[ 事件 index / 無限回廊 top page ]
日本赤軍と東アジア反日武装戦線
東大、日大闘争を頂点とした全共闘による大学闘争の敗北により、学生たちの間ではシラケが進行していったが、一部のセクトは、急速に過激化、武装化への飛躍を見せるようになった。そのひとつが赤軍派である。東大闘争と日大闘争
1969年(昭和44年)5月、赤軍派はトロツキズムを基盤とした共産主義者同盟(第2次ブント)の中の関西を中心とする武闘路線派から生まれた。それまでの大学闘争、街頭闘争の総括を経て、早急に軍隊を組織して銃や爆弾で武装蜂起する必要があると結成した。そのときのメンバーは京大、同志社大、立命館大などを中心とする活動家約400人(うち高校生活動家約90人)であった。その後、9月4日、日比谷野音で開かれた全国全共闘結成大会に、初めて公然と姿を現した。
9月21・22日、武器奪取、対権力攻撃として阿倍野派出所など3ヶ所の交番に火炎ビン攻撃を加えた「大阪戦争」、9月30日、「日大奪還闘争」をスローガンに神田、本郷一帯で同時多発ゲリラ闘争を展開した「東京戦争」はいずれも失敗に終わる。10月21日、10・21国際反戦デー闘争(新宿騒擾事件一周年闘争)には最初の鉄パイプ爆弾を登場させ、新宿駅襲撃、中野坂上ではピース缶爆弾によるパトカー襲撃などを行った。
11月5日、首相官邸や警視庁を襲撃するために鉄パイプ爆弾による軍事訓練をしようとハイキングを装い、山梨県塩山市の大菩薩(だいぼさつ)峠にある「福ちゃん荘」に集結するが、かねて密かに内偵捜査を進めていた警察により、爆発物取締法違反、凶器準備集合罪の容疑で53人(うち高校生9人)が逮捕された。のちに結成される連合赤軍によるリンチ殺害事件やあさま山荘事件の詳細は連合赤軍あさま山荘事件
当時、「赤軍罪」という呼び名があった。六法全書にはそんな罪状は記載されていなかったが、赤軍派のメンバーであるというだけで、逮捕の理由にされてしまった。公安警察の監視下に置かれていた赤軍派のメンバーは、うかつに道路を横切ることもできなかった。歩行中に信号機の色が変わっただけで、道交法違反の現行犯として逮捕されたし、わざと体をぶつけられて抵抗すると、すぐに公務執行妨害の現行犯で逮捕された。
1970年(昭和45年)1月16日、国内の取り締まり強化により、東京で約800人、2月7日、大阪で約1500人を集めて蜂起集会を開いた。東京の集会では世界革命戦線構築として「国際根拠地建設、70年前段階蜂起貫徹」と銘打った。
3月15日、最高幹部の塩見孝也(たかや)議長(京大)が逮捕された。塩見が所持していた手帳に<H・J>の文字があったが、公安警察はそれが「ハイジャック計画」を意味するとまでは読みとれなかった。
世界革命戦線構築の具現として、3月31日〜4月3日、日航機「よど号」ハイジャックによる北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)入りを敢行する。「よど号」ハイジャック事件
翌1971年(昭和46年)2月26日、さらに、重信房子(当時25歳/明治大)、奥平剛士(おくだいらつよし/当時26歳/京大)らによって組織された日本赤軍は、パレスチナ・ゲリラと中近東アラブ・ゲリラ、PLOのアラファト議長やPLOの武装ゲリラ組織「PFLP」(パレスチナ解放人民戦線)との連帯を求めて、奥平剛士が日本を飛び立った。2日後の28日、奥平(重信)房子(2月2日、奥平剛士と結婚入籍したためパスポートは「奥平房子」となっている)があとを追った。
10月、安田安之(当時24歳/京大)、山田修、檜森孝雄がベイルート入りする。
映画監督の若松孝ニと足立正生がパレスチナで『赤軍-PFLP・世界戦争宣言』を撮影。
監督の若松、足立には永山則夫連続射殺魔事件をモデルに製作した作品『略称 連続射殺魔』(監督・足立正生、若松孝ニ、岩淵進、野々村政行、山崎裕、松田政男、佐々木守/1969)がある。
大道寺将司(まさし/法政大中退、会社員)が片岡利明(法政大中退、会社員)、大道寺あや子(大道寺将司の妻/星薬科大卒、会社員)と東アジア反日武装戦線<狼>グループの前身部隊を結成する。
12月12日、大道寺らによって、熱海にある「興亜観音像」と「殉国七士の碑」を同時に爆破。
―― 「興亜観音像」を建てたのは、中国に対する侵略戦争において、南京市攻略を指揮した陸軍大将の松井石根で、松井は南京大虐殺を悔やみ、日本と中国の融和一体化を祈るためにこれを建てたとしているが、その本意は、中国人民の反日の怨念を沈め、南京大虐殺の反革命犯罪を清算し、日帝反革命軍の侵略戦争をこそ祈るという徹頭徹尾、反革命的なものであった。
―― 「殉国七士の碑」は、1968年(昭和43年)、吉田茂のきごうによって、東条英機ら7人のA級戦犯を慰霊するものとして建てられた。その目的は、旧日帝の侵略革命イデオロギーを復権・肯定・美化し、日帝の新たな植民地主義侵略のイデオロギー的支柱たらしめることにあった。
1972年(昭和47年)2月、山田修が水中訓練中に事故死した。その後、帰国する檜森孝雄を使って岡本公三(鹿児島大)を呼び寄せた。その後、会社員の丸岡修(当時22歳)が合流した。これで、日本赤軍は重信房子と4人のコマンドとなった。
日本初の国際テロ組織となった日本赤軍は当初、「アラブ赤軍」「赤軍派アラブ委員会」と称していた。正式に「日本赤軍」と名乗るのは1974年(昭和49年)以降である。
「日本中央競馬会」のことをJRA(Japan Racing Association)と言うが、「日本赤軍」もまたJRA(Japan Red Army)と言う、、、どうでもいいか、、、。
1972年(昭和47年)4月6日、東アジア反日武装戦線<狼>前身部隊が、朝鮮に対する日本の侵略支配を正当化するものであるとして、鶴見の曹洞宗大総持寺常照殿(納骨堂)を爆破。
―― 1910年(明治43年)以降、日本の朝鮮植民支配の間に死んだ日本人植民者の遺骨5000柱の合祀台が、1965年(昭和40年)の「韓日条約」締結後、ソウル近郊に建てられた。しかし、その建設計画段階から完成まで、朝鮮人民による抗議行動が続き、1971年(昭和46年)9月、日本政府はやむなく遺骨を持ち帰り、鶴見の曹洞宗大総持寺常照殿(納骨堂)に安置した。
[ 日本赤軍が引き起こした主なテロ事件 ]
| 1972年 (昭和47年) 5月30日 |
テルアビブ空港事件 |
イスラエルのテルアビブ・ロッド空港で、奥平剛士、岡本公三、安田安之の3人が、自動小銃を乱射し、26人が死亡、73人が重軽傷を負った。 |
| 1973年 (昭和48年) 7月20日 |
ドバイ事件 | 丸岡修と4人のパレスチナゲリラがパリ発東京行きの日航機を、オランダのアムステルダム空港離陸後ハイジャックし、3日間に渡り、アラブ首長国連邦のドバイ空港、シリアのダマスカス空港などを経て、リビアのベンガジ空港に着陸させ、人質141人を解放後、機体を爆破して投降。 |
| 1974年 (昭和49年) 9月13日 |
ハーグ事件 | 重信房子、西川純、奥平純三、和光晴生の4人が、オランダ・ハーグのフランス大使館を占拠して、17日、フランス当局に拘禁中の山田義昭を釈放させ、シリアに脱出。 |
| 1975年 (昭和50年) 8月4日 |
クアラルンプール事件 | 奥平純三、日高敏彦、和光晴生、丸山修、山田義昭と思われる5人がマレーシアのクアラルンプールのアメリカとスウェーデン両大使館を占拠し、アメリカ総領事らの人質と交換に、日本で勾留中の赤軍派の坂東国男、日本赤軍の西川純、戸平和夫、赤軍派の松田久、東アジア反日武装戦線の佐々木規夫を釈放させ、日航機でクアラルンプールに送り、日本赤軍は奪還した5人とともにリビア入りした。 |
| 1977年 (昭和52年) 9月28日 |
ダッカ事件 | 丸岡修、和光晴生、佐々木規夫、坂東国男、西川純と思われる5人が、日航機をハイジャックし、バングラデッシュのダッカ空港に着陸させ、乗員・乗客151人の人質と交換に、日本赤軍メンバーなど9人の釈放を要求した。犯人グループは奥平純三、大道寺あや子、浴田由紀子、城崎勉、泉水博、仁平映の6人と現金600万ドルをダッカに移送させたあとアルジェリアに逃亡し人質全員を解放した。 |
| 1986年 (昭和61年) 5月14日 |
ジャカルタ事件 | インドネシア・ジャカルタの日米両大使館に爆発物が打ち込まれ、同地のカナダ大使館で車が爆破されるという同時テロ事件が発生した。この事件では「反帝国主義旅団」名の犯行声明が出されており、日米捜査当局は、城崎勉を犯人の1人と断定した。 |
| 1987年 (昭和62年) 6月9日 |
ローマ事件 | ベネチア・サミット開催中、イタリアのローマで、アメリカ、イギリス両大使館に向けた爆発物の発射などのテロ事件が発生した。この事件では「反帝国主義国際旅団」名の犯行声明が出されており、イタリア捜査当局は、奥平純三らを犯人と断定した。 |
| 1988年 (昭和63年) 4月14日 |
ナポリ事件 | イタリアのナポリで米軍クラブ前に駐車中の車が爆破され、米軍1人を含む5人が死亡した。この事件では「聖戦旅団機構」名の犯行声明が出されており、イタリアと米捜査当局は、奥平純三と重信房子を犯人と断定した。 |
[ テルアビブ空港事件 ] 1972年(昭和47年)5月30日、日本赤軍の奥平剛士、岡本公三(当時24歳)、安田安之の3人が、イスラエルのテルアビブ・ロッド空港(現・ベングリオン空港)で、自動小銃を乱射し、26人が死亡、73人が重軽傷を負った。岡本公三はイスラエル当局によって逮捕されたが、奥平と安田は自爆死した(イスラエル軍による反撃説もある)。8月1日、岡本はイスラエルの軍事法廷で終身刑が確定した。日本赤軍テルアビブ空港事件
10月23日、東アジア反日武装戦線<狼>前身部隊が、アイヌモシリ侵略思想とアイヌ文化遺産収奪の拠点としての役割を果たしてきた北海道大学文学部の北方資料館と、日帝 ― 道庁 ― 日本人植民者によるアイヌモシリ征服の過去を形容する「風雪の群像」を同時に爆破。
[ ドバイ事件 ] 1973年(昭和48年)7月20日、日本赤軍の丸岡修と4人のパレスチナゲリラがパリ発東京行きの日航機を、オランダのアムステルダム空港離陸後ハイジャックし、3日間に渡り、アラブ首長国連邦のドバイ空港、シリアのダマスカス空港などを経て、リビアのベンガジ空港に着陸させ、人質141人を解放後、機体を爆破して投降。このとき、パレスチナ・ゲリラの女性1人が機内で爆死した。
8月14日、日本赤軍の重信房子が、フジテレビの「3時のあなた」に出演。ヨーロッパで、同番組のキャスターを務める山口淑子がインタビュー取材したものだった。
動画 → You Tube − 重信房子独占インタビュー 1973
山口淑子・・・本名・大鷹淑子。1920年、中国東北部(旧満州)撫順に生まれる。李香蘭の名で『白蘭の歌』『支那の夜』などの映画に出演。人気スターとなり、1941年(昭和16年)2月の東京・日劇の歌謡ショー「歌う李香蘭」は観客が殺到して劇場を7周半も取り巻く行列ができた。1946年、日本映画界に復帰し、ハリウッドで主演映画を撮るなど活躍。1951年、彫刻家イサム・ノグチと結婚したが、5年後に離婚。1958年、映画界を引退し、外交官の大鷹弘と結婚。1969年、フジテレビの番組「3時のあなた」のキャスターを務め、世界中を取材で飛び歩いた。1974年(昭和49年)には自民党から参院選に立候補して当選。1978年、環境庁政務次官として32年ぶりに中国を訪問。1992年(平成4年)の引退まで参院議員を3期務める。
1974年(昭和49年)1月31日、日本赤軍の和光晴生と山田義昭とパレスチナゲリラ2人の混成部隊により、シンガポールのシェル石油製油所の石油タンクを爆破、フェリーボートを強奪して、乗組員5人を人質に立て篭もった。
2月6日、パレスチナゲリラが、在クウェート日本大使館を占拠し、日本赤軍の和光らの送還を日本政府に要求した。日本政府はこれに応じ、日本赤軍、パレスチナ・ゲリラのメンバー9人を南イエメンに運んだ。
東アジア反日武装戦線<狼>グループは海外に進出する巨大企業を「人民を搾取する帝国主義的侵略の先兵」と位置付け、次々と企業爆破事件を敢行していくが、「都市ゲリラ兵士の読本」として発行した教典に『腹腹時計(はらはらどけい)』があり、その中の文章には<われわれは、アイヌ人民(略)、沖縄人民、朝鮮人民、台湾人民の反日帝闘争に呼応し、彼らの闘いと合流するべく、反日帝の武装闘争を執るように闘う狼≠ナある>との一節がある。
1951年(昭和26年)に日本共産党は武装闘争を提起するが、その方針を明らかにしたパンフレットがあった。『栄養分析法』や『球根栽培法』である。『栄養分析法』には時限爆弾や火炎手榴弾などの武器製造方法、使用法、威力などが細かく書かれている。『球根栽培法』には地下機関向けに、軍事問題の解説書的な内容で、「都市ゲリラ組織としての中核自衛隊」「農村ゲリラ組織としての山村工作隊」が提起されている。東アジア反日武装戦線<狼>グループは、これらのパンフレットや連合赤軍の『連合赤軍服務規律』などを参考に『腹腹時計』を作った。
『腹腹時計』の目次は次のようになっている。
| はじめに
<第一章> 武装闘争=都市ゲリラ戦の開始に向けて 第一篇 個人的準備=ゲリラ兵士としての配慮 第ニ篇 武装=都市ゲリラ組織の基本形態 第三編 技術 (1)火薬 (2)起爆装置 <第ニ章> 展開 第一篇 爆破 第ニ篇 作戦の一般的原則 |
<第一章>の「武装闘争=都市ゲリラ戦の開始に向けて」の第一篇「個人的準備=ゲリラ兵士としての配慮」には次のような記述がある。
|
1 左翼活動家であると思い込んでいる自分、又は他人よりそう思われている自分を、生活形態などを変えていくことに依って消していくこと。 (以下、省略) |
奥付けは、<兵士読本VOL.1 一九七四年三月一日発行 頒価一〇〇円 編集・東アジア反日武装戦線狼&コ士読本編纂委員会 発行・東アジア反日武装戦線狼¥報部情宣局 東アジア反日武装戦線狼¥報部印刷局>となっている。
東アジア反日武装戦線に関するよもやま情報のホームページ → 東アジア反日武装戦線資料室 → 腹腹時計VOL.1
福島市の映画監督の渡辺文樹が自らテロリストを演じた『腹腹時計』という自主映画作品がある。
1974年(昭和49年)7月26日、パリで、日本赤軍の山田義昭が逮捕される。
8月14日、東アジア反日武装戦線<狼>グループは、この日の午前10時58分〜午前11時2分に、東京と埼玉の間にある荒川鉄橋を通過する「御召」列車(天皇は毎年7月末ごろ、那須御用邸にいき、8月14日午前に特別列車で帰京して、翌15日の戦没者追悼式に出席する)を爆破する計画(天皇暗殺攻撃=虹作戦)を立てていたが中止した。
「13日の夜11時ごろ、私たちは準備を整えて再び車で現場に向かいました。ところが現場に着き、予定していた地点で爆弾を車からおろしたところ、そういう私たちの動きをじっと見ている者の気配があるのです。・・・いつまでたっても現場付近から人の気配が消えませんでした。打つ手もなく、じりじりと時間がどんどん過ぎていきました」
そして、何事もなく、「御召」列車は午前11時ごろ、荒川鉄橋を通過した。
東アジア反日武装戦線に関するよもやま情報のホームページ → 東アジア反日武装戦線資料室 → 虹作戦
8月30日、三菱重工ビル爆破事件発生。
[ 三菱重工ビル爆破事件 ]
1974年(昭和49年)8月30日午後0時45分、東アジア反日武装戦線<狼>グループの大道寺将司、片岡利明、大道寺あや子、佐々木規夫(会社員)らによる、最初の大規模な爆弾事件が発生する。このときの爆弾は天皇暗殺攻撃=虹作戦用に作ったペール爆弾であった。東京都千代田区丸の内にある三菱重工本社ビルに仕掛けられた2つの爆弾が大音響とともに爆発し、死者8人(即死5人、病院に運ばれたあと死亡3人)、重軽傷者385人を数える大惨事を引き起こした。東アジア反日武装戦線<狼>グループは、巻き添えによる人的被害を回避するため、爆破時刻の8分前に、三菱重工ビル管理室に予告電話をかけた。「これから大事なことを伝えるからよく聞いてほしい。我々は東アジア反日武装戦線<狼>である。三菱重工と三菱電機の間の道路上に爆弾を2個仕掛けた。すぐに爆発するので、道路上の人、および道路に面したビル内の人を至急避難させなさい。繰り返す。爆弾はすぐに爆発するので、道路上の人、および道路に面したビル内の人を至急避難させなさい。断っておくが、これは絶対にいたずら電話ではない」しかし、いたずら電話だと思ったのか、相手の男は途中で電話を切ってしまい、かけ直した時にも、また途中で切ってしまった。しかたなく、受付に電話し、交換手が最後まで通告を聞いたのは、爆発4分前であった。 午後0時45分、三菱重工ビル玄関前で2個の爆弾が炸裂。避難措置はとられなかった。事件直後に、「三菱は、旧植民地時代から現在に至るまで、一貫して日帝中枢として機能し、商売の仮面の陰で死肉をくらう日帝の大黒柱である」とする犯行声明が発せられた。
動画 → You Tube − [事件] 三菱重工爆破事件 / You Tube - 東アジア反日武装戦線 連続企業爆破事件 − 1974&1975
この事件がきっかけとなり、「犯罪被害者等給付金制度」が1980年(昭和55年)5月に公布し、1981年(昭和56年)にスタートした。これは、人の生命または身体を害する犯罪行為により、不慮の死を遂げた者の遺族や、重い障害を受けた者に対し、国が一時金を支給する制度。通り魔や爆弾魔のように犯人が分からなかったり、犯人は逮捕されても資力がなく、被害者やその遺族へ補償できない場合を考慮したもので、この請求は都道府県の公安委員会あてに行う。さらに、「犯罪被害者給付金支給法」が改正され、2001年(平成13年)4月1日制定、7月1日施行された。遺族給付金の支給額は、改正後1573〜320万円(改正前1079〜220万円)に、傷害給付金(傷害等級1〜4級)の支給額は、改正後1849.2〜331万円(改正前1273〜230万円)に引き上げられた。また、改正前には設けられていなかった傷害給付金(傷害等級5〜14級)が新たに設定され、14級で69〜18万円とした。
[ ハーグ事件 ] 1974年(昭和49年)9月13日、日本赤軍の重信房子、西川純、奥平純三(当時25歳/奥平剛士の弟)、和光晴生(わこうはるお)の4人が、オランダ・ハーグのフランス大使館を占拠して、17日、フランス当局に拘禁中の山田義昭を釈放させ、シリアに脱出。「日本赤軍」と名乗ったのはこの事件からで、日本赤軍のメンバーだけによる事件の第1号でもあった。
この事件では伝説的な国際テロリストとして知られる「カルロス」が資金援助した。
カルロス・・・「カルロス」はコードネームで、本名イリッヒ・ラミレス・サンチェス。1948年(昭和23年)、ベネズエラで生まれた。熱烈な共産主義者の父親の影響を受け、14歳でベネズエラ共産党に入党する。その後、キューバで軍事訓練を受け、そこで教官だったKGB大佐ビクトル・シメノフの目にとまり、その縁でモスクワのパトリース・ルムンバ大学で共産主義を学び、ロンドンの大学でスペイン語の講師をしばらく続けた。その後、PFLPに参加しテロリストの道を歩む。カルロスの名前が知れ渡るようになったのは、1970年代から80年代にかけてヨーロッパを震撼させたテロ活動を行なうようになってから。カルロスの犯行は神出鬼没で大胆不敵なことからヨーロッパの公安当局は、はじめフレデリック・フォーサイスの小説にちなんで「ジャッカル」と呼んでいた。これまでに、カルロスが関わったとされるテロは暗殺、爆破、ハイジャック、誘拐など数多い。1973年(昭和48年)12月、ロンドンのユダヤ系実業家殺害。1974年(昭和49年)8月、パリのユダヤ社会運動財団事務所を爆弾を積んだ車を突入させて爆破。9月、パリのドラックストアの店内を手榴弾で爆破、30人以上死傷。同月、ハーグ事件で資金援助。1975年(昭和50年)1月、パリのオルリー空港でイスラエル航空機にソ連製ロケット弾を撃ち込む。3月、フランス・リヨンの旧ユーゴスラビア領事暗殺未遂。12月、ウィーンで開かれたOPEC(石油輸出国機構)閣僚会議に出席したサウジアラビアのヤマニ石油相ら11人を人質に、アルジェリアに強制移送。1976年(昭和51年)6月、テルアビブ発パリ行きエール・フランス機がアテネ空港でハイジャックされ、ウガンダのエンテペ空港に着陸したが、イスラエル特殊部隊が奇襲してドイツ人とアラブ人の犯人全員を射殺。1983年(昭和58年)12月、フランス新幹線の車内とマルセイユ駅構内でスーツケースが爆発。これで死傷者が多数出た。1984年(昭和59年)からテロ活動を止め、シリアに移住した。1993年(平成5年)12月、シリアから追放され、イエメンを経由してスーダンに入国。1994(平成6年)8月15日、スーダンでフランス当局に逮捕され、1997年(平成9年)12月、無期懲役の判決が下った。
関連書籍・・・『カルロス 沈黙のテロリスト』(徳間書店/ラースリー・リスカイ/1993)
10月14日午後1時過ぎ、東アジア反日武装戦線<大地の牙>グループの斎藤和(のどか/都立大中退、ウエイター)、浴田(えきた)由紀子(北里大卒、臨床検査技師)らが、東京都港区西新橋の三井物産本社を爆破。
11月25日、東アジア反日武装戦線<狼>グループが、東京都日野市の帝人中央研究所を爆破。
12月10日、東アジア反日武装戦線<大地の牙>グループが、東京都中央区銀座2丁目の大成建設本社を爆破。
12月23日、東アジア反日武装戦線<さそり>グループの黒川芳正(都立大中退、会社員)、宇賀神寿一(うがじんしんいち/明治学院大生)、荒井まり子(法政大中退、東北大付属医療技術短大生)らも合流し、東京都江東区の鹿島建設工場敷地内を爆破。
1975年(昭和50年)2月28日、東アジア反日武装戦線の3つのグループが、東京都港区北青山の間(はざま)組本社ビルと埼玉県与野市(現・さいたま市)の間組大宮工場を同時に爆破。
3月5日、スウェーデンのストックホルムのレバノン大使館付近で、日本赤軍の西川純、戸平和夫が逮捕され、日本へ強制送還されるが、日高敏彦は逃走した。
4月19日、東アジア反日武装戦線が、銀座7丁目の韓国産業経済研究所、尼崎市のオリエンタルメタル社を爆破。
4月28日、東アジア反日武装戦線が、千葉県市川市の間組作業所を爆破。
5月4日、東アジア反日武装戦線が、間組の京成江戸川橋鉄橋工事現場を爆破。
5月19日、東アジア反日武装戦線の大道寺将司(当時26歳)、佐々木規夫(当時26歳)、大道寺あや子(当時26歳)、片岡利明(当時26歳)、斎藤和(当時27歳)、浴田由紀子(当時24歳)、黒川芳正(当時27歳)、荒井まり子(当時24歳)の8人が韓国産業経済研究所爆破容疑で逮捕された。斎藤和は逮捕時に青酸カプセルを飲んで自決した。
5月23日、東アジア反日武装戦線の宇賀神寿一(当時22歳)、桐島聡(当時21歳/明治学院大生)が韓国産業経済研究所爆破容疑で全国指名手配された。
5月25日、東アジア反日武装戦線が、東京の立川警察署北口交番など9ヶ所の交番を爆破。
同日、逮捕された大道寺将司は企業連続爆破の理由について次のように供述した。
「日本は明治維新以来、常に海外にいろいろな資源や材料の供給を求め、その結果として台湾、朝鮮、中国、インドシナなどに対し、軍事侵略を行ないこれを植民地化して、その利益によって日本の社会構造を築いてきました。そして、戦後は表面的には形は違いますが、企業が海外に進出して安い労働力を求めると共に、海外の国に公害をたれ流していわゆる企業による侵略を行ない、企業侵略による搾取によって日本の社会構造を形成してきたとするのが、私の基本的認識です。一方、既成左翼は革命を日本の労働者階級による闘いとしてとらえていますが、私は日本の労働者階級は先程述べた植民地化や、企業による侵略に組み込まれた、いわゆる帝国主義労働者であり、これによっては真の革命は望み得ないものであり、私は企業侵略により搾取されているいわゆる植民地の労働者の闘争によってのみ、真の革命が可能であると考えております。そして、先程も述べたように、日本の社会構造の基礎を形作っているのが、いわゆる植民地に進出している企業である以上、革命のための第一歩は何よりも海外企業侵略を行なっている大企業に対してダメージを与え、企業侵略を阻止することであると考えております。しかしながら、この企業侵略の阻止は、これまで行なわれてきた各種の大衆活動とか議会における活動によって達成することは不可能です。なぜなら、これら大衆活動も議会における活動も、先程述べたような形で形成されてきた社会構造の中でいう限界の中で行なわなければならないからです。私は企業侵略を阻止するためには、企業侵略によって搾取されている国々の労働者の立場に立ち、物理的な力によって企業にダメージを与える必要があると考えました。これが、海外進出企業に対し爆弾を設置して爆破させた根本的な理由であります」
5月28日、荒井まり子の姉のなほ子が走行中の列車から飛び降り自殺した。
7月19日、東アジア反日武装戦線が、北海道警察本部警備課内を爆破。
[ クアラルンプール事件 ] 1975年(昭和50年)8月4日、日本赤軍の奥平純三、日高敏彦、和光晴生、丸山修、山田義昭と思われる5人がマレーシアのクアラルンプールのアメリカとスウェーデン両大使館を占拠し、アメリカ総領事らの人質と交換に、日本で勾留中の赤軍派の坂東国男、日本赤軍の西川純、戸平和夫、赤軍派の松田久、東アジア反日武装戦線の佐々木規夫を釈放させ、日航機でクアラルンプールに送り、日本赤軍は奪還した5人とともにリビア入りしたが、京浜安保共闘の坂口弘と赤軍派の松浦順一は出国を拒否した。
坂口はリンチ殺害事件において、14人の「総括」に関係しており、高い確率で死刑が予想された。事実、のちに死刑判決を受ける。釈放の呼びかけに応じれば、生命は確保されるにもかかわらず、坂口は拒否した。クアラルンプールのゲリラからの国際電話に対して、直接、「君たちは間違っている。私は出ていかない。君たちは大衆の支持を得ることはできないであろう」とのみ答えたという。坂口はアメリカのベトナム戦争敗戦後、アメリカはアジアを軍事侵略することはなく、この時点において武装闘争は正しくないと考えたのではないかと言われている。
松浦はこのとき病気保釈中で四国の自宅で静養中であった。「今は闘争を保留にしているので、誰に誘われても、どこへも行くつもりはありません」と、取材の記者にはっきりと語った。
動画 → You Tobe − 日本赤軍クアラルンプール事件 − 1975
東アジア反日武装戦線によって切り開かれた爆弾闘争は、同戦線を名乗る後続部隊からさらに、「世界赤軍日本人部隊やみのつちぐも」「世界革命戦線大地の豚」「世界革命反日戦線・タスマニア1876」といった新グループによる神社や大学、企業などへの攻撃と多角化していく。また、「東アジア反日武装戦線KF部隊」「手・足としっぽの会」「反帝反日通信編集委員会」の名で、東アジア反日武装戦線の教本であった『腹腹時計』などの続編や爆弾闘争支援文書も刊行され、爆弾志向の潜在的広がりをみせる。
1976年(昭和51年)1月6日、世界赤軍日本人部隊やみのつちぐもが、平安神宮を放火。
3月2日、東アジア反日武装戦線が、札幌市の北海道庁を爆破。同庁舎1階ロビーに仕掛けられた時限爆弾が爆発し、2人が死亡、95人が重軽傷を負った。この日は、1899年(明治32年)に制定された「北海道旧土人保護法」の公布日に当たっていた。爆発後、市営地下鉄大通り駅のコインロッカーから、東アジア反日武装戦線の署名入り犯行声明文が見つかった。それには、<道庁を中心に群がるアイヌモシリの占領者どもは、第一級の帝国主義者である>と書かれていた。
公安警察は、これらの爆弾犯人として加藤三郎をマークしていた。加藤は岐阜市内で職務質問を受けた際、爆弾材料の除草剤などを残して逃走した。加藤の行方を突き止めるために、交友関係を洗っているうちに、大森勝久が浮かんできた。大森は道庁事件現場で目撃されている不審な人物に肉体的特徴が似ていた。捜査本部は札幌市の間借り先を家宅捜査し、爆弾製造に使う工具を発見した。
8月10日、大森勝久が爆発物取締法違反容疑の別件で逮捕される。
9月1日、さらに、大森は道庁事件で再逮捕され、道警事件で再々逮捕された。だが、大森は完全黙秘を続けた。
9月10日、警察庁は大森の共犯者として、加藤三郎を全国に指名手配した。
9月23日、日本赤軍の日高敏彦が、シリアからヨルダンに偽造旅券で入国しようとして逮捕されるが、のちに拘置所内で自殺した。
10月13日、ヨルダン当局に拘束されていた日本赤軍の奥平純三と遺体となった日高敏彦が強制送還された。
1977年(昭和52年)1月1日、世界赤軍日本人部隊やみのつちぐもが、京都梨木神社を爆破。
2月21日、世界革命戦線大地の豚が、大阪東急観光を爆破。
5月2日、世界革命戦線大地の豚が、東大法文1号館を爆破。
6月30日、世界革命反日戦線・タスマニア1876が、三井アルミ社長宅を爆破。
[ ダッカ事件 ] 1977年(昭和52年)9月28日、日本赤軍の丸岡修、和光晴生、佐々木規夫、坂東国男、西川純と思われる5人が、日航機をハイジャックし、バングラデッシュのダッカ空港に着陸させ、乗員・乗客151人の人質と交換に、日本赤軍メンバーなど9人の釈放を要求した。
動画 → You Tube − [事件] 日本赤軍ダッカ事件
その9人とは、日本で収監中の日本赤軍の奥平純三、東アジア反日武装戦線の大道寺あや子と浴田由紀子、赤軍派の城崎(きのさき)勉と植垣康博、京都地方公安調査局爆破事件の大村寿雄、当時の皇太子夫妻に火炎ビンを投げつけた知念功、無期懲役刑中の強盗殺人犯の泉水(せんすい)博、懲役10年の判決を受け控訴中の殺人犯の仁平(にへい)映である。泉水、仁平は、獄中で待遇改善要求闘争などを展開している「獄中者組合」のメンバーであった。
当時の福田赳夫首相は「人命は地球よりも重い」と述べ、犯人の要求をのんだ。この「弱腰対応」は世界各国から批判を浴びた。
10月1日、この9人のうち、植垣、大村、知念の3人は、立場が違うなどの理由で出国を拒否したが、奥平純三、大道寺あや子、浴田由紀子、城崎勉、泉水博、仁平映の6人は釈放に応じた。6人を乗せた日航機は羽田を出発し、午後、ダッカ空港に到着した。釈放犯6人、現金600万ドル(当時で約16億円)と交換に人質が解放された。その後、クウェート、シリアを経て、6日間の飛行ののち、アルジェリアのダニエル・ベイダ空港で人質全員を解放した。
この「ダッカ事件」で、突如として、一般の刑事犯2人(泉水博、仁平映)の釈放を要求したのは、この2人の刑務所内における “反権力闘争”を評価したため、とされている。しかし、日本赤軍の名も知らず、“寝耳に水”で指名された2人としては、迷惑な一面もあったし、さまざまな誤解もあった。特に、泉水については、「乗客を救うために行くのであって、機内で乗っ取り組に会ったら、私はあなたたちと一緒になって闘うために来たのではないというつもりだ」というコメントを当時の週刊誌に載せている。泉水は日本を離れる直前、特に許された実兄との面会で、「赤軍なんてものはどういうものか、全然、俺には分からんが、俺が行かねば百数十人の人質を解放しないというんだから、行くことにしたよ」と語ったという。その後、泉水は3年後に、日本赤軍のメンバーになったと言われている。
警察庁はこの「ダッカ事件」の反省からハイジャックや凶悪テロの際、人質救出や制圧にあたる「SAT(Special Assault Team/特殊急襲部隊)」を警視庁と大阪府警に秘密部隊として発足させた。現在は、7都道府県に1隊ずつ計約200人が在籍している。1979年(昭和54年)1月26〜28日の大阪での三菱銀行猟銃強盗殺人事件や1995年(平成7年)6月21〜22日の函館空港での全日空機乗っ取り事件、2000年(平成12年)5月3〜4日の西鉄バスジャック事件の3件に出動した実績がある。
1995年(平成7年)6月21〜22日の函館での全日空機ハイジャック事件・・・休職中の銀行員(当時53歳)がオウム真理教(現・アレフ)を装い、水の入ったポリ袋を使って、羽田発函館行きの全日空機(乗員乗客365人)を乗っ取った。函館地裁では求刑15年に対して懲役8年となり、検察側が量刑が軽すぎるとして控訴、札幌高裁では懲役10年となった。
10月27日、部族戦線が、東京都渋谷区の神社本庁を爆破。この時点で部族戦線のリーダーが加藤三郎ということが判明した。
11月2日、世界赤軍日本人部隊やみのつちぐもが、東本願寺大師堂を爆破。
1978年(昭和53年)10月28日、東アジア反日武装戦線が、間組第2ハザマビル工事現場を爆破。
1979年(昭和54年)11月12日、東京地裁は大道寺将司、片岡利明に死刑、黒川芳正に無期懲役、荒井まり子に懲役8年の判決を言い渡した。弁護側が控訴。
1982年(昭和57年)7月12日、東アジア反日武装戦線の宇賀神寿一が逮捕される。
10月29日、東京高裁は東京地裁での大道寺将司、片岡利明、黒川芳正、荒井まり子への判決を支持して控訴を棄却した。
1983年(昭和58年)3月29日、札幌地裁は大森勝久に対し死刑を言い渡した。
5月18日、部族戦線の加藤三郎が逮捕される。
1984年(昭和59年)4月22日、パリ郊外のソニー現地法人の事務所と、三菱自動車工業のフランス総代理店が爆破された。その直後、日本人と思われる犯人グループから、大森勝久の釈放を要求する声明が出された。
1985年(昭和60年)、岡本公三が、捕虜交換で日本赤軍に戻った。
[ ジャカルタ事件 ] 1986年(昭和61年)5月14日、インドネシア・ジャカルタの日米両大使館に爆発物が打ち込まれ、同地のカナダ大使館で車が爆破されるという同時テロ事件が発生した。この事件では「反帝国主義旅団」名の犯行声明が出されており、日米捜査当局は、日本赤軍の城崎勉を犯人の1人と断定した。
[ 若王子信行三井物産マニラ支店長誘拐事件 ] 1986年(昭和61年)11月15日午後3時ころ、フィリピン・マニラ市郊外でゴルフ帰りの三井物産マニラ支店長の若王子信行(当時53歳)が武装した5人組に襲われ、誘拐された。犯人の正体も動機も分からないままだったが、翌1987年(昭和62年)1月16日、三井物産本社や報道機関に脅迫状と肉声テープや写真が届いた。手錠をはめられ、足を鎖で繋がれた若王子の右手中指は欠損しているように見えた。その後、数度に渡り肉声テープや脅迫状が送りつけられた。3月31日の夜、若王子は身代金と引き換えにケソン市内の教会の脇で解放された。136日に及ぶ監禁生活では一度も太陽を見ることができなかったが、それ以上の虐待はなく、中指が欠損したように見える写真や肉声テープの弱々しい声は犯人によるトリックや演出だった。若王子誘拐事件は日本赤軍とフィリピン共産党の軍事組織「新人民軍」(NPA)の共同作戦といわれている。
1987年(昭和62年)3月24日、最高裁は東アジア反日武装戦線の大道寺将司、片岡利明に対し上告を棄却した。これで死刑が確定した。戦後の政治犯として、初の死刑判決であった。現在、「三菱重工本社ビル爆破には殺意がなかった」として、第2次再審請求中である。黒川芳正は無期懲役、荒井まり子は懲役8年と1、2審の判決通りであった。荒井は未決勾留通算により、同年11月、出所した。
片岡が死刑制度廃止を訴える益永スミコの養子になり、戸籍上は「益永」となる。
4月7日、『読売新聞』は、若王子信行三井物産マニラ支店長誘拐事件の犯人グループに支払われた身代金の額が明らかにされていないが、約6000万ペソ(約4億5000万円)が外国人神父を仲介に立てる形で支払われたと報じた。
[ ローマ事件 ] 1987年(昭和62年)6月9日、ベネチア・サミット開催中、イタリアのローマで、アメリカ、イギリス両大使館に向けた爆発物の発射などのテロ事件が発生した。この事件では「反帝国主義国際旅団」名の犯行声明が出されており、イタリア捜査当局は、日本赤軍の奥平純三らを犯人と断定した。
11月21日、東京都中央区日本橋箱崎町の「東京シティエアターミナル」で、日本赤軍の丸山修が逮捕された。
1988年(昭和63年)1月21日、札幌高裁が東アジア反日武装戦線の大森勝久に対し札幌地裁での死刑判決を支持して控訴を棄却。
4月、東京高裁は部族戦線の加藤三郎に対し懲役18年の判決を言い渡した。
[ ナポリ事件 ] 1988年(昭和63年)4月14日、イタリアのナポリで米軍クラブ前に駐車中の車が爆破され、米軍1人を含む5人が死亡した。この事件では「聖戦旅団機構」名の犯行声明が出されており、イタリアと米捜査当局は、日本赤軍の奥平純三と重信房子を犯人と断定した。
6月7日、フィリピンで、日本赤軍の泉水博が旅券法違反容疑で逮捕された。
泉水が超法規的措置で国外脱出するまでの身柄は無期懲役囚であった。無期懲役の場合の時効は20年だが、1977年(昭和52年)9月28日の「ダッカ事件」での出国から10年と9ヶ月しか経っていないので、時効は完成していないということになり、泉水は無期懲役囚として東京拘置所で服役しつつ、その一方で旅券法違反容疑による未決囚という立場になった。
刑法三十一条・・・刑の言渡しを受けた者は、時効によりその執行の免除を得る。
刑法三十二条・・・時効は、刑の言渡しが確定した後、次の期間その執行を受けないことによって完成する。
一 死刑については三十年
二 無期の懲役又は禁錮については二十年
三 十年以上の有期の懲役又は禁錮については十五年
四 三年以上十年未満の懲役又は禁錮については十年
五 三年未満の懲役又は禁錮については五年
六 罰金については三年
七 拘留、科料及び没収については一年9月、日本の公安当局は若王子信行三井物産マニラ支店長誘拐事件について、丸岡修や佐々木規夫、泉水博ら日本赤軍と現地テログループが連携した犯行だったと断定した。
1989年(平成元年)7月14日、最高裁が加藤三郎に対し上告を棄却。これで懲役18年が確定。
1990年(平成2年)2月27日、最高裁が東アジア反日武装戦線の宇賀神寿一に懲役18年の判決を言い渡した。
1991年(平成3年)1月、フィリピン捜査当局は若王子信行三井物産マニラ支店長誘拐事件の誘拐実行犯と見られる新人民軍(NPA)の2人を逮捕し、その供述から日本赤軍の関与が明らかになっている。
1月18日、東京地裁が泉水博に対し懲役2年の実刑判決を言い渡した。被告側が控訴。
1992年(平成4年)11月10日、東京高裁が泉水博に対し控訴棄却の判決を言い渡した。被告側が上告。
1993年(平成5年)12月7日、東京地裁が丸岡修に対して無期懲役を言い渡した。のちに被告側が控訴。
1994年(平成6年)7月15日、最高裁は東アジア反日武装戦線の大森勝久に対し1、2審の死刑判決を支持して上告を棄却した。だが、大森は冤罪を訴え続けている。
1995年(平成7年)3月24日、日系ペルー人を装って、ルーマニアに潜伏していた浴田由紀子が逮捕された。
3月28日、最高裁は泉水博に対し旅券法違反で懲役2年の判決を言い渡した。
1996年(平成8年)6月8日、ペルーに潜伏していた日本赤軍の吉村和江が逮捕された。
9月23日、ネパールに潜伏していた日本赤軍の城崎勉を発見、身柄を拘束。現在、アメリカで公判中である。
1997年(平成9年)2月15日、レバノンに身分を偽って潜伏していた日本赤軍の和光晴生、足立正生、山本万里子、戸平和夫、岡本公三の5人が発見され、レバノン当局に身柄を拘束された。5人は、旅券偽造、不法入国などの罪で起訴された。
11月18日、ボリビアのサンタ・クルスに潜伏していた日本赤軍の西川純が逮捕された。
1998年(平成10年)6月、レバノン破棄院(最高裁に相当)は、上告中の5人(日本赤軍の和光晴生、足立正生、山本万里子、戸平和夫、岡本公三)に対し、原審を支持する決定を下した。
足立正生、戸平和夫、山本万里子の3人に対しては、禁錮3年、罰金60万レバノン・ポンド、岡本公三、和光晴生の2人に対しては、禁錮3年となった。
2000年(平成12年)3月17日、岡本公三がレバノンに政治亡命した。レバノン政府は、このメンバー5人のうち、テルアビブ空港襲撃事件で、一躍アラブの “ヒーロー” になった岡本だけの政治亡命を認めたようだ。
3月18日、レバノン内務省は、足立正生、戸平和夫、山本萬里子、和光晴生の4人をヨルダンへ国外追放。ヨルダンがこれを拒否。この日、日本へ身柄が移送された。
3月21日、岡本公三が刑務所を出所した。
3月29日までに、最高裁がハイジャック防止法違反などに問われた丸岡修に対し、1、2審での無期懲役の判決を支持して上告を棄却。
11月8日、大阪府高槻市に潜伏していた日本赤軍最高指導者の重信房子が逮捕された。
2001年(平成13年)3月5日、重信房子とパレスチナ戦士との間に生まれた娘の重信メイ(戸籍上は「メイ」だが、本当の名前は「命」と書いて「めい」と読む/当時28歳)が日本国籍を取得した。
4月14日、重信房子は都内で開かれた支援者集会にメッセージを寄せ、日本赤軍の解散を表明した。
5月9日、東京地裁でハーグ事件で殺人未遂などの罪に問われた重信房子の初公判が開かれた。重信は謀議に参加していないとして無罪を主張した。
9月5日、東京地裁は1989年(平成元年)9月にチェコスロバキア(当時)に不法入国したとして、偽造有印私文書行使罪に問われた足立正生に対し懲役2年・執行猶予4年(求刑・懲役2年6ヶ月)を言い渡した。裁判長は「身柄拘束が1年5ヶ月の長期に及ぶことや、今後は合法的活動を基盤に生活すると供述していることなど、酌むべき事情も認められる」と執行猶予の理由を述べた。
2002年(平成14年)1月15日、東京地裁は仲間の不正出国に関与したとして旅券法違反などに問われた山本万里子に対し懲役2年6ヶ月・執行猶予5年(求刑・懲役2年6ヶ月)を言い渡した。山崎学裁判長は重信房子との共謀を認定した。山本は重信の関与を否定していたが、判決は「重信と同調する意思を表明する山本が虚偽の供述をしていると考えられる」と結論付けた。判決によると、山本らは1974年(昭和49年)4月、日本赤軍メンバーの奥平純三を出国させるため、他人名義で旅券を申請し交付を受けた。山本はパリで日本赤軍の連絡役を務めていたとされる。のちに弁護側、検察側ともに控訴。
3月23日、テレビ朝日系列の「ザ・スクープ」で、鳥越俊太郎が岡本公三にインタビューする場面が放映される。
3月30日、東京都千代田区日比谷公園で日本赤軍でテルアビブ空港襲撃事件で計画段階から関わった檜森孝雄が灯油をかぶって焼身自殺した。54歳だった。
5月4日、3月30日に自殺した檜森孝雄が残した手記から、当初はテルアビブ空港で管制塔を襲撃する予定だったことが分かった。
7月4日、東京地裁は浴田由紀子に対して「爆弾による攻撃という過激な手段を用いて、社会変革を目指した短絡的、独善的な犯行」と述べ、懲役20年(求刑・無期懲役)の判決を言い渡した。判決は「爆弾の威力は強力で、周囲の者を死亡させる可能性を認識していた」と、浴田に未必の殺意があったと認定。一方で、「長い歳月を経て、被告は社会変革のために人に危害を加えるのは誤りだったと自覚している」とし、無期懲役は重過ぎると判断した。また、20年の刑期から、5年半に相当する未決拘置日数(2000日)を差し引くことになった。
7月30日、北海道庁爆破事件で、爆発物等取締罰則違反、殺人罪などで死刑が確定している東アジア反日武装戦線の大森勝久は札幌地裁に再審を請求した。弁護団によると、爆弾についての北海道警の鑑定結果を否定する新証拠を提出したという。道警は大森の自宅から、爆弾の主原料となる塩素酸系除草剤を検出したとの鑑定結果を提出した。しかし、検出には約10時間の検査が必要で、鑑定結果は虚偽であると指摘している。
9月5日、東京高裁は海外で偽の旅券を使ったとして、有印公文書偽造罪などに問われた元日本赤軍メンバーの戸平和夫に対し懲役2年6ヶ月とした東京地裁判決を支持し、被告側の控訴を棄却した。仙波厚裁判長は「日本赤軍の非合法活動としての組織的、計画的な行為で悪質。裁判の長期化は被告の逃亡によるもので、刑の執行を猶予する理由にならない」と述べた。判決によると、戸平は1975年(昭和50年)3月、スウェーデン国内で職務質問した警察官に、偽造した別人名義の旅券を提示した。1994年(平成6年)2月にも、フィリピン人名義の偽造旅券を使いエクアドルに出入国した。
12月20日、東京高裁は旅券法違反などに問われた日本赤軍の山本万里子に対して1審での懲役2年6ヶ月・執行猶予5年とした判決を支持し、弁護側、検察側の控訴を棄却した。高橋省吾裁判長は、公判中の重信房子らとの共謀を改めて認定した上で「事件から4半世紀が経過している上、山本が事件を主導したとは言えない状況をかんがみると、更生の機会を与えるのが相当」と述べた。
2003年(平成15年)5月6日までに、岡本公三がベイルートで共同通信の記者の取材に応じていたことが分かった。休憩を挟みながら約4時間に及んだインタビューの中で、岡本は「武装闘争のためには、人を殺すことも仕方がなかった」と振り返り、「早く日本に帰りたい。イスラエルで刑期を終えたので、日本でまた裁判になるのはおかしい」と述べた。
刑法5条・・・外国で受けた裁判がすでに確定した者であっても、その同じ行為について、さらに処罰してさしつかえない。ただし、犯人が外国で言い渡された刑の全部、または一部の執行をすでに受けてしまったときには、刑の執行を減軽または免除する。
5月11日、東京高裁が浴田由起子に対し懲役20年とした1審判決を支持し検察、被告側双方の控訴を棄却。
5月24日、浴田に対する1審での懲役20年を支持した2審での判決を不服として被告側が上告。
8月5日、浴田が上告を取り下げ、懲役20年が確定。
2005年(平成17年)3月23日、東京地裁は和光晴生に対し無期懲役を言い渡した。
4月4日、和光が東京地裁での判決を不服として控訴。
2006年(平成18年)2月23日、東京地裁は、重信房子に対し懲役20年(求刑・無期懲役)を言い渡した。村上博信裁判長は「自らの主義、主張や行動の正当性を絶対視し、多数の者の生命を危険にさらすことを意に介しない卑劣で自己中心的な犯行」と指摘。一方で「グループで中核的な立場にあったが、犯行を主導したとまで断ずることはできない」と有期刑とした理由を述べた。
3月6日、被告側が東京地裁での判決を不服として控訴。
11月22日、東京地裁(栃木力裁判長)は大道寺将司と益永利明の第2次再審請求について請求を棄却した。弁護側は三菱重工ビル爆破に使用された爆弾の新たな鑑定に基づき、「爆弾の威力がこれほど強いとは認識していなかった。殺意はなかった」と主張したが、決定は「威力を正確に認識している必要はなく、再審を決定する明白な証拠にあたらない」として退けた(第1次再審請求は1991年、最高裁で特別抗告が棄却された)。即時抗告。
2007年(平成19年)3月19日、札幌地裁(半田靖史裁判長)が大森勝久の再審請求審で請求を棄却。半田裁判長は冤罪を主張した弁護側の新証拠について「確定判決の事実認定に合理的な疑いが生じるとは到底認められない」と判断した。弁護側が即時抗告。
3月30日、東京地裁がハーグ事件やダッカ事件で、殺人未遂とハイジャック防止法違反などの罪に問われた西川純に対し求刑通り無期懲役を言い渡した。被告側が即日控訴。
4月18日、(米司法省連邦刑務所局によると)米国滞在中に消火器爆弾を所持していたとして有罪判決を受け、コロラド州のフローレンス連邦刑務所で服役していた菊村憂が刑期を終えて出所した。菊村は、ただちにコロラド州内の米移民当局の収容施設に移送され、日本への強制送還の手続きに入った。米移民当局によると、米国では重罪犯が刑期を終了すると、本国への強制送還手続きがとられることになっており、菊村も近く送還される。菊村は日本赤軍のメンバーだった人物と見られている。
4月19日、菊村憂が成田空港に帰国し、偽の国外運転免許証を使った偽造有印公文書行使の疑いで、警視庁公安部に逮捕された。菊村は日本赤軍幹部の奥平純三らとレバノン・ベカー高原で軍事訓練に参加していたとされている。
5月9日、東京高裁が和光晴生に対し無期懲役とした1審・東京地裁判決を支持、被告側控訴を棄却。
5月22日、和光が東京地裁での無期懲役を支持した東京高裁での控訴棄却を不服として上告。
6月5日、東京高裁が大道寺将司、益永利明の第2次再審請求で、「再審を開始する理由はない」として、2人の即時抗告を棄却。
2007年(平成19年)12月20日、東京高裁が重信房子に対し懲役20年とした東京地裁での判決を支持し、控訴を棄却。被告側が上告。
2008年(平成20年)5月28日、札幌高裁は請求を退けた札幌地裁の決定を支持し、大森勝久の即時抗告を棄却した。弁護団が最高裁に特別抗告。
10月28日、東京高裁で西川純に対する判決公判があり、裁判長は「政治的主張を実現するためには暴力的手段もいとわない独善的で反社会的な犯行」と述べ、無期懲役とした1審を支持し、被告側の控訴を棄却。のちに被告側が上告。
12月17日、最高裁第3小法廷(堀籠幸男裁判長)が大道寺将司と益永利明の第2次再審請求の特別抗告審で特別抗告を棄却。
12月19日、大道寺将司と益永利明が東京地裁に第3次再審請求を申し立てた。大道寺と益永は「爆弾の威力を正確に把握していたとしても、ビルに挟まれた特殊な空間で爆発した影響で威力はさらに増加しており、事件の結果を予測することは不可能だった」と主張している。
2009年(平成21年)6月中旬、産経新聞記者が東京拘置所に収監されている重信房子に面会を申し入れ、実現した。昭和40年代半ばに盛り上がった全共闘運動について問われると、重信は「現実を変革する運動は楽しく、創造性があった」「いろんな現状を変えたいという思いだった。上下関係を横の関係に変える力を持っていた。例えば学生だけでなく、家出少女もキャンパスに集うなど、いろんな人が話し合える環境があった。こうした全共闘のような運動は日本だけでなく、世界的に起きていた現象だった」と答え、「広がりを持てなくなった全共闘運動がわずか数年でしぼんだことについてどう思っているのか?」と問われ、重信は「学生だけの運動になっていた。当時は全体を見通せる気になって『世界を変える』といい気になっていた。現実に多くの人たちに迷惑をかけ、彼らを踏みつけにしていることに気づいていなかった。大義のためなら何をしても良いという感覚に陥っていた」と答えている。また、「私たちはあのとき戦術面での過激さにこだわった。だが今は、戦略さえラジカル(先鋭的)であれば、戦術には寛容であっても良いと思っている。最初は普通のOLだった私も運動を通じ、世の中を変えることができるという実感が持てた。世の中を変えるためにできることをするという姿勢が大切だと思う」とも述べている。
10月27日、最高裁第1小法廷(金築誠志裁判長)が和光晴生の上告審で被告側の上告を棄却。これで無期懲役とした1、2審判決が確定。
2010年(平成22年)6月30日、宮城刑務所に服役中の丸岡修(当時59歳)が重い心臓病を理由に刑の執行停止などを東京高検に求める訴訟を東京地裁に起こした。代理人の弁護士によると、丸岡はこれまでに4回、刑の執行停止申し立てを却下された。刑事訴訟法は「刑の執行によって生命を保つことのできないおそれがある場合」に執行停止が認められると定めており、訴状では「原告は死の危険に直面している状態」だと主張している。また、これまで執行停止が認められずに精神的苦痛を受けたとして、1000万円の国家賠償も求めた。丸岡は現在は会話はできる状態で「刑務所から出てきちんとした治療を受けたい」と話しているという。
7月15日、最高裁第2小法廷(竹内行夫裁判長)が重信房子の上告審で被告側の上告を棄却。これで懲役20年とした1、2審判決が確定。
11月1日、フィリピンの国家捜査局は1986年(昭和61年)に起きた三井物産マニラ支店長誘拐事件で指名手配していたロランド・ファハルド(当時41歳/事件当時17歳)を事件発生から24年ぶりに逮捕したと発表。ファハルドはイタリアからシンガポールを経由してマニラ空港に帰国したところを逮捕されたという。
2011年(平成23年)5月29日、八王子医療刑務所で服役中だった丸岡修が死亡。60歳だった。
9月12日、最高裁第1小法廷(金築誠志裁判長)は西川純に対し上告を棄却する決定を出した。無期懲役とした1、2審判決が確定。
12月19日、最高裁第3小法廷(那須弘平裁判長)は大森勝久の再審請求について死刑囚側の特別抗告を棄却する決定をした。再審を開かないことが確定した。再審請求審では大森の部屋のカーテンなどから爆薬材料となる除草剤成分が検出されたとする道警の鑑定結果の信用性が主な争点だった。弁護側は「鑑定結果は虚偽」と訴えたが、札幌地裁は2007年、「確定判決に合理的疑いは生じない」として請求を退けた。札幌高裁も地裁の決定を支持して即時抗告を棄却していた。
| 被告人 | 旧所属 | 関与した主な事件 | 東京地裁 | 東京高裁 | 最高裁 | 備考 |
| 大道寺将司 | 東アジア反日 武装戦線<狼> |
三菱重工ビル爆破事件など 1974.8.30 |
死刑 1979.11.12 |
死刑 1982.10.29 |
死刑 1987.3.24 |
|
| 片岡利明 (現姓・益永) |
東アジア反日 武装戦線<狼> |
三菱重工ビル爆破事件など 1974.8.30 |
死刑 1979.11.12 |
死刑 1982.10.29 |
死刑 1987.3.24 |
|
| 黒川芳正 | 東アジア反日 武装戦線<さそり> |
鹿島建設工場爆破など 1974.12.23 |
無期懲役 1979.11.12 |
無期懲役 1982.10.29 |
無期懲役 1987.3.24 |
|
| 丸岡修 | 日本赤軍 | ドバイ事件など 1973.7.20 |
無期懲役 1993.12.7 |
(不明) | 無期懲役 2000.3.29 |
2011.5.29 八王子医療刑務所で死亡。60歳だった。 |
| 浴田由起子 | 東アジア反日 武装戦線<大地の牙> |
三井物産本社爆破事件など 1974.10.14 |
懲役20年 2002.7.4 |
懲役20年 2004.5.11 |
− | 被告側が東京高裁での判決を不服として上告したが、2004.8.5 上告を取り下げて刑が確定。 |
| 宇賀神寿一 | 東アジア反日 武装戦線<さそり> |
鹿島建設工場爆破など 1974.12.23 |
(不明) | (不明) | 懲役18年 1990.2.27 |
|
| 加藤三郎 | 部族戦線 | 神社本庁爆破事件 1977.10.27 |
(不明) | 懲役18年 1988.4 |
懲役18年 1989.7.14 |
|
| 荒井まり子 | 東アジア反日 武装戦線<さそり> |
鹿島建設工場爆破など 1974.12.23 |
懲役8年 1979.11.12 |
懲役8年 1982.10.29 |
懲役8年 1987.3.24 |
|
| 泉水博 | 日本赤軍 | 旅券法違反 | 懲役2年 1991.1.18 |
懲役2年 1992.11.10 |
懲役2年 1995.3.28 |
|
| 山本万里子 | 日本赤軍 | 旅券法違反 | 懲役2年6ヶ月 執行猶予5年 2002.1.15 |
懲役2年6ヶ月 執行猶予5年 2002.12.20 |
執行猶予中に東京都板橋区の大型スーパーで「さきイカ」を万引きして逮捕される(その後、不明)。 | |
| 足立正生 | 日本赤軍 | 旅券法違反 | 懲役2年 執行猶予4年 2001.9.5 |
− | − | 控訴せず刑が確定。 |
| 戸平和夫 | 日本赤軍 | 旅券法違反 | 懲役2年6ヶ月 (判決日不明) |
懲役2年6ヶ月 2002.9.5 |
− | 上告せず刑が確定。 |
| 和光晴生 | 日本赤軍 | ハーグ事件など 1974.9.13 |
無期懲役 2005.3.23 |
無期懲役 2007.5.9 |
無期懲役 2009.10.27 |
. |
| 重信房子 | 日本赤軍 | ハーグ事件など 1974.9.13 |
懲役20年 2006.2.23 |
懲役20年 2007.12.20 |
懲役20年 2010.7.15 |
. |
| 西川純 | 日本赤軍 | ハーグ事件など 1974.9.13 |
無期懲役 2007.3.30 |
無期懲役 2008.10.28 |
無期懲役 2011.9.12 |
・ |
| 被告人 | 関与した事件 | 札幌地裁 | 札幌高裁 | 最高裁 | 備考 | |
| 大森勝久 | 北海道庁爆破事件 1976.3.2 |
死刑 1983.3.29 |
死刑 1988.1.21 |
死刑 1994.7.15 |
||
現在、日本赤軍メンバーの坂東国男、佐々木規夫、松田久、奥平純三、大道寺あや子、仁平映の6人と東アジア反日武装戦線の桐島聡が逃亡中である。
1970年(昭和45年)、日本のパンクバンドの原点ともなった「頭脳警察」というロックバンドがデビュー。パンタ(中村治雄)とトシ(石塚俊明)で結成。名前の由来はフランク・ザッパの『WHO ARE THE BRAIN POLICE?』という曲からとったもの。その過激な革命精神や批判性、攻撃的なパフォーマンス(デビューから1ヵ月後、パンタが日劇ウェスタンカーニバルのステージ上で手淫)は伝説となっているが、1972年(昭和47年)、『頭脳警察1』(ファーストアルバム/ライブ盤/ビクターレコード)の中にある全10曲のうち『世界革命戦争宣言』『赤軍兵士の詩』を含む5曲が過激な歌詞がレコード制作基準倫理委員会(レコ倫)に抵触して発売中止になっている(ちなみにジャケットは3億円事件犯人のモンタージュ写真が使用された)。だが、これに懲りずにビクターレコードは急遽、スタジオ録音アルバムである『頭脳警察セカンド』を制作。このアルバムでは『銃をとれ』を含む5曲が問題となり、発売からわずか1ヶ月で回収されてしまう。だが、ビクターレコードはあきらめることなく、サードアルバムの『頭脳警察3』を制作。このアルバムは無事に店頭に並んだ。1975年(昭和50年)、解散。その後、発売禁止となった『頭脳警察1』は自主制作盤として600枚販売された。『1(ファースト)』 / 『頭脳警察セカンド』 / 『頭脳警察3』 / 『頭脳警察’73 10.20 日比谷野音』
事件当事者の著書・・・
『日本赤軍20年の軌跡』(話の特集/日本赤軍/1993) / 『わが愛わが革命』(講談社/重信房子/1974) / 『十年目の眼差から』(話の特集/重信房子/1983) / 『大地に耳をつければ日本の音がする』(ウニタ書舗/重信房子/1984) / 『ベイルート1982年夏』(話の特集/重信房子/1984) / 『資料・中東レポート 1』(ウニタ書舗/重信房子/1985) / 『資料・中東レポート 2』(ウニタ書舗/重信房子/1986) / 『日本赤軍私史 パレスチナと共に』(河出書房新社/重信房子/2009)/ 『りんごの木の下であなたを産もうと決めた』(幻冬舎/重信房子/2001) / 『秘密 パレスチナから桜の国へ母と私の28年』(講談社/重信メイ/2002) / 『中東のゲットーから』(ウェイツ/重信メイ/2003) / 『天よ、我に仕事を与えよ』(田畑書店/奥平剛士遺稿編集委員会/1978) / 『明けの星を見上げて 大道寺将司獄中書簡集』(れんが書房新社/1984) / 『死刑確定中』(太田出版/大道寺将司/1997) / 『句集 友へ』(ぱる出版/大道寺将司/2001) / 『爆弾世代の証言 東京拘置所・死刑囚監房から』(三一書房/片岡利明/1985) / 『子ねこチビンケと地しばりの花 未決囚十一年の青春』(径書房/荒井まり子/1986) / 『公安警察ナンボのもんじゃ』(新泉社/丸岡修/1990) / 『赤い春 私はパレスチナ・コマンドだった』(集英社インターナショナル/和光晴生/2007) / 『映画/革命』(河出書房新社/足立正生/2003) / 『映画への戦略』(晶文社/足立正生/1974) / 『塀の中の千夜一夜 アラブ獄中記』(愛育社/足立正生/2005)参考文献・・・
『新左翼二十年史』(新泉社/高沢皓司・高木正幸・蔵田計成/1981)
『脱獄者たち 管理社会への挑戦』(青弓社/佐藤清彦/1995)
『日本の公安警察』(講談社現代新書/青木理/2000)
『平成11年版 警察白書』(大蔵省印刷局/警察庁編/1999)
『「命」の値段』(日本文芸社/内藤満/2000)
『松下竜一 その仕事22 狼煙を見よ』(河出書房新社/松下竜一/2000)
『怒りていう、逃亡には非ず』(河出書房新社/松下竜一/1996)
『20世紀にっぽん殺人事典』(社会思想社/福田洋/2001)
『20世紀の迷宮犯罪』(廣済堂出版/上村信太郎/1995)
『終身刑を考える』(インパクト出版会/2001)
『「よど号」事件122時間の真実』(河出書房新社/久能靖/2002)
『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典』(東京法経学院出版/事件・犯罪研究会編/2002)
『別冊歴史読本 戦後事件史データファイル』(新人物往来社/2005)
『放送禁止歌』(知恵の森文庫/森達也/2003)
『[実録]放送禁止作品』(三才ムックvol.184/2008)
『狼・さそり・大地の牙 「連続企業爆破」35年目の真実』(文藝春秋/福井惇/2009)
『毎日新聞』(2000年11月8日付/2001年4月15日付/2001年5月9日付/2001年7月6日付/2001年9月5日付/2002年1月15日付/2002年5月5日付/2002年7月4日付/2002年7月30日付/2002年9月5日付/2002年12月20日付/2003年5月6日付/2004年3月1日付/2004年3月18日付/2004年5月11日付/2004年8月23日付/2005年3月23日付/2005年4月5日付/2006年2月23日付/2006年3月16日付/2006年11月25日付/2007年3月19日付/2007年3月30日付/2007年4月3日付/2007年4月19日付/2007年5月9日付/2007年5月23日付/2007年6月13日付/2007年12月20日付/2008年5月28日付/2008年10月28日付/2008年12月18日付/2008年12月19日付/2009年10月28日付/2010年7月16日付/2011年5月29日付/2011年9月13日付/2011年12月21日付)/『産経新聞』(2009年6月25日付)/『朝日新聞』(2010年6月30日付)/FNN(2010年11月2日付)
『文藝春秋』(2001年10月緊急増刊号)
『週刊文春』(2001年4月19日号)参考にしなかったその他の関連書籍・・・
『でもわたしには戦が待っている 斎藤和(東アジア反日武装戦線大地の牙)の軌跡』(風塵社/東アジア反日武装戦線への死刑重刑攻撃とたたかう支援連絡会議[編]/2004)
『あの狼煙はいま』(インパクト出版会/東アジア反日武装戦線への死刑重刑攻撃とたたかう支援連絡会議[編]/1996)参考・関連サイト・・・
人民新聞
帰国者の裁判を考える会
東アジア反日武装戦線に関するよもやま情報のホームページ
マルチメディア共産趣味者連合 → 日本赤軍の手配写真
You Tube − 重信房子独占インタビュー 1973
You Tobe − 日本赤軍クアラルンプール事件 − 1975
You Tube − [事件] 日本赤軍ダッカ事件
You Tube − [事件] 三菱重工爆破事件
You Tube − 東アジア反日武装戦線 連続企業爆破事件 − 1974&1975[ 事件 index / 無限回廊 top page ]