| 幕府の 役職 | 姓 名 | 補任・初名・号 | 在職年月日 | 前城地 | 転封地 | 領 高 |
| 酒井重忠 (しげただ) | 河内守 | 天正18 慶長6・3・3 | 三河西尾 | 上野厩橋 | 1万石 | |
| 老中 | 酒井忠利 (ただとし) | 備後守 | 慶長14・9・23 寛永4・11・14卒 | 駿河田中 | 2万石、7千石加増、1万石加増 (併せて3万7千石) | |
| 大老 | 酒井忠勝 (ただかつ) | 讃岐守・号空印 | 寛永4・11 寛永11・閏7・6 | 若狭小浜 | 5万石、2万石加増 3万石遺領 | |
| 老中 | 堀田正盛 (まさもり) | 出羽守・加賀守 | 寛永12・3・1 寛永15・3・8 | 江戸在勤 | 信濃松本 | 3万5千石 |
| 老中 | 松平信綱 (のぶつな) | 伊豆守 | 寛永16・1・5 寛文2・3・16卒 | 武蔵忍 | 6万石、1万5千石加増 (併せて7万5千石) | |
| 松平輝綱 (てるつな) | 甲斐守 | 寛文2・4・18 寛文11・12・12卒 | 遺領7万5千石 1万1千石分与 | |||
| 松平信輝 (のぶてる) | 伊豆守・号宗見 | 寛文12・2・9 元禄7・1・7 | 下総古河 | 遺領7万石 5千石分与 | ||
| 大老格 | 柳沢吉保 (よしやす) | 美濃守・出羽守・保明 ・号保山元養 | 元禄7・1・7 宝永元・12・21 | 江戸在勤 | 甲斐府中 | 7万2千3百石、2万石加増、2万石加増 (併せて11万2千3百石) |
| 老中 | 秋元喬知 (たかとも) | 摂津守・但馬守・喬朝 | 宝永元・12・25 正徳4・8・14卒 | 甲斐谷村 | 5万石、1万石加増 (併せて6万石) | |
| 秋元喬房 (たかふさ) | 伊賀守・但馬守・尚朝 | 正徳4・9・29 元文3・9・5卒 | 遺領6万石 | |||
| 秋元喬求 (たかもと) | 越中守 | 元文3・10・28 寛保2・4・3致仕 | 〃 | |||
| 老中 | 秋元凉朝 (すみとも) | 摂津守・但馬守 員朝・号休弦 | 寛保2・4・3 明和4・閏9・15 | 出羽山形 | 〃 | |
| 松平朝矩 (とものり) | 大和守・直賢 | 明和4・閏9・15 明和5・6・10卒 | 上野厩橋 | 15万石 | ||
| 松平直恒 (なおつね) | 大和守 | 明和5・7・29 文化7・1・18卒 | 遺領15万石 | |||
| 松平直温 (なおのぶ) | 大和守 | 文化7・3・14 文化13・7・23卒 | 〃 | |||
| 松平斉典 (なりつね) | 大和守・矩典 | 文化13・8・27 嘉永3・1・23卒 | 遺領15万石、2万石加増 (併せて17万石) | |||
| 松平典則 (つねのり) | 誠丸・典衛・号静寿斎 | 嘉永3・3・7 嘉永7・8・13致仕 | 遺領17万石 | |||
| 松平直侯 (なおよし) | 大和守 | 嘉永7・8・13 文久元・8・15卒 | 〃 | |||
| 政事 総裁職 | 松平直克 (なおかつ) | 大和守 | 文久元・12・6 慶応2・10 | 上野前橋 | 〃 | |
| 老中 | 松平康英 (やすひで) | 石見守・周防守・康直 | 慶応2・10・27 明治2・4・10致仕 | 奥州棚倉 | 8万4百石余 | |
| 川越藩 知事 | 松平康載 (やすとし) | 周防守 | 明治2・4・10 明治4・7・10廃藩 | 〃 |
川越藩は天正十八年(1590)酒井重忠(しげただ)(〜慶長六)が相模大住郡甘縄領を経て一万石で入封し成立した。重忠はただちに連雀町人衆の諸役免除を触れ、城下町商業の発展をはかったが、在城十一年関ヶ原戦後の慶長六年(1601)二万三千石の加恩をえて上野厩橋に移封した。その後八年間番城となり、慶長十四年(1609)に至り、重忠の弟で駿河田中城主酒井忠利(ただとし)(〜寛永四)が二万石で川越に入った。忠利は家康の命により、川越仙波喜多院を造営したほか、家光を補佐して活躍し、三万七千石余の所領となり、寛永元年(1624)に領内総検地を断行した。寛永四年(1627)忠利が死去すると嫡男で深谷藩主であった忠勝(ただかつ)(〜寛永二)が川越の遺領五万石を合わせ八万石で継嗣した。忠勝は家光を補佐し、老中の要職に就いた。家光は忠勝を信頼し川越城にもたびたび来駕し逗留した。忠勝は寛永十一年(1634)十一万石三千五百石余をえて小浜城に転じ、その後大老となった。忠勝時代の藩士は七千石を筆頭にして百石層の知行が最も多かった。忠勝は儒学の教養も深かった。『関ヶ原始末記』をあらわして家綱に献じたほか『酒井空印言行録』をのこしている。忠勝のあと、寛永十一年(1634)相馬義胤が城代をつとめた。翌十二年老中に就任した堀田正盛(〜慶安四)が三万五千石で入封したが、わずか三年にして寛永十五年(1638)信濃松本城に移った。
代わって寛永十六年、六万石で松平信綱(のぶつな)(〜寛文二)が忍城から入封したが、信綱の川越入りは島原の乱の功によるともいわれている。信綱は代官大河久綱の子であったが松平正綱の養子となり、家光の小姓から出て老中となり家光に仕えて幕政に手腕を発揮した。信綱は川越に入ると荒川の流路を入間川に合流させたほか、川島領大囲堤の築造をはじめ、領内のきめこまかな農業技術の指導や農産物の改良などをすすめ生産を飛躍的に発展させた。慶安元年(1649)領内総検地を実施し、租税の法をきめた。また玉川上水工事の完成を家臣安松金右衛門・小畑勘右衛門に担当させ、幕府から玉川上水の分水を許されて野火止用水を開き、この飲料水を利用して武蔵野の畑作新田を開発した。商品や生産物の運送のため新河岸川の水運を整備し九十九曲りという蛇行流を造成し、河岸場を設けた。川越城の修築も信綱によってなされたものが多い。城下町もこのとき整えられた。町の地割は侍屋敷・町屋敷・社寺地とし足軽・中間は組屋敷とした。そして十ヵ町四門前町がととのえられたのである。慶安元年には十ヵ町の石高千四百三十四石四斗、屋敷は二十二町一反五畝七歩であった。
寛文二年(1662)信綱のあと輝綱(〜寛文十一)は七万五千石を継嗣し、武蔵野開発や、岩槻から野火止に平林寺を移すなど父の遺業を完成した。その子信輝は元禄七年(1694)下総古河城へ転封になり、同時に柳沢吉保が七万二千石で川越城主となった。吉保は将軍綱吉の小姓より側用人となり、川越藩主となるや同年老中格にすすみ、元禄期の幕政を担当した。吉保は入封後川越城に居することもなく政務に忙殺されていたが藩領地蔵野(じぞうの)を、王安石の阡陌の法にもとづく開発をおこない論語より三富の名をとって近世新畑開発のモデル村とした。
宝永元年(1704)吉保は十五万一千二百石となり甲府に移封し、代わって秋元喬知(たかとも)(〜正徳四)が甲斐谷村より五万石で入封した。喬知は甲斐より諸職人を招き川越領で養蚕の奨励、絹織物・川越斜子(ななこ)・袴地川越平(ひら)の生産を指導するほか、柿や養魚などの農間余業もすすめた。喬知は正徳元年(1711)加増をえて七万石となったが同四年死去し、つづいて喬房(たかふさ)(〜元文三)、養子喬求(たかもと)(〜寛保二)と継嗣した。喬求は二十九歳の若年で死去したため、秋元貞朝の三男であった凉朝(すけとも)(〜明和四)が養子となり寛保二年(1742)遺領を継いだ。この年の八月、関東一帯を襲った大豪雨により荒川・利根川・中川・綾瀬川などが氾濫し惨状をきわめた。幕府は西国の諸大名に御手伝普請を命じた。川越藩でも荒川・入間川の決潰が九十余ヵ所、二十八ヵ村が浸水の被害をうけた。
凉朝は領内の復興のために地主や商人に救恤施米を督励した。凉朝は明和元年(1764)二月老中を退いた。この年の師走、いわゆる明和伝馬騒動が起こり、川越藩領も打毀しに巻き込まれたのである。この打毀しは朝鮮使節来朝にかかわる国役金と、明和二年四月に予定されてた日光法会の増助郷を村々に命じ、またこれを有力商人の請負制で実施しようとしたため中山道周辺を中核として大伝馬騒動となったもので、川越領でも請負に加わった多数の豪農が打毀された。凉朝は明和四年川越より山形城に転封を命ぜられたが致仕して江戸屋敷を動かず山形城へは子の永朝(つねとも)を赴かせた。
秋元凉朝が出羽山形城に転封されると、同年代わって五家門の一家松平大和守朝矩(とものり)(〜明和五)が十五万石で前橋城より移転した。前橋から川越への移城は、前橋城の水難が原因であった。朝矩は前橋分領七万五千石に留守居役をおいて支配したが、松平大和守家の藩政は旧領姫路時代よりの財政難を引き継ぎ絶えず窮迫していた。朝矩は入封の翌年三十一歳で死去し、ついで直恒(なおつね)(〜文化七)、直温(なおのぶ)(〜文化十三)と継嗣したが、直温が二十二歳で死去したため弟の矩典(のりつね)が家督を継ぎ斉典(なりつね)(〜嘉永二)と改名した。斉典は遺領を継ぐと財政再建に努力し、藩の御用達横田家を五百石取の士分・勘定奉行格に任じて藩財政全般を担当させたほか、永続頼母子講を藩の主導でつくったり農村復興に力をそそいだ。前橋分領でも永続金制度で勧農策をとったり、社倉(郷蔵)制度や蚕積金制度など次々と改革策をとった。しかし幕府は文政三年川越藩に武蔵一万五千石を相模一万五千石と替地し、相州警固役を命じ、藩は相模浦の郷などに陣屋を設け、常備組・派遣組を編成しそれに当たるなど出費は増加する一方であった。斉典は文政十年(1827)将軍家斉の第二十四男大蔵大輔斉省(なりさだ)を養嗣子とし、姫路への転封を願ったが果たさず、ついで出羽庄内藩への移封を再願し許されたが、庄内農民の反対で阻止され、一方、斉省も死去したため武蔵で二万石を加増されて転封運動は中止された。
斉典は天資英明で行動力に富み、大和守家の川越藩政の一頂点に立った人物であった。藩校博喩堂の創設や、川越版『日本外史』の刊行などの文化政策も積極的にすすめた。その後典則(つねのり)(〜嘉永七)、直信(なおよし)(〜文久元)と継嗣され、ついで直克(なおかつ)(〜慶応二)のとき慶応二年六月七日城下町より大工職人による蜂起があり、さらに六月十三日、外秩父郡よりおこった世直し一揆は藩領諸村を打毀したため、藩兵は銃隊でこれを鎮圧した。同年八月藩は農兵設置策をだしたが農兵反対の一揆さえ生じる状態であった。直克は慶応三年(1867)分領の前橋にもどり、川越城は陸奥棚倉藩主松平(松井)康英(やすひで)(〜明治二)が八万四千石で入封した。康英はこれより前、外国奉行兼神奈川奉行や、遣欧使節竹内保徳(やすのり)に従い英仏蘭露を視察するなど才気に富んでいたが明治二年致仕し、ついで康載(やすとし)(〜明治四)のとき廃藩置県をむかえた。
川越藩の立藩
幕閣の藩政
後期の藩政と海防
岸伝平 『川越藩政と文教』 『川越夜話』
岡村一郎 『川越の城下町』 『川越夜船』 『川越歴史随筆』
斎藤貞夫 『新河岸川舟運の盛衰』
田村栄太郎 『封建制下の農民一揆』『近代日本農民運動史論』
北島正元 『江戸幕府の権力構造』
藤野保 『幕藩体制史の研究』
木村礎・伊藤好一 『新田村落』
辻善之助 『武家時代と禅僧』
峯岸久治 『榎本弥左衛門覚書』
新井博 『川越市今福の沿革史』
高橋令治 「川越藩の江戸湾防備」(『法政史学』)
永浜光義 「川越藩における三富の新田開発」(『同上』)
山田忠雄 「宝暦―明和期の百姓一揆」(『日本経済史大系』)
森田雄一 「百姓一揆の諸問題」(『埼玉研究』)
大野瑞男 「近世前期譜代藩領農村の特質」(『日本社会経済史研究』)
同 「近世前期川越藩政の基調」(『地方史研究』)
同 「榎本弥左衛門覚書について」(『史料館研究紀要』)
福島正義 「幕藩制崩壊期と川越藩の農兵反対一揆」(『地方史研究』)
『埼玉県史』(四・五・六巻) 『三富開拓誌』『藩政回顧録』 「稿本川越史料」(川越市立図書館) 『川越素麺』 『多濃武の雁』 「酒井家史料」 「楽只堂年録」 『深谷総社以来旧記』 『古語菽麦』 「川越藩日記」(前橋市立図書館) 『続々群書類従』(地理部九) 『改定史籍集覧』(二六) 『寛政重修諸家譜』 『武州世直し一揆史料T・U』(近世村落史研究会) 『川越市史 史料編近世T・U・V』 『松陰の日記』(存採叢書) 『前橋市史第二巻』
| 〔上 野〕 | |
| 前橋藩 | 前橋市立図書館(「藩政日記」)・川越市立図書館(「松平大和守家文庫」) |
| 〔武 蔵〕 | |
| 川越藩 | 前橋市立図書館(「藩政日記」)・東京大学法学部法制史資料室(「松平大和守家文書」)・川越市立図書館(「松平大和守家文庫」「松平周防守家文庫) |
| 〔甲 斐〕 | |
| 谷村藩(郡内藩) | →武蔵川越 |
江戸時代後期になると、全国的に藩校開設のラッシュを迎えるが、埼玉県域の諸藩でも同様である。藩校開設以前の藩士の教育は、藩儒(はんじゅ)が私宅にあって藩士の求めに応じて行っている場合が多いが、藩校の開設により時代を反映した藩士の一貫教育が行われることになる。
川越藩に藩校が設置されたのは文政十年(1827)で、松平大和守斉典(なりつね)が藩主のときであった。藩校は「講学所」と称し、保岡嶺南(やすおかれいなん)・石井択所(いしいたくしょ)・朝岡操(あさおかみさお)の三人が教授として任命され、講学所仕法が公示されている。当初は四十歳以下十五歳以上の藩士を対象にしたが、文政十二年には八歳以上の藩士の子弟も対象になり、基礎的な「素読」も行うようになった。この講学所は、後に博喩堂(はくゆどう)と称している。
松平大和守家は、慶応三年(1867)に移封になり、その跡に棚倉から松平周防守康英が入封するが、松平周防家は石見(いわみ)国浜田在城時代に藩校長善館を開校しており、川越においてこれを引き継いでいる。
(後略)
●幕府の転封政策とは
異動といえば部署の異動、任地の異動、子会社への異動といろいろだが、ここでは徳川幕府をひとつの大きな企業体として、その中での異動、つまり転封(てんぽう)を中心に考えてみよう。転封はまた、論功行賞(ろんこうこうしょう)として出世街道をいくもの、明らかに左遷のもの、あるいは脅しの類まである。いや、そもそも江戸幕府開府は、徳川家康が小田原の役後、豊臣秀吉によって駿河(静岡県)・三河(愛知県)など五カ国から江戸へ転封を受けたことからはじまる。秀吉がどういう意図でこの転封を考えたかは、はっきりしないのだが。
とにかく徳川時代の転封はめまぐるしい。つねにどこかで転封が行われているといってもいいすぎではない。
たとえば、家康の二男結城松平秀康の四男直基(なおもと)の松平家は、播磨国姫路15万石を皮切りに、5代100年ほどのあいだに9回も転封している。およそ10年ごとに移っていたことになる。これでは新しい任地の整備をする暇もない。
5代朝矩(とものり)は上野国前橋(群馬県前橋市)15万石に移ったとき、城を修復する資金がなく、藩士の禄から100石につき1両2分ずつ徴収したという。
異動先が暮らしよいところならいい。しかしそうは問屋が卸さない。もうすこし松平朝矩を見てみよう。そもそも初めから財政が苦しいうえに、宝暦6年(1756)大火に見舞われた。つづいて7年、大洪水で国中が甚大な被害を受ける。藩士の中に不安と不穏な空気が広がり、朝矩はついに城の放棄を決意した。
宝暦13年、幕府はようやく朝矩の願いを聞き入れ武蔵川越(埼玉県川越市)を7万5000石の代替地とした。前橋領は分領7万5000石としてそのまま残されたので、城を壊し陣屋を置いた。
それはそれで出費をともない、藩財政の楽になることはなかった。よそ目には裕福に見えても内実は火の車というのが、多くの藩の実情である。
(後略)
●覆された異動
「三方領地替え」という言葉が残っている。武蔵川越藩主松平斉省※(なりさだ)は11代将軍家斉(いえなり)の実子でわがまま放題。かねて川越藩15万石の実収入が少ないのが気に入らない。もっとましなところへ移せとだだをこねた。
候補にあがったのが出羽(でわ)(秋田県〜山形県)庄内13万8000石酒井忠器(ただたか)の所領。ここは元和(げんな)8年(1622)以来280年、酒井家の領地としてつづいていた。天保(てんぽう)4年(1833)の東北大飢饉(だいききん)に死者をひとりも出さなかったことで知られていた。じつはそのために藩主以下並々ならぬ努力をしたのだが、よそ目にはそうは見えない、豊かな国と考えられていた。聞かされて斉省はもちろん大喜びだ。
それでは庄内を追い出さた酒井はどうなるのか。越後長岡藩(新潟県長岡市)牧野忠雅のところへ移る。牧野は川越へ国替え。これで三方領地替、めでたしめでたしと発案者の水野忠邦は自画自賛するが、割に合わないのは酒井だ。なにせ長岡藩は7万4000石だ。いっぽう川越藩では意気揚々として、7人の視察の者を庄内にやった。
ところが、酒井の長岡転封に反対する農民たちに、この視察役が軟禁されてしまった。折しも、天保12年(1841)閏正月、家斉が死んだ。待っていたように諸大名のあいだから三方領地替への批判が噴き出した。さすがに水野も引っこめざるをえなくなった。人事の異動が、地元の意向を無視できなかったという、ちょっと今風な事件であった。
(後略)
天保十一年(1840年)の「三方替」というのは、出羽庄内の酒井忠器を越後長岡に、武州川越の松平大和守斉典を庄内に、越後長岡の牧野備前守忠雅を川越へ、それぞれ移そうとしたことであり、諸老中の反対をおしきって水野忠邦が発令したのである。 ところが、一二八年の長期にわたる領主支配の変動に大きな不安をもった庄内領民が、激烈な転封反対運動をおこしたので、ついにこの三方替は中止された。
明治二年のことでした。川越大和守様がお出(いで)になって「松竹(まつたけ)と申すのはその方か」「ヘエ左様で」「あの若殿を刈って貰いたい」とおっしゃって、十五、六歳になる若殿様をお連れになりました。御家来が三人附添(つきそい)で、縮緬(ちりめん)の羽織に御髪(おぐし)も房々と、見るから凛々(りり)しい若殿ぶりでした。いよいよ櫛と鋏を持って後へ廻るてえと、御家来が、「御髪の散りませんように」といって盆を差出して、刈落した髪を受けるんです。すると殿様が、「盆の上へじかではいかん、紙を敷け紙を敷け」というので、盆へ奉書を敷く。それへジョキジョキと切(や)りました。
殿様も御満足の態(てい)で、「松竹、ただ今何時(なんとき)であるか」「ヘエ、午後二時と心得ます」「左様か、午後二時になったぞ、早う持って行け」どうなるのかと思っていますと、その刈落した髪を持って、早打駕籠(はやうちかご)で御国の川越へ行き、唯今(ただいま)若殿様御元服(ごげんぷく)相成りました、と奥方へ言上するという訳なんですが、芝居掛りで面白いじゃありませんか。まア御祝儀もたっぷり戴いて、殿様も「満足に思う」と仰(おつ)しゃって御帰りになりましたが、先だってまでいらしゃったあの御隠居様が多分そうだろうと存じます、今じゃア全く一ツ話です。
まだ明治御維新前のこと、数寄屋橋見附に松竹床というのがあった。看板に松茸の絵が描いてあったのでそう呼んだが、のちには松と竹の絵に変った。この床屋が奥州征伐から帰った岡山藩の人たちの頭を刈ったのが、散切あたまの早いところだそうだ。いわゆる椀かぶりと称する刈り方で、まわりを短く、頭の上を長く刈っただけの話であるが、「叩けば文明開化の音がする」といって次第に普及していった。
明治二年のことである。この床屋に川越の大和守様がおいでになって
「松竹と申すのはその方か。」
「へい左様で。」
「あの若殿を刈って貰いたい」
とおっしゃって、十五、六歳になる若殿様を連れてきた。御家来が三人附添で、縮めんの羽織に御髪もふさふさと、見るからにりりしい若殿ぶりであった。いよいよ櫛と鋏をもって後ろへ回ると御家来が、御髪が散りませんようにと盆を差出した。すると殿様が、
「盆の上へじかではいかん。紙を敷け。」
というので盆へ奉書を敷いてジョキジョキとやった。
殿様も御満足のていで、
「松竹、ただ今何時であるか」
「へえ、午後二時と心得ます」
「左様か、午後二時になったぞ、早う持って行け。」
どうなることかと思っていると、早打駕籠でお国の川越へ行き、ただいま若殿様御元服相成りました、と奥方へ言上するためであった。床屋は御祝儀をたっぷりいただき、殿様も満足に思うとおっしゃて帰られた。
この話は篠崎鉱造の「明治百話」に出ている話であるが、このときの若殿様というのは松平家第十二世の直方公で、父君の殿様は川越最後の城主であった直克公だろうと思う。直方公は明治四十年に五十歳で沒くなられたから、明治二年には十一歳の勘定になる。もっとも散髪脱刀が正式に発令されたのは明治四年の八月十日であるから、あるいはこの話は三、四年の誤差があるかもしれない。また大和守は慶応三年にすでに上州前橋に所替えになっている点も注意を要する。
だがざん切頭になって元服というところ、いかにも時代の推移をあらわしているし、早打駕籠でお国元の奥方に知らせるあたり、芝居がかっていて面白いではないか。
土蔵づくりの町並みが城下町らしい雰囲気を醸し出す川越(八万石)は、幕閣の大名にとってたいへん名誉ある封地で、老中だけでも酒井忠利、堀田正盛、松平信綱、秋元喬知(たかとも)、秋元涼朝(すみとも)、松平康英の六人を出している。一時、前橋藩が移ってきたりしたが、1866年に棚倉から松平(松井)康英(やすひで)(37)が入り維新を迎えた。
康英は松井家分家の旗本の子で、外交の専門家として外国奉行、神奈川奉行などを務め、樺太国境画定、開市延期談判などのために欧州各国をまわりよく仕事をこなした。宗家を嗣いで大名になり、老中に昇進した。
康英は老中を辞して恭順し上京したが、謹慎中に戊辰戦争が始まり、官軍側に立って協力しようとしたが拒否された。だが、四代前の藩主康任の息子の正室が島津家から輿入れしていることを理由に情状酌量を願い、何とか受け入れられ、資金や物資を供出し、以後は官軍に加わり東北でも戦ったので、一時は削られていた領地も戻された。1869年に康載(やすとし)が嗣いで、最後の藩主となった。なお、康任は老中首座であったにもかかわらず、密貿易をして石見浜田から磐城棚倉に左遷されていた殿さまである。
本丸御殿が再移築されて城跡にあり、貴重な遺構である。土蔵造りの建物が多い城下町は、関東で有数の歴史的景観である。
川越藩(現・埼玉県川越市)は、戊辰戦争では戦火に遭わずにすんだ。藩主・松平康英が老中職を務めていたため、近江国(現・滋賀県)の飛地領二万石を没収されたが、新政府軍に兵員や武器や糧食を提供し、なんとか藩の命運をつないだのだ。
彰義隊から分かれた渋沢成一郎らが飯能(現・埼玉県飯能市)の能仁寺にたてこもると、川越藩は討伐軍への参加を命じられたが、この飯能戦争が、幕末維新期に埼玉県下で起こった唯一の戦いである。
戦火を免れた川越藩だが、この藩では、戦争より被害が大きかったのが火事だった。川越は江戸によく似ているところから「小江戸」と呼ばれた風情のある城下町だが、妙なところも江戸に似ていた。江戸で火事が多かったのはよく知られているが、川越もまた、火事の多い町だったのである。
1846(弘化3)年には川越城で大火が起こり、多くの建物が焼失した。現存する本丸御殿はこの大火後の再建だが、すでに四十万両以上の借金を抱えていた川越藩には自力での再建が難しく、領内の人々から献金を募ってなんとか二年半で再建した。
幕末の藩主・松平康英は、1866(慶応2)年に棚倉藩(現・福島県棚倉町)から転封されてきたのだが、戊辰戦争をなんとか乗り切ったと安心したとたん、大火に見舞われた。
1869(明治2)年、川越城下の小久保村から出た火は城下に燃え広がり、藩の家中の屋敷482軒、社寺8軒を含む町屋420軒、そのほか多数の土蔵や物置などが焼けてしまったのである。
不幸中の幸いで城は無事だったが、町を再建するには莫大な費用がかかる。藩士たちの屋敷と町屋と合わせて約900軒にものぼる住宅が焼けたのは、城下町として大きな痛手である。しかも川越藩は、棚倉からの転封に多額の費用を要したのが、尾を引いて、財政難にあったので、よけい苦しかったに違いない。
◎浦和のイメージ
◎藩主の断続
◎「公」領域の比率
◎熊谷県の理不尽
◎新埼玉県の首府
◎秩父事件の波紋
◎川越の明暗
まえがき佐々木克本書は東京の本郷森川町に勤務する巡査・喜多平四郎(旧川越藩士。当時三十五歳)が記録した、西南戦争の従軍手記である。喜多平四郎ほか東京の巡査六百名は、明治十年二月九日の夜、急に召集されて九州出張を命ぜられ、十一日に横浜を出航して九州・博多に向かった。鹿児島で私学校党が部隊編成を行ったのが十三日で、西郷軍の先発隊が出発したのが翌十四日であるから、政府は西郷軍が蜂起する以前に動いていたのである。
喜多らは、二十日に熊本城に急行し、そのまま熊本鎮台兵とともに籠城体制に入り、城を包囲する西郷軍と戦うことになった。そして喜多は運悪く、三月十三日の戦闘で負傷して、約一ヶ月間、城内の病院に入院する。本書の前半部分は、入院治療の生活描写にあてられている。喜多の本意ではなかったであろうが、戦闘の記述よりも、籠城中における病院の模様や、食料が少なくなってゆく様子、そして西郷軍を破って応援の政府軍が入城する日をまちこがれる気持ちの動きなど、類書には見られない記述があり、これが結果的に大変興味深い記録となっているのである。
四月二十八日に戦場に復帰した喜多は、水俣の東方の山間部で、人吉に本拠を移した西郷軍と戦うことになった。以後、本書の後半部分は、七月二十六日に鹿児島城下に入るまでの戦闘の模様が記される。戦場における喜多の視線は、多角的でありかつ柔軟である。上官の作戦や部下に対する態度に批判の目を向ける。また敵の西郷軍であるが、これを仇敵視しない。士族である喜多は、西郷軍がなぜ蜂起したのか、その理由の一端は理解できるのである。
また戦場になった村の人々や、西郷軍に軍夫として徴用された農民にも、同情の視線を注ぐ。これはおそらく下級武士だった彼が身につけた、生活者としての視点なのだろう。従軍の記録は、ふつう自己の戦闘の記録であり、戦争でいかに功労があったかを誇るものが多い。しかし本書はそのような意味では、抑制的である。いわば戦闘の手記ではなく、戦争以外の、さまざまな場面の彩りが盛り込まれた、戦場の記録として読まれるべきものであろうと思う。
西南戦争の記録には、西郷軍に参加した兵士の記録はいくつかある。しかし政府軍側のそれはきわめて少ない。政府軍の一般の兵士は、徴兵による農民出身の若い兵士が多かったからである。その意味でも政府軍の一兵士が見、そして体験したこの西南戦争の記録は、大変貴重でありかつ興味深い読み物となっている。(京都大学教授)
解説 2 喜多平四郎について
著者の喜多平四郎については、これまでの私の調査では詳しい経歴が判っていないが、現段階での知り得たことを記しておくことにしたい。
喜多平四郎は天保十三(1842)年一月元旦、讃岐国高松に生まれた。父安助は高松藩士である。嘉永五(1852)年に、父とともに高松から相模国大津陣屋に移り、川越藩籍にはいった。この時、大津陣屋には川越藩士祖父喜多武平がいて、この祖父に呼ばれたもののようである。
祖父喜多武平はもともと高松藩士であるが、天保十四(1843)年に川越藩士(十五人扶持、士分格)となった。この経緯について少しくわしく述べておこう。
祖父喜多武平は高松藩の砲術家である。その武平が天保年間に浦賀に行き、浦賀奉行配下の与力佐々倉勘蔵に海防論を述べ、大いに賞賛された。武平が浦賀に行ったのは、高松藩が幕府に命じられて江戸湾や相模湾警備を担当していたからである。浦賀の与力佐々倉勘蔵の推挙があってのことと思われるが、浦賀奉行のもとで、浦賀奉行配下の子弟に砲術を教え、あるいは大砲を鋳造し砲台を築くことなどをおこなった。
天保十三年、川越藩が相州三浦半島の観音崎より三崎にわたる沿岸の警備を幕府に命じられた。この際に川越藩が浦賀奉行に砲術師を推薦してくれるようにと依頼したことにより、武平が推薦され、このことにより武平が川越藩士となったのである。時の川越藩主は松平直候(徳川斉昭の子・徳川慶喜の弟)であったが、高松藩の藩主松平頼胤の養父松平頼恕が徳川斉昭の兄であるという関係もあって、人材の移籍が無理なくおこなわれたのではなかろうか。
このような経緯で喜多は父・祖父とともに川越藩士となり、祖父武平が居住する相州大津陣屋の近傍で暮らすこととなった。安政元(1854)年、川越藩は江戸湾品川沖の台場の警備に担当替となり、これにより喜多の一家は川越に移り、祖父武平は文久二(1862)年に川越で没した。なお川越藩(藩主松平直克)は慶応三(1867)年一月に前橋に転封となり、このため喜多家も前橋に移った。
喜多平四郎の経歴にかんしてはほとんど判らない。喜多には自筆の手記『戊辰周旋記』というものがあり、それによれば喜多は慶応四(1868)年三月末に藩庁から国事周旋方(情報収集や探索を担当)を命ぜられて江戸に出、さらに川越藩の分領がある上総国富津にゆき、上総方面でなされた戦争を体験し、八月に江戸を経て川越に帰国している。なお祖父に関する記述も、この喜多の手記『戊辰周旋記』によるものである。
喜多が前橋で廃藩置県(1871)年をむかえたのが二十九歳のときである。前橋(旧川越)藩は譜代の小藩(一万七千石)であるから、喜多家の生活は相当に苦しかったにちがいない。廃藩となって喜多家も外に職を求めなければならなくなる。平四郎が警察に入ったのが何時のことであるか不明である。一般の士族(旧武士)が政府機関の職につくことはそれほどたやすいことではなかったから、喜多平四郎の場合は運があったのだろう。あるいは、この『征西従軍日誌』をよめばわかるように、喜多の人間性や、歴史や戦史についての素養を評価する人物が、政府の警察関係者のなかにいたのかもしれない。
喜多平四郎は明治三十八(1905)年に六十三歳で没し、東京の十方寺(現文京区向丘)に埋葬された。京都大学教授 佐々木克
鯨井藩は天正十八年(1590)三河出身で家康譜代の家臣戸田一西(かずあき)(〜慶長七)が高麗郡鯨井(くじらい)辺において五千石を知行したが、一西は関ヶ原戦のおり真田昌幸の上田城を攻め、慶長六年(1601)近江で二万五千石の加増をうけ鯨井とあわせて三万石を領知、ついで近江大津城主となる。翌七年膳所(ぜぜ)城に移り氏鉄(うじかね)(〜明暦元)が継嗣し、元和二年攝津に新領五万石をえて尼崎城主となった。