●サカタ謄写版印刷機

 ぼくはヤスリの上に原紙をおいて、鉄筆で文字を書いていた。
 鉄筆は簡易卓上印刷器である謄写版印刷機用の文字を製版するための道具である。小遣いをはたいて謄写版印刷機を購入したのだった。これを個人で持っているひとなど、ほとんどなかった。
 現在ならばパーソナル・コンピューターという便利な機械があるが、もちろん当時はなかった。コピー機はあるにはあったが、いまほど品質のよいものではなかった。謄写版がまだまだ主流だった。学校や役所の文章は、これで印刷されていた。
 そんな謄写印刷関係資料の収集と保存に努めているのが、山形市にある「山形謄写印刷資料館」だ。かつては我々の身近にあった謄写版印刷は電子化の波の中でほとんど消滅したが、日本の印刷文化をささえてきた謄写版文化を永久に保存するために一九九六年二月に設立したそうだ。

 高校二年の時にミニコミ誌に興味を持ち、I君らとミニコミ誌グループを結成したのだ。Y君にも協力してもらった。はじめ、ある雑誌を通じて全国から会員を募り、同人雑誌みたいなものを編集して送付することにした。 
 この同人雑誌を発行するため、文部省認定社会通信教育だった「近代孔版技術講座」を受講した。謄写版は孔版の一種で、俗にガリ版ともいう。孔版文字の基本三書体は、楷書体、ゴシック体、宋朝体である。楷書体は斜目ヤスリ、ゴシック体は方眼ヤスリ、宋朝体は宋朝ヤスリを使用する。私の購入したヤスリは、斜目ヤスリと方眼ヤスリとが、裏表になっているものであった。宋朝ヤスリは、特殊なもので、一般では使われないようである。
 ぼくはもっぱら方眼ヤスリを用いたゴシック体で書いていた。ゴシック体といっても、手書きには変わりないわけだから、活字のように鮮明なものではない。それでも、活字のまねをしたくて、この孔版文字を勉強したのである。

 謄写版印刷機などは、まとめて押し入れの中にしまってあった。原紙が一枚だけ残っていたので、なにかを書きつけたい気分になったのだ。ガリガリとなつかしい音がした。この音から、謄写版をガリ版ともいうのだ。
 整版をおえた原紙を、謄写版印刷機にセットしようとした。しかしながら謄写版印刷機はこわれていて、もはや役に立たなかった。インキもかたまっていたし、ローラーも動かなくなっていた。もう三〇年以上もまったく使っていなかったのだ。
 文房具屋さんにいっても、原紙も、インキも売ってはいない。ぼくは二度と謄写版で印刷するということもないだろう。それでも謄写版印刷機も、ヤスリも、鉄筆も捨てられなかった。思い出の品なのだから。

 一七歳の自画像は、一九才でかたちになった。ぼくは大学に入って福岡県に住むようになった。I君は香川、Y君も京都に住んだので、郵便によって連絡を取り合って活動を続けていた。同人雑誌は『自画像』と名を改め、自分たちの原稿を中心に構成するようになった。
 この時の『自画像』第一号(一九七三年六月発行)は、一八ページという薄っぺらなものだった。ミニコミ誌がブームになり、そういったものに影響を受けて、『自画像』第二号(一九七三年九月発行)からは、自主出版物らしくした。
 F君と、N君が加わった『自画像』第三号(一九七三年一二月発行)からは、高校の学校祭のパンフレットを作成した経験から、タイプ孔版でやるようになった。その印刷も高校の前にあるK印刷というところに頼むようになった。タイプ孔版というのは、謄写版は謄写版なのだが手書きの変わりに和文タイプライターを使って打ち込むのである。本当は、タイプオフセット印刷ぐらいはしたかったが、安価な方法を選択した。
 この頃から、ミニコミ誌専門の書店で、自分たちのミニコミ誌『自画像』を販売してもらった。これは全く売れず失敗に終わったが、自費出版の最初の経験になった。そうして、活字への憧れは大きく膨らんでいったのである。
 この『自画像』を残して、ぼくたちのサークルは三年間続いて解散した。謄写版も、和文タイプライターも、今や死語になってしまった。しかしながら、私にとってはこの経験が、手書きと活字を、レタリングとタイプフェイスを結び付けてくれたのだった。