川越の人物誌(1)

川越の人物に関する内容の本(その1)です

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田代三喜歴史と人と川越大事典日本の医学
奥貫友山奥貫友山埼玉史談
西川練造幕末維新埼玉人物列伝
内海次郎(二郎)龍馬と新撰組
佐々木玉次郎埼玉民衆の歴史

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人物誌
「川越の人物誌(第1集)」 川越の人物誌編集委員会 川越市教育委員会 1983年 ★★★
1.河越重頼( 〜1185):平安時代末期の武蔵国入間郡河越館の武将。
2.河越重員(……):河越重頼の三男。
3.河越経重(……):養寿院を開基し、円慶法師に創建させた。
4.太田道真(1411〜92):道灌の父。武にも文にもすぐれた武将
 太田道灌(1432〜86):江戸城を築城。軍事家で文学者。
5.北条綱成(1515〜87):北条氏康の代に五家老の1人として武蔵国河越城代となった。
6.難波田弾正(……):武州松山城の城代として勇名をはせた武将。川越夜戦で討死。
7.天海(1536〜1643):徳川家康らの絶対的信頼を受け、草創期の幕府で活躍した天台宗の僧。
8.大導寺政繁(……):後北条氏の家臣。内政手腕に優れ、また主要な戦でも勝利に大きく貢献。
9.酒井重忠(1549〜1617):徳川幕府時代の初代川越城主
10.狩野吉信(1552〜1640):喜多院が所有する国指定文化財「紙本着色職人尽絵」の筆者。
11.小川五郎右衛門(……):文久元年時の鐘の「鐘」を鋳造した鋳物師。
  矢沢四郎右衛門(……):現在の時の鐘の「鐘」を鋳造した鋳物師。
12.岩佐又兵衛(1578〜1650):「三十六歌仙」や「源氏物語図」、「伊勢物語図」などを手がけた絵師。
13.松平信綱(1596〜1662):徳川家光の誕生とともに家人となり、幕府創業に貢献。俗称は知恵伊豆。
14.榎本弥左衛門(1626〜86):「万之覚」と「三ツ子より之覚」という貴重な記録を遺した豪商。
15.安松金右衛門( 〜1686)玉川上水から分水して野火止用水の開削を成功させた。
16.秋元喬知(1649〜1714):江戸前期の老中。学問を好み、幕政では文治政治をすすめた。
17.高山繁文(1649〜1718):秋元喬知の家臣で国家老を務めた。松尾芭蕉の門人でもあった。
18.柳沢吉保(1658〜1714):三富(上富・中富・下富)の開拓を行ない、禅寺(多福寺・多聞寺)を創建。
19.奥貫友山(1705〜87):寛保2年(1742)の大洪水の際、資財を投げうって罹災者救恤に尽力。
20.太陽寺盛胤(……):秋元候の家臣であり、案内型地誌「多濃武の雁」の著者。
21.海保青陵(1755〜1817):徳川各藩が実行した「藩学商業論」を説いた経世家。
22.中島孝昌(1766〜1808):鍛冶町の名主をつとめ、川越地誌「武蔵三芳野名勝図会」を著した。
23.安井政章(1787〜1853):松平斉典の家臣。治水や開墾、植林など領内の発展に尽力。
24.藤枝英一(1789〜1851):江戸時代末期に活躍した刀工。藤枝英義の父。
 藤枝英義(1823〜76):「新刀銘集録」で「当今江戸無類の上手」と謳われた川越の刀工。
25.北野操六(1792〜1864):歌人として名を馳せた安斎のり子の父。自身も文雅の道に通じていた。
26.松平斉典(1797〜1850):川越城主を務め、嘉永元年、川越城本丸御殿を建設。
27.西川練造(1817〜61):代々医師の家系に生まれた儒医で剣術の達人。「虎尾の会」の一員。
28.淡島椿岳(1823〜89):浅草絵という新機軸の画風を確立した画家。
29.中島久平(1825〜88):貿易が始まると安くて良質の綿糸を輸入。それで川越唐桟を生み出した。
30.高林謙三(1831〜1901):製茶機械を完成させ、茶の栽培にも力を尽くし、狭山茶の隆盛に寄与。
31.松平康英(1831〜1904):老中を務めた川越城主。城下宮下町に藩校長善館を開いた。
32.山崎豊(1831〜1912):第八十五銀行頭取、埼玉銀行頭取、川越商工会議所副会頭を務めた。
33.横田五郎兵衛(1834〜92):江戸や大坂の米相場を左右するほどの力を持っていた川越の豪商。
34.橋本雅邦(1835〜1908):横山大観や菱田春草らを育て、近代日本画の礎石を築いた画家。
35.赤沢仁兵衛(1837〜1920):甘藷栽培改良家。サツマイモの収量を上げるため、赤沢式増収法を考案。
36.竹谷兼吉(1844〜1919):川越商業銀行の専務取締役を務めた豪商。
37.福田久松(1848〜1922):政治家であり、「東洋の立憲政治」と「大日本文明略史」を著作。
38.山田衛居(1849〜1907):川越氷川神社宮司の養嗣子。日本画家として「氷川神社行幸絵巻」などの大作を残す。
39.綾部利右衛門(1860〜1932):第八十五銀行や川越鉄道などの開設に尽力。川越市初代市長。
40.渡辺吉右衛門(1863〜1928):川越渡辺銀行を創立。商工会議所の創立委員。
41.井上安治(1864〜89):130点におよぶ「東京真画名所図解」を描いた川越ゆかりの画家。
42.発智庄平(1864〜1936):笠幡の旧家の当主。所有する土地に霞ヶ関カンツリー倶楽部ゴルフ場を竣工させた。
43.菅野政五郎(1865〜1933):川越町立川越高等小学校(現・川越第一小学校)初代校長。私立川越図書館の初代館長。
44.綾部惣兵衛(1867〜1923):政治家。改進党で川越商人層を代表するリーダーとして活躍。
45.柳田惣次郎(1878〜1956):川越を代表するちょうちん師。神社に奉納する絵馬も手がけた。
46.勝田蕉琴(1879〜1963):川越ゆかりの画家。カルカッタ国立美術学校で東洋画を教授した。
47.安部立郎(1886〜1924):川越中学校(現・県立川越高等学校)第一回の卒業生。私立川越図書館の創立者。
48.小村雪岱(1887〜1940):川越生まれの日本画家。舞台や映画の美術考証など多方面でも活躍。
49.高田早苗(1890〜1938):明治26年の川越大火の際、義援金を集め、援助に力を注いだ。元文部大臣。早大初代学長。
50.村田銀造(1890〜1979):川越の地芝居、太夫元になり、「老袋の万作」を無形文化財にした功労者。
51.小茂田青樹(1891〜1933):川越生れの画家。代表作は「出雲江角港」「鳴鶏」「虫魚画巻」など。
52.岸伝平(1894〜1973):郷土史の基礎的研究と郷土資料の発掘に多くの業績を残した郷土史家。
53.岩崎勝平(1905〜64):鉛筆の素描による東京百景、木炭やパステルによる婦人像で知られる画家。

「川越の人物誌(第2集)」 川越の人物誌編集委員会 川越市教育委員会 1986年 ★★★
1.尊海(……):慈恵大師を勧請して無量寿寺を再興。
2.上杉持朝(1418〜1467):太田道灌に命じて岩槻城・河越城、江戸城の三城を築城させた。
3.北条氏綱(1486〜1542):1524年に江戸城、1537年に河越城と松山城を攻め落として武蔵国を制圧。
 北条氏康(1515〜1571):「小田原衆所領役帳」の作製、伝馬制度の整備など領国経営に優れる。
4.戸田一西(1541〜1601):鯨井を領地としていた徳川家の家臣。のちに近江大津城主となる。
5.次原新兵衛(……):1500年代の河越の有力商人。
6.酒井忠利(1559〜1627):酒井重忠の弟。川越城主で徳川幕府の老中を務めた。
 酒井忠勝(1587〜1662):徳川幕府の大老。鎖国政策を推進し、文治的政策に力をいれた中心人物。
7.堀田正盛(1608〜1651):春日局の縁者として、めざましい昇進を遂げた大名。
8.元杢網(1724〜1811):江戸後期の狂歌師で、本名は金子喜三郎。川越で発句会を開催。
9.沼田順義(1792〜1849):楽水堂道意の別名を持つ国学者。「武州河越善行録」で後書きを担当。
10.保岡嶺南(1801〜1868):頼山陽著「日本外史」を校訂した「川越版日本外史」を発行。
11.大野旭山(1802?〜1883)最上流の流れをくむ和算家。石田・藤宮神社の算額を奉納した。
12.林信海(1804〜1862):川越藩赤尾村の名主であり、年中万日記帳(武蔵)の著者。
13.井上淑蔭(1804〜1886):詩僧の嵩古香、国学の権田直助と共に、「埼玉の三学者」と称される歌人。
14.遠藤半蔵(1808〜1879):舟運関係文書の中でも貴重な「番船出入訴答日記」を筆録。
15.江野楳雪(1812〜1873):県指定文化財、全長18メートルの長巻「川越氷川祭礼絵巻」を描いた絵師。
16.尾高高雅(1812〜1887):多芸に優れる歌人。川越に私塾を開き子弟の教育に当った。
17.安斎のり子(1813〜1899):北野操六の長女で歌人。記念歌集「木綿園賀筵集」を刊行している。
18.舟津蘭山( 〜1873):川越城本丸御殿内の「杉戸絵」や養寿院本堂の「雲龍」を描いた川越藩御用絵師。
19.阿部親昵(1836〜1901):川越のみならず、埼玉県における牛乳業の先駆者。
20.黒須喜兵衛(1837〜1888):呉服商を営んでいた豪商。第八十五銀行設立時の頭取。
21.中井尚珍(1842〜1913):県立川越高等女学校や小学校の新築の中心的な人物。
22.渡辺政方(1843〜1919):商工会議所の第一期より常議員を務め、のちに特別議員となった。
23.青木惣太郎(1845〜1914):脇田村出身。宮内庁御用達の果実店「万惣」の初代。
24.水村精(1845〜1885):川越郵便局の前身を開設し、私立川越銀行も創立。
25.田井正一(1848〜1927):川越キリスト教会の牧師で、宇気良幼稚園(現・初雁幼稚園)を創立。
26.山口正興(1850〜1922):今福村の名主。神仏分離令が出ると、当地域を仏葬から神葬へと指導した。
27.橋本三九郎(1854〜1925):国立八十五銀行の取締役。栗橋商業銀行を買収し「橋本銀行」として開業。
28.関根松五郎(1854〜1903)「時の鐘」の修繕のほか、数々の蔵造りを手がけた川越を代表する棟梁。
29.岩沢虎吉(1855〜1929):東照宮、喜多院、日枝神社の保存・維持管理に貢献。小仙波村の川越町への合併に尽力。
30.石川幾太郎(1855〜1934):石川製糸の創業者。
  石川仁平(1878〜1942):石川幾太郎の4番目の弟。石川製糸の久保町工場の工場長として活躍。
31.山内庫之助(1857〜1933):日本メソジスト教会の伝道師。川越本町に川越分教所を開設。
32.小田容亭(1859〜1905):「海浜と荒鷲の図」や「寒牡丹の図」、「千里横行」などを描いた画家。
33.喜多欽一郎(1862〜1927):政治家。川越市政執行の最大の功労者と言われる。
34.野々山喜右衛門(1865〜1932):電話の普及、川越電機鉄道の経営に関与。川越の産業革命の推進者。
35.岸彌吉(1865〜1927):埼玉県改良製茶伝習所を設立。狭山茶振興に大きく貢献。
36.三島通良(1865〜1925):学校衛生の生みの親。母子衛生法を改良し、三島式種痘法を発明。
37.高橋幸助(1867〜1934):川越商業銀行設立時の役員。
38.忽滑谷快天(1867〜1934):難解な禅宗思想を科学的に解明し、英文で欧米に紹介した最初の人物。
39.福澤桃介(1868〜1938):福沢諭吉の次女・ふさの婿。電力王、経営の鬼才と呼ばれた。
40.保岡勝也(1868〜1942):第八十五銀行本店(現・埼玉りそな銀行川越支店)を設計した建築家。
41.星野仙蔵(1871〜1917):米穀取引所監査や川越商業銀行頭取を務め、東上鉄道の敷設に尽くした。
42.根岸勝広(1879〜1941):川越市指定の有形民俗文化財の第一号「中福の神楽用具一式」を手がけた。
43.橋本定五郎(1880〜1947):「川越脳病院(現・川越同仁会病院)」の創設者。6代目川越市長。
44.笠松仙英(1884〜1959):今日の県立盲学校、県立ろう学校の基礎を築いた。
45.久保提多(1885〜1955):日本画家、川越中学校(現・県立川越高等学校)の美術教師も務めた。
46.伊達徳次郎(1887〜1959):田面沢村を合併し、戦後の九ケ村合併の緒をなしえた。
47.細田源吉(1891〜1974):自然主義系統の作家で、一時、左翼運動に参加。トルストイなども翻訳。
48.中屋辺作(1893〜1948):ノコギリ作りの鍛冶職人。機械に頼らず、すべて手作業にこだわった。
49.萩原泰治(1897〜1974):森田元次郎氏と共に南田島の足踊りの現在の形を確立した。
50.伊藤泰吉(1899〜1965):6期18年余にわたり川越市長を務めた。川越市名誉市民。
51.伊藤長三郎(1905〜1969):川越商工会議所、6代会頭。川越ロータリークラブの初代会長。

「川越の人物誌(第3集)女性編」 川越の人物誌編集委員会 川越市教育委員会 1994年 ★★★
1.南大塚四号墳の女性埴輪(6世紀中頃) /2.伊勢物語三芳野の里の女(9世紀中頃) /3.比企尼と二女河越重頼の妻(12世紀中葉〜12世紀後半) /4.源義経の妻(河越重頼の娘)(1167〜1189)/5.後深草院二条(1258〜?)/6.真行尼(1532〜1594)/7.蓮馨尼(?〜1567) /8.百姓むめ(1681〜?) /9.小谷野ひめ(18世紀初期)/10.高橋亀台尼(1736〜1810) /11.鈴木三保子(18世紀) /12.喜多院の五百羅漢と女性(1782〜1820) /13.吉田とよ子(1790〜1859)/14.染谷たせ(1792〜1882)/15.安斎のり子(1813〜1899)/16.花形(吉田)精(1824〜1898)/17.赤沢千代(1839〜1926)/18.大塚一塘(たつ)(1843〜1923)/19.星野りち(1862〜1947)/20.山崎いち(1862〜1945) /21.生沢クノ(1864〜1945) /22.芸者久良吉(1865〜1948)/23.L・H・ボイド(1875〜1957)/24.平井と代(1875〜1980) /25.杉浦翠子(1885〜1960) /26.吉田くら(1889〜1980)/27.砂川さく(1895〜1986) /28.島崎静子(1896〜1973) /29.相原余至(1897〜1991)/30.河東田ヨシ(1897〜1976)/31.長沢喜美(1897〜1983)/32.小原いわ(1898〜1980)/33.小川千代女(1900〜1945)/34.石川梅(1902〜1992)/35.佐久間寿美(1903〜1982)/36.中村かのえ(1905〜1979)/37.石森麗(1906〜1989)/38.山根仲(1906〜1978)/39.榎本園子(1907〜1988)/40.加藤とり(1908〜1988)/41.山本せつ(1908〜1992)/42.荻原加津子(1909〜1987)/43.深井照代(1910〜1990)/44.川田登志子(1915〜1993) 

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年 ★★
会田安明青木昆陽秋元喬知明智光秀足利成氏足利晴氏安部磯雄新井白石荒木村重在原業平安国寺恵瓊
池田亀鑑池田弥三郎以心崇伝伊東甲子太郎伊奈忠治井上正鉄伊能忠敬猪熊弦一郎一遍今川義元岩佐又兵衛
上杉顕定上杉謙信上杉定正etaro /上杉朝興上杉朝定上杉朝良上杉憲政上杉持朝梅崎春生
江見水蔭円 空円 仁
大岡昇平大川平三郎太田資正太田道灌太田南畝岡田三郎助岡本綺堂荻野吟子尾崎紅葉織田信雄小茂田青樹折口信夫
海保青陵柿本人麻呂梶原景時春日局金子堅太郎鴨長明河合曾良川上音二郎川上貞奴河越重頼川端康成
菊池容斎喜多川歌麿木下尚江清川八郎
国木田独歩久米仙人
上泉伊勢守幸田露伴小林一茶小村雪岱今東光
西行酒井忠勝坂口謹一郎猿飛佐助
食行身禄獅子文六十返舎一九司馬遼太郎渋沢栄一島崎藤村島田三郎清水燕十心敬
菅原道真杉浦翠子杉浦非水
関孝和
宗祇(飯尾宗祇)
大太法師高浜虚子武田信玄武田信虎建部賢弘田代三喜伊達政宗田沼意次玉川庄右衛門田山花袋俵屋宗達
塚原ト伝蔦屋重三郎坪井正五郎
天海
東洲斎写楽唐来参和鳥居耀蔵鳥居龍蔵鳥山石燕
長尾為景中里介山中山晋平
西角井正慶
根岸鎮衛根岸武香根津嘉一郎
乃木希典野口米次郎
橋本雅邦長谷川角行長谷川等伯長谷川平蔵塙保己一林信篤早船ちよ万里集九
比企尼土方歳三平賀源内平田銕胤
福沢桃助藤島武二藤間勘兵衛
ぺりー弁慶
北条氏綱北条氏政北条氏康北条綱成北条早雲細田源吉堀田正盛堀達之助
正岡子規松尾芭蕉松本清張松平忠昌松平信綱松永安左衛門マッカーサー
三島通良三田村鳶魚源義経源頼朝宮本常一宮本武蔵明庵栄西明恵
室鳩巣
モース毛利重能
安松金右衛門矢田挿雲柳沢吉保柳田国男矢部定謙山口青邨山上憶良山本周五郎
頼山陽

「日本史人物事典」 児玉幸多監修 講談社+α文庫 1995年 ★★
  ・比企尼
  ・太田道灌
  ・北条早雲/北条氏綱/北条氏康/北条綱成
  ・酒井忠世/松平信綱/柳沢吉保
  ・塚原ト伝/天海/春日局/長谷川平蔵/山田浅右衛門(七代)/伊能忠敬/平賀源内
  ・新井白石/室鳩巣/海保青陵
  ・円空/喜多川歌麿/東洲斎写楽
  ・柿本人麻呂/万里集九/松尾芭蕉/小林一茶/島崎藤村/幸田露伴/正岡子規/柳田国男
  ・ペリー

「日本歴史人名辞典」 日置昌一編 講談社学術文庫 1990年 ★★
著者日置昌一は、日本で最初の本格的年表『国史大年表』の完成者として名高い。本書は、その著者が昭和十三年に編集刊行し、好評を博した人名辞典の復刻・縮刷版である。神代より昭和前期まで、天皇・公卿・英雄傑人から学者・文人・力士・芸人まで、日本歴史の最重要人物五千二百余人の生涯と業績を適切に要約している。多彩で信頼性の高い内容を、ハンディで使いやすい文庫判に収録して刊行する。(カバーのコピー)

「一冊で歴史を彩った100人の死に際を見る」 得能審二 友人社 1994年 ★★
  ・源義経太田道灌武田信玄上杉謙信明智光秀春日局南光坊天海伊能忠敬小林一茶正岡子規

教科書が教えない歴史有名人の死の瞬間」 新人物往来社 2003年 ★★
 あの人は、どんな[死に方]をしたか?意外に知らない日本史有名人の最晩年の姿と臨終劇!
源 平
 源義経(自刃)文治五年(1189)閏四月三十日
鎌 倉
 一遍(病死)正応二年(1289)八月二十三日
室 町
 太田道灌(暗殺)文明十八年(1486)七月二十六日
 飯尾宗祇(病死)文亀二年(1502)七月三十日
戦 国
 武田信玄(病死)元亀四年(1573)四月十二日
江 戸
 春日局(病死)寛永二十年(1643)九月十四日
 天 海(病死)寛永二十年(1643)十月二日
 平賀源内(獄死)安永八年(1779)十二月十八日
 伊能忠敬(病死)文政元年(1818)四月十三日
 小林一茶(病死)文政十年(1827)十一月十九日
明 治
 正岡子規(病死)明治三十五年(1902)九月十九日
 

「埼玉の女たち」 韮塚一三郎 さきたま出版会 1979年 ★★
3 『伊勢物語』に載る三芳野の里に住む母とむすめ
9 源義経の正室 河越重頼の女
20 女医第二号 生沢クノ

「名門高校人脈」 鈴木隆祐 光文社新書 2005年 ★★
第1章 名門公立高校人脈
 埼 玉
  (前略)
 最近では、水泳部の男子シンクロナイズド・スイミングをテーマにした映画『ウォーターボーイズ』の舞台として知られる県立川越高等学校(川越市/1899年創立/第三中学―川越中学)。制服もない同校は、このような「本気の遊び心」が生徒のモットーで、そのあたりが浦和高校との違いだろうか。
 川越中学に学んだ平和運動家吉川勇一(1931〜/旧制浦和高―東大・文)は、共産党を除名後、65年のベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)結成に参加、事務局長をつとめ、ベ平連解散後は予備校の教師をしながら、盟友小田実らとさまざまな形で平和運動に関わっている。現在の連合会長笹森清(1940〜/明大中退)も同校出身である。
 作家では、「浅見光彦」シリーズなどの旅情ミステリーで知られる内田康夫(1934〜/東洋大・文)が筆頭に挙げられる。内田はコピーライター、CM制作会社社長を経て、四〇代半ばでデビューと遅咲きながらも、今では超人気作家として不動の地位を築いている。
 1994年に『石の来歴』で芥川賞を受賞した後、『「我が輩は猫である」殺人事件』『鳥類学者のファンタジア』など純文学のジャンルに留まらない作品を手がける作家で近畿大学教授の奥泉光(1956〜/国際基督教大―同大学院)、2004年4月、高遠菜穂子さん、今井紀明さんとともにイラクの武装勢力の人質となり、三日間の拘束の後に解放されたフリージャーナリストの安田純平(1974〜/一橋大・社会―信濃毎日新聞)も同校の出身だ。
 放送界には、日本テレビ系『ウェークアップ!ぷらす』司会の読売テレビ報道局解説委員辛坊治郎(1956〜/早大・法)、サッカーへの深い愛情に裏打ちされた確かな実況を聞かせると評判のNHKアナウンサー山本浩(1953〜/東京外大)、テレビ朝日アナウンサー小久保知之進(1970〜/早大・政経)がいる。川越高校野球部のエースだった小久保は、伝統儀式≠ニもいえる卒業式におけるパフォーマンスで、卒業証書を受け取る際、校長の目の前でお尻を丸出しにしたという逸話が残っている。
 この野球部からは、プロ野球へも何人か人材を輩出しているが、なかでも現在ヤクルトスワローズに所属する杉本友(1973〜/筑波大)は、97年にオリックス・ブルーウェーブ(現・オリックス・バファローズ)に入団する際、国立大出身初のドラフト一位として注目を集めた。
 合格実績は、東大9名、一橋大7名、東京工大10名、早大104名、慶大30名、上智大36名と、県下の公立高では浦和に次ぐ位置を占めている。
  (中略)
 県立川越女子高等学校(川越市/1906年創立/川越高女)もまた人材の宝庫だ。東京外国語大学英米語学科からプリンストン大学大学院を経て、フジテレビのアナウンサーとして活躍、現在はTBS系『報道特集』のメインキャスターをつとめる田丸美寿々(1952〜)、『ニュースステーション』から『スーパーJチャンネル』と常にお茶の間の顔でありつづける小宮悦子(1958〜/都立大・人文)という二大女性キャスターを生んでいる。
 雑誌『olive』などのファッションページや、家庭用台所洗剤のキャラクターなども描くイラストレーターの上田三根子(1949〜)も同校の出身だ。
 合格実績は、京大2名、一橋大2名、東工大3名、お茶の水女子大4名、慶大9名、上智大18名の一方で早大81名、明大83名、法大53名と、わりにバンカラな気風の私学への合格実績が高い。

 県立川越高等学校  川越女子高等学校

(ブログ)内田康夫と川越

田代三喜
「歴史と人と 埼玉万華鏡 柳田敏司 さきたま出版会 1994年 ★★
 第2章 武蔵探照/医聖≠ニ慕われた田代三喜
 室町時代の後半、応仁の乱以後は、治世が乱れ、全国各地で合戦がくり返され、戦国時代と称される時代である。このような乱世にあっても、よく伝統文化をまもり、芸術を愛し、文化の向上に努めた者もいた。その多くは僧籍に身をおいた者である。世に医聖と称された田代三喜もその一人である。
 三喜の祖は伊豆に住し、源氏に従って平家追討に功績のあった田代信綱といわれ、八世の孫兼綱のとき伊豆から北武蔵の越生の地(現・越生町)に移住し、居を構えたと伝えるが、その理由は明らかでない。この越生の地で寛正六年(1464)四月八日に出生したという。この地は古くから文化が開けた所で、西に秩父連山を望み、越辺川の清流が流れる丘陵台地上の景勝地である。近くには古刹報恩寺などがある。
 一五歳のとき志をたて禅宗の寺に小僧として入門、基礎的な学問を身につけた後、下野(現・栃木県)の足利学校に進み、特に医学に意を用いて学んだ。長享元年(1487)二三歳のとき、遣明船で明に渡り、漢方医学を中心に勉学に励んだ。明で苦学すること一二年。当時、明国の最新の医学と薬学を修学、身につけ、多くの貴重な医学書を携えて帰国した。
 帰国した日本は正に戦国乱世の時代となっていた。帰国して一時鎌倉の円覚寺に住していたが、医学の力を認められて、足利学校に移った。これを伝え聞いた古河に難を逃れていた足利政氏の招請により古河に移り居を構えた。ここで僧籍をはなれ、医者として独立し、妻を迎えた。古来から仏教と医学は不可分の関係にあり、治療、療養施設、投薬などは寺院の仕事の一部であった。現在でも世界各地で宗教僧が民衆の病などをみている地域があるのも、古代そのままの姿が今日に伝えられているからであろう。盲目の名僧鑑真は医者としても名医と仰がれ、道鏡が称徳天皇の病気平癒のため重く用いられたことは名高い。三喜の頃もまだ医学は仏教に付随した学問であった。三喜が最初に僧となったのも、そういう事情があったからといわれる。
 医者として独立してからは一般の民衆、公家、武家を問わず、診察、治療にあたり、多くの患者を相手に施薬して人々に尊敬の眼を向けられていた。しかし古河公方の地位をめぐって足利政氏と子の高基の争いがあり、それを嫌って大永四年(1524)、生まれ故郷である武蔵の地に帰ってきた。
 以後、武蔵の川越、生地の越生などを中心に明で修得した医術と投薬をもって関東各地を往来し、起死回生の技術を駆使して庶民の面倒をよくみたので、世の人々に医聖と仰がれるようになった。三喜が作り出した野草からの薬も多く、苦い薬に甘い味をつけて飲みやすくするなど、薬学の分野での功績も大きい。越生の「一里飴」もその一つといわれている。
 三喜は各地を歩き名医と親しまれたが、書もよくし、江春庵、廻扇、善導など多くの別号を持つとともに、呼び名も田代三喜、越生三喜、古河三喜、川越三喜などいろいろある。
 天文六年(1537)二月十九日、古河でこの世を去ったが、時に七三歳であった。戦乱の世にあって合戦における負傷者、病弱者を相手に世に尽くした三喜は、世界最長寿国となった日本における最初の民衆医といえるかも知れない。
 なお弟子の養成も行ったが、そのうち曲直瀬道三は三喜の医学をさらに発展させ、その子孫は、江戸幕府の侍医となり、また京都方面の公家間に重用された医家として名高い。
 三喜の生地には最近、記念碑が立てられた。 

「川越大事典」 川越大事典編纂会編 国書刊行会 1988年 ★★★
 第14章 人物/近世以前/田代三喜
 寛正六年(1465)〜天文六年(1537)。戦国時代の医者。日本の医聖と呼ばれる。河越に生れた。祖先は伊豆の出身で屋島の役で戦功を立て、その後源氏に従って関東に下り越生に住み、代々医者となって関東武士の病の治療にあたったと言われる。父は田代兼綱といい、足利時代に河越の荘を治めていた上杉持朝に仕えた。三喜は、一五歳のとき妙心寺派の寺に入った。当時は僧籍を持たなければ医者になれなかったからである。その後古河公方足利政氏に召され、古河に移り住んだ。下野の足利学校で医術を学んだ三喜は、長享元年(1487)二三歳のときに遣明使に従って民国へ渡った。医術の研究のために大陸諸州を歴遊、一二年間各地の名医に入門して研鑽を積み、ついには金の李東垣、元の朱丹渓の医術を修得した。明応七年(1498)三四歳の三喜は六書を携えて帰国、李朱の医学を初めて日本に紹介した。三喜は日本国内広い地域にわたって活躍し、その功績は高く評価された。その名は、河越三喜として知られていたが、晩年には古河の三喜≠ニも称された。京都の曲直瀬道三(永正四〜文禄三)も三喜の門下に入り、彼の教えを受けている。また埼玉の名医としてし知られている糟尾養信は曲直瀬道三から医学を学んでいる。天文六年二月十九日、三喜は七三歳で古河で没した。遺像は古河の一向寺にあったが焼失した。三喜の著書として伝えられるものに、「捷術大成」「印可集」「諸薬勢揃」「當流利極集」「直指伝」「夜談義」「薬種穏名」「医案口訣」「三喜十巻書」などがある。           <平松>

「日本の医学 ―その流れと発展― 日本歴史新書 石原明 至文堂 1966年 ★★
第六章 実地医術の勃興
 2 入明の新興医家

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 田代三喜(たしろ さんき)
1465〜1537(寛正6〜天文6)室町後期の医師。(生)武蔵国越生。(名)道導、号を意足軒。
少年時代僧籍に入り、やがて医学を足利学校主の利陽に学び、23歳の年から12年間、明(中国)で李・朱医学を修めた。鎌倉・足利に住み、のち下総国古河に移って当地で没した。初代曲直瀬道三は門弟。

奥貫友山
「奥貫友山」 佐藤繁編著・発行 1979年 ★★★
  −目 次−
奥貫友山小伝
  一、我が故里の偉人
  二、生立ち
  三、寛保の洪水
  四、救済
  五、川越城へ召さる
  六、妻夕歿す
  七、遺書
  八、嵐の前
  九、打ち毀し
  十、弟 正悦
 十一、その人の記録
 十二、友山歿す
 十三、後日譚
 十四、奥貫塾と奥貫正孝、正康
奥貫友山関係資料 附 系譜・略年譜
 史蹟 贈従五位奥貫友山/奥貫友山墓碑/友山先室夕墓碑/友山継室山墓碑/奥貫正孝墓碑/奥貫正康墓碑/荻野氏略系譜/奥貫氏略系譜/友山前後の系譜/友山前後の系譜の参考図/奥貫友山略年譜
〔付録〕川越金石文
 高橋泰翁墓碑/森下無疆先生碑/川越城趾碑
参考文献

一、我が故里の偉人
 二十数年前、私の学んだ小学校の職員室脇の廊下に面して江戸時代の学者の肖像画が額にして掛けてあったのを記憶している。後新校舎への移転等があり、その額はどうなったか母校を訪れた事がない故定かではない。その肖像の人こそ小学校三四年生の時担任だった中田先生から「江戸時代洪水の時、村を救った恩人奥貫友山先生である」といろいろ教えられ今だに私の脳裏から去らない。
 私の故里埼玉県入間郡南古谷村「現川越市」で江戸時代は世々川越藩領で周辺を荒川と新河岸川「村の人は内川と云う」に囲まれ見渡す限り水田地帯で、その上低地で、昔からよく水害を被った地域であった。
 祖父母の代、明治四十三年の洪水は床上の硝子一と骨を残して水に漬った程で、近きは昭和十六年にも洪水に見廻れている。そのような訳で、村人は洪水に対して非常に神経質になっていた。筆者が記憶するに昭和二十二年九月荒川の堤防が切れるのも時間の問題で、家財道具を高台の親戚や知人の家へ預けたり、二階にある家は二階、平屋の家は屋根裏へ家財道具を上げる等大変な騒ぎであった。幸洪水はなくほっと安堵した事があった。大雨が降り続くと「又大水が出るのだろうか?」と年寄は不安そうに顔を曇らした。そして「五平次様(奥貫家)へ足を向けて寝られない」と云って、奥貫友山の救済の事を話しその徳を頌(しょう)していた。大尽だから救済出来たと云う人がいるがそれは違う。実際大尽程人に恵はしないのだ。友山の家は財力もあったが、友山の学問は死学問ではなかった。学問の素養が救済を成さしめたのだ。人に恵を与えれば、その恵が後に何らかの形で返って来る。後の明和騒動の時、一揆から奥貫家のみは打ち毀しを免れたと年寄はよく云っていた。

「埼玉史談 第33巻第3号」 埼玉郷土文化会 1986年10月号 ★★
 奥貫友山と寛保の洪水  佐藤繁
 序 章
 寛保の洪水
 救 済
 終 章

西川練造
「幕末維新埼玉人物列伝」 小高旭之 さきたま出版会 2008年 ★★
(32)西川練造 ―清川八郎らと尊王攘夷党を結成した儒医―[川越市]

内海次郎(二郎)
「龍馬と新撰組 <文>で読む幕末 管宗次 講談社選書メチエ 2004年 ★
第二部 新撰組のインテリたち
1 伊東甲子太郎
 新撰組入隊
 甲子太郎の「同志」たち
 妻うめ女の悲劇

 内海二郎(次郎)

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 伊東甲子太郎(いとう きねたろう)
?〜1867(?〜慶応3)幕末期の新撰組隊士。(名)摂津。
常陸国志筑藩士。

佐々木玉次郎
「埼玉民衆の歴史 明治をいろどる自由と民権の息吹 中沢市朗 新埼玉社 1974年 ★★
 第8章 黎明期社会主義の人びと/1 活版工佐々木玉次郎

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作成:川越原人  更新:2011/12/3