このたび、第八回企画展「川越学事始め〜郷土史の系譜を追う〜」を開催し、その成果を取りまとめて本書を刊行いたしました。
川越は県内でも郷土史研究が盛んな地域です。こうした陰には江戸時代における地誌の刊行、各学校による郷土調査、川越市立図書館を中心とした郷土史家たちの活動、在野の考古学研究家たちによる出土品の収集など、地道な研究の積み重ねがありました。
本書では、こうした郷土史の先達たちの埋もれた業績を再評価し、これからの川越における郷土史研究の発展を展望して、「川越学」という問題を提起することになりました。川越学とは聞き慣れない言葉ですが、川越地方をフィールドにした総合的な郷土史研究と規定できます。それは郷土の個人や機関が協力して行うものであり、いくつもの学問分野の地域における総合と考えることができます。
「川越学」実現のためにはどのようなプロセスが考えられるのでしょうか。それはこれからの大きな課題ですが、各分野の基礎的研究とその蓄積が前提となります。郷土の多彩な社会像や歴史像を導き出す中で、「川越学」の大系が確立されてくるのだと思います。今回の企画展が「川越学」にむけた第一歩になれば幸いです。
おわりに、本書の刊行にあたり貴重な資料の掲載をご快諾下さいました所蔵者の方々、また、ご教示いただいた関係者の皆様に心よりのお礼を申し上げ、ごあいさつといたします。平成七年三月
川越市立博物館
館長 黒川五朗
郷土史の「郷土」という言葉は、ドイツで発達した郷土教育のハイマート・クンデ(Heimartkunde=郷土誌、郷土科)という概念が、わが国へ輸入されて成立したものである。ドイツの教育制度を学んだ日本では、明治19年(1886)頃がら郷土という言葉が教育制度の中で現れてくる。しかしそこでは「郷土ニ関スル史談」(明治24年の小学校教則大綱)などと記述されているように、郷土史という言葉はまだ使用されていない。郷土史という語が広く使用されるのは比較的新しく、1910年代以降(明治43年〜)になってからといわれる。柳田国男が大正2年(1913)に『郷土研究』という雑誌を創刊すると、この言葉が一年もたたないうちに普通語のようになってしまったと自ら記しているように、この時期人々は郷土に大いなる関心を寄せていた。
この郷土史に対して、類似した日本古来の言葉として「風土記」や「地誌」があげられる。風土記は日本最古の地誌として有名であるが、この風土記編纂は中国の地理書を手本に作成されたものである。中国では新しい王朝が成立すると前代までの歴史を記し、統治する領域の地誌を編纂するという考えがあった。したがってそれをまねた日本では、地誌といえば統治のための民生資料という傾向が強かった。江戸時代に編纂された幕府や各藩の地誌も、編纂者の手本としてあったのはやはり中国の地理書である。そのため地誌のなかから地域住民の歴史が抜け落ちてしまうのは、やむを得ないことではあった。郷土史が地域の人々の生活の歴史を記述するものであるとするならば、こうした風土記や地誌は郷土史と性格を異にしているといえる。
それでは、郷土史の源流をどこに求めることができるのであろうか。
日本の伝統的な風土記や地誌は、あくまで郷土史の前史として位置付けられるものであろう。特に地誌類は江戸時代に数多く編纂されており、幕府の編纂による『新編武蔵風土記稿』や『新編相模国風土記稿』などの一国地誌や、民間の手になる各地の名所記や名勝図会など多数にのぼる。この様な地誌類が近代の郡村誌や郷土史の性格に与えた影響は否定することができない。
ところで各地の民族集団では、自民族の来歴の時間的認識から歴史的知識がもたらされ、やがてそれらが記述、編纂されるという。とすれば、地域の人びとが自らの歴史を記述する試みには、家々の伝記や神社・仏閣の由緒、名主の記録などに見出せるのではなかろうか。こうしたささやかな地域活動に郷土史の源流を見て取りたいのである。
江戸時代は社会全体が家系や格式を重視する身分社会であった。そのため武士を中心に由緒書や先祖書という記録類が盛んに作成された。その影響は一般庶民などにも及び、商人の中には由緒や先祖の来歴を記録しているものも多い。江戸時代初期の川越商人榎本弥左衛門(1625〜1986)は『三ツ子より之覚』と『万之覚』を書き残している。ともにその時々の見聞や家の商業活動などを記したものであるが、その記述態度が客観的で記録的である。内容も商業活動の他に、当時の政治や社会の事件などにも筆を留めており、川越商人の認識の広がりを知ることができる。
神社や寺院は地域社会の信仰と深く結びついており、その縁起などには地域社会の歴史的記述が入り込む場合が多い。この牛頭天王縁起絵巻は石原町の八坂神社の縁起であるが、そこには縁起奉納の経緯が述べられている。それによると、寛保2年(1742)赤間川の氾濫で多くの人馬が溺れ、神社の記録も流失してしまった。翌年疫病が流行したが幸い神の加護で平癒したため、大沢太郎左衛門が延享3年(1746)に縁起を奉納したと記している。縁起の筆者は太陽寺盛胤で、川越の地誌である『多濃武の雁』を著したことでも知られている。
江戸時代は文書によって町や村の支配が行われた時代でもあった。その結節点にいたのが名主である。名主は領主に対する負担を果たしたり、明細帳や様々な調査に応じるなかで、地域社会の記録を整理することになる。やがて自らも地域社会のことを記録することになっていった。久下戸村の奥貫友山(1705〜1787)は名主として村政に専念するかたわら、成島錦江などについて学問を修めた。友山は明和年間の旱ばつや一揆の記録を残している。
工事や災害などの折、地中から現れる土器や石器に人々は言い知れぬ不思議を感じ、遠い先人たちのくらしに思いを馳せる。考古学研究の第一歩は、まさにこうした人と出土品との偶然の出会いにあった。川越で最も早く発見された考古資料に烏山稲荷の経筒がある。中島孝昌の『武蔵三芳野名勝図会』は志義町烏山稲荷の由来として長禄元年(1457)川越城築城の折出土した経筒について記している。また、寛永15年(1638)の喜多院多宝塔建立の際には勾玉・直刀などが発見された。こうした遺物の発見は人々の好奇心に触れ、地誌や日記などに記録されるようになる。
出土品に関する記録の蓄積は、個別の遺物研究を進める。幕末には国学、尊王思想の高まりの中、国学者たちにより遺跡・遺物の研究が行われる。入間郡石井村(現坂戸市大字石井)の国学者井上淑蔭は明治5年(1872)に『石剣考』を著した。淑蔭は石棒について古文献や民族誌を引用しながら論理的に自説を展開しており、近代考古学を受け入れる素地がこの頃既に整っていたことを感じさせる。日本の近代考古学は明治10年(1877)E・S・モースが行った大森貝塚の発掘に始まる。モースはこれまでの神話の世界にあった原始社会を科学的・総合的に考察した。また、日本文化に深い関心をもち、各地を旅した。明治12・15年には川越を訪れ、地元の蒐集家たちと交流をもつ。ことに氷川神社宮司山田衛居との親交は後年まで続くが、二人が日本人食人説を巡って激しく議論した事が『朝日之舎日記』からわかる。考古学が近代科学として定着するには、なお多くの時間を必要とした。
川越では、行政機関や大学による発掘調査が行われるまで在野の研究者たちによる考古資料の収集・研究が盛んに行われた。彼らが出土品を収集した動機や収集資料の内容は様々である。しかし、彼らが自分たちの生まれ育った地域を中心に活動し、常に郷土に目を向けていたことは注目される。こうした在野の研究者たちの業績は収集資料の検討と併せて今後、再評価されてゆく必要がある。
川越で組織的な発掘調査が開始されたのは戦後のことである。昭和28年(1953)に古代集落の解明を目標として行われた仙波古代集落跡の発掘が市内で最初の発掘調査となった。昭和37年には川越市誌(後の市史)の編纂が始まり、下小坂古墳群や牛塚古墳、南山田遺跡など当地域の中核的な遺跡が調査された。こうした成果は昭和47年、『川越市史 第一巻 原始古代編』となって結実した。
戦前の学校教育では郷土がどのように扱われたのであろうか。郷土史に影響を与えたと思われる郷土教育の流れをたどってみることにする。
明治5年(1872)8月に日本で最初の近代的教育制度である学制が公布された。やがて明治14年に「小学校教則綱領」が制定されると、教育内容の基本が示された。この中で、小学中等科の地理の教育内容に「学校ノ近傍ノ地形ヨリ暫時世界地理ノ総論、日本地理ノ大要ニ及ブ」とある事から、これ以後郷土の地理を扱った地方地誌教科書が数多く出版された。郷土地誌類による地理・歴史教育の時期といえる。
「郷土」という言葉が日本の教育制度に登場するのは明治19年の小学校令が最初である。その中の「小学校ノ学科及其程度」において「地理ハ学校近傍ノ地形其郷土郡区府県本邦地理地球ノ形状…」と記されている。これがより具体的に教育内容に記述されるのは明治24年の小学校教則大綱である。ここでは日本地理の教授を「郷土ノ地形方位等児童ノ日常目撃セル事物二就キテ端緒ヲ開キ」とか、また日本歴史のそれを「郷土二関スル史談ヨリ始メ」と記している。児童の身近なものから理解させるという直観教授思想の影響が窺える。それ故この時期は直観教授思想に基づく郷土教育の時期といえるであろう。
明治40年の小学校令中改正は尋常小学校の義務教育期間を6年に引き上げるものであった。これにともない尋常小学校に日本歴史や地理などが組み込まれた。歴史や地理の準備教育として郷土科が注目されたのはこの時期である。第四学年に郷土科を設けて第五学年における地理・歴史などの基本観念を作れば、より効果的だと考えたのである。そしてこの時期忘れてならないものに、内務省が全国的に推し進めた地方改良運動の影響がある。地方改良運動でも郷土教育に大きな期待を寄せていた。愛郷心を向上させ、郷土に有用なる人材を養成すること、これがこの時期の教育に要請された課題でもあった。
大正期になると児童の生活とか体験を重視する教育運動が興ってきた。大正新教育とも呼ばれるもので、この教育の中にも郷土教育的な要素が含まれていた。大正新教育運動の盛り上がりの中で、文部省は次第に郷土教育に関心を示し始めた。昭和2年(1927)郷土教育に関する調査を実施し、昭和5、6年に全国の師範学校に郷土教育研究補助金を交付、そして昭和7、8年には全国各地で郷土教育講習会を開催した。この時期の郷土教育は上からの奨励という側面をもって運動が展開されたのである。
埼玉県立川越高等女学校(現在の県立川越女子高等学校)の教師と生徒が共同で、郷土の年中行事や昔話などを調査する活動を展開したのは、昭和9年(1934)から13年にかけてである。今日でいう民俗調査にあたる。しかしこの調査は同校の教師と全生徒が取り組むという大規模なもので、民俗資料の集団採集として特に注目された。その成果は同校の郷土研究室が編集した『川越地方郷土研究』や鈴木棠三氏が編集した『川越地方昔話集』にまとめられ、今日に残されている。
同校の郷土研究がこの様な成果を残し得たのには幾つかの要因が考えられる。川越高等女学校が郷土研究に取り組んだ昭和初期は、全国的に郷土教育運動が活発に取り組まれた時期にもあたる。文部省は昭和5、6年に全国の師範学校に郷土研究施設費を交付するなどして郷土教育の振興をはかった。この郷土研究施設費は郷土研究資料の収集に使い道が限定されたいたが、「学校ニ現在不使用ニ係ル教室其ノ他適当ノ場所アルトキハ成ル可ク之ヲ郷土研究室トシテ設備スルコト望マシキ」ものと郷土室の設置を奨励している。それにともない各県の師範学校では郷土室が設置されたが、川越高等女学校の場合は当時の学校長逸見宮吉氏に拠る所が大きい。逸見氏は郷土研究の良き理解者で、学校の寄宿舎の一部に郷土室を開設し、その主任に教諭の山田勝利氏をあてた。山田氏は國學院大學で国史学を専攻し、卒論の過程で民俗学を知ることとなり、やがて柳田国男に師事して民俗学の研究を進めていた。郷土室の運営を任されてからは、渋沢敬三のアチックミューゼアムにならって郷土資料の採集を心掛けると共に、民俗資料の採集と整理を積極的に行っていった。山田氏によって導入された民俗学の手法が郷土の調査をより質の高いものにしたといえる。
教師と生徒が協力して行った調査は、昭和9年の正月行事・伝説の調査、10年の七夕行事・盆行事・歌謡の調査、11年の産育婚姻葬送の習俗・童戯・方言・亥の子行事・昔話の調査など多方面にわたるが、これらの調査は全て春・夏・冬の休み期間中に生徒の宿題として行われたものである。
こうした成果を生み出した川越高等女学校郷土室も昭和13年春に逸見校長が学校を去り、続いて山田氏も昭和14年に退職すると、太平洋戦争に突入するという時局とも相まって活動が停滞していった。
郷土史研究は郷土資料の収集・保存と密接な関係にある。郷土資料は郷土にあってこそその価値を十分発揮することができるものであり、郷土で保存されることが望ましい。川越市立図書館では、その前身である私立川越図書館当時から郷土資料の収集と保存を意識的に行っていた。それは私立川越図書館の設立に尽力した安部立郎の功績が大きいといえる。そして安部立郎の伝統を受け継いだ歴代館長と司書たちは郷土資料の収集を続け、全国的にも高い評価を得るまでになった。
川越市立図書館の郷土資料収集の歴史を振り返ると、大きく二つの時期に分けられるという。第一期は、私立川越図書館の創始者安部立郎とその同志の人たちの収集と、その後を引き継いだ人たちによる活動で、第二次世界大戦前後に至るまでの時期である。この時期に安部らは川越地方の地誌類の写本を集めて校合し、重要なものを翻刻刊行した。川越図書館刊行による川越叢書で、大正5年(1916)の『川越年代記 三芳野砂子』と大正6年の『川越索麺』及び『三芳野名勝図会』の三冊からなっている。またこうした文献以外でも、土器や石器などの考古資料や板碑などの資料も精力的に収集し、図書館の収蔵資料に加えていった。こうした郷土資料充実の伝統は歴代の館長に受け継がれていったが、とりわけ昭和17年(1942)から19年まで館長を勤めた峯岸久治は、近世史料や金石文などの筆写本を多数作成し、郷土資料の集書を多彩なものにした。
その第二期は、昭和25年の図書館法の成立を契機として、新たな郷土資料収集整理大系を組織的に確立した時期である。この時期は郷土資料の目録整備に重点が置かれていた。郷土資料の目録整備が、戦後の郷土史研究の発展に結び付いたといえる。当時の館長・司書を中心に考案された「川越市立図書館郷土資料分類法」は、昭和28年に『川越市立図書館郷土資料目録』として印刷、発表された。この分類法は好評をもって迎えられ、多くの図書館に取り入れられることとなった。
このように川越市立図書館は、創立当初から郷土資料の保存センター的役割を果たしていたが、それ以外にも川越史料調査研究会を設置するなどの調査研究活動や、各種の史料展示会や講演会などの普及事業を併せて行っており、郷土史研究の中心的施設として大きな貢献をしてきたのである。
私立川越図書館の創立に係わった安部立郎(あんべたつろう)は、明治19年(1886)2月漢方医安部大蔵の長男として川越の上松江町に生まれた。県立川越中学校(現県立川越高校)に入学した安部は、五年生のときに同級生とはかって南町養寿院裏の盲唖学校内に「青年文庫」を開設し、一般の利用に供した。その後この活動は「同志会図書館」となって、明治39年1月に南町長喜院の慈善学校跡に開館することになる。一方川越尋常高等小学校(現第一小学校)では、百科辞典が寄贈されたのをきっかけに、菅野政五郎校長が学校図書館を明治43年に発足させた。大正2年(1913)、「同志会図書館」とこの学校図書館が合併して私立川越図書館が発足し、同校の雨天体操場が使われた。しかしこの場所も移転を余儀無くされたため、大正3年に安部が中心となり図書館新築計画を決定し、寄付金の勧誘などを開始することとなった。そして大正4年5月1日、南久保町の鹿戸彦四郎の所有する建物を借りて、独立の私立川越図書館が開館することとなった。初代館長は菅野政五郎がなり、安部立郎は理事長となった。私立川越図書館はその後、大正7年に町立に移管し、大正11年には市制施行と同時に市立川越図書館となって今日に続いている。
このように安部立郎は当初から川越図書館の創設に多くの情熱を傾けてきたが、その一方で『入間郡誌』を著すなど郷土史家という一面ももっていた。川越図書館が郷土資料の収集を継続的に行い得たのは、安部のこうした側面によると考えられる。その安部が、郡制廃止にともなう公会所(川越城本丸御殿の一部を転用していた)の再利用に、次のような博物館構想を持っていたことは注目される。「吾人は公会所を武徳殿とする外、尚其一部を以て、入間郡内の考古館といふ様なものとし、全国各地の珍器宝物を帝室博物館、遊就館等に陳列してある様に、郡内各寺社其他の宝物類中若干を此処に蒐め、一には公衆の展観に供し又一つには其確実なる保存をはかる……それから続いて、此建物の一部を利用し得べくんば、今少しいろゝのものを集め、之を通俗博物館とするも可、又図書館としても悪くはないと思ふ」(「漫言数則」『武蔵新報』大正10年7月15日〔加藤千香子「大正デモクラシー期の地域振興論―安部立郎の思想と行動を通して―」<『埼玉県史研究』第24号 平成2年>より引用〕)
昭和11年(1936)4月、川越図書館内に川越史料調査研究会が設置された。これは川越市が委嘱した郷土研究家に図書館職員も参加して、川越市内の史跡名勝の調査・保存や伝説の採集、郷土人の伝記編集などを行うことを目的としていた。昭和16年当時の構成は会長に伊達徳次郎(川越市長)、副会長に奥平巧(川越図書館長)、評議員は有山余志三・西朴・畑尾源太郎・八木泰司・岸伝平・林織善・山田勝利・山崎重兵衛・奥富恵治(図書館司書)・井上房吉・近藤鉄城・内山留吉の各氏、常任幹事として峯岸久治、及び幹事として船越志郎(図書館職員)が名を連ねている。この会の活動の全容は不明であるが、その成果の一部は『川越の史蹟名勝案内』や『川越の伝説』として刊行された。
川越図書館は創立者の安部立郎の伝統を受け継ぎ、市内旧家に保存されている近世庶民資料や寺社資料、伝記資料、金石文などについて、多くの筆写本を作成し郷土資料の充実に努力してきた。川越図書館の館長を勤めた峯岸久治は、安部立郎以来の伝統を引き継いだ一人で、在職中に数多くの郷土資料の筆写を行ったことで知られている。それらは今日でも貴重な資料として利用されている。峰岸久治は明治41年(1908)に松江町で生まれ、県立川越中学校を卒業後、一時代用教員になったが、昭和5年から川越図書館に勤務した。図書館長には昭和17年から在職したが、昭和19年に現職のまま召集され、7月にサイパン付近で戦死した。若いときから浮世絵などに興味を示し、民芸品などの収集や、『榎本弥左衛門覚書』の翻刻・出版や『西川練造』などの著作があり、これから郷土史家として本領を発揮しようとする年齢だっただけに、多くの人に惜しまれた。
図書館の郷土資料はその目録が整備されることにより利用され、郷土研究の発展に結び付いていく。川越市立図書館では昭和28年(1953)に『川越市立図書館 郷土資料目録』第一版を発行し、順次昭和36年に第二版、昭和40年に第三版、昭和43年に第四版、昭和45年に第五版と増補改訂を加えていった。またこれとは別に、昭和9年と12年に寄贈となった松平大和守家と松平周防守家の旧蔵本を収録した『特殊文庫目録』、そして大正初年に寄贈された新井政毅・山田衛居の両旧蔵本の内、貴重図書として別置された138部の『貴重図書目録』が作成されている。
郷土史という言葉が広く用いられるようになったのは1910年代(明治43年〜)からといわれている。全国的にはこの頃から各府県で郡誌・県誌類の編纂が流行し始め、また大正2年(1913)には柳田国男と高木敏雄が『郷土研究』という雑誌を創刊している。柳田国男もその著書のなかで、この雑誌に初めて郷土研究という名称を用いたが一年もたたないうちに普通語のようになったと述べている。この時期人々が郷土に大いなる関心を寄せていたことがわかる。これ以後、郷土の歴史研究は郷土史と呼ばれることが多くなった。
こうした郷土史の背景には、当時進行していた都市と農村の格差拡大や農山村の疲弊に対して一種の地方復権情熱があったと指摘されている。川越地方の郷土史研究を推し進めた安部達郎も、その思想と行動の中核には「愛郷的精神」というべきものが存在した。それは川越と他都市との格差が拡大する現状を認識するなかで生み出されたと考えられており、それがやがて地域振興への実践と向かっていった。このような郷土史の情熱は郷土人の自己主張を内包するものであったが、全国的にみると偏狭なお国自慢や独善的解釈を生み出す結果にもなった。また郷土と中央の結び付きを探すことに研究の重点をおき、庶民生活の歴史を明らかにするには不十分な側面もあったといわれている。
戦後になるとこうした戦前の郷土史の傾向に対して反省が求められた。昭和25年(1950)、全国の郷土史団体と郷土史家の連絡機関として地方史研究協議会が発足し、翌26年から機関誌『地方史研究』が発行されると、地方史という言葉が郷土史に変わって一般に広まっていった。郷土史から地方史への名称の変更は、郷土史のもっている不の側面の克服を念頭において使用されたものではあるが、当然歴史観の転換を含むものであった。しかしながら郷土史も地方史も一定地域の歴史研究ということに違いはなかった。一般の人々が自分の住む町や村の歴史に関心をもち、地域の歴史研究に向かうのは、「昔はどうだったのか」という歴史の追体験を求めてのことである。地域の歴史研究が具体的事実や細部にこだわってきたことは当然といえる。地域研究としての郷土史は、そうした具体的事実をより豊富化し、新しい大系にまとめあげることが必要なのであろう。今回の企画展で掲げた「川越学」は、川越における郷土史研究総合化の問題提起でもあった。
川越で郷土史研究が活発になるのは戦後になってからである。その意味では戦後の新しい地方史の影響を受けてのことと考えられる。川越の郷土史家の一人である岡村一郎は自身の研究姿勢を次のように記している。「私は地方史の研究をする者はつねに趣味と独善を排して社会経済的な立場から研究すべきであると考えています。と同時に地方の歴史を日本の歴史と関連させて分析し、全体のなかにおいてその部分がどんな役割をもっていたかを明らかにすることがたいせつだと思つております」(『川越の城下町』まえがき)ここには戦後の地方史研究の影響を見てとることができる。
しかしながら戦後のこうした成果も、戦前の郷土史研究の蓄積を無視することはできない。郷土資料を数多く所蔵する川越図書館の館員からは、安部立郎・峯岸久治・岸伝平などの郷土史家が生まれ、基礎的研究と郷土資料の発掘に多くの業績を残している。その中で岸伝平は戦前から活躍してきた郷土史家ではあるが、戦前の蓄積が戦後の著作に結実した考えられるし、戦後になって活躍した岡村一郎もその基礎には岸伝平などの戦前の研究成果がその土台にあった。
川越市の市史編纂事業は市制40周年記念事業の一環として、昭和37年から開始されたが、それ以前にも市史編纂の企ては存在した。それは昭和2年5月に始められ、当時の川越図書館司書厚見玉泉、同書記伊藤俊平、同雇員峯岸久治と岸伝平などがその任に当たったという。この事業の詳細は不明であるが、僅かながら「川越市史編纂所」の稿本類などが残されている。そしてその過程で印刷発行されたものが岸伝平の手になる『川越市沿革史概要』(昭和7年川越市役所編)であった。しかしこの事業は途中で中断したものと考えられる。
一方昭和37年から開始された編纂事業は、当初の「川越市誌」を「川越市史」に変更し(昭和40年)、昭和61年まで継続して行われた。この修史事業の概要は、通史5巻7冊など市史13点、その他資料集17点の計30点の図書からなっている。今後の郷土史研究もこの成果を基礎に発展させていくことが求められる。