《異形コレクション》収録作を中心とした8篇と,書き下ろしとして「異形家の食卓」1〜3を収録。ほとんどの作品に大なり小なり「食」が関わっていて,各作品の間を書き下ろしの3篇が「食」の側面から補強するような構成になっている。
グロテスクと不条理の純粋性の極みを目指す文学的野心に満ちた作品集,とでもいってみようか。ここに収められた作品群から,「意味」とか「主張」を探ることほど,アホなことはあるまい。いや,アホでも無駄でもないにせよ,そのまえになすべきことは,過剰に饒舌な語りによって描き尽くされた,汚物趣味,人肉食……といったグロテスクの諸テーマを「味わい」尽くす事のみであって,それを邪魔する夾雑物は,可能なかぎり注意深く取り除かれている。
そしてグロテスクと不条理のテーマ群は,ホラー的図式や,あるいは,人間の残酷性だの社会の不正だのといった作品の外に用意された姑息な文学的「問題」などはるかに飛び越えてつねに,まさにそれ自身にのみ奉仕している。邪念の入り込む余地は無い。
ふと思い出すのはツヴェタン・トドロフのこんな一文である。
文学とは言語が自殺するための兇器のごときものなのだ。『幻想文学論序説』
新宿で懐中時計を買う。やはり貧乏人には手巻きがふさわしかろうと思う。急に電池が切れて手持ちに金が無く途方に暮れるということが無いだけ安心できる。中のギミックが見えるようになってるデザインが渋くて安物の割にはいい感じ。
もうここんとこしばらくテキストベースのブラウザWanna-Beを使ってて,ネコミやIEを使うのはbk1で買い物をするときとエロサイトを見に行くときくらいのものなんだけど,それ以外で困る(というかムッとする)のはフレームを使ってるサイトだったりする。いや,フレーム自体はまあ,べつにいいんだ。ただ,こういうのはあんまりじゃないかと思う。
あなたのブラウザはフレーム機能がありません。お戻りください。
ちぇ。いやなこった。
自分が使ってるブラウザに「フレーム機能がない」ことくらい言われなくてもわかってます。あなたのページでフレームを使ってることは知らなかったスけどね(ウソ。本当は知ってました)。つーか,戻れってどーゆーことよ。戻ってどうしろと? 丁寧に言えばいいってもんじゃないぞう。
一日中頭痛。苛々するし気力がどんどん削がれていく。
平谷美樹『エリ・エリ』を読みはじめた。うんうん,たしかに『エンデュミオン エンデュミオン』よりずっと小説らしく読みやすくなっている。が,まだ半分も読んでないけど,この作者が「なぜ,神とは,と問うのか」という部分がどうもいまだに見えてこない。ここから先の展開次第,ということになるのだろうか。
『エリ・エリ』に関しては「神」テーマの「直球勝負」というのが,ほとんど決まり文句になっている。だが,なぜ「直球勝負」自体が褒められねばならぬのか,,実のところわたしにはよくわからない。
テーマそれ自体には価値はない。SFの前に,というより文学の前に「神」も「乞食」も等価だ。そうでなければならない。むしろ,テーマがいかにして問われ深化していくのか,いかにして書かれたか,いかなる価値の転倒が行われたか/行われなかったか,作品の価値はそういう部分にあるはずだ。
野球だって気概だけで直球を投げ込む者は「バカ」と見做されるだろう。愛すべきバカではあるかもしれないが……。なぜそこで直球を投げ込むのか,野球は常にそれが問われるスポーツなのだ。
科学のトピックスをめぐって矢継ぎ早に繰り出される小松左京節にほれぼれする。当然ながら細かいところではわたしの実感とは懸け離れてる部分もあるけど,終始興奮して読んだ。小松左京の思想の核は,とてもシンプルで,それゆえにとてつもなく強靱だ。SF的な思考をこういうふうに展開させた人は世界でも他にはいない。かくも巨大な存在と同じ国に生まれ同じ言葉を使ってるということを,「神」に感謝したい。
ぱわーぱふがーるずとかいうアニメのサントラにDEVOが曲を提供しているんだそうなのである。とたんに観たくなったのである。
滅多に更新しないリンク集更新。明大SF研関係者。
ヨネ氏のg a r d e n B。凝ったデザインだが重すぎないかい。ル=グインのコーナーがあったりする。あんまり話をしたことはなかったけど,お元気ですか。
和泉弥生氏,紀霊なお姉さん。ただひたすらにAir道Kanon道を求めさすらう漢の生き様(ほんとか)。
悠貴(ユタカ)氏,幻想館,ビジュアル系の音と吸血鬼をこよなく愛する女主人。小説マンガゲーム映画等々の吸血鬼物を網羅しようという野心に溢れたリストがエライ。デザインかっこよし。
寝たり起きたりしているうちに過ぎた一日。無駄に使った。
『も(略)どれみ』。つまらねえ。古タイヤに向かってツッコミの特訓をする子どもの図。「いいかげんにしなさいいいかげんにしなさいいいかげんにしなさいいいかげんにしなさいいいかげんにしなさい」。単なるアホ。
プロ野球オープン戦ダイエー-巨人戦。阿部慎之助はDHでヒット1。感想は特になし。
『エンデュミオン エンデュミオン』より,少なくとも技術的にははるかに向上していることははっきりわかる。前作では泡沫的な思い付きの羅列に過ぎなかった部分が多すぎて,とてもとても見ちゃいられなかったわけなんだけども,この『エリ・エリ』ではずいぶん解消されているのは確か。ではあるのだが,どうもね,この作品だけを単独で見た場合,あまり褒められた作品ではないとおもうのよ。というわけで今回も文句です。
この作者が「なぜ「神とは」と問うのか」は結局さっぱりわからず。この人自身,何のリアリティも感じていないままに書いてるんじゃないかという気さえする。悪く言えば(悪く言ってばかりで申し訳ないんだけど)日本SFの伝統をファッション的になぞっただけってなふうに見えなくもない。作中で提示された問題が作者自身の方に向けられてないというのか。そのせいか,全体に人畜無害な絵空事としか読めないのだ。
そもそも,わたし自身は神の実在/非実在に関わらず人はかってに神とかイデオロギーとか変なオッサンとか木のウロとかを信仰したり帰依したりするものだと思ってるので,この作品のテーマ,基本的な世界観についていけない。まず,神の不在が合理的に説明されたとしても,それが人類全体に共通の認識として広く行き渡るなんてことがありえるのかなあ。で,それで宗教一般が衰退する? すくなくとも数十年以内にはそんなことは起きえないと思うんだよなあ。むしろカルトがはびこる昨今の現実といくらなんでも乖離しすぎてると思う。逆に言えばこの現実を乗り越えるためには神の不在を証明すればよいことになる。……違うんじゃない?
人間観が短絡的っつーか説得力が無いという点に関しては前作と同様。個々のキャラクターがアホというか俗物揃いなのね。なにかってーとすぐに泣いたりわめいたり泥酔したりする。そうでなければそれを冷笑してるだけの人がいる。で「大衆はバカだ」が合い言葉。アブダクション妄想の精神科医,ねえ。『ツインピークス』にそんなのいなかったっけ。この人が狂ったのも親のせいなんだよね。みんなそうなんだ,他人が悪いんだ。可哀相ですね,はいはい,みたいなー。
とりあえず,人物像を描写するのにタバコや酒の銘柄とか服装とかにたよるのは田舎臭いからやめたほうがいいと思う。
ところで,『エンデュミオン エンデュミオン』と『エリ・エリ』で冒頭の数行が似すぎていると思うが,これは気のせいでしょーか。わざとやってるの?
ということで,わたしがいちばんダメだとおもうのは,なんせ人物描写です。>MZTさん。
「なぜ,神とは,と問うのか」ということが見えないのは,この点と密接な関わりがあると思うのですよね。「神とは」は榊神父の問いでもあるんだけど,榊神父の設定がダメなので,なにも伝わらないという面もあると思う。榊にリアリティが感じられないのは世界にリアリティが感じられないからでもあり……。けっこうややこしいなあ。
なんなんだろ,これは。特定の神を信仰していないわたしにはさっぱり訳がわからない本だ。科学も宗教(特にキリスト教)もともに世界の「真理」を探求するものであって,互いに矛盾するものではなく実は補完しあうものだ,というのが基本的な著者の姿勢で,そう理解したときに初めて知的にも精神的にも満足できる,また,現代の不信仰は歴史的地理的に限られた現象に過ぎない(これは本当),というんだけど……。
正直言っておどろいたのは,信仰を持つ人ってのは神の実在を心底から信じてるってことですね。しかも,ポーキングホーンは,宗教は,個人的な信念というか幻想にとどまるものではないと断言している。
もし宗教がそんなものだったら私は信仰者にはならなかっただろう。宗教が各人の幻想であるなら,それがどうして生きる力になり得るのだろう。生きるにせよ,死を迎えるにせよ,真実だけが力を与えることができるのではなかろうか。[P.15]
わたしはそうは思わないけどなあ。幻想で充分じゃないっすか。
科学的な話題に関しての記述は明快でわかりやすいんだけど,宗教との関係になるとたちまち「と,わたしは信じる」になってしまうのがえもいわれぬところで,「と,私は信じる」で何冊も本を書いてるらしいこのひとと,わたしとでは世界観が違いすぎる。はしばしに見える記述のものすごいこと。結局神学は,不信心なものにとっては「学」ではないということなのか。たとえばこんなこといきなり言われて面食らわずにいられる非キリスト者がいるだろうか。これでは「理解するのではなく信じなさい」と言われているようなものだ。
理解することがどんなに難しくても,無限の存在である神が,紀元一世紀にパレスチナに生まれたイエスという有限の存在である人になったという歴史的な事実を受け入れねばならないと思う。(強調はふぢー)[P.32]
もし神が存在するならば,いかに私たちを超越した存在であるとしても,神は何らかの方法で私たちにそれを知らせようとするはずだと言ってよい。[P.40]
美を経験するとは,創造主と喜びをわかち合うことである。科学をするとは,神がこの宇宙に与えた合理的秩序を洞察することである。道徳的認識は,神のよき完全な意志を直感することである。宗教は,隠れている神に出会う経験である。このような見解こそ,全体的なもので,私たちは初めて満足するのである。[P.95]
うーむ。
最終章の題は「科学者は神を信じられるか」。しかしそんなところまで読まなくても結論は明らか。神を信じる科学者がとにかく一人はいるということはイヤというほどわかる。少なくとも一人いるということは以下略(シロアリか)。
やっぱり宗教は一種のビョーキなんじゃないかと思う。そうでなければあるビョーキへの対症療法なんだ。ポーキングホーンはこの宇宙の歴史には意味と目的がある,と強く主張するのだけど,あらゆる現象に意味とか目的とかなんとかかんとかが無いと落ち着かないってのは,たぶんビョーキなんだ。宗教はそういうビョーキをこじらせた人にとってはたしかによく効くんだろうなあと推測する。余計こじらせてる気もするけど……。
こんな本を読む気になったのは,『エリ・エリ』の影響。科学と宗教の両面からちゃんと『エリ・エリ』の設定の妥当性を確認しておこうと思ったからなのであった。そういう目的には,わりあい適した本だったとはいえるかもしれない。神の存在を科学的に否定し尽くすことは原理的に不可能だ,ということが一応わかっただけでも充分。ようするに,科学でこの世界の有り様を文字通り全て説明し尽くさないかぎり,神学の入り込む余地はいくらでもある,もちろん,全てを説明することは不可能である,という当たり前のことを確認しただけなんだけどさ。だから,科学がちょこっと発達したくらいでは宗教は死にません。まあ,その辺に関してはわたしの実感というか常識を裏切らなかったということで,よかったですわ。
仕入れ。某人文系出版社の資料整理。「新青年」が段ボール箱に4ヶほどあって店長はゴキゲンであった。古い出版社で,社長さんが「読者が死んでいなくなっちゃうんですよねえ」とかゆってた。SFファンの高年齢化なんて,まだまだ……。
埃にやられてのどが痛いなり。
日本SF新人賞授賞第1作になる読み切り短編。この人は中大大学院でバタイユを読んでる学生さんなんだそうだ。「SF Japan」に収録の選考会のページでは,ほぼ絶賛と言ってもいい評価を受けていて,なかなか期待できそう。
敗戦間近のドイツを背景にナチスのオカルト指向を題材にした,SFというよりはホラー寄り。不老不死とか錬金術とか賢者の石とか占星術とか,お約束のアイテムが期待通りにつぎ込まれて,ちょっとSF風味に展開するあたり,知的な楽しさがある。ポイントは新しい「20世紀の理性」と古い「ドイツ的騎士道」の対決を導くところ。この対決の図式の裏にはけっこう複雑な構造を隠しているのもいい。このへん,もっともっと理知的にガチガチに詰めた議論を展開してくれるとさらに嬉しかったかも。まあこのページ数ならこの辺までかもしれないけど。
SF周辺で文章レベルでケチが付かない新人ってーと,最近ではもうそれだけで嬉しくなったりして。受賞作はたぶん買います。
2001-03-08に買った本。九段下駅構内のワゴンと,神田の古本屋で。
二人同時受賞となった日本SF新人賞の,もう一人は谷口裕貴。こないだ読んだ吉川良太郎もなかなかの大物感を感じさせたけど,こっちもよい。今年の新人賞はマジでレベルが高かったらしい。
「レンブラントプロセス」によって人為的にサイキックを作れるようになった未来。アナベルという超強力で抑制の効かないサイキック少女が現れて,世界に災厄をもたらす。アナベルは世界を変容させてしまう。あまりに危険な能力の持ち主として,アナベルは殺されてしまうんだけど,その力は12のアイテム「アナベル・アナロジー」に宿ったまま,依然として世界にとどまっている。それでね,という話。
なにより文体がかっこいい。勢いがあって,挑発的な感触もあって,最近じゃこういうのは珍しいような気がする(たった3行の間に「まるで」が3ヶも連発されたりする凡ミスもあるけど,まあ,今回は見なかったことにしよう。狙ってやってるにしてはちょっと無防備すぎるような気がするし……。これはやっぱりポカだよな)。
書き出しのあたり,ろくに説明もなくいきなり作中の用語を放り出してイマジネーションを喚起させるような書き方は,SF作家にたとえて言うと,そうねえ,ちょっとコードウェイナー・スミスに似てる感触だろうか。一見無関係な単語をだーっと並べるとこなんかは,ちょっと文学的な技巧を見せてくれたりもする。たとえば,アナベル・アナロジーは,こんなんである。
まず,アナベルという名前。はちみつ色のテディベア−−プーさんは紅茶色になった−−キャバリア・キング・チャールズ・スパニエルという犬種,赤いキーボード,チョコレートが一二パーセント以上含まれたクッキー,オルバニー,娘をもつキンドレッド,娘をもつアリス,妹のいるマイロン,銀のポット,コーンポタージュスープ,メッツの野球帽。
デイヴィッド・ロッジ『小説の技巧』(白水社・読み中)の「13.リスト」の項参照。こういうのが「リスト」の典型的なやつだな。地の文章と,それ自体およそ文学的でないリストの対比によって,いかにも幼い少女らしくチャーミングで無秩序な関心の広がり方,無垢の象徴としてのアナベルの性格が,よりスマートに,印象的に表現されるわけですね。ついでにいえば冒頭に描かれるSixの無方向で文学的な暴力の有り様と対比してみるとまた味わい深し。上手い作家だと思う。
欲を言えば,この結末の先の世界を見せてほしいかも,ってあたりかなあ。そこまで踏み込んでこそのSFか,という気もする。けど,これはこれで当然アリなわけだし。
この人の受賞作も期待しつつ刊行を待ってみましょう。
谷甲州『エリコ』ちびちび進行中。んー。いまいちだなあ。エリコの性格が揺れ過ぎじゃないの。なんでエリコだけ標準語なのかもよくわかんない。なんで大阪弁じゃないのでせうか。移動電話とかいう単語が出てくるのはまあしょうがないか(なつかしいなー)。
日曜日は「も(略)どれみ」の日。1回目の試験の話。話はたいしたことなかったけど演出はよい。
日曜日はどれみが終わるとひたすら寝るだけの日でもある。起きていると腹が減ったり電気やガスを使ったりでなにかとコストを喰うから死んだふりをするのである。
かといって本当に24時間寝ているのもさすがに苦痛なので,駅前のドトールで読書。『エリコ』は残り100ページくらいのところまで。
気分を変えるために落合仁司『<神>の証明』(講談社現代新書)を半分ほど読む。
<神>が無限であることは,キリスト教,イスラーム,仏教を問わず,ほとんどあらゆる宗教が一致して認める命題である。無限について論じることは,多くの人々にとって信仰の問題ではなく知性の問題であろう。したがって,<神>について考えることが無限について論じることであるとするならば,それは信仰の問題ではなく紛れもなく知性の問題なのである。[P.8]
という前提から<神>をめぐる議論を集合論の命題に置き換えるこころみなのだとかいうことらしい。ふむふむ。
まず東方キリスト教の神学を例にとって,無限の神が有限の人に受肉する,あるいは有限の人が無限の神と成る,という論理矛盾を神学がどのように乗り越えようとしたか,を概説して,カントールの集合論が登場するところまでを読む。
神学に関する議論は矛盾についての議論にほかならないわけで当然かなりややこしいことになっている。神は無限なのだから,有限の世界に内在する人となるなどということはありえない。しかしそれではこの世の外の無限なる神との交流をその焦点とする宗教はそれでは成り立たない。なによりキリストは神ではないと認めることになる。そこで,神とキリストは本質においては同一だが,その実存において差異があるのだ,と考えてみる。そうした考えはやがて三一論に行き着くのだけれども,これはこれで同一の神性がまた多様でもあるという新たな矛盾ではある。その矛盾を解決するのがカントールの集合論なのだ,とこうなるわけですね。カントール自身,無限と神を重ね合わせて考えていたらしいという記述もあり,そうだったのか,と感心することしきり。しかし,集合論は神学の議論に輪を掛けてややこしい。ふうう。数学は苦手なんじゃ。
朝方,雪が降ってた。
部屋の一角を掃除する。掃除機のごみ取り袋(あれ,なんていうの?)を切らしていることに気づいて,近くのスーパーと電気屋を回ったがなぜか求めているサイズのものだけが無い。うーん,と考えて,なぜか中野方面に歩きはじめているこの不思議。で,いつのまにか中野ブロードウェイに到着。1000円で売られてる「ハナちゃんリュック」に激しく動揺したりしつつまっすぐ4Fに昇ってしまうこの不条理。古書ワタナベでは,これといって買いたいものも無くて,均一の段ボール箱の中から何冊か抜き,3Fで500円均一のLDを一枚買った程度で無事脱出。そっかあ,中古LD500円か。えう゛ぁんげりよんなんて全部揃ってしまいそうな勢いで盛大にダブついてるなあ。こうなると欲しくなったりして。てゆーか来週あたり危ない。
掃除機の袋? ああ,買いました買いました。「紙パック」ゆーんですね。
さて,神,人間になった神,聖霊はいずれも本質においては同一の神なのだけれども,その実存において差異があるのであった。神における同一と差異,の矛盾である。しかしながら,集合論においては,そのような神学上の論理矛盾は,矛盾ではなくまったく合理的で普遍的な論理によって解消される。
神学上の戦略的なすり替えによっていわば棚上げにされた無限である神が有限である人となり,また,有限である人が神となる矛盾についてはどうか。この点も「可能的無限」という概念を導入することによって,合理的に解決される。びっくりである。
このような論理の展開を,本書では「神の集合論」ないし「数理神学」と呼んでいる。数理神学によって導かれる結論はこれだけではない。たとえば……いや,やめておこう。ちょっとばかり面白いことになっているとだけ書いておく。ほとんどSFである。ひょっとしたら似たようなことをラッカーあたりがやってたかな? まあとにかく,ここのところは本書のうちでももっともスリリングに論理が展開するところなので,興味のある向きは是非ともお読みいただきたいと思う。
となると,そうした合理的で普遍的な神の構造のどこに「信」が入り込む余地があるのか,ということが当然問題になる。合理的なものなど信仰するに値するのか。この点についても,おーそうかなるほどねーという結論が導かれていていい感じである(言われてみれば当たり前なんだけど)。
先日読んだ『科学者は神を信じられるか』は,ああだこうだと回りくどいことを言ってはいるが,ようするに「不合理ゆえに我れ信ず」を一歩も出ていなかった。ちょっとばかり手が込んでいただけで,「だって信じているんだもの」といってるだけだった。これは「僕に信じられるんだから君にも信じられるでしょう?」ということに即座に繋がっていく。宗教一般が嫌なのはこれだ。この手の「信じられる」は「信じるべき」に転化する可能性をはらんでいる。こういうのを宗教の世俗化と呼ぶのですよね。
本書はそうした世俗化の弊害を乗り越えて健全な「この世界への他者」への関心を保つための興味深い示唆を含んでいる。面白い本です。目からウロコが落ちました。集合論は漠然としかわからなかったけど(元来論理的な人間じゃないのです。泣)。
『20世紀SF3 砂の檻』も実は読み中。ディッシュの「リスの檻」に完全にやられる。すっげーなー。天才だ。
中野で。
小説を読んでいて,げっそりする瞬間。
「かぎりない○○」という文章にぶち当たったとき。○○には「愛」「やすらぎ」「優しさ」「かなしさ」「美しさ」など感情や感覚を表す語が入る。ちなみに「かなしさ」はたいていの場合「哀しさ」と綴る。
最悪のばあい,その瞬間に本を捨てる。もしくは小説の評価を20%ほど下げる。