ところで、セネガルってどこだ?
フランス代表のアンリとやらは、アフリカ中央テレビのアイツではないか?
などなど、ワールドカップに浮かれ気味の素人は、細かい疑問に事欠かない。そんな開幕スペシャルの日。開幕試合開始直前には、ワールドカップがワールドカッパだったらどうしよう、世界中からカッパが集まったら困るな、それより世界中にカッパなんているのかな、と思っていた。それに加え前半のゴール直後には、ワールドチョップなら見たいな、世界のチョップが集まるもんな、日本代表は空手チョップかな、いや逆水平チョップもいいな、でも優勝はモンゴリアンチョップだろうな、とか思ってもみた。またハーフタイムには、コールドシップだったらそれは単に冷湿布のことかな、ケガした選手には欠かせないな、ジダンは今ごろひとりでコールドシップかな、と心配した。後半、フランスがチャンスを何度も逃したころには、もう何も思いつかないな、やっぱりワールドカップでいいな、と思い直していた。なに書いてんだろ。
5月30日
夕方、財布に天丼専門店・てんやの「春のサービスチケット」が入っているのを見つけた。そんな券の存在など、ぼくはすっかり忘れていた。サービス期間は5月31日、明日までとある。おお、ナイスタイミング。プッチ奇跡ゲット! 幸い、近くにてんやがある。晩ごはんは天丼に決まりだ。
いやまて。そういえば、ぼくは昼食も天丼ではなかったか。しかも、エビ天のしっぽを食べたら、ノドに刺さり、いまも痛いはずだ。「もう天丼はこりごりだ〜」とわめきちらした午後だった。昼・天丼がきて、夜・天丼がくる。ダブル天丼じゃないか。しばし思案するが、プッチ奇跡を信じるべきだと思った。てんやには、天ぷら定食もある。場合によっては、昼・天丼、夜・天ぷら定食という、変化球もアリだ。直球勝負じゃない。インサイドワークで勝負のベテランだ。だが、もしかしたらそういう変化球人生に、いまこそピリオドを打つべきではないかとも思えてきた。
思えば20年ほど前。初めて天丼を食べた日のことだ。外食と言えば、オムライスとラーメンだった。背伸びしても、カツ丼、ざるそばが精一杯だった。天ぷらは知っていた。だが、天ぷらはさつまいもとかき揚げのことだと思っていた。そういう時代に、初めての天丼だった。エビの天ぷらがのっていた。幻かと思ったが、それはまぎれもない正真正銘のエビ天丼だった。あの感激。このまま時が止まってしまえと思った。そして、永遠に天丼が続くことを願った。朝・天丼、昼・天丼、夜・天丼。生涯・天丼。それでいいと本気で思っていた…。
輝かしい日々を思い出したぼくは、思いっきり天丼をオーダー。新しい地平にぼくは立った。もう迷わない。変化球人生とはおさらばだ。ぼくはピュアな気分で、昼・天丼、夜・天丼。
5月29日
昨晩、「商談」について考えていたら眠れなくなった。初っぱなから、意味不明で申しわけない。だが、これは昨日の東松山での仕事に関係があるのだ。東松山で、ぼくが見たもの。それが「商談」だった。
商談とは縁のない人生を歩んできた。だから、すぐそこで商談が行われていることに、ちょっとドキドキした。商談の人はビシッとスーツで決めている。世界中のマネーを動かしている風情だ。商談こそ、現代資本主義の申し子だ。ぼくは、ちょっと離れたところでそれを見ているのだが、ブタのエプロン姿である。なんだ、この差は! 手を伸ばせば、そこに商談はある。だが、どうしても届かない。商談とぼく、あるいはスーツとブタエプロン、そこに流れる深くて暗い河よ! ブタエプロンは、ぼんやりと資本主義の有り様を眺めるしかないのだ。
たとえば、早く帰れた日。ぼくは友人の携帯に電話し、これからビールでもどうかと、誘いをかける。すると、電話口の友人は言う。
「わりぃ、いま商談中だからさ、またあとでかけなおす」
そんなこと言われたら、どれほどショックだろうか。ぼくは世界の誰より取り残された気分になるだろう。もちろん、かけ直された電話に出ることなどない。ああ、この日記を読む人も、みんな商談しているのだろうか。30歳までには、なんとかして商談したいよ。残りは、あと5か月!
5月28日
仕事で埼玉県・東松山市へ。汗だくになって働いた。会社のオジサンも一緒で、疲れた表情で「東松山の焼き鳥、知ってる? 焼き鳥なのにヤキトン(豚)なんだよ。なんでだろうな。ミソがうまくってさ。ちょっと辛めのミソ。それが有名」と話している。ぼくは、大学時代、東松山周辺をプレイスポットにしてしまった都合上、そのミソについても焼き鳥についても、よく知っていた。たしかに東松山の焼き鳥はおいしい。この辺の高校生は、学校帰りに、肉まんとかうまい棒とかを買うノリで焼き鳥をテイクアウトする。1人、2〜3本、串を持って帰る女子高生なんて、ザラに見かけるのだ。
さすがにぼくも、いくばくか疲れていた。帰りに、ちょっと焼き鳥にビールなんて誘われたら、OKOKとなってしまう。しかも仕事は、予定を大幅に遅れている。ビール&焼き鳥待望論、いよいよ待ったなしの状況なのである。
東松山の駅に到着。駅真ん前の赤ちょうちんである。待ちきれないとばかりに、ぼくたちは入った。だが、なかったのである。赤ちょうちんなのに、東松山なのに、焼き鳥がなかったのである。愕然一一。こういうときの、所在なさというか、肩をすかされた感覚はなんだ。思い描いていた光景は、すべて崩れていく。宙を浮いたぼくの視線は、すぐ左にある人形のケースに移った。ケースには、久月みたいな日本人形がいて、寄り添うようにミッフィーが立っていた。あはは。すごいコラボレーションだ。イメージは、常に破壊の危機にさらされているのだ。
5月27日
単刀直入に言うと、青のマジックで眉毛を書いているオッサンを見た。年の頃なら50すぎ、チェックのハンチングはちょっとボロボロ。地下鉄有楽町線の車内に、その男はいた。
眉毛の太さは通常の約3倍。眉尻は、10センチになろうかという極太眉毛だ。フォルムは、いわゆる鬼瓦権造直系の三角眉である。圧倒的な存在感! というか笑かしてんのかよ! だが、ぼくは笑えなかった。会社の人と一緒だったということもあるが、異空間から突然の来訪みたいな現象が、どうにもこうにも頭のなかで処理できなかったのである。その光景が現実なのか幻なのか妄想なのか、よくわからない。オッサンである、眉毛である、と認識するまで、だいたい30秒くらいかかった。
しかし、オッサンはなぜ眉を青に描いたのだろうか。青のマジックしか手元になかったと考えるのは、浅はかな気がする。なぜなら、まるで躊躇というものが感じられないからだ。真っ直ぐな意志による青さ。そう言っていいだろう。黒じゃない、茶色じゃない、ましてや形を整えていかにも眉毛っぽく処理するなんて御免だ。青く塗れ! そうだ、描いているのではない。塗っているのだ。ペインティングなのである。ただ位置がたまたま目の上だというだけで、実際は眉毛ではないのかもしれない。だとすればなんだ。青い三角形か。♪うーつむくなよー、ふりむくなよー。高校サッカーかよ。はっ! サッカー…。ワールドカップ…。その地中海を思わせるブルーは…。そんな意味はないと思う!
5月26日
ワールドカップでドイツが優勝だ。
ジャーマンヨーグルト(森乳業)を食べた。最近のトレンドとちょっと違う、やや片目、甘さ控えめの味わい。なんとなく懐かしさの漂う感じで、シンプルなパッケージもベリーグッド。伝統と格式のドイツである。飽きのこない、スタンダードな存在感が最大の魅力だ。だいたいネーミングが素晴らしい。「ジャーマンヨーグルト」だ。ズバリ、ドイツのヨーグルトである。国の威信をかけているのだ。
気に入った。ドイツ語で言うなら、イッヒ・リーベ・ディッヒ。というか、それしかドイツ語を憶えていない。大学で勉強したはずなのに。まあいいさ。とにかくこれだけのヨーグルトを作る国である。あきらかにワールドカップの優勝候補に挙げられても良いだろう。
ぼくのワールドカップ予想なんて、こんなもんだ。がんばれドイツ。また食べよう。
5月25日
ぼくは1階に住んでいるのだが、2階の住民は、妙にボリュームが大きい。それは、なんかちょっとしたイベントのテレビにて、本領発揮となる。まさに、今日、日本一スウェーデン。やはり、ボリュームが大きい。わが家のテレビ画面から流れる音より、2階の音の方がよく聞こえるほどだ。
経験した人ならよくわかると思う。天井を経由することで威力を増す、ウーハーな低音のことである。低音は響く。とにかく響く。今日もはやりそうだった。ブンブクブンブク言うのである。それは、試合中よりもCM中に、より顕著になる。キリンのCMだ。
「♪ワンワカワカ、ヘッヘヘ、イーヤーウィーヤーウェーエェエー」とか歌う、例のアレだ。
「ブンブクブク、ブンブ、ブンブンブーブブー」なる多少の振動を伴った低音が天井から漏れてくる。
おお、ドルビーサラウンド。と、感心している場合ではない。注意すべきだろうとも思う。
だが、とにかくボリュームが大きい男だ。しかも、コレという番組だけにボリュームを上げるのである。デカイ音=興奮も大、そういう方程式だ。ここだ!と決めた瞬間にボリュームを大にする。リモコンの「音量大」を連打する瞬間のワクワク感。そんな彼の純粋さに思いを馳せると、どうも注意しようとか、やめてほしいとか、そういう気分も失せる。ぼくはただ、彼の興奮ぶりに目を細めるのである。
5月24日
帰りにビールを1缶、買ってみた。家について、すぐに飲んでみた。くーっ。と、実はあんまりならなかった。ぼくは1人でビールを飲むという行為をしない。あんまり美味しく感じないからだ。いや、よく見ると、これは発泡酒だ。ぼくは一人で発泡酒を飲んでいたのだ。
発泡酒には孤独感が漂う。ビールの持つ大衆性とは、極端に世界観が違う。ビールには、仲間がつきものだ。それはときに「かんぱーい」であり「おーい、かあさん」であり「♪飲ぉーんで、飲ーんで、飲んで」なのである。つまり人の輪。だが発泡酒には、いっこうに人の気配が感じられない。その孤独感にぼくは参るのだ。発泡酒じゃ乗れない。ビールだぜ。MCハマーだ。懐かしい。
そこで登場するのがビアの存在だ。なんなんだ、この底抜けに明るい響き。ビールでなくて、ビア! やけに英語的な発音! とにかく本場っぽいのである。ぼくは本物にも弱い。本物と称されると、途端に萎縮してしまうのである。だからこそ、やはりビール。本来ビアであるはずの「BEER」を「ビール」と読む素直さ。あくまでもローマ字的な直感で物事を処理する姿勢に、ぼくは惚れるのだ。そのトンマな姿勢から、イギリスは生まれ、ビールは大衆の心をつかみ、「ビルマのたて琴」は大ヒットしたのである。おそらく「ミヤンマーのたて琴」では、ヒットはなかった。よくわからない話になってきた。とにかくビール大好き。
5月23日
平穏な日々を送っている。今日も、これといったハプニングがないまま、終わろうとしている。さて、そこで目の前にあるブタメンだ。ブタのイラスト入りミニカップ麺。サブタイトルは「ベビースター 当りら〜めん 熱湯3分 とんこつ!スープ あたりつき」である。ハプニングを起こすには、かっこうの獲物(ターゲット)だ。
まず、ブタのイラストが変だ。ヘタウマという言葉があるが、言ってみればヘタヘタ。いや、そのものズバリでヘタ。鼻には矢が刺さっている。当たりを表現しているようだ。やけに安直である。「当りら〜めん」に対する驚きもある。まずもって「当り」だ。古いタイプの送りがなである。現在の国語界ではもっぱら「当たり」と表記されている。そして「ら〜めん」とくる急転直下。「〜」の罪について、言いたいことは山ほどある。だが、一言ですませるなら「親しみやすさの間違った演出」としておく。そもそも「アタリラーメン」なるジャンルの存在の危うさだ。いったい、どこにそんなジャンルがあるのだろうか。そして「とんこつ!スープ」における「!」の位置の不安定さよ! すでにアイデンティティはグラグラだ。果たして、そこにあるのはラーメンなのかどうか、それすら疑わしくなる。オマケ的に言えば「あたりつき」ではまずいのだ。「あたりくじつき」でなくてはならない。調理方法の欄にはたった一言「熱湯を入れて3分でできあがります」。
ようするに、すべてがぞんざいで投げやりなのである。おやつカンパニーの仕事に、いつもハラハラするぼくだ。あらゆる行為がラーメン的ではない。別の何かだ。反定義。反存在。反芸術。そこにハプニングは存在するのである。
5月22日
宝塚の人は、ちょっと変わった名前の人が多い。今日、とあるテレビを観ていたら花組の舞風りらが登場した。舞風という名字はまだ納得がいく。舞風さんが本当にいるか知らないが、いかにも宝塚といった風情だ。しかし、名前が「りら」というのは、どう解釈すれば良いのだ。どうしても「ごりら」を連想してしまう。風が舞うサバンナで、ゴリラが胸をドンドン叩く。誰もが、そんな光景を思い浮かべてしまなわないか。ゴリラは言うだろう。
「わたし、ラリってます」
ラリったゴリラで「りら」だ。とにかく舞風りらには申し訳ないが、そんなことばかり考えてしまうのだ。だが、そんな「りら」にも、名付け親がいるはずだ。
宝塚の名付け担当者。いたら会ってみたいよ。そこにあるのは、宝塚で使いそうな字がズラリと並んだ宝塚専用常用漢字表だ。ダーツを投げる。まずは「蘭」に刺さる。続いて「紫」だ。名字は蘭紫か。いや、響きを考えて紫蘭(しらん)としてはどうか。どうかということもないが。さらには「風」にズバッときて、そして最後は「莉」。名前は風莉か。今回の新人はすんなり決まりそうだな。命名・紫蘭風莉(しらんふうり)。……とまあ、そんなところで!
5月21日
池袋でマギー司郎とすれ違った。帰ってきてから、ロックな青春映画「あの頃ペニー・レインと」を見た。ぼくの脳裏に、こんな言葉がよぎる。
「あの頃マギー司郎と」
何をしたのだろうか。何を見たのだろうか。そして、ぼくらはどこへ行くのだろうか。
5月20日
髪の毛を切りに行った。髪の毛を切ってもらったあと、必ずマッサージしてもらう。例の頭ポコポコ、肩パンパン、みたいなヤツだ。
やってもらいながらいつも思うことだが、その間、どういう顔をしていれば良いのだろうか。正直、マッサージは気持ちがいい。だからといって、その感情丸出しで「クゥゥ〜」と風呂に入った瞬間のような極楽極楽フェイスなのは、とても恥ずかしい。普通にしていなければという過剰な思いから、つい真っ白な無表情になってしまうが、異様に不自然だ。目を閉じる。そんなんで肩をポコポコやられたら、寺で座禅を組んでいるヤツみたいじゃないか。つまり、どうしたらよいかわからない。「あー気持ちいい」なんて間違っても言えないのだ。
さらに思うのは、そもそもあのマッサージは、どこからやってきたのだろうかということだ。髪を切るのと、直接関係ない。だが、どの美容室に行っても、相変わらずポコポコやられてしまうのだ。謎である。しかも、多少の差異はあるものの、基本的なテイストは同じだ。あれは一体、なんなんだ。変な呪文か。美の神、ヴィーナスの伝説にこうある。
「美しき物、天より授かりし鎮魂の舞、定めし鼓舞にて再会の命となす」
ポコポコやったらまた会えるよ。そんな感じだ。つまり、またのご来店をお待ちしておりますというお願いだ。なるほど…。と、そんな伝説がないとも限らない。
5月19日
しかし、餃子がこない! 餃子はまだか! と、思いながらラーメンを食べていた。そう思っても餃子がくる気配はなく、どこか遠くでジャーという水を差す音が聞こえた。もうすでに8割方、麺を食べ終えてしまった。無念だ。タイミングが悪すぎるのだ。
ラーメンと餃子を頼むと、必ずといっていいほど、ラーメンが先にくる。そして、餃子がつづく。この図式の意図はなんなんだ。「まず先にラーメンを味わってもらって、中盤以降、じっくり餃子・ラーメンのハーモニーをお楽しみあれ」という配慮なのか。だとしたら、これはちょっと言っておかなかればならない。
「余計なお世話だっていうんだ」
ラーメンと餃子が同時に出てきても、自分のさじ加減ひとつで、食べる順番を楽しむことはできる。万が一、餃子が先に出てきても、1個くらいつまみながらラーメンを待つことはできる。でもだ。ラーメンが先だと、どうしても餃子を待てない。先にラーメンを食べてしまうのだ。つらい人間の性である。途中で、どうも餃子が遅いなと気づいても、ラーメンを食べる手をゆるめることはできない。ラーメンが「一気に食べろ」と語りかけてくるからだ。ラーメンとはそういう存在だ。だから、ぼくはラーメンを食べ終わってしまうのだ。
頼むから、餃子を先に出してくれ。結局、餃子4個を続けて食べる結果となった。ハーモニーのパートナーは水だった。
5月18日
料理を食べたあと、ウマイを表現する方法はさまざまだ。とくにテレビでは、そのリアクションの研究がなされており、唸ったり、倒れたり、笑ったり、泣いたり、「おいいしい」としか言わなかったり、食べた途端に解説しはじめたり、ただやみくもにガツガツ食べたり、
「まいうー」だったり、とにかく枚挙にいとまがない。ここにも1人、一風変わった表現する男がいた。
テレビ朝日で夕方にやっているお料理番組「ワガまんま」に照英が出ている。筋肉の人だ。しかも異様に笑顔が爽やかだ。海鮮丼を食べる。一言「うまい」と叫んだ後、すぐに箸を置いた。満面の笑顔。いくらか顔が紅潮している。拳を握り、右腕をまっすぐ上に挙げた。やったぜ〜。勝利のポーズだ。海鮮丼を一口食べただけで、勝利の雄叫びをあげる男。さすが筋肉の人である。
照英のことだ。きっと、おいしいものを食べたら、いつでもこんなリアクションをとっているにちがいない。神宮前のカレー屋で、池尻大橋のラーメン屋で、中野のおでん屋で、南青山のバーで、かと思ったら国道246沿いでカレーパンを食べながら。まっすぐ腕を上げている男がいたら、それは照英。おいしさ表現中だ。
5月17日
東京スポーツを買った。とても悲しい出来事が載っていたからだ。プロレス団体・FMWの元社長、荒井昌一氏が首吊り自殺したのである。FMWは、大仁田厚がデスマッチで一大ブームを巻き起こした団体で…とか説明しようと思ったが、書いているうちに泣きそうになるから思いっきり省略。先日、二度目の不当たりを出し、FMWは倒産した。社長だった荒井氏は、3億円の負債ならびに高利貸しへの3000万円程度の借金、それらの取り立てに追われ、音信不通の行方不明になった挙げ句の自殺だったとのこと。本当に悲しい話だ。
10年以上前、ぼくはFMWの大ファンになった。当時、リングアナだった荒井氏の声が好きだった。Hべとよくマネした。ぼくがプロレスの本を作っていたころは、荒井氏は社長になったばかりで、プロレスラーの100倍くらい体を張っていろんなものと闘っていた。リングアナ時代ほどではないけれど、やっぱり気になる存在だった。仕事をやめてからは、ほとんどプロレスを見ていないので、詳しいことはわからない。
倒産したのは知っていたが、行方不明なのは知らなかった。最期は、実家近く、幼い頃によく遊んだ公園で首を吊ったそうだ。享年36歳。心よりご冥福をお祈りします。
5月16日
ふと見ると、街路樹の枝が折れていた。昨日、今日とそんなに風が強いわけではない。ほかの木は大丈夫なのに、1本だけが折れている。理由は簡単だ。その木の目の前にある「魚民」そして「白木屋」なる居酒屋のおかげだ。
人は酔っぱらうと、木に登る。誰でも経験のあることだ。誰かがカメラを持っていたりしたら、えらいことになる。1人、2人、3人。次々と木に登り、記念撮影。マヌケここに極まれり! しかし酔っぱらいは愉快だから気にしない。そして、木がボキッとなるのだ。
なぜ人は、酔うと木に登るのか。それはたぶん、筋肉の作用だ。筋肉はアルコールを分解する。だから、その筋肉を使いたくなる。これは酔っぱらいにしてみれば、ラーメンを食べたくなるのと同様、科学的な現象なのである。例えばこんなこと、誰でも心当たりがあるはずだ。
木を登り、走り出し、自転車を放り投げ、バイクを転がし、看板をはずし、クルマを浮かし、ガラスを割り、肩車をやり、そのままボクシングを始め、落ち、血が流れ、バス停にぶつかり、そのまま持ち帰る。と思いきやボーリング場に寄り、30台の痛快スコアを叩き出し、その後、またこの文章の始めに戻る。酔っぱらいの運動欲求は罪深い。たぶん、たこ八郎が死んだのもそのせいだ。ぼくだって酔えば、走り幅跳び7メートルを記録する自信がある。
5月14日
近所の古本屋で珍しいものを見つけた。「青い目の人形」(不二出版)なる絵本で、文章は松井春、絵は柳原良平だ。反戦をテーマとした絵本のようだが、文章はイマイチ。だが、柳原良平の絵が素晴らしい。柳原良平は、サントリー時代に手がけた「トリス」のキャラクターで脚光をあびた。モダン・イラストの代表的な人で、いまでもフォロワー多数どころか、再評価、再ブームになっている。本作では、切り絵を披露。トリスのような人物画はもちろんだが、本領発揮ともいえる船や飛行機が、めちゃくちゃかっこいい。シンプルという言葉では、うまく言い表せない。なんだろう。ただそこに存在することの魅力というか。ぼくは、ハチャメチャな絵も好きだが、その逆、ものすごくシンプルな絵も好きだ。いや、逆ではなく、本質的には同じ部分に惹かれているのだと思う。
柳原良平の絵は、シンプルだが、完全なオリジナルだ。要素をそぎ落としたことによって生まれる独創性。足さないで引く。引き切る。ストイックな求道者、あるいはただのグータラ。どっちでもいいけど、並みの人ではできない芸だ。そのほかに荒井良二・画の絵本も2冊購入。しめて1050円也は、近所では珍しいナイスショッピングだった。
5月13日
神宮前にあるギャラリー・マヤにて開催されたおさないまこと個展「one こころのかたち」に行った。おさないさんとは、1年ほど前にお仕事させていただいて以来、久しぶりの再会だ。ものすごくかわいい絵だった。途方もないほどかわいい立体もあった。おさないさんは、典型的なかわいいイラストを描く。だが、どこか濡れている。スウィートだけれど、湿っている。おさないさんのキュートなイラストに潜む悲しみや諦め。そこから浮上する決意。そんなものを感じさせる良い個展だった。
ギャラリーを一周した後、例によって知人ゼロ地帯であるオープニングパーティに潜りこんだ。青山にある名も知らないけど、おいしいイタリアンの店だ。たまたま隣りに座ったのは、千葉県の某ガス会社勤務という女性たちだった。おさないさん、得意のウクレレを披露。というか、立派なライブだ。おさないさんはグループで演奏したが、そのほかにも何組かがウクレレとかボサノバみたいなのとか、いろいろ演奏した。ゴンチチの名曲「放課後の音楽室」(常磐貴子のシャンプーだかのCMソング)、ビートルズの「サムシング」(プップルル〜という泣きのフレーズが印象的だった)、坂本九の「上を向いて歩こう」(なんだかすごい良い曲だなと思ってしまった)など、大人の余裕が醸しだす緩やかなムード満点の良いライブだった。イラストレーターの田中ひろみさんがフラダンスを踊った。隣りにいたガス会社勤務の女性たちは、突然、田中さんにフランダンス弟子入り志願した。
けっこう楽しませていただいたので、おさないさんと田中さんのリンクを追加しようと思う。
5月12日
宇多田ヒカル評論家として知る人ぞ知る存在のぼくは、今日はじめて「SAKURAドロップス」のプロモーションビデオを見た。よし、評論だ。雰囲気はビョークみたい。勝手に想像したオリエンタルお伽話みたいな感じだが、そういえば「SAKUMAドロップス」。そんな飴があった。
穴が小さいものだから、出てくる飴の色はわからない。一種、くじ引き感覚のドロップスだ。ああ、ぼくはあのハッカがだめだった。透明ふうな白はバナナ味で、そちらの方は色も味も好きだった。だが、あのマット調の透き通らない白さ。ハッカだ。色はちょっと似ているけど、バナナ味ではない。憂鬱だった。しまったと思った。人に見られてないなら、確実に戻した。しばらくすると、残りはほとんどハッカだ。3回ハッカで1回甘いヤツ。そんな感じになった。ハッカを捨てられない。出したらすぐ戻す。ただのばかだ。もったいなかったのだろうか。見られてはマズイと思ったのだろうか。いつかばーちゃんが食ってくれるとか、そんな甘ったれたことを思っていたのかも知れない。やがて5回に1回。そして8回に1回。そこまでハッカが出れば、もう残りはすべてハッカだ。そう思って、別の者にわたす。すると、1回で出た。バナナ味だ。途方にくれた。あの日のぼくの思い、そのままのプロモーションビデオだ。
5月10日
「こういうご時世」という言葉は危険だ。よく耳にするが、どうも最近は「9.11」に関連づけられたりする。今日も、井筒監督がそんなふうに使っていた。べつに「9.11」だけではない。ときに不況、ときに凶悪犯罪、要するに暗い世の中をイメージさせる。
ぼくは、政治・経済・事件について書いているのではない。「こういうご時世」のように、安易にあるイメージを喚起する言葉を使って物事をうまくまとめようとする姿勢を問題としたいのだ。数年前、これに似た言葉で猛威をふるったフレーズがある。
「世紀末」
なんか懐かしいよ。いま聞くと、本当にウソ臭い言葉だなと思うが、この言葉がすべてを包括するフレーズとして有効だったのだ。酒鬼薔薇事件、援助交際、2000年問題、北斗の拳、すべてが世紀末ということでなんとなくぼんやりと収まっていた。アホみたいだが、本当にそうだった。
そしていま。人々は「世紀末」なる便利な言葉を失った。困った挙げ句、浮上してきたのが「このご時世」という、ひどく使い古されたフレーズなのである。「世紀末」も始末に負えない言葉だったが、意味不明な分、使いながらも「?」を感じる人が多かった。だが、「このご時世」にいたっては、馴染みなだけに意外とすんなり受け入れがちなのである。それが危険だ。「このご時世」は「世紀末」と同じように、何の根拠もない。根拠があったとしても、具体がない。結局は、有り体に収まるだけなのだ。そこからは、新しい発想もイメージも出てくることはない。あくまで社交辞令として受け止めるべきだ。ふんふん、納得してはいけない。いけない…。
5月7日
道を歩いていたら自転車を引っかけて転がした。転んだ自転車の先に、幼稚園くらいの男の子がいて、ぶつけてしまった。転倒した男の子。あ、やばいと思いすぐに「大丈夫ですか」と声をかけた。男の子は、大したことがなさそうで、すぐに立ち上がろうとした。ホッと一息。そのとき、同伴のオバサンが寄ってきて、きたない化け物を見るのように、ぼくをにらんで言った。
「うわ〜、大丈夫? 大丈夫? 大丈夫? うわ〜」
大丈夫だろうに。ほらだって、もう立ち上がろうとしているじゃないか。と思ったら、その声を聞いた男の子、またうずくまりだした。オバサンは、あわててふためく。おい! おめー、たったいま、立ち上がろうとしたじゃないかよ。ぼくは、スイマセン、大丈夫ですか、を連呼した。というか、このガキ、オバサンの顔色をうかがってうずくまってるのだ。ちっ。ひととおり騒いだオバサン、うずくまっている男の子の腕を引っぱる。スッと立つ男の子。だから、テメーこのやろう。何ともないじゃないかよ。
ガキとオバサン相手に怒りぎみのぼくは、男の子のツラを覗きこんだ。ものすごい無表情だった。幼稚園児とは思えない能面のごとき顔だった。うつむいたまま。生気のない顔には「オレだって大変なんだよ」と書いてあった。
5月6日
ゴールデンウィーク中、上野の噴水広場で開催された「上野絵本フェスタ〜トンマのマントにうっしっし祭2002初夏〜」みたいなタイトルのイベントで絵本を買った。フェスタなので20%オフ。買ったのは「おじさんのかさ」(講談社・佐野洋子作)だ。佐野洋子の作品といえば「100万回生きたねこ」(講談社)がよく知られている。だけど、ぼくは「おじさんのかさ」のほうが好きだ。白い。真っ白な背景の一切ない世界だ。いつの時代のどこの国か、まったく認識できない。そのフワフワした世界で、おじさんと大切なかさが繰り広げるファンタジーである。
おじさんは、黒のコートを着ているが、これがなぜかピカピカしている。いや、よく見ると、濃い色に塗ったところは、どこもツヤツヤに光っている。いわゆる微塗工紙を使っている効果だ。でも、こんなに濃い部分だけツヤツヤしているのも珍しい。「ぐびき」ではないようだ。「ぐびき」はとても高価な紙だ。質感、目の深さ、色の再現性、濃い部分のピカピカさ、いずれもぼくの心をワシづかみにして離さない。その感じとはちょっと違うが、やはり黒いコートがピカピカである。
真っ白い世界。黒く光るコート。その舞台をヒョコヒョコと歩く、へんな美意識を持っているおじさん。かさが、ついにビヤーッと開く。カッコイイなあ。おじさんは、ぼくのちょっとしたヒーローである。
5月5日
途方にくれるほどの酔っぱらいだ。こどもの日だというのに、ぼくは今朝、6時頃に帰宅した。それは昨晩、ずいぶんと酒を飲んだからで、新宿だったものだから、ウロウロしているうちに都合6軒、飲み屋をハシゴするハメとなった。マジカルミステリー新宿3丁目ツアーの趣。たぶん、6軒というのは自分史の上で初めてとなる快挙だ。せっかくだから、入った店を紹介しよう。
地林房に行った。どん底に行った。この2店は、知っている人は知っていると思うが、60年代から活躍する店だ。最後にたどり着いた店は、薄暗くボブ・ディランがことさら大きな音でかかっている店だった。あと3店、ご紹介しようと思ったが、やっぱりめんどうだからやめにする。
ほとんど紹介していない。6軒もハシゴすると、話すこともなくなるわけで、最後の店では、その日話したことを断片的におさらいするだけだった。ポツリ一言、またポツリ一言。酔っていたというか、疲れきっていた。そういえば「空中キャンプ」と書くべきところを「東京キャンプ」と書いていたような気がする。定かではない。東京でキャンプしている気になったんだろうか。奥多摩あたり。
5月3日
広島からMさんが来たとのことで、新宿で会った。
お父さん、おばあちゃん、犬が立て続けに亡くなったらしい。ここ半年はその看病のため、ずっと実家のある広島に戻っていた。だが、そんな不幸が重なり、意を決しての東京サラバイだ。そのための諸々手続きならびにご挨拶ということで、東京に別れを告げにきた。こう書くととても感傷的なムードが漂うが、相変わらずMさんはサッパリとしていて、すべてが人ごとのようだった。まあ、内心はよくわからない。東京から離れていく人は多い。少しさびしい気持ちにさせる。
東京について、最近、よく考えている。何を今さら東京なんか、と言った人がいたが、そんな人がいることが、一層ぼくを東京への思いに駆りたてる。現在の東京を否定することで、自分のスタンスを示す。どうも短絡的な思考のような気がするが、ぼくが何を考えているかというと、非常にどうでもいいことだったりする。なんとなく、東京に関する自分の考えをうまく形にしたいものだ。劇団としての東京。いま、ぱっと頭をよぎったが、それがどういう意味なのか、まるっきりわからない。Mさんは、いろんなものに引っかからないようにしたいと言っていた。確かに引っかけが多いよ、東京は。
5月2日
珍しく、お昼にひとりで外食となった。入った店は、蕎麦を出す居酒屋。堅苦しくなく、風体はやぼったいが、名店の趣がある。夜ならもちろん蕎麦に日本酒だろうが、昼飯は違う。メニューはカツ丼。
うまい蕎麦屋のカレーは、蕎麦同様に美味だ。その秘密はダシにあると言われる。カツ丼にも、同様のことが当てはまり、それは名店の裏メニューとして夜もひっそり出されたりするものだ。
確かにカツ丼はうまい。ダシは辛すぎず甘すぎず、ヒタヒタにカツに染みこんでいるがしつこくない。そのくせ、衣の端っこがカリっとしていて、いいアクセントになっている。なるほど。ゴールデンウィークの狭間に、この混雑もうなずける。店主の謙虚な自信に思いを馳せ、ぼくはちょっと嬉しくなった。
がしかし! あー、やっちゃったのだ。あったのである。名店にはあってはならない、どう考えても偉大なる失敗のアレだ。一見、それらしく貼りつけられた壁のメニューにこう書かれている。店主の文字だ。
「イタリアン餃子ソーセージ」
名店失格一一。蕎麦を出す居酒屋だ。風体はやぼったいが、名店の趣だ。だが、すべて台無しだ。こういった失敗について、いろいろ書きたいことがあるが、やめだ。店主の自信は思いっきり裏目に出たのだ!
5月1日
トムズボックスでスズキコージ個展開催。本日、オープニングパーティとのことで、竹内通雅大先生に誘われるまま、ぼくもノコノコ行ってしまった。行ったら、いろんな人がいた。K社のMさんとは、久しぶりに対面。ちょっと元気がないような気がしたが、酒を飲んだら調子が良くなったようで、金をおろすと言って夜の吉祥寺に飛び出したまま、パーティ会場には帰ってこなかった。帰宅したらしい。B出版の社長、トムズボックスの店主、その他、よくわからない肉体労働者、絵本作家を目指す人々、渋さ知らズ関係者、絵本作家の大家、金持ち、貧乏人、男子、女子、とにかく人種が雑多だった。スズキコージさんは、ぼくのことをすっかり忘れていたようで、もう一度、絵本を書いてほしいとお願いしておいた。忘れては頼み、忘れては頼み、そんな感じなのだろう。別に問題はない。
帰りに竹内さんと2人でホープ軒のラーメンを食らう。竹内通雅、チャーミーファンを改め、元ちとせファンということで、売り出したらいいんじゃないかと思う。