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袴田事件

 

1966年(昭和41年)6月30日未明、静岡県清水市(現・静岡市清水区)の「こがねミソ」製造会社専務である橋本藤雄(41歳)の自宅が放火され、焼け跡から藤雄、、妻のちえ子(38歳)、長男の雅一郎(まさいちろう/14歳)、次女の扶次子(17歳)の一家4人が刺殺された姿で発見された。遺体はいずれも何者かに突き刺されるなどの致命傷を負ったのち、油を浴びて焼かれたものと判明した。静岡県警と清水署はただちに合同捜査本部を設置し、調査にあたった。そこで、橋本宅から集金袋1個が所在不明と分かった。また、現場には、雨ガッパと小刀用の木鞘(きざや)が焼けずに落ちており、屋内では黒く焦げた、くり小刀の刃体が見つかったが、捜査本部はこれを犯人の遺留品と見ていた。

翌日の7月1日には早くも元プロボクサーで「こがねミソ」従業員の袴田巌(はかまだいわお/当時30歳)が警察によりマークされていた。事件当日が給料日であったことで橋本宅に現金が置かれていたことから、内部事情に詳しい者が給料を狙っての犯行とみていたが、その中でも袴田が疑われた理由を挙げると次のようになる(<>内)。

<被害者である橋本の自宅から東海道線をはさんで向かい側にミソ工場があり、その工場内の寮に事件当時、4人の男子従業員が宿泊していた。そのうち2人は相部屋で火災発生と同時に現場に駆けつけていた。ひとりは近くの社長宅に留守番に行っていた。残るひとりが袴田で、パジャマ姿で消火活動に加わる袴田を見た者がいたが、約20分ほどアリバイに空白があった。>

殺害された藤雄は柔道2段の巨漢。犯人はほかに3人殺害しているにもかかわらず、30センチしか離れていない隣家では悲鳴や物音を聞いていない。これだけの犯行ができるのは袴田以外にいない、という予断があった。その予断を正当化するための捜査が続けられたが、この時点で確たる証拠はなにもない状態であった。

7月4日、工場の家宅捜査が行われ、袴田の部屋から極微量の血痕と油が付着したパジャマが押収され、<従業員の血染めのパジャマ発見>などと大々的に報道された。捜査員は袴田に任意同行を求め、清水署での事情聴取に、袴田は橋本宅の消火活動中に誤って屋根から転落し、左手中指を切ったと包帯に巻かれたその指を見せて説明した。捜査当局はいったん袴田を釈放したものの、犯人として内偵し、裏付け捜査を開始した。

7月24日、捜査本部は放火に使われた油はガソリンとオイルの混合油と発表。

8月18日、袴田が逮捕され、以後連日に渡り厳しい取り調べが続いた。その取り調べは一日平均12時間、最高16時間にも及んだ。その間、水一杯与えなかったことがあった。その上、アル中患者を同房に入れ、夜中まで大騒ぎさせて袴田の睡眠を妨げ、疲労困憊させた。

9月6日、袴田はついに犯行を認めさせられた。自白後、強奪されたとされる金銭のうち5万円余りが「タイミングよく」発見される。清水郵便局で差出人不明の封筒が見つかり、その中からナンバー部分を焼いた紙幣が出てきた。袴田の供述調書には、<五万円を知り合いの女性に預けた>とあり、警察はこの5万円こそ、その袴田が奪った金に間違いないと主張した。

9月9日、袴田が静岡地検により強盗殺人および放火罪で起訴され、10月18日に静岡拘置所に身柄を送られるまで、清水署で45通の自白調書が作成された。調書の内容は激しく変転、犯行の動機も変われば、犯行の態様も変わった。捜査官に誘導されるままに調書が作成されているので、調書45通のうち、どれが真実であるのかが分からなかった。のちの法廷で裁判官も疑問を抱き、調書45通のうち44通は信用性・任意性ともにないとして証拠採用を却下。残る1通の検察官が作成した調書を証拠として採用した。その調書によると、袴田の犯行は次のようになる(<>内)。

<事件当日の夜、午前1時20分に袴田は目が覚め、専務宅へ行って4人を次々に殺害、現金を奪っていったん工場に戻り、現金を隠したあと混合油をもって現場へ引き返し放火した。>

煙が窓から入り、午前1時45分ころ隣家で火事に気付いていた。ということで、最大でも25分(袴田が目覚める午前1時20分から隣家が火事に気付くまでの午前1時45分まで)の間に袴田がこれだけのことをしたことになる。

「血染め」と報道されたパジャマには警察庁科学警察研究所の鑑定によると、「人血と認めるが血液型不明」というほどの微量の血痕しか付いていなかった。また、現場で発見された凶器の、くり小刀は袴田のものと断定する根拠はなく、ほかに登山ナイフも発見されているし、応接間のテーブルにはアイスクリームのふたが8つあった。これは複数の客がいたことを想定させ、登山ナイフも凶器と想定すれば、2人以上の犯人がいたとも考えられた。奪われた現金の行方は不明。自白での殺害方法と被害者の死亡状況が合致せず、出入りした裏木戸には鍵がかけられていた。

警察庁科学警察研究所

袴田は4人殺害後、この裏木戸の下部の留め金と中央部の閂(かんぬき)をはずして上部の留め金はかけたまま扉の下方を押し開いていったん脱出し、工場にあった混合油入りのポリ容器をもって被害者宅に戻り放火したことになっている。県警は裏木戸の実物大模型を作って実験し、上部の留め金をかけたままでも人の出入りは可能と結論付けていた。弁護団は東洋大学工学部建築学科の教授に鑑定を依頼。教授が実物大の木戸の模型を作って実験した結果は、上部の留め金をかけたままでは最低部で最大32センチしか開かず、人の出入りは不可能であると結論付けた。その後、東海大学工学部教授に鑑定を依頼した。教授は静岡県警の実験写真をコンピューターで解析した結果、袴田がもぐり抜ける状態を再現した裏木戸の開き方では上部の留め金がはずれてしまうことが分かった。

11月15日、静岡地裁で第1回公判開始。袴田は自白は強要させられたもので、警察・検察官によって作られたストーリーであると主張。「取り調べの苦痛から逃れるため、署名指印した」と述べた。

1967年(昭和42年)8月31日、静岡地裁での1審公判中、大きなミソの貯蔵タンクの中から血に染まったブリーフ、ステテコ、ズボン、白半袖シャツ、スポーツシャツの5点の衣類が入った南京袋が出てきた。ズボンのポケットにはマッチと絆創膏が入っていた。終始、尾行されていた袴田にはこれらを隠すのは不可能であった。

9月12日、警察が袴田の実家のタンスから鉄紺色のズボンの共布を「発見」して押収。押収した警官はまっさらな共布を見て即座に8月31日に「発見」されたミソ漬けになったズボンの共布と判ったという。

9月13日、検察が冒頭陳述の「犯行時の着衣を従来のパジャマ」から8月31日に「発見」された「5点の衣類」に変更。

1968年(昭和43年)9月11日、静岡地裁は袴田巌に死刑を言い渡した。袴田は無罪を主張し、ただちに控訴。判決では「5点の衣類」を着て殺害し、その後パジャマに着替えて再度侵入して放火したと認定される。

1969年(昭和44年)5月29日、東京高裁で第1回控訴審開始。

1971年(昭和46年)11月20日、東京高裁での控訴審の法廷で、犯人が着衣していたズボンの装着実験が行われたが、袴田には小さくてはけなかった。検察側はミソ漬けになっていたので縮んだ、とか袴田が太ったのだと主張した。装着実験は控訴審で計3回実施されたが、いずれもズボンがはけなかった。

1976年(昭和51年)5月18日、東京高裁で控訴を棄却。

翌19日、上告。

1980年(昭和55年)9月22日、最高裁で第1回公判開始。

11月19日、最高裁で上告棄却で死刑確定。

同日、社会評論家の高杉晋吾(現・退会)が代表となり、ボクシング評論家の郡司信夫、寺山修司、日本ボクシング協会会長の金平正紀、元東洋ジュニアミドル級チャンピオンの川上林成、『月刊ボクシングマガジン』(ベースボール・マガジン社)編集部の松永喜久を世話人に、「無実のプロボクサー袴田巌を救う会」を設置。のちに「無実の死刑囚・元プロボクサー袴田巌さんを救う会」と名称を変更。

無実の死刑囚・元プロボクサー袴田巌さんを救う会

1981年(昭和56年)4月20日、弁護側が静岡地裁に再審請求。

11月13日、日本弁護士連合会が人権擁護委員会内に「袴田事件委員会」を設置して再審支援を開始。

日本弁護士連合会

1991年(平成3年)3月11日、日本プロボクシング協会の会長の原田政彦(ファイティング原田)が、後楽園ホールのリング上から再審開始を訴え、正式に袴田を支援することを表明。

1993年(平成5年)12月15日、弁護側が静岡地裁に「最終意見書」を提出。

1994年(平成6年)8月8日、静岡地裁が再審請求を棄却。

8月12日、弁護側が東京高裁に即時抗告。

1998年(平成10年)2月23日、東京高裁は「5点の衣類」についてDNA鑑定を決定。警察庁科学警察研究所と岡山大学が鑑定を委嘱される。

2000年(平成12年)7月13日、警察庁科学警察研究所と岡山大学が「5点の衣類」のDNA鑑定について<鑑定不能>と報告。

2001年(平成13年)8月3日、弁護側が東京高裁に「最終意見書」を提出。

2004年(平成16年)2月、袴田の姉の秀子が遺産分割協議のため静岡家裁浜松支部に袴田の成年後見人選任の審判を申し立て。

3月、静岡家裁浜松支部が袴田の成年後見人選任の審判を申し立ての件を東京家裁に移送。

8月26日、東京高裁が即時抗告を棄却。

9月1日、弁護側が最高裁に特別抗告。

2006年(平成18年)5月、東日本ボクシング協会が「袴田巌再審支援委員会」を設立。協会長の輪島功一が委員長、新田渉世協会理事が実行委員長になる。委員会は後楽園ホールなどのボクシングの試合会場で袴田の親族、弁護士、救援会関係者らとともにリング上から再審開始を訴えているほか、東京拘置所に対し、面会要請やボクシング雑誌の差し入れなどを行っている。現在、袴田は東京拘置所に収監されているが、死刑確定後は精神に異常をきたし、拘禁反応から肉親や弁護団との面会も困難になっている。

東日本ボクシング協会

11月20日、元ボクシング世界チャンピオンの輪島功一、渡嘉敷勝男、レパード玉熊、飯田覚士、戸高秀樹の5人が最高裁へ結集し、袴田の再審開始を訴え、全国から寄せられた約500通の要請書を提出した。

2007年(平成19年)3月2日、袴田の支援団体は静岡地裁の判決文を起案したとされる元裁判官が「無罪の心証を持っていた」と再審支援に協力を申し出ていることを公表した。裁判官には、判決に至る議論の過程や内容を明かしてはならない「評議の秘密」が裁判所法で規定されており、判決から39年後の告白は議論を呼びそうだ。「袴田巌さんを救援する清水・静岡市民の会」によると、元裁判官と名乗り出たのは、熊本典道。事件の第2回公判から陪席裁判官を務め、1968年(昭和43年)の地裁判決で、3人の合議で主任裁判官として判決文を起案したという。翌1969年(昭和44年)4月に退官した後、弁護士活動を続けていた。

裁判所法75条(評議の秘密)・・・合議体でする裁判の評議は、これを公行しない。但し、司法修習生の傍聴を許すことができる。
2 評議は、裁判長が、これを開き、且つこれを整理する。その評議の経過並びに各裁判官の意見及びその多少の数については、この法律に特別の定がない限り、秘密を守らなければならない。

3月9日、元裁判官の熊本典道が東京都内で開かれた支援団体の集会に参加し、「自分は無罪の心証だったが、裁判長ともう1人の裁判官を説得できず、2対1の多数決で死刑判決を出してしまった」と明かした。熊本が、「評議の内容」を公の場で話したのは初めてで、再審支援に協力する意向も示した。裁判官が、判決に至るまでの議論の内容など評議の中身を明かすのは裁判所法に違反するが、熊本は「高裁や最高裁が間違いに気づいてくれることを願っていたが、かなわなかった。人の命を救うための緊急避難的な措置」と話した。

5月8日、プロボクシング元世界チャンピオンの輪島功一、大橋秀行両氏ら元ボクサー12人と支援者らが最高裁を訪れ、185人分の要請書を提出した。弁護側も同日、再審請求を退けた東京高裁決定に対する特別抗告の理由補充書を出し、高裁決定は袴田の自白を虚偽と判断した弁護側要請の鑑定結果を無視していると主張した。

6月25日、1審を担当した元裁判官の熊本典道が再審開始を求める上申書を支援者を通じて最高裁に提出した。熊本は記者会見し、「一人の青年が一生を棒に振ったことになる。(袴田死刑囚に会えれば)涙を流して頭を下げ、黙っていることしかできない」と話した。

12月17日、再審弁護団は最高裁に特別抗告の理由補充書を提出した。弁護団は「最終書面」としており、翌2008年(平成20年)前半の決定を期待している。補充書は3通目。確定判決が「犯行時に着用」と認定したズボンの鑑定から、太もも部分が小さすぎて袴田は履けず、犯人ではないと主張している。再審請求は静岡地裁と東京高裁に退けられ、最高裁に特別抗告している。

2008年(平成20年)3月24日、最高裁第2小法廷(今井功裁判長)は弁護側の特別抗告を棄却する決定をした。1981年(昭和56年)の請求から約27年を経て、再審を開かないことが確定した。最高裁は「無罪を言い渡すべき明らかな証拠はなく、袴田死刑囚を犯人とした確定判決の認定に合理的な疑いが生じる余地はない」とした。裁判官4人全員一致の意見だった。

4月25日、弁護団は第2次再審請求を静岡地裁に申し立てた。袴田は長期間の拘置による拘禁症状で心神喪失状態だとして、姉の秀子(当時75歳)が再審請求申立人となった。秀子は記者会見し、「第1次再審請求は結論まで27年かかったが、今度は早く決着を付けてほしい」と話した。西嶋勝彦弁護団長は「無罪判決が出るまで戦い続けたい」と決意を語った。

6月27日、東京家裁(上原裕之裁判長)は袴田の姉の秀子が袴田の成年後見人を選任するよう求めた申し立てを却下した。弁護団によると、家裁は医師の鑑定に基づき、袴田が長期間の拘置による拘禁反応で精神障害状態に陥っていると認定したが、「日常的に必要な買い物はできる状態にある」として、後見人が必要ではないとした。袴田の精神障害を裁判所が認めたのは初めて。

7月10日、袴田の姉の秀子が袴田の成年後見人を選任するよう求めた申し立てが却下されたことを受け、弁護団は東京高裁に即時抗告した。

12月19日、東京高裁(園部秀穂裁判長)は袴田の姉の秀子が袴田の成年後見人を選任するよう求めた申し立てを却下した1審・東京家裁決定を破棄し、審理を差し戻した。

2009年(平成21年)3月2日、東京家裁は袴田の姉の秀子を保佐人とする決定を下した。保佐人は再審請求の権利を持つことから、第2次再審請求の障害となっていた法的問題が解消される見通しとなり、弁護団は「実体審理に入っていけるので喜ばしい」と評価している。弁護団は、袴田が常時判断能力を欠くとして、成年後見制度における「後見開始」を申し立てていたが、同家裁は判断能力の欠落にまでは至らず、著しく不十分な状態にあるとして「保佐開始」の決定に止めた形だ。2004年(平成16年)の申し立て開始後、高裁差し戻しを経て、5年目の決定となった。

12月14日、第2次再審請求をめぐる静岡地裁、静岡地検、弁護団による3者協議が静岡地裁で開かれた。弁護団は事件から1年2ヶ月後、みそ樽から見つかった袴田の犯行時の着衣とされる「5点」について、同種の衣類をみそ漬けにした実験結果を「新証拠」として提出。「衣類は捜査機関によるねつ造の可能性がある」と主張し再審を求めた。3者協議は2回目。弁護団の実験は2008年(平成20年)6月下旬から1年2ヶ月かけて実施。白い半袖シャツやズボンなどサイズや素材が類似した衣類5点に人の血を付着させて麻袋に入れ、当時と同じ赤みそに漬け、発見当時の衣類の様子と比べた。弁護団の説明によると、発見当時の衣類の写真では血液の赤い色が認識できたが、実験結果では血液だと分からないほど濃い焦げ茶色に変色したという。弁護団は「1年余りもみそに漬かったことが明らかと認定した最高裁の決定を覆す結果。短期間のうちに第三者が手を加えたと推定できる」と述べた。

2010年(平成22年)4月22日、袴田巌死刑囚救援議員連盟 設立総会。

2011年(平成23年)1月27日、日弁連が弁護団の人権救済申し立てに基づき、袴田に強い精神疾患がみられ心神喪失状態だとして刑の執行を停止し、適切な治療を受けさせるよう法務省に勧告した。日弁連は再審請求や後見開始の審判に伴う精神鑑定などから、深刻な妄想性障害と判断している。

11月16日、第2次再審請求審で静岡地検が袴田の供述を録音したテープが存在すると静岡地裁に回答したことが分かった。袴田の弁護団が明らかにした。地検はテープの開示を拒否している。弁護団の小川秀世弁護士は「自白の任意性が争われている中での重要な証拠。裁判所には開示の勧告を強く求めたい」としている。

11月30日、第2次再審請求で静岡地検がこれまで開示されていない袴田の供述調書が34通存在することを認める意見書を静岡地裁に提出した。このうち10通は11月21日の地裁、地検、弁護団による3者協議で、同地検が存在を明らかにしていた。弁護団によると、34通のうち、袴田が犯行を否認した調書が14通、犯行を認めた自白調書が20通あるとみられる。これまでの裁判で存在が明らかになっている約45通の自白調書と合わせ、約80通の調書が存在することになる。弁護団の小川秀世事務局長は「自白調書だけで60通以上あり、拷問的な取り調べで自白の供述をさせられた可能性がある」と指摘している。

12月12日、第2次再審請求で静岡地検は袴田の取り調べ録音テープや供述調書、現場検証写真のネガなど計176点の証拠を開示した。裁判所の勧告に基づく開示は袴田事件で初めて。

2012年(平成24年)1月23日、第2次再審請求の3者協議が静岡地裁で開かれ、証拠衣類の血痕が袴田巌のものかどうかを調べる新たなDNA型鑑定を行う方針が決定。

4月13日、第2次再審請求で、袴田のDNA型と犯行時の着衣とされたシャツに付着する血痕のDNA型が一致するかどうか調べていた弁護側推薦の鑑定人は「完全に一致するDNAは認められなかった」との鑑定結果を出した。

4月16日、第2次再審請求で、袴田のDNA型と犯行時の着衣とされたシャツに付着する血痕のDNA型が一致するかどうか調べていた検察側推薦の鑑定人は「完全に一致するDNAは認められなかった」との鑑定結果を出した。ただ、今回の検察側の鑑定では、5点の衣類のうち「緑色パンツ」から検出されたDNA型については「袴田死刑囚に由来するものとして排除できない」とした。

4月25日、袴田の姉の秀子は東京家裁に成年後見制度に基づく後見開始の申し立てを行った。2009年(平成21年)に袴田の保佐人に選任された秀子は「認知症の病状が年々悪化している」と説明。弁護団は「後見開始で心神喪失状態と認められれば、死刑執行の停止につながる」としている。

袴田事件を元に制作された映画に『BOX 袴田事件 命とは』(DVD/監督・高橋伴明/出演・萩原聖人&新井浩文&石橋凌・・・/2010) がある。

参考文献・・・
『袴田事件 冤罪・強盗殺人放火事件』(新風舎/山本徹美/2004)
『毎日新聞』(2006年11月20日付/2007年5月8日付/2007年12月17日付/2008年4月25日付/2008年12月27日付/2009年12月15日付/2011年12月22日付/2012年1月24日付) / 『読売新聞』
(2007年3月2日付/2007年3月10日付/2007年6月25日付/2008年3月25日付/2008年7月7日付/2008年7月10日付/2011年12月1日付/2011年12月12日付)/ 『産経新聞』(2009年3月5日付/2012年4月14日付/2012年4月16日付) / 『共同通信』(2011年1月27日付/2011年11月17日付/2011年12月22日付)/『時事通信』(2012年4月25日付

参考にしなかったその他の関連書籍・・・
『主よ、いつまでですか 無実の死刑囚・袴田巌獄中書簡』(新教出版社/袴田巌&袴田巌さんを救う会[編]/1992)
『自白が無実を証明する 袴田事件、その自白の心理学的供述分析』(北大路書房/浜田寿美男/2006)
『はけないズボンで死刑判決 検証・袴田事件』(現代人文社/袴田事件弁護団/2003)
『地獄のゴングが鳴った』(三一書房/高杉晋吾/1981)

『美談の男 冤罪袴田事件を裁いた元主任裁判官・熊本典道の秘密』(鉄人社/単行本/尾形誠規/2010)
『裁かれるのは我なり 袴田事件主任裁判官三十九年目の真実』(双葉社/山平重樹/2010)
『袴田巌は無実だ』(花伝社/矢澤昇治[編]/2010)
関連・参考サイト・・・
無実の死刑囚・元プロボクサー袴田巌さんを救う会
袴田巌さんの再審を開き、無罪を勝ち取る全国ネットワーク
袴田巌さんを救援する清水・静岡市民の会
袴田さんの再審を求める会
袴田事件研究会〜冤罪事件から刑事訴訟を学ぶ

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