武田家興亡三代/関東管領上杉朝興を援ける
そのころ、弱体化した関東管領の上杉氏は山内上杉と扇谷上杉との両家に分裂していたが、武蔵国の河越城に拠る扇谷上杉朝興も、相模の北条氏綱(早雲庵宗瑞の子)に圧迫され、没落への一歩をたどっていた。
享禄三年(1530)の正月のことだ。上杉朝興は北条氏綱を討つために、河越城を出馬して武蔵の府中に向かい、援けを甲斐の武田信虎に求めた。
信虎は、これに応じ、武将小山田越中守に命じて赴援させた。越中守は、猿橋に陣し、津久井郡の方向から府中に進撃を開始した。
北条氏綱は、甲州勢の進路を押さえ、四月になって、これを箭壺坂に破った。と同時に、氏綱の子氏康も、上杉朝興と府中において合戦し、これを敗走させた。
上杉朝興が頼りとするのは、武田信虎ひとりだった。そこで、山内上杉憲房の後室をうばい取って、信虎の側室に入れ、歓心を求めたりしている。
信虎が、扇谷上杉朝興と連盟を結んだため、享禄四年(1531)には、甲斐国に内乱が起こった。武田の老臣飫富兵部・栗原兵庫が、甲府を去り、御岳山中に篭り、信虎に叛旗を翻した。しかも、今井信元を誘い、また信濃の諏訪頼満に援けをもとめ、甲府の襲撃を企てたのである。
信虎は、その年の四月、諏訪頼満らの連合軍と、甲斐の塩河原に戦い、これを破った。そのとき、栗原兵庫は敗死し、今井信元は、その翌年、降服している。
天文二年(1533)信虎は、嫡男の太郎(勝千代)に、上杉朝興の娘をめとらせた。その娘は、太郎よりも一つ年上で、十四歳の少女だった。十三歳の少年に妻は不要であろうが、父親の政略のためゆえ、仕方がなかった。しかし、この若妻は、その翌年、身ごもったため、病死したというから、この時代の男女の早熟には驚くほかない。一説によると、この若妻の死は、信虎と太郎(信玄)との間を、さらに冷たいものにしたというが、この政略結婚は、元来、上杉朝興の策略から出たもので、武田信虎にとっては、マイナスだった。
上杉朝興は、それから四年ほどたって、河越で病死したが、小田原北条氏と戦うこと十四度にわたり、戦うごとに敗れたことを深く恥とし、我が亡きあとは、小田原を征伐することをもって仏前の供養とせよ――と、世嗣の朝定に遺言して死んでいる。しかし、朝定も、程なく、北条がたに謀られて、滅んでしまった。
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幕閣、江戸周辺へ集中
重要なことは、幕閣の新首脳が江戸周辺の譜代藩領に集中的に配置されたことで、この傾向は、とくに老中に顕著にみられた。たとえば、松平信綱は、寛永十(1633)年に武蔵忍(3万石)に配置され、同十六年には、忍から武蔵川越(6万石)に転封・配置された。阿部忠秋は、同十二(1635)年に下野壬生(2万5千石)に配置され、同十六年には、壬生から忍(5万石)に転封・配置された。堀田正盛は、同十二年に川越(3万5千石)に配置され、同十五年には、老中辞任と同時に、川越から信濃松本(10万石)に転封・配置されたが、同十九年には、ふたたび関東に戻り、下総佐倉(11万石)に転封・配置された。
若年寄でも、阿部重次は、寛永十五(1638)年に武蔵岩槻(5万9千石)に配置され(こののち老中となる)、三浦正次は、同十六年に下野壬生(2万5千石)に配置された。太田資宗と朽木稙綱は、若年寄就任中は、無城主の譜代大名であった。
以上に対して、のち大老となった土井利勝は、寛永十(1633)年に、下総佐倉から同古河(16万石)に転封・配置され、関東内にとどまったが、酒井忠勝は、同十一年に、武蔵川越から若狭小浜(11万3500石)に転封・配置された。
このように、幕閣の新首脳(とくに老中)が江戸周辺の譜代藩領に集中的に配置されたことで、かれらの江戸定府はつよめられ、この面からも、老中政治はいっそう強力なものとなった。老中政治の展開は、大御所側近の多彩な政治ブレーンによって運営された初期幕政の終結を意味し、役方の番方に対する優位の確立を示すものであった。
明治末期から大正にかけて、探偵小説、冒険探検小説、軍事小説をおおく執筆した江見水蔭(1869〜1934)に、『鯉を抱く男』という時代短篇小説がある。
これは、水蔭が慶長から明治にいたる時代に題材をとって創作した39篇の徳川期小説(『現代大衆文学全集・江見水蔭集』平凡社昭和3年=1928刊)と呼ぶもののひとつであるが、39篇とも、
「諸家の記録を読んで、多大の感興を得た事実を基礎とし、或は古老の直話、土地の伝説などを参酌し、その不明の個処に自己の想像を加え、更に自己の解釈を下したもの」
とのまえがきに見られるように、当時、実際あったこと、あるいは言い伝え、記録などで残っていたことらしく、江戸資料的な価値もある程度認めてよい。
『鯉を抱く男』は、寛永年間(1624〜1643)、武州川越(埼玉県川越市)の城主酒井讃岐守忠勝に召し使われていた、弥五郎という電気人間の話である。江戸時代の随筆『責而者草』(せめてはぐさ)(=作者不詳)に、
「――忠勝専ら御政務を掌られし節、江戸町に抱付き弥五郎という者之あり……云々」
と記録されている実在の人物だ。
鯉とりの名人で、「鯉の弥五郎」「鯉抱き弥五郎」と呼ばれ、この弥五郎にねらわれたら最後、いかなる鯉も逃げるどころか、身動きできず抱きとられてしまう。酒井忠勝は、鯉の真の味は釣ったり、網で漁ったりしたのでは味わえない。鯉は生け捕りのものにかぎる、といい、弥五郎が隅田川から抱きとった鯉を、しばしば三代将軍家光に献上したという。
鯉にかぎらず、いかなるものでも、この弥五郎に抱かれたら、全身がしびれ、動けなくなった。荒れくるう猛牛や突進してくるイノシシさえ、弥五郎に飛びつかれれば、痙攣(けいれん)を起こして生け捕られた。
江戸勧進相撲の初代横綱明石志賀之助と互角にたたかうといわれた怪力の持主で、身長2.3メートル、体重160キロの大男丸山仁太夫も、酒に酔って大あばれしたところ、背中へしがみつかれただけで取りしずめられた。
「酒に酔って朱をそそいだような顔面が、忽(たちま)ち緑青(ろくしょう)を塗ったように真蒼に変じて来た。額には大顆(つぶ)の冷汗を浮べて、苦痛に耐えざる者の如く、全身悪寒に襲われたように、ブルブルと戦慄(ふる)え出して、殆ど留度(とめど)が無いのであった。(中略)そのうちにバッタリ、仁太夫は倒れた」
原文は、こう描写している。
弥五郎の超能力はそればかりではなかった。
いかなる難病の人も弥五郎に抱かれると、なおってしまうのである。
弥五郎が子どものころ、荒川の氾濫(おおみず)で母親が溺死したことがある。その冷たい死体にとりすがって泣きあかしたよく朝、不思議に母親は生き返ったのである。そこで、弥五郎は自分が難病をなおせることに気づいた。
しかし、本当に苦しんでいる病人なら抱いてやるが、普通の病人がいくら大金を積んでも弥五郎は、医者の薬を飲めといって抱くことを拒否した。精根をこめ、念をつくして懸命に抱くので、相当エネルギーを消耗するのだという。
「現代的に解釈すれば、人体ラジウムというか。動物電気の感応というか。時々こうした超科学の人が出現している」
と、水蔭はいっている。
だが、弥五郎にどうしてそのような超能力が身についたかは、はっきりしない。
超科学的奇現象の解説家として一流のアメリカ人、フランク・エドワーズがその著『しかもそれは起こった』に、不可解だが、ごくまれに高電圧の電気を帯びているとしか思えない奇妙な人間があらわれる、として収録しているいくつかの例を見ても、そうした人間蓄電池ともいうべき電気的特異能力は、14、5歳ごろとつぜんあらわれ、成年に達すると、いつかその能力を失ってしまうようだ。
1895年、アメリカ、ミズーリ州セダリアに住んでいたジェニー・モーガンも、14歳のとき、よくわからない原因から不意に電気人間に化した。ポンプの柄にふれると指先から火花が飛び、体に触れたものはすべてその火花で痛みを受け、ペットの飼い猫は近づかなくなった。
1877年、カナダのオンタリオ州ボンダンのカロリン・クレアという少女も17歳のとき、とつぜん、体重が60キロから40キロに減るほど衰弱し、そのあとで電撃を与え、金属片を吸いつけたり追いやったりする、電磁気人間に変身した。
1890年、ハーマシーのメリーランド大学で調査されたルイス・ハンバーガーも、16歳でやはり不意に人間磁石となり、指先で鉄のかたまりを吸引してぶらさげ、指先をひき離すとパチパチいう音がひびき、火花を散らした。
これらすべての場合、少年少女期には注目をあび、物理学者や医学者の研究の対象になるが、成人するにしたがい、忘れ去られている。
鯉抱き弥五郎は、その後どうなったか。水蔭の小説では、相撲の丸山仁太夫の後見役になり、おおいに勢威をはったが、のち大老酒井忠勝の秘命を受け、抱きつき魔の狂人に扮して江戸市中を徘徊(はいかい)、風紀の乱れを正したということになっている。しかし、のちのち、はっきりしたことが伝わっていないところから見て、やはりジェニー・モーガンらとおなじ運命をたどったのであろう。
が、このような電気人間が存在することは、事実なのである。
電気ウナギやシビレエイのように、もともと体に発電器官や発電細胞を有していない人間に、どうしてこういう現象が起こるか、科学的にはまだ完全に解明されていない。
一説であるが、超心理学によれば、原子物理学的にいって電子・陽子などで構成されている人体では、その生理的変化にしたがい、内部でつねにプラス、マイナスの電気が生じているという。このうち、脳波や心臓電流はオシログラフで直接見ることができるが、体の表面にも皮膚細胞の活動で上半身から腕や下半身へ向かって電流が流れている。
弱い高周波電流を流した写真乾板の上へ、手のひらを押しつけ、しばらくしてから現像すると、てのひらのまわりに火花のような放電が起こっていることがわかる。この放電の形は、人体の部分によってちがい、指先からはブラシみたいな形の、胸の皮膚からは炎のような形の火花が立ちのぼっている。これを超心理学・神霊学では《オーラ》と名づけているが、こうした体表面電流や電磁波が、特異体質の人間に生理的に異常にあらわれ、電気人間と化すのではないか、というのである。
弥五郎の鯉抱き電撃法や、抱きつき電気療法も、おそらくこうした特異体質に原因を求めてよいのかもしれない。
堀田家の祖は織田信長の父信秀に仕え、下って小早川秀秋に仕えている。正信の祖父正利の代に徳川家へ臣従するようになったのだが、それは正利の妻が秀秋の老臣・稲葉佐渡守正成の先妻の娘であり、正成の後妻がのちの春日局であったから、正成が徳川家へ仕えるに当って、正利もその縁で行動を共にすることになった。禄高は七百石であった。
春日局は将軍家光の乳母として権威を振った女性だが、今度はその推輓で正利の子の正盛が家光の小姓として召出され、異例の寵を得て十六歳で従五位下・出羽守に任ぜられ(のち加賀守に転)、七百石を賜った。その後もとんとん拍子の出世で、十九歳で小姓組蕃頭になり一万石を賜っている。家光と男色関係があったのだろうといわれるのも無理からぬところであろう。寛永十年には松平伊豆守信綱とともに執政六人衆の一人として老中に列し、同十二年三月には二十八歳で武蔵国川越城三万石の城主となり、十五年には松本で十万石、十七年十二月侍従に進み、十九年七月には佐倉十一万石の城主となった。
彼はこれより先、妻には大老酒井忠勝の娘を迎えている。正に旭日昇天の勢いで、家光もしばしば正盛邸に遊んだといわれるが、戦時ならともかく平時にこれだけの出世をしたのだから、前述のような陰口をいわれるのも当然であった。
それかあらぬか、それから九年後の慶安四年(1651)四月二十日に家光が薨じると、正盛は深く悲嘆にくれ、その日、自邸に帰ると殉死してしまったのである。四十四歳であった。
もっとも、このときに殉死したのは正盛一人だったわけではない。老中の阿部対馬守重次や御側衆の内田正信ら三十六人が家光の後を追った。主君の二世の供をして忠義を全うしたいという武士の思想がまだ脈々と生きていた時代である。追腹をした重次や正信の家臣までが、またその主君の後を追って殉死した。殉死の風習はこれから十二年後の寛文三年(1663)になって禁止され、それまで武道の美風として賛美された殉死は、逆に罪として罰せられることになる。
堀田正盛は、江戸初期の幕府の老中。三代将軍・家光に近侍し、よく家光を扶けて幕府の基礎を固めた。
あるとき、家光が代々徳川家に伝わる秘蔵の長刀を折る、という事件が起きた。その長刀は小鍛冶宗近の作で、500年ほど前の源義経の側室・静御前が所持していたという由緒あるものだった。
それを家光が狩りにでかけるときに持ちだし、飛びだしてきた小さな猪を面白半分で突いたところ、長刀は根元からポキリと折れてしまったのである。
家宝ともいえる長刀が折れたことで、家光は青くなり周囲も騒いだ。
(せっかくの道具なのに、惜しいことを)
(何か不吉なことが起きるのではないだろうか)
そんなふうにざわめいたのだが、その様子を見て堀田正盛が進みでていった。
「おのおの方は、何をお騒ぎになっているのか。いま、この長刀が折れたのは、この上ない吉事ではありませぬか」
「……」
「もし、上様がこの長刀を持って敵と白刃を交えているとき、いまのように根元から折れてしまったら、どうなったであろうか。大変なことになるところだった。相手が小さな猪でよかったではないか。いま折れてくれたことは、むしろ吉事であったというべきであろう」
青くなっていた家光の顔に朱が差し始めていた。
秋元喬知は、江戸幕府の基礎が固まって元禄文化の花開いたころの幕府老中。硬骨漢として知られていた。
この喬知が、冬の二月のうち、ある大名を訪ねなければならないことがあった。その予定を知り、喬知はふと思い立ってそれを厳寒の日とした。わざわざ最も寒い日を選んで大名を訪ねる日としたのである。
そしてみぞれが降りしきる当日。喬知は、わが子の二人を供として連れていった。連れていったといっても、手をつないでいったわけではない。喬知は、駕籠である。そして二人の子は、喬知の考えもあって、その駕籠に徒歩で従わせた。
二人の息子はみぞれが降りしきる中、ぶるぶる身体を震わせ、鼻水を垂らし、手足を冷たくして父の喬知の供をした。
大名の屋敷に着いても、喬知はわが子二人を外に置いたままだった。
帰りには、みぞれは雪に変わっていた。二人の息子の手はかじかみ、歯はガタガタ震え、声もでない。
ようやく家に帰り着いた。家に帰り着くと喬知は、さっそく二人を呼び、まずは兄に聞いた。
「どうであった? 寒かったであろう」
これに対して兄は、まだ寒さが残る様子で、唇をブルブル震わせながら、
「ええ、もう寒くて寒くて。父上に命じられたお供ですが、何度家に逃げ帰ろうと思ったことかわかりません」
と答えた。次に弟に聞いた。すると弟は、
「父上のお供と考えておりましたから、寒さはもとより辛いと思うようなっことはまったくありませんでした」
と答えた。喬知は、微笑みながら二人の答えを聞いたのち、二人を下がらせ、そしてぽつりといった。
「弟の方を、何とか教育しなおさなければいかんな」
これを聞いて傍にいた近臣が訝しげな顔をして喬知に聞いた。
「なぜでございます? お二人のうち、お兄様のほうは軟弱で、弟様のほうは武士のお子様らしく凛々しく感じられましたが」
これを聞いた喬知は、
(長年、私の傍にいるお前もわかっていないのか)
と落胆した表情を浮かべていった。
「兄は、苦しいことを苦しいといった。その気持ちがあれば秋元家に仕える下々の者の気持ちは、そのままわかるだろう。しかし弟は、苦しかったはずなのに平気だったといった。そのような虚勢を張ったり建前で事を済まそうとするようでは、下々の気持ちは永遠にわからずじまいだろう。そうなると下々の気持ちは離れ、弟の方を顧みる者は誰もいなくなる……だから弟を教育しなおそうと思っているのだ」
近臣は、深く恥じ入った。
江戸留守居役との関係
そうしたかれの人となりが、多くの来客を招きよせたのだ。とくにかれが目をかけたのは、諸藩の江戸留守居役の面々であった。大名たちのあいだでは、五百石の御小姓から累進した意次を成り上がり者として反発する空気が少なくなかったが、留守居役たちはそうではない。むしろ、その藩の存在を安泰にするために、幕府の高官や実力者たちと交際ができればこれ以上の望みはなかった。
これまでの実力者で、留守居役にまで声をかけるような幕府の高官はいなかったであろう。実力者は、用人を通じてでもそのようなことはしなかった。しかし意次は、それをしたのである。おそらく松浦静山がみたものは、そうした諸藩の江戸留守居役たちであったろう。かれらは、それぞれの藩の江戸における政治と外交の責任に任ずるものであり、それだけに諸藩のなかでももっとも能力のある重臣の層から成っていた。
意次は、そのようにしてまた「将を射る」ためにまず「馬を射た」のである。いかに大名たちが、家格を誇って、田沼を成り上がり者と卑しめようとも、その膝もとがすでに田沼の手中に入っているのでは、かれらといえどもどうすることもできないであろう。
だから、たとえば川越の城主で老中をつとめる秋元凉朝のごときも、その稜々たる気骨をもってなお意次にはかなわないのである。これは、意次が門前に市をなすといわれるそのすこし前の話であるが、あるとき城中で凉朝は意次とすれちがった。意次はそのころ御側衆であり、凉朝は老中である。そこは当然に、意次のほうからすべき礼があった。
ところがそのとき、意次は、よほど急いでいたらしく、じゅうぶんな挨拶もなくそのまま過ぎていってしまった。さすがに、古武士的風格をそなえていたといわれる凉朝は、それを見のがさなかったのである。かれは、意次の同僚を召したというから、おそらくそれは御側衆の一人大岡兵庫頭忠善であったろうか、それを呼び出して意次の非礼をとがめた。
意次は黙ってそのことばを伝え聞いたが、しかし凉朝のほうでかえってぐあいが悪いような気がしてきた。御側衆がそのようにしてあわただしく通り過ぎていったのは、なにか将軍に火急な用事があったからかもしれないのである。意次の非礼をとがめたほどの凉朝であったが、ついにかれはそのことを気に病んで、老中の席を退いたというのである。だがその真実のところは、お家の大事を思う凉朝の家臣たちが、そのような些細なことにまで田沼と対立しようとする主君に、因果をふくめてのことであったろうと思われる。