大川平三郎の母親は、渋沢夫人の姉である。その縁をたよって、大川は明治五年十三歳のとき上京し、渋沢家の書生となった。
渋沢はこのとき三十三歳だが、家人に「殿様」とよばせていた。大川少年は朝早く起こされて「殿様」の居間から玄関まで掃除をし、それから本郷の壬申義塾にやってもらった。余暇には英語を独習していた。
大川家は代々剣客で、川越藩主から士分にとり立てられていた。 しかし明治になると剣道はすたれ、一家は窮乏した。そこで母親が妹である渋沢夫人のところに金を借りにくる。それが度重なると、夫人もいい顔をしなくなり、十六歳の大川少年にむかって父の無能を口にした。
そこで、一日も早く職業について父母の苦労を少なくしてやらねばならぬと思い、抄紙会社にやとってもらって、月給五円の職工になっていたのである。
それから四年目、大川は「建白書」を提出。会社不振の原因を分析し、自分がアメリカで技術を学べば会社は立ち直ると主張した。そして三年間実地体験を積んで帰国すると、生産実績は五倍増、会社は隆盛に向かったのである。
四十歳の渋沢よりも、二十歳の大川の判断力がまさっていたというこの事実は、思考における年輪の問題について、一斎説への有力な反証といえないであろうか。
偉人大川平三郎翁
ぷりんとぴあ(紙のはなし 第9回 紙パルプ工業の偉人大川平三郎)
榎本弥左衛門は、近世前期に川越・江戸を中心にして活躍した豪商である。寛永二年(1625)に生まれ、貞享三年(1686)に没しており、その間『万之覚』『三ツ子より之覚』という記録を遺しており、この時代の商業活動を知る上で、全国的にもたいへん珍しい資料となっている。
榎本家は修験の出自で、覚書を遺した弥左衛門忠重で四代目にあたるが、すでに父の代から手広く商売を営んでおり、藩制草創期の川越藩と強いつながりをもっている。弥左衛門忠重が元服のときには、川越藩士の松平八右衛門が烏帽子親になっており、承応二年(1653)に四代目を襲名するときには、家老や町奉行に挨拶に行っているが、これらは当時の上層商人が支配機構の一端を担っており、藩役人と強い結びつきがあったことを示すものである。
四代弥左衛門には、兄喜兵衛と弟五郎兵衛がいるが、弟の五郎兵衛とは長年にわたり相続争いをしている。兄の喜兵衛は、四代目の弥左衛門が家督を継いだ年に川越の名家である加茂下家の養子になっており、兄との争いは記録されていないが、弟の五郎兵衛は両親の後押しもあり、争いが終結したのは弥左衛門五五歳のときである。このことは、近世初期においては武家の場合と同様に、上層の商家においても長子相続慣行がまだ固定化していなかったことを証するものである。
四代目弥左衛門は若いときから商売に力を入れ、自家の財産を増大させていくが、このような商人としての実績が、四代目を襲名し弟との和解につながったとみられる。
弥左衛門の扱った商品は多岐にわたるが、主として塩と穀物の売買をしている。塩は江戸の問屋から仕入れ近在に売り捌いているが、値段の上下の激しい商品なので、仕入れをするときの「目利き」や、販売の時機をうまく見定めるなど、商人として才覚を要する商品である。当時江戸では上総・下総(現、千葉県)産の塩も売られているが、瀬戸内産の塩が大量に入ってきており、天候や荷の江戸入津量により値段の上下がたいへん大きいものであった。榎本家は江戸に店をもち、仕入れ仲買人として「せり」に参加しているが、弥左衛門は「江戸中買之内、一番なみの塩目ききしやと、ほめられ候」と自慢するほど塩の仕入れには力を入れている。
弥左衛門は一五歳のときから塩の販売にでているが、「市」での直接販売と仲買人を通じての販売と両方の取引を行っている。市での販売は川越をはじめ、松山(現、東松山市)・今市(現、越生町)などで行っており、「売子衆」を使っての販売も行っている。塩仲買人との取引は近在の者も多いが、遠く秩父の仲買人とも大量の取引を行っている。
弥左衛門の商いの中で、穀物も大きな割合を占めている。取り扱いは米・大麦・小麦・大豆が中心であるが、米は近在での買い付けのほか川越藩の蔵米も扱っている。大麦なども米と同様近在での買い付けが多いが、ときには伊豆の韮山で買い付けるなど、遠方との取引も行っている。
穀物のほかにも種々の商品を扱っているが、八王子や栃木などで「たばこ」の買い付けをしているので、当時急速に普及し始めた「たばこ」の売買も行ったものとみられる。また干鰯(ほしか)の仕入れも行っているが、これもこのころ急速に需要が高まっており、常陸(現、茨城県)の浜などから大量に仕入れている。
奢りの沙汰
武蔵の川越に榎本弥左衛門という商人があって、寛永から天和ごろまでの覚書を残している。それによると、寛永の末ころは江戸の御繁昌は日の出の勢いで、江戸の町人は羽二重・りゅうもん・紗綾・縮緬などを着ているので、川越でも少し富んだ町人の家では、子供にふだん絹や紬の着物を着せ、よそへ行くときには紗綾・綸子を着せたという。
こういう傾向を幕府が放任していたわけではない。倹約令はたえまなくだされている。寛文三年(1663)八月に、「武家諸法度」についで「旗本諸士条目」がだされ、忠孝・文武の道を守らせ、軍役・兵器の備えをさせているが、同時に生活上にもこまかい規定を設けて奢侈を禁じている。婚礼の儀式を華美にしてはならないこと、大身であっても、長柄つり輿三十梃・長持五十棹を越えてはならない、振舞いの膳は、正儀の饗応のほかは木具、盃の台、金銀彩色、糸の造花などは禁止する等々。
こうした制限は、すでに華美な生活を推測させる。しかもこの制限を守らせるために、大目付や目付にたいして厳重に監視させ、老中らが率先して古い衣服を着し、食事の菜の数をへらしてみせたのである。
(後略)
奢侈品制限の世評
翌天和三年には、衣服その他にきびしい制限令をだして、小袖一反に銀二百目以上のものを作ることを禁じ、長崎の輸入品でも奢侈品や娯楽品の買入れを禁じた。これらは江戸の市民には、はなはだ評判が悪かった。しかし、川越に住む商人榎本弥左衛門の見方は違っていた。
「天下の大名・小名・御旗本、みなすりきり(貧困)である。ようやくぎりぎりに暮している大名は十人もあるかどうかである。下万民も、みなすりきりである。今年は豊作ゆえ、食物は満ち満ちている。天下の御仕置をありがたく存ずべきところを、諸人は存ぜずに、世をうらむのはおろかなことである。延宝六、七年ごろは、江戸の町、また両国橋や舟の上でも、暮六つ(日没ごろ)より明六つ(夜明けごろ)まで、百人、二百人、千人までも、そのところに集まって伊勢踊りをするように乱れていた。天下のあぶないときであったが、諸人が一人も存じないでいた。延宝八年より当上様の御代になり、聖人の御教えでなされるから、心がつまると世をうらんでいる。みなおろかなことである。たとえば百石取りの侍は八十石で、千石取りの武士は八百石で世帯をたてるように仰せ出させたなら、百姓もしいたげられないのである。まず、さしあたって目に見えるのは、天下の百姓がゆるやかになったことである」
江戸で町人が贅沢をするのは、武家方の支出が多いためである、そのためには武家が農民から税を多く取らなければならない。江戸の表面的な繁栄は、農民にとって迷惑千万であった。弥左衛門はさらに、こうもいっている。
「惣じて寛文八年より後二十年は、川越藩の蔵米は十両に二十俵がえ、一両に七、八、九斗がえしたところ、天和三年・貞享元年には一両に一石六斗に下がったので、下々にはひじょうにらくになった。しかし大名衆は、米がいっぱいに下がったから金飢饉で、下々に金をださないから、下々も飢饉と同じことである。商売がなくて裏店の者は暮らしができないので店賃を払わないから、大家は追い出す。しかし大家も店賃を取れないから、苦しくなって、商売は五年以前に十であったものが、この両年は三分になった」
ここに農民と領主と江戸の商人との関係が示されているが、江戸市民の不満が、すぐに悪政を意味するというものではなかった。
近世の農民生活は自給自足が基本であったが、年貢納入のための銭貨の獲得や、塩・農具など自給できない物資を調達するため、戦国時代以来、県域の各地に開設された六斎市はいぜん重要な役割をもっていた。とくに、川越・忍・岩槻・松山・鉢形など小田原北条氏時代の支城の城下におかれた市は、川越が江戸町のみから本町・南町・高沢町・喜多町の五カ町に拡大されたり、鉢形が荒川の対岸で秩父街道沿いの寄居(寄居町)へ、松山が城下から川越熊谷道沿いへ中心地が移るなどの変化はあったが、いずれもあらたに配置された藩の、あるいはその地域の商品流通の拠点となった。
(中略)
このような在方の市はそれ自身では完結せず、大きくは江戸との結びつきで成り立っていた。その顕著な例が、十七世紀に川越城下町の商人として活躍した榎本弥左衛門の活動である。榎本家は在方市での主要な商品である塩の仲買を業とし、弥左衛門の父の時代から江戸に出店をもっていた。当時、江戸周辺で取引された塩には、下総国行徳(千葉県市川市)を中心に生産される地廻り塩と、遠く瀬戸内海周辺で生産され、塩廻船で江戸に運ばれてくる下り塩とがあった。近世初期に瀬戸内海地方で大量生産が可能な入浜式塩田が発達すると下り塩が圧倒的に多くなり、弥左衛門の覚書にも斎田(徳島県鳴門市)、荒井(兵庫県高砂市)などの産地名が頻繁にみられる。江戸に流入したこれらの塩を、弥左衛門は堀江町(東京都中央区日本橋)にあった出店を拠点に買い集め、新河岸川舟運によって川越に運び、みずから城下町や松山(東松山市)などの定期市で販売していた。また、秩父や青梅(東京都青梅市)など遠隔地の市では、地元の売子をつうじての委託販売も活発に行なわれていた。こうして弥左衛門は、瀬戸内の塩を江戸を経由して川越城下町周辺の市に売りさばくとともに、一方では川越藩の蔵米や周辺農村の雑穀、さらには八王子や栃木周辺で買い集めた煙草などを、塩の帰り荷として江戸に運んでいたのである。
才覚の商人
小江戸というべき川越の豪商榎本彌左衛門は、寛永十七年に十六歳の時より、江戸へも商に参り、此時より少し分別(ふんべつ)つき候て無理成ものには、出合不申候様に仕候、同七月中彼権十郎、我をころし、可申とて、忍びて川越へ参り候えども、不叶して、江戸へ帰り候由にて聞候事(『榎本彌左衛門覚書』・川越史談会)とあり、ついで翌十八年には十七歳の時より、彌々(いよいよ)江戸へつとめ、商に情を入れかせぎ候間、父母御満足被成父榎本彌左衛門殿書置に倅れ牛之助は親に孝行にて、商に情を入れかせぎ申候間、居家敷諸道具、田畠、下人不残(げにんのこらず)、牛之助に譲り申候と、書置被致、我等に見せ被成候間彌々あき内にも、しょたいにも情を入れかせぎ申候(同上)とのべている。そのうえで、榎本彌左衛門は、いかに江戸が繁昌して、江戸の町人が羽二重(はぶたえ)りゅうもん、さやちりめんなどをきても、川越がこれをまねては、身上(しんしょう)をつぶしてしまうとのべ、これを着ることは間違いだとのべている。
彼の心配したように、まもなくそのようなことをした人々は、家屋敷をうり、他国へまいり、みな身上をつぶしてしまい、川越の町人も変わってしまったとかいている。また、二十歳のとき、大飢饉(ききん)にあい、川越の蔵米は暴騰(ぼうとう)した。江戸に塩がきれてしまったので、四十一両の金をふところに古河(こが)(茨城県)に煙草(たばこ)を買出しにいっている。これなどひとつの才覚だと人にほめられたとしている。
商に情を入れる
それでも二十代のときには、たとえよいことでも人間ができていないゆえ、十の中四つほどしかできなかったとしている。それでも次第に商には力がつき正保三年二十六歳のころには、「江戸中買の内、一番なみの塩目きき者と、賞められ候」とあるほど自信をもっている。かくして人々のとりなしもあり、承応(じょうおう)二年二十九歳のとき、父母隠居となった。そのとき我等に御居跡御譲り被成候て御ゆずり金七十七両也、此内半分は元金也、半分は帳面の掛金なり、諸道具も大方御隠居へ御取被成候、則ち利足金四十両、水谷庄右衛門殿より、又廿三両川越にて、伊豆守様より、蔵米千俵九人へ拝借金の内、御隠居より借り本手に致し、商仕候、此時我等女房を顧み、母子へ孝行を仕くれよと申候その結果、彼の商売は世ざかりになっている。考えてみるとこれも榎本彌左衛門が父よりいただいた本手(もとで)をもとに江戸・川越・松山にていろいろな商売をして次第次第に金を増やしていったことによる。そしてときに父の指導にあずかるところが大きかった。それが万事巧く展開しえた理由となったのである。
こうしたなかで、明暦三年の大火にあった。この明暦大火は、「こびなたより火事出て、御城御天守迄焼申候、両日の内、江戸の町三里四方、皆やけ赤土ばかり残り申候」そうしたなかで川越に帰っている。ところが翌年には父母女房に先だたれ、落胆し、途方なくなったが、それでも塩買出しに江戸へ出かけている
その後、後妻を娶(めと)ったが、身体をそこないあまり快調でなく、「四十六歳の時、商も、身代も、是よりよわり可申候と有候」とのべているように、どうも気力を失っており、みずからも心が七分ぐらい力をもつものであるとのべている。
奢侈のいましめ
延宝八年の五十六歳の回想によると、先述した寛永十九、二十年のころのことを、十八、十九両年斗り絹紬の、いしょうを着申候、あつけれとも、人まねは三つ宛着申候、此時は江戸、日の出御繁昌にて、江戸の町人のいしょう、さやはぶたへ、りゅうもんを着申候間、我は絹紬着申候也とのべて、そのころの江戸が、日の出繁昌を続けていたと強調している。
彼はすでに五十六歳になっていたためか、かなり禁欲的になりすぎている。これへの反省をこめて次のようにいっている。塩商は大上り、大下り、有候て、大事の商にて候、幼少より只今迄、相勤め申候間、歳をとられ心が浮雲の様々罷成、大物忘れ仕り、世渡りにさわりいでき可申は、しゃみせん、すく人成と存候事ともしるして、浄瑠璃(じょうるり)におぼれることを戒めている。これらをよむたびに、榎本彌左衛門の生活心情をしることができるが、しかし彼自身の若き日の姿よりは、もっときびしさを示しているのではないか。
「家しょくに情を入れ、身上を仕上候が本也」という考えは、若き日より一貫している。とくに「商人は買出しに情を入、時を考にささわり申候事」とものべて積極性を失っていることに自嘲(じちょう)している。またしゃみせんをすく人、あやふし、じょう留り、こうた、にのせ引慰故也、じょうるりは、偽り多く、人におもしろがるように作り、ふしを付て、かたる、はやりうたは、道理う可きものにて、悪事たは事多く、是にふしを、つけたい候を、しゃみせんに、のせおもしろがり候、心にては、一生の内、真実の道理を存ずる人稀なるべし、はやく身上目利を能して、下りどうげに能物を下、直に買収、五分一割宛、やすく売候へば、大分に商事有て、次第次第に、分限りなり候、乍レ去むよく威儀仕間敷候、昼夜ともに、思案工夫仕り、くわれいを仕間敷候、分限の五分一に身を持、世を渡り可申候事とのべて、生活に対する自制をとき、奢侈(しゃし)をいましめている。
近世文化の広がりとともに、埼玉県域にも多くの江戸文人が往来することになる。このことは反面、江戸に蝟集(いしゅう)する学者や文人たちが、種々の動機から地方にそのスポンサーを求めたことを意味する。また地方においても、豪農や豪商のなかに江戸文化に対する強い憧憬があり、自ら江戸に遊学する人々が増加していたという現状があった。そしてこれらの豪農・豪商層が、スポンサーとなり得る経済力をもつようになっていたことも、これらの現象を助長したといえるであろう。
(中略)
海保青陵(かいほせいりょう)も、埼玉の地と関係をもった一人である。彼は寛政元年(1789)以降各地を遊歴し、著書によると川越にほぼ一年在住している。『御衆談』は川越城下に住んだ返礼の意味から著作したものといわれ、地域の経済の活性化を図る方策が記されている。また有名な『升小談』(ますこだん)も、川越出身の商人に与えたものといわれ、特異な経済論を展開している。青陵は多くの著述のなかで、川越藩を意識して献策をしている。その成果については不明であるが、短期間ではあったが近在の豪商・豪農とも交わりをもっており、少なからずの影響を与えたといえよう。
(後略)
川越絹では売れない
丹後(京都府)宮津藩家老の家に生まれながら海保青陵は積極的に日本各地を歩いて、
「この地域にはこういういい品物があるのだから、もっと大量に生産して大都市に売りだすべきだ」
とすすめて歩いた。そのひとつに川越絹≠ェある。川越は、歴代徳川幕府でも枢要な役を占める大名の管理する地域だった。現在の埼玉県には、徳川幕府が、
「一国一城令」
を出した後も、三つの城の存在を認められていた。忍(今の行田市)、川越、そして岩槻の三城であった。川越藩では歴代の領主が、しきりに産業を奨励したので、絹の生産が名物になっていた。これらの絹製品は、川越平、川越つむぎ、川越八丈、川越木綿などと名づけられていた。しかしこれは地域としての命名であって、必ずしも全国の市場では有名ではなかった。
海保青陵のみた所、例えば絹の大規模な集散地である京都で評判が高いのは加賀絹≠ニ秩父絹≠ナあった。秩父地方でも絹の生産が盛んだった。そしてこの管理にあたっているのは忍藩である。青陵はこの事実に目をつけた。そして川越に行ってこういった。
「川越で作り出す絹だから、川越という地域名をかぶせるのは当然なことです。しかしもっと目を開いて全国の市場の束ねをしている京都に行くと、必ずしも川越絹は有名ではありません。そこでどうでしょう? しばらくは、京都で評判の高い秩父絹≠フ中に川越絹を組み込んで秩父絹として売り出してもらって、やがて川越絹の優秀さが立証されるようになったら独立したらどうでしょうか?」
いまでいえば、すでに定着しているブランド製品の中に新しい製品を組み込んでその名を借りたらどうだということだ。
こんな例は今でもたくさんある。例えば、福岡県で有名なのが博多めんたい≠セ。しかし、よく考えてみれば博多近辺であんなにタラコがとれる訳がない。タラコのほとんどが北海道や朝鮮の生産品だ。しかしめんたいといえば博多というように、ほとんどの人がそういう覚え方をしている。その定着性を活用して、おそらく北海道や朝鮮の方からたくさんのタラコが届けられているのだろう。そしてタラコの生産地では、
「博多めんたいのタラコはうちが届けたものだ」
などということを大声ではいわない。
また、宇治茶≠ニいうのがある。しかし現在の京都を訪ねた人なら誰でも気づくことだが、今の宇治市は大規模な団地が建って、典型的な住宅地になっている。茶畑がまったくないとはいわないが、あれだけの大量の茶を生産するだけの原料が栽培できる土地ではない。
今の宇治茶の大部分は、愛知県西尾市から届けられたものだ。西尾市の脇を流れる矢作川の岸辺に漂う霧が、茶を育てるのに格好の栄養になるということだ。現地の話では、
「宇治茶の80パーセントか90パーセントは、西尾で生産されるものだ」
といわれる。だから西尾茶の生産者たちの中には、確かに、
「宇治茶でなく、はっきり西尾茶というべきだ」
と生産の主体性を主張する人々もいる。が大部分は、
「そんなことをいっても、いきなり西尾茶などといっても客が承認するはずがない。しばらくは宇治茶というブランドを大切にして、その中で生産地としての利益をあげていく方が得策だ」
という人が多い。この主張が現在の宇治茶(実は西尾茶)という構成を成り立たせている。
海保青陵が主張したのもそういうことである。
「大市場に行って、いきなり川越絹≠ニいってみても通用しない。それよりも立派に通用している関東絹である秩父絹の中に潜り込んで、やがて気づいた人が『秩父絹といっているけれどもこれは本当はどこの産品なのだ?』という疑問を持った時に初めて、それは川越絹ですと主張すべきだ」
ということだ。販売戦略である。
こんな知恵が、武士である海保青陵のどこから生れてきたのだろうか。青陵にそういう資質があったとしても、必ずしも先天的なものだけではなかった。彼の金銭感覚は、確かに父親が宮津藩青山家の財政を担当していた時に培われたものではあったが、その後も、前に書いた道具屋の知恵などによってみがき抜かれたっものである。
しかし、川越絹を秩父絹と名乗ることはそう簡単にはいかない。川越絹の方がそう思っても、秩父絹の方が承認するかどうかは別問題なのだ。青陵は、
「これは商人の段階ではカタがつかない。大名家同士の話し合いにしなければダメだ」
といって川越を管理している川越藩から秩父絹を管理している忍藩への交渉を進める。このへんから海保青陵は、
「藩と藩の境を壊す藩際(はんさい)貿易≠フ主張者だ」
といわれることになる。
江戸時代は、「士農工商」の身分制度で、商人は一番低い位置におかれていた。政策としては、「重農賤商主義」がとられていた。商人のやることは、何でもいやしいとされ、また、この社会的地位も一番低いとされていたのである。それを、「いや、そんなことはない。重商主義をとらなければ、日本の経済はいきづまってしまう」と唱えたのが、海保青陵である。彼は、「武士も、積極的に商業活動を行うべきだ」と説いて、日本の全国各地をまわっていた。
ブランド志向を利用して商業活性化
海保青陵は、単に、「武士の商人化」を図っていただけではなくて、今でも強い日本人の「ブランド志向」を活用することを提唱した。もうひとつは、彼が流通の経路を極力簡単にしようと唱えていたことである。
また、情報伝達機関として「飛脚を活用すべきだ」とも言っている。目のつけどころは、なかなか面白い。特に彼は、日本各地の製品が、「ナニナニについては、ドコドコのものが一番いい」と買い手の方が、いろいろなうわさをたてることをこまめに聞き込んでいた。そして、「買い手がそういう気持を持っているのなら、それを逆用すべきである」と唱えている。
現在でも、日本人はこの傾向が強い。衣類についても、そのデザインはフランスのダレダレだとか、時計はドコドコのものだとか、あるいは酒とか食べ物についても、外国に対するコンプレックスを底にしたブランド志向は続いている。国産品で優秀なものが出ても、なかなか、目を向けようとはしない。
また、国内でもこういうことはある。たとえば宇治茶≠ニ呼ばれるお茶がある。が、この大部分が、現在は愛知県西尾市付近でつくられる茶だということは、知る人は知っている。また、静岡茶≠フ名が轟いているので、よその国でつくられた茶も、静岡茶の名をかぶせてもらえばよく売れるということで、大量に持ち込む生産地もある。いずれにしても、ブランド志向というのは、消費者と切っても切れない関係だ。
海保青陵は、丹後(京都府)宮津の出身で、父親は宮津藩の家老だった。れっきとした身分の高い武士だった。が、青陵は、若いころから商業活動に関心を持って、しきりに日本各地を歩いては、そこの産業と自分の経済理論とを結びつけることに熱情を燃やしていた。
埼玉にもやってきた。川越に長く滞在している。
川越で産業改革案
海保青陵が川越で見たのは、多くの織物だ。たとえば、川越平、川越つむぎ、川越八丈、川越もめんなどという川越≠ニいう地名をかぶせた布製品である。ところが、もともと京都の生まれの青陵にしてみれば、上方の市場で人気のあるのは、必ずしも川越の製品ではない。絹でいえば、特に加賀絹と秩父絹が有名だ。秩父絹はいうまでもなく関東の産品だが、秩父を当時支配していたのは、武蔵国の忍藩(今の行田市)だ。そこで、青陵は、(もし、秩父絹がもっと大量に出荷されれば、加賀絹を凌駕することができるかもしれない)と考えた。しかし、それには、秩父地域での生産が限界にきているので、何か別な方法を考えなければならない。(もし川越の絹が、秩父絹に組み込まれれば、その量は大変なものになる)と考えた。青陵は、そこで川越の関係業者に働きかけた。
「川越絹を、秩父絹の中に入れてしまいなさい」
これを聞いた川越の業者たちは、「何をバカな!」という表情をした。青陵は、説き続けた。
「何といっても、日本の消費者はブランド志向が強いのです。ですから、当面は、秩父絹というブランドを活用した方が得です。いくら、いま川越絹だということを主張しても、上方の市場ではそれほど需要がないのです。むしろ、関東地方の各生産地が手を組み合って、ひとつのブランドを押し出した方が得ではいでしょうか? 悪いことは言いません。まず川越絹が秩父絹の中に入りこむことからはじめてみてはどうですか?」
「……?」
川越の業者たちは、必ずしもいい顔をしなかった。そんなことをすれば、今まで何のために努力してきたのかわからない。あくまでも「川越」の名を天下に高めようと思うからこそ、堂々と事業を続けてきたのだ。それを、一挙に「秩父」の名の中に組み込まれたのでは、今までの努力がいっさい水泡に帰してしまう。
青陵は、続けた。話題を変えてこう言った。
「どうも、関東地方の業者の方々は、お互いに手を組み合うということが不得手のように思われます。ところが、上方ではすぐ手を組みます。そして商売のことを決めるために会所をつくります。が、実をいえば、この会所で飲み食いをしたり、いろいろ相談をしたり、必要な品物を買うのは、全部諸国から集めた絹を売って得た代金の一部なのです。ということは、そういう組合の会所で使う費用を、はじめから小売代金に含めているということです。したがって、一番馬鹿を見るのは織元と買い手なのです。これを変えるために、上方でも心ある藩はいろいろと努力をしています。たとえば丹波の園部藩がそうです。園部藩は、京都に屋敷を持っていますが、この屋敷の中に自分の藩でできた製品を全部持ち込みます。そして、京都の商人に呼びかけて、大名屋敷の中で直売を行っているのです。したがって、小売に至る流通経路のかなりの部分が省略されます。藩の利益が多くなったことはいうまでもありません。ただ、わたしは上方でつくられている組合や、会所を壊そうというのではありません。ひとつは、まずそういう結束力が関東地方の商人にも必要だということです。また、あまり面子にこだわらずに、まず売れる方法から入っていき、やがては、ことの次第がわかって川越絹≠フ名が高まれば、他のつむぎや、八丈や木綿も一緒に名が高まるでしょう。そういうところに到着するためには、やはり段階が必要だと思うのです。いかがでしょうか?」
「……」
業者たちは、相変わらず不得要領な顔をしていた。海保青陵のいうことに一理を認めたものの、まだ踏切るまでには気持が固まらなかった。青陵は、こういうことも言った。
「川越には、織物の他に、煙草の葉がたくさん育っていますね。これは、日本でも非常に名の高いものです。川越の煙草といえば有名です。が、量は必ずしも多くありません。そこで、どうでしょう? 上州(群馬県)の煙草の葉を、思いきって川越の煙草の葉の中に組み込んでしまっては。そすれば、上州煙草も川越煙草の名で売り出せます。そうすると、上州の方も利益を得ることになるのです。つまり、いま縦割りになっている生産地と製品の名を、横割りにして、売れる名のもとに結集して、売り出す方が、お互いに得ではないかということです。そして、関東地方が結束して、織物や煙草だけに限らず、あらゆる品物について、そういう方法を駆使すれば、上方のマーケットをかなり制圧することができるでしょう?」
青陵は、またこう言った。
「この間、利根川を渡りました。河原でしばらく休みました。周りに石がゴロゴロしていました。拾って割ってみると、名品とまではいきませんが、スズリをつくるのにかなりいい石がたくさんあります。河原でただゴロゴロ転がしておくのにはもったいないと思いました。新しく、武蔵スズリとでも名乗って、スズリをつくり、売り出したらどうでしょうか? めずらしもの好きの上方人は、あるいは飛びつくかもしれません。利根川は、この武蔵国だけではなく、ずいぶんと長い流路をもっています。利根川沿いの石でつくるスズリだから、利根川スズリ≠ニでも名づけたら、もっと面白いかもしれませんね?」
そして彼は、こういう提携をするためには、まず、「藩政府同士が、手を結ばなければなりません。商人だけが、横割りになっても駄目です」と強調した。
この結果がどうなったのか、まだ調べ尽くしていなが、とにかく、彼は川越に入り込んできて、埼玉の産業のためにこういう意見を吐いていた。
武士の商人化を目ざす
青陵が川越にきたころの領主は松平家だったが、彼は、
「川越平の生産を、藩士の内職にすべきだ」
と言っている。その理由は、「仕事をしていれば、忙しくおのずから外出もしない。勢い出費もない。逆にゼニも溜って風俗もよくなるのだから、こんないいことはない」ということだ。彼の狙ったのは、「大名家の企業化」であり、「藩士(武士)の商人化」だ。こういう言い方をして、利益で釣ろうとしたのだろう。というのは、彼が見たところ、「武士は内職を恥ずかしがっていた」からだ。
もうひとつ、かれは帳簿の決裁方法について面白いことを言っている。
「関東では、利子を得になった分と考えたり、盆暮の贈答品も帳簿と無関係に扱っているが、上方ではそんなことはしない。上方では、利子をまず元金返済にあててしまう。いや、贈答の品物も売って換金し、元金に入れてしまう。関東ではなぜそうしないのだろう?」
だから、「関東の商業界はスキだらけだ」とも広言していた。
川越藩と忍藩の提携にしても、彼はアテズッポーの思いつきを言っているのではなく、「この件は忍藩のダレダレに話してある。京都でキーステーションになってくれるのはダレダレだ」と、きちんと具体的な名をあげている。根まわしを済ませていた。徹底して商人感覚を持った武士であった。
彼は京都で死んだ。墓は東山の黒谷にある。関東では埼玉を屈指の生産地と見ていた。いろいろ実験したかったのだろう。川越の名手中島孝昌著の『武蔵三芳野名所図会』には、青陵の序文がある。川越がかなり好きだったようだ。
−全米女子プロ選手権を制したゴルフの女王−
男女を通じて、日本のプロゴルファーで世界タイトルを最初に獲得したのは、1977年6月に行われた全米女子プロゴルフ選手権を制した樋口久子である。 70年から米ツアーに挑戦し、8年目に達成した快挙だった。
高校時代、陸上競技の選手だった樋口がゴルフを始めたのは、ゴルフ練習場に勤めていた姉に勧められたのがきっかけ。 高校卒業後、中村寅吉プロに弟子入りして修行、67年に日本女子プロゴルフ協会一期生になる。 以後日本女子プロ7連勝、日本女子オープン4連勝など、快進撃が続く。 国内に敵なしの感があり、ゴルフの女王≠ニ呼ばれた。
通算優勝回数72(うち海外3勝)は日本女子では最多。 現在米ツアーで活躍中の岡本綾子や小林浩美は、この樋口の姿を見てプロゴルファーになったといわれている。
学校建築の画一化
教育統制は教科や行事などの教育内容(内的事項)だけではなく、施設・設備など(外的事項)にもおよぶ。1891年に制定された小学校設備準則は、校地・校舎の基準や、備えるべき教具の種類などを指示した。これは施設・設備の水準を向上させるという役割も果したが、同時に画一化を招いた。学校建築については、この時期に財政的観点が重視されるようになり、「質朴堅牢」を旨とし「虚飾を排す」という方針が立てられた。これにより開智学校や中込学校にあった彫刻や鼓楼のような直接授業に関係のないものは、以後、学校には見られなくなる。さらに20世紀に入るころから、東西にのびた校舎に片側廊下、20坪の教室の直列という標準化がすすんだ。この場合、教室は南北いずれがよいかという議論があったが、学校衛生主事の三島通良らによる「校舎衛生上の利害調査報告」(1901年)で、北側廊下・南側教室に軍配が上げられ、類型化が進行し、兵舎に似た校舎が増えていった。
涙の破門状
(前略)
横井倫太郎は、武州高麗郡平塚村(現在、埼玉県川越市)で、明治三年十月三十日に父時太郎、母徳子との間に生まれた。
時太郎は、馬喰(ばくろう)を稼業としていたが、馬喰仲間とささいなことから喧嘩となり、相手の匕首で腹部を刺されて重傷を負い、その傷がもとで死んだ。病弱な母は、これを苦にして後を追うようにして病死した。孤児となった倫太郎は、父の弟横井時蔵夫婦の間に子供がいなかったところから、時蔵夫婦にひきとられて育てられた。
倫太郎は、子供の時から喧嘩好きで、叔父勘次郎のところへあずけられ、勘次郎の子分となった。
勘次郎は鶴川の勘次郎とも内川勘次郎ともいったが、川越寛次ともいう。武州高麗郡平塚村で万延元年(1860)十一月十日に生まれた。倫太郎よりは十三歳年上である。
鶴川の勘次郎は、鶴川一家の総長で、明治のやくざ者として大きな勢力を張った男である。
そのひと声で米相場を左右し、自ら銀行まで設立した親分だった。
それをいうなよ川越寛次、いえば寛次の名がすたる……(『やくざと抗争』安藤昇)とうたわれたという。また赤坂の縄張りを金で買った(桶谷利太郎談)ともいわれ、現在のやくざ者の間でも神話として伝えられているが、その真相はほとんど明らかにされていない。
鶴川勘次郎は、一刀流をよく使った。川越十七万石松平藩の剣術指南役・秋山洋介に師事して、とくに居合抜きを習得した。居合抜きは目録以上の腕前であったが、さらに東松山の一刀流の辺見太四郎を招いて道場をつくり、腕をみがいて免許皆伝の腕前になった。
このころのやくざ者の親分は、ほとんどといってよいくらい道場を持ち、子分たちは夜明けとともに、約三時間以上も木刀や竹刀を握らされたらしい。
倫太郎は、一刀流にかけては達人の境に達した。竹刀を手にして三年目には、倫太郎は、師匠と試合しても五本勝負で四本は勝った。
倫太郎には、生まれながらの天分があったのであろう。剣道だけではない。博奕にしても賽子を持てば賽、花札を持てば札を自由に操る博奕の天分もそなえていた。
横井倫太郎が二十歳の年には、腕も一人前の大人になっていた。鶴川一家の代貸であり、勘次郎の一の子分で、東京の赤坂に縄張りを持って勢力を張っていた一力大五郎(本名長谷川勇次郎)の子分として、正式に鶴川一家の盃をもらった。
当時すでに大親分であった佃政一家の総長金子政吉、吉原の近藤正吉、神田町の万喜などが兄貴分であったところからみても、一力大五郎の実力のほどがわかるし、その一力大五郎の親分である鶴川一家の勢力のほどもうかがわれよう。
横井倫太郎は、一力一家で、めきめきと男を上げていった。
倫太郎が中盆に坐ると、自然と場が栄えた。中盆というのは、賭場のツボ振りをかねた進行係りだが、これも倫太郎の人徳とかれの中盆のうまさであった。
(中略)
血の海地獄
横井倫太郎が、夜の難波の路上で刺客に狙われた坂桜鷹吉を助けてから、誰いうとなく倫太郎のことを「十文字斬りの倫さん」と渾名するようになった。
倫太郎は、川越の総長勘次郎の道場で、居合抜きを短刀にかえ、さらにこれを自己流の工夫を加えて「十文字斬り」を編み出したが、これを実戦で人を斬るのに使用したのははじめてだった。
倫太郎は相手の小井出源吉以下三人を「十文字斬り」で斬りはしたが、はたして、実際に斬れているかどうかは自信がなかった。しかし、斬られた三人が、びっくりして逃げ出したのを見て、「十文字斬り」が成功したのを知って、かえって、われながら、その技のあざやかさに驚いたのでる。
坂桜は、倫太郎を小料理屋に連れていったとき、倫太郎にそっとたのんだ。
「東京の。どうか小井出源松とその子分が、わいを狙ったことは口外せんでもらいたいのや」
倫太郎は、意外な気がして、
「坂桜の親分。口外しないでくれとおっしゃれば、それはこの倫太郎、口が裂けても口外いたしませんが、それにしてもなぜでござんしょうか」
「そのわけというのはなア」
坂桜は落ち着いて話した。
「わいは、まだ若いのや。極道を稼業にしているうちは、これからも争いごとは、多ますやろ。私の身にふりかかった災の小さなことに、いちいち角を立てて子分たちに仇討はしてもらいとうおまへんのや。今夜は立派に横井はんに仇討をしてもろうとるさかい、子分たちには知られとうおまへんのや。人に命を狙われるのも、極道になった罰でんがな。アハハハ・・・・・・」
坂桜は、豪快な笑い声を立てたが、倫太郎は笑えなかった。
「坂桜の親分は、さすがに偉い」
倫太郎は心の中で、そう思った。
「横井はんに仇討をしてもろうとるさかい」坂桜はそういった。倫太郎の十文字斬りで仇は立派に討ったといっているのだ。倫太郎の顔を立ててくれる坂桜の心遣いに、倫太郎は、この人のためなら生命を投げ出しても悔いはないと思った。坂桜の肩幅が、ひとしお大きく見えた。
(後略)