをたくらんでる女,あの話はどうなりましたか。ネパールに行った人の話は,あれは何のために挿入された話ですか。そのネパールのシーンも,こりゃダメです。たまたまわたしが直前に読んでた谷甲州とくらべると,あ,くらべちゃ可哀相ですかそうですか。でも,もうちょっと何とかして。パイレーツ・クラブのシャトル乗っ取り計画の顛末も脱力するほか無かったしなー。違法な武器を買ってまで積み上げてきたものはいったいなんだったんだー。初めから大統領にかけあう方法を考えればよかったじゃないかー。ねえねえ,ホントに,どうしてそうしなかったの?
よく言われていることだけど,人物の描写は平板で一面的。こうまで長いうえに登場人物が多いと我慢の限界を遥かにこえてしまう。どいつもこいつもバカばっかりで,クラクラする。このバカさかげんは,人間観察の甘さと描写力の無さと全編を被い尽くす場当たり的なご都合主義に起因するものだ。これは小説にとってかなり致命的な欠陥だから,そこに目をつぶって「神という大テーマに挑んだ意欲は買う」などといって甘やかすわけには行かない。神に関する思想の浅さも目を覆わんばかりだということになればなおさらだ。この程度でいいのなら,とにかく「神」を持ち出せば軒並み「意欲を買」わなくてはいけないことになってしまうではないか(相手は子どもじゃないんだから,「気持ちはわかるんだけどね」では,むしろ失礼なんではないかという話もある。わたしも過去に他の作品に関してそういう言い方をしたような気もするが……)。評価されるべきなのは意欲ではなくて,意欲の現れの在り方,つまり完成品としての作品のみである。オッケイ?
実は,『エリ・エリ』もすでに買ってあるのよね。大分マシになってるという話ではあるけどどんなもんでしょうか。フフフ……。ハハハハ……。
「いずれにせよ,見逃せない作品であることは確かだ」う〜ん,いい言葉だなあ。サイコー。どんな作品にでも100パーセント過不足なく対応できる。わたしもどんどん使いたいと思いまーす!
SFオンライン書籍レビュー,『SFが読みたい!2001年版』への痛烈な批判。評者は中村融。
スパムっていえば,ちょっとまえに職場の方にこんなのが。
Subject:Scoop
謹啓
突然のメールを御許し下さい。
自己紹介させていただきます。私は***と申します。
信じられないかも知れませんが,今の物理学の出発点が間違っていました(ガリレイの相対性原理が破綻!!)。
これは西洋科学の死と同じことを意味します。
詳しくは,ホームページを御覧ください。
この困難な状況のなか最善を尽くし,物理学の再構築のために共に働きましょう。もし賛同いただけるなら,日本語で連絡下さい。
敬具
* **
ホームページ http://www.***.** 「相対性原理が破綻!!」
E-mail: **********@***.**
ギャラが出たので本を買う。三省堂,ブックマートとまわってひさしぶりにブックマーケットまで足を伸ばし,地元のとんかつ屋で飯喰って,ブックオフに寄り,帰宅して荷物を置いてブックオフ2軒目。仕事が終わった後にここまでやるこた無いと思う。収穫は,あるような,そうでもないような。
今日から買った本をきちんと記録しようと思った。