川越の伝説

「川越の伝説」・「川越の民話と伝説」からの抜粋などです

<目 次>
ダイダラボッチ川越の伝説「川越の民話と伝説埼玉県伝説集成(別)
仙芳真人「川越の民話と伝説川越の文化財71
三変稲荷「川越の民話と伝説
次兵衛塚「川越の民話と伝説埼玉史談)
地蔵埼玉のお地蔵さん
その他「川越の民話と伝説

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ダイダラボッチ
「川越の伝説」 さし絵・文/池原昭治 川越市教育委員会 1981年 ★★★
刺橋(とげばし)のいわれ
 むかし、むかしのおはなしです。「でえだらぼう」といいます、山をつくることが得意な大男の神さまがおったそうです。富士山に腰をおろして、ひとやすみしたり、筑波山の男体女体をつくったり日本中を歩いておりました。ある時、秩父の方で山をつくることになり、川越の名細(なぐわし)あたりを通りかかりました。ドシッ! ドシッ! おおきな窪地をこさえながら歩いておりました。ちょうど小畔川(こあぜがわ)の近くまできたときです。とつぜん「いてて……!」とでえだらぼうがうずくまりました。なんと、足のうらに小さな刺がっさっていたのです。さすがのでえだらぼうもこれでは歩けません。すぐ刺をぬきまして小畔川の中ほどにつきさして、秩父へと向かいました。まだ、このころの小畔川は曲がりくねっておりまして川はばも広く、たいへんなあばれ川で、人々はなんとか、うまく渡れるように橋をかけようとおもっていました。ところが川のまん中におおきなクイがうってあるのでびっくり、すぐ村人を集め、りっぱな橋をかけました。あとで、これがでえだらぼうの刺だということがわかり、ありがたいことだと橋の名まえを「刺橋」とつけました。この刺のクイだけは、どんなに大水がでても、けっして流されはしませんでした。

「川越の民話と伝説」 新井博 有峰書店新社 1990年 ★★★
刺橋(とげばし)とダイダラボッチ
 むかし、小畔川は現在と違って屈曲が多いうえに流れが非常に速く、川を渡るのがたいへんむずかしかった。橋をかけようにも、川の中に橋桁にする杭を打つことができないのである。大勢かかってやっと打っても、すぐ流されてしまう。また、周辺の田も湿田が多くて、ちょっとした雨でもすぐ冠水してしまう状態だった。そのためか、次のような伝説がある。

 むかし、ダイダラボッチという変った名前の神さまがいた。この神さまはからだが非常に大きく、常陸国(茨城県)の筑波山から駿河国(静岡県)の富士山まで、たったの三十六足で着いてしまうという巨人だった。
 あるとき、例によって筑波山から富士山へ行こうとして歩き出し、下小坂の土地へ足を踏み入れると、どうしたわけか足に刺がささってしまった。たかが刺ぐらいと思ったが、痛くてとても先へ歩を進めることができない。仕方なく、小畔川の土手に腰をおろして、はいていたわらじをぬいで泥を落とし、ささっている刺をぬきとったのである。そしてわらじの右と左を交換してはきなおして、富士山へ向って歩いて行った。
 跡をみると、巨人の抜いた刺が、小畔川の真中にささり、橋の杭のようになっていた。これまでいくら杭を打っても流されてしまったが、刺の杭はいっこうに流れ去るようすが見えない。村人たちは、さっそく大勢を動員して、おそるおそる橋をかける工事を始めた。
 いざ工事にとりかかってみると、万事うまく運び、たちまち橋を完成させてしまった。村人たちは大喜びで、ダイダラボッチの神に感謝し、橋の名前を「刺橋」とした。現在ではコンクリートの立派な橋になっている。
 また、わらじの泥を落とした所が丘になり、洪水のときのかっこうの非難場所や農作業のあい間の休憩場所になったという。
 参考=田中伝次郎「名細地区の伝説」昭和51年6月
(ブログ)刺橋とダイダラボッチ

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 大太法師(だいだら ぼっち) 
東日本一帯に分布する伝説上の巨人。
(名)デェラボッチ・ダイラボウ・デーデーボ・ダダボウシなどともいう。
「常陸国風土記」などによると、大地が創成されたのち山野を加工する神は巨人と考えられていた。大太法師も、一夜で富士山を造ったなど、山や泉に深く関わる伝承が多く、関東中部を中心として各所に、法師の足跡と称する窪地があり、その多くは湧水を伴なっている。

「埼玉県伝説集成 (別巻)」 韮塚一三郎編著 北辰図書 1977年 ★★
山・谷・坂・洞穴
 オッポリ池 川越市池辺
 池辺に昔のままではないがオッポリという池が残っている。昔大男がこの池に突然現われて、ノッシノッシとやってくる中に、たまたま小便をしたくなったので、一方の足を小ヶ谷(川越市)の田甫の中に、一方の足を大葦(狭山市下奥富)の山林の片端について小便をした。
 その小便の勢いが大へんはげしかったので、小便の落ちた池辺地内には底知れない池ができた。この池を誰いうとなくオッポリと呼ぶようになった。小便しながら大男の体が左へかしいだので、その足は深くのめり込んで、その足跡は深い池となった。この池もオッポリとよんでいる。軽くついた右の足跡は、大葦の小高い岡の麓の浅い池として残ったが、この方は清水がトウトウとわき出たので、清水の池と人は呼んだ。
 大男が両足をついた小ヶ谷と大葦の間は約十キロ、池辺のオッポリ池はその中間の東寄りにあるが、池辺と大葦、小ヶ谷間はいずれも約五キロの等距離にある。そうすると、大男は西の方からやって来て、東向きになって小便をしたことになる。
 池辺のオッポリ池は面積約四〇〇坪あって、付近一帯の田甫をうるおしていたが、昨今は地下水の低下で、池の大部分が雑草が生い繁っている。小ヶ谷地内の池は、堤防改修のため昨今埋めたててしまったので、その一部には住宅まででき、残る部分は底地帯となって、芝生が繁って、子供の遊び場と化している。大葦の池は。昭和二十年頃までは、下流の田甫に用水を供給していたが、これまた地下水の低下で、今はゴミ捨て場となって、昔の面影はない。なお大葦の名は大男の足跡から名づけられたという。

仙芳真人
「川越の民話と伝説」 新井博 有峰書店新社 1990年 ★★★
 仙芳真人
 むかし、仙芳という人が川越の地にやってきた。学問もあり人格者なので、真人と呼ばれた。しかし、どこからやってきたのか、また何をしにやってきたのかわからない。(星野山仏地院濫觴には「秩父の山中から来た」とある)
 毎日あたりを散歩しながら何か考えたり、立ち止まってはまわりを見回したりしていた。どうやら何かを捜しているようすである。
 ある日のこと、例によって散歩していたが、ふと、ここはむかしどこかの聖人が仏法をひろめられた由緒(ゆいしょ)ある地であることに気がついた。
 ところが、ここは見渡すかぎり満々と水をたたえた海で、舟でなければ往来できなかったのである。そうこうしているうちに、真人はあるとき一人の老人に出会った。老人はただ人ではないようなようすだった。そこで、真人は、
「あなたはどこにお住いの方ですか」
と声をかけると、老人は、「自分はこの海の主で、神竜の化神だ」と答えた。そこで真人が、
「あなたがこの海の主ならば、どんな狭い土地でもけっこうですから、どうか、この私にお与えください。私が手に持っている袈裟(けさ)を広げますから、袈裟におおわれた部分の土地だけでけっこうです」
とお願いすると、老人は快く承知した。さて真人が袈裟を広げると、あれよあれよという間にどんどん大きく広がり、驚くなかれ、数十里も広がってしまった。
 しばし茫然(ぼうぜん)としていた老人は、やがてわれにかえり、
「あなたの法力には、すっかりかぶとを脱ぎました。海を全部おおわれてしまったのでは、私の住む場所がなくなってしまいます。どうか私のいる部分だけは残してください」
と哀願した。
 真人は気の毒に思って、小さな池の部分だけ残してやった。老人はたいへん喜こび、さっそく竜神となってこの池の中へ姿を消した。これが喜多院の東南にある竜ケ池弁財天で、中央にある祠は竜神をまつったものである。
 真人は土で仏像を作って海の底に沈めると、たちまち海水が引き去り陸地となった。ただちに僧堂や伽藍(がらん)を建てた。すなわち、のちの喜多院である。
 なお、この土地を仙芳真人にちなんで「仙波」というようになったのである。現在でも喜多院の東側に真人の塚が残されている。
 参考=「武州入間郡仙波郷星野山無量寿寺喜多院縁起」埼玉叢書第三 昭和4年

「川越の文化財 第71号 川越市文化財保護協会 1998年8月 ★★★
 仙波仙芳塚由来記
 往古仙波の辺は海であった。昔仙芳仙人なる者が何処からともなくやって来て「聖人が説法を行った場所は此処だ」と言って其の辺を徘徊していた。そこに龍神であり海の主である老人が現れたので仙人は「私の袈裟だけの土地でよいから貰いたい」と頼むと「よろしい」と言って袈裟を海の上にひろげると海水が干上がり数十里もの土地ができた。その上更に土仏を作り海の底に投げると海水は忽ち乾いて寺を建てられるような土地ができ、ここに無量寿寺ができた。現在の喜多院である。海水が無くなった為に逆に龍神の住む場所が無くなくなったので仙人は小さな池を作って龍神を住まわせたという。それ以来此の地を仙波と呼ぶようになった。
 喜多院の鐘楼の近くの細い路地をはいると写真の様な「仙芳仙人入定塚」がある。ここは仙芳仙人が入定したという伝説のある所である。以前は桜の木があり古墳のようになっていたが今は綺麗に整地されている。
副会長 矢部 操
(ブログ)仙芳仙人
(ブログ)仙芳真人入定塚

三変稲荷
「川越の民話と伝説」 新井博 有峰書店新社 1990年 ★★★
 三変稲荷
 埼玉県立川越農業高等学校(現県立川越総合高校)の東方に、川越市内で最古の古墳(5世紀)があって、頂上に三変稲荷という稲荷さまがまつられている。この稲荷については、つぎのような話が伝えれている。
 そのむかし、尊海僧正が稲荷へ参詣に行くと、白狐が現われ、尊海に向って言うのであった。
 「わたしは、稲荷のお使い姫である。年をへることインドに千年、中国に千年、日本に千年すんでいる。だから世の中のどんなことでも知らぬことはない。たびたび参詣してくれたお礼として、いままでにわからないことや、むずかしいことがあったら、なんでも教えてあげよう。望みをかなえてあげよう」
 尊海は不思議に思いながら、これに対して、
 「わたくしは僧侶の身であるから、何の望みももたないけれど、できるならば、2500年前の、釈尊が布教している当時のありさまが知りたい」と答えた。もちろんこの希望はかなえられようとは思わなかったが、白狐は予想に反して、「それはお安いご用」と軽く承知した。
 なお、白狐は尊海に、これから望みをかなえるについては、どんなことが起こっても、言葉をひと言たりとも発しないことを約束させた。尊海もそれを守ることを誓った。
 と見るまに、いままで田畑であった所の土地は、たちまち2500年前の風景へと一変した。中央に端然と布教しておられる釈尊の荘厳な姿、何千とも数知れず、い並ぶ教徒、形容しがたい尊い情景が展開した。尊海はこの光景のもったいなさに、さきほどの約束を忘れて思わず、
 「何無仏……」
と声を発してしまった。すると、たちまち、その荘厳な情景は消え失せ、ただ狐の苦悶する声が聞こえるだけだった。
 あとをふり向いてみると、狐は息も絶え絶えになっており、しばらくののち死んでしまった。
 尊海は非常に後悔し、以後この寺の住職になる者は、必ず稲荷を信仰するようにした。一説には、狐は稲荷のそばにある大きな榎の木から落ちて悶絶したので、榎稲荷とも呼ばれている。夜泣きぐせのついた赤ん坊はここへお参りすると、なおるという。
   ―参考―
 ・「三辺稲荷一」口碑伝説第一輯 川越之部其の一 埼玉県立川越高等女学校郷土室 昭和10年10月
 ・橋本辰五郎氏談話
 
次兵衛塚
「川越の民話と伝説」 新井博 有峰書店新社 1990年 ★★★
 神の申し子を育てた次兵衛
 むかし、砂新田に次兵衛という者が住んでいた。たいへん働き者で、朝は暗いうちから畑仕事に出かけ、夕方は星を見なければ帰らないという毎日だった。したがって自然に財産もでき、人づき合いもよかったので、近所の評判もよく、何不自由なく暮らしていた。
 ところが、彼にはいまだ一つだけ満されないものがあった。どうしたわけか、いつまでたっても子宝に恵まれないのである。また、彼は人一倍子供が好きだったのである。あらゆる神仏に祈り、また、大勢の祈祷師や巫女(みこ)にもお願いしたが、だめだった。
 たまたま、ある人から、
「上州の榛名神社(群馬県の中部)へお願いすれが、子供を授けてくれる。ただし、その子は神の申し子だから、年限がくれば神となって親の許から去ってしまうが、それでもよかったら、ひとつお願いしてみたらどうか」
と教えられた。彼はなかばあきらめていたところなので、たいへん喜び、仕事を放り出してとるものもとりあえず、榛名神社を尋ねたのである。
 三日三晩、子供が授かるように一心不乱に祈った。しばらくすると、霊験があらわれ、女の子が生まれた。彼の喜びようはひととおりではなかった。毎日毎日、蝶よ花よと大事に育てた。娘は親の期待にこたえてすくすくと育ち、日一日とかわいらしくなっていった。
 こうして娘が七歳になったときのことである。朝ふと娘のぞうりを見ると、ぬれているではないか。たらいの水でもこぼしたのかなと思っていた。ところが、次の朝もまたぬれていた。いよいよ彼は不思議に思って、娘に聞いてみた。はじめはだまっていて何も答えなかったが、そのうちに観念したように話し出した。
「実は私は榛名さまから来た神の申し子です。ことしは七歳になりましたので、約束どおり、榛名神社へ帰らなければならないのです。いままでこんなにまで私を愛し、大事にお育て下さったご両親さまにお別れするのがつらくて、とても言い出すことができなかったのです。毎晩お休みになるのを待って、榛名山へ忍んで行っていたのです」
 彼は飛び上がらんばかりに驚き、
「いやいや、お前は私たちの娘だ。だれが何といったって渡さない。断じて渡さない」
と言って娘を抱きしめた。ややあってから、落ち着きをとり戻した彼は、
(そうだ。榛名さまへ願をかければ子供は授かるが、その子は神の子だから、年限があると教えてくれたのは、このことなのか。やはりこの子は神の子だったのか)
と、改めて神のお力の偉大さに胸をうたれた。
 とにかくもう一度お願いして自分の子供にしてもらおうと、翌朝娘をつれて榛名神社へ行ってみた。
 神殿の前で娘とともに一心に神のお慈悲を乞うた。ところが、何と娘といっしょに連れて来た下女は、何かにとりつかれたように、物も言わずにかたわらの榛名湖のほうへ歩き出し、あれよあれよと言っているあいだに、「ざぶん!」と池の中へ飛び込んでしまった。彼は気も狂わんばかりに、何かわめきながら湖のほうへ走った。すると娘は、たちまち大蛇となって現われた。下女は蟹(かに)となっていた。ことここに至っては彼もあきらめざるを得なかった。重い足を引きずり引きずり、やっとのことで家へ帰ってきた。
 すっかり力を落してしまった彼は、働くことはもちろん、何も手につかず、終日へやに引きこもって考え込んでいた。ついに娘のいなくなったこの世に用はなくなったと、入定する決心をした。
 地面に穴を掘って中へ入り、いっさいの食物や水を絶って念仏を唱えた。心配してようすを見に行った人の話では、満面に笑みさえ浮かべて一心に経文を唱える姿は、すでに人間ではなく、仏さまだったという。
 七日目の晩、とうとう念仏の声が途絶えた。行ってみると成仏していた。村の人々は生前彼に言われたとおり、そこに塚を築いた。これが現在砂新田の高階中学校の西側にある「次兵衛塚」である。
 さて、砂新田ではいままで雹(ひょう)や落雷、集中豪雨の被害を受けたことがない。これは、次兵衛が榛名神社の申し子を自分の子供として大事に育てたので、榛名湖の竜神が次兵衛塚のある砂新田だけはよけさせるからだという。
 また、榛名湖がきれいな水を一年中たたえているのは、蟹になった下女が毎日掃除しているからだという。
 参考=「川越地方郷土研究」第一巻第四冊 埼玉県立川越高等女学校郷土研究室 昭和13年3月

「埼玉史談 第31巻第1号」 埼玉郷土文化会 1984年4月号 ★★
 川越南部の伝説と史実 ―治兵衛塚考―  金井康二
ひょう害
雹除伝説
伝説の人物
伝説の起源と変貌
地蔵

増補改訂版 絵本 埼玉のお地蔵さん 」 池原昭治 木馬書館 1987年 ★★
 歯痛しらずのあごなし地蔵さん   (川越市喜多町広済寺)
 川越市喜多町に広済寺という古いお寺があります。山門を入ったすぐ右に、横に長いお堂があり、ちょっとは名の知れた「あごなし地蔵さん」がたっております。よく見ますとたしかに下あごがありません。あごがないということは歯がないということ。だから歯痛もないということで、歯痛で困っている人がお参りにきます。
 なおったら、むかしはヤナギの枝でつくった楊子を奉納したそうです。おはぐろを塗るときに用いた楊子だそうで、テレビでおなじみの木枯し紋次郎がくわえていたあれです。いまはその楊子もなく、おきまりのみかん、もち、小銭などでした。
 お地蔵さんの隣には、これまた不思議な石があります。「シャブキバァバァ」と呼ばれ、荒なわがぐるぐる巻きにまかれております。これは、せきやぜんそくにきくといわれ、百日ぜき、かぜなどで苦しんでいる人が、荒なわをこの石にまいて願をかけます。そして、全快したときはなわを解き、お礼にお茶とコンペイトウを納めるのです。悪いかぜげ流行したときは荒なわが幾重にもまかれ、まるでなわのお化けのようだったそうです。
  (後略)
本川越駅前からの東武バスは、ほとんどの路線が<喜多町>を通る。<喜多町>下車徒歩1分。
 三ツ星を形どった日ぎり三体地蔵さん   (川越市新富町西雲寺)
 川越市の新富町の西雲寺の境内にちょっと大きな地蔵堂があります。中には小さいが精巧な木彫りの地蔵菩薩が三体、それぞれ異なった姿勢をしてたっております。天の三ツ星(オリオン座)を形どり、一本の棒ではなかなかたたないが、三本合わせればしっかりとたつ、という意味をこめて、三体の地蔵をまつったのだそうです。
 むかし、会津若松(福島県)の城主の夢枕に地蔵があらわれ「泥深い芦の中にうまっているので出すべし」とのお告げがありました。さっそく掘り起こし、西光寺というお寺のご本尊としました。その地蔵を写して彫刻したものを、ある上人さまが背負って諸国を行脚し、この地にやってきて納めたものだそうです。
 このお地蔵さんは天然痘によく効くといわれていますが、お堂にある麻と塩をもらい、麻をナワにして首にかけ、塩を飲みますと、他のいろいろな病気にもよく効くそうです。三日たってもなおらないときは、また同じことを繰り返します。全快したときは、もらった分の麻と塩を二倍、三倍にもしてお返しするのです。ですから以前は塩と麻、それに小豆やだんごが、いっぱい納められてあったといいます。縁日は毎月二十四日で、芝居や見世物の小屋がけまで出たそうです。関西の役者、曽我廼家楽円という人も信仰があり、こんな歌を残しています。「三体の地蔵 五体に守護せられ 愛児の死をば守る大慈悲」
 地蔵堂の前に立って、子供たちのはしゃぐ声とゆき交う人々の足音を聞いていますと、遠くすぎた縁日のにぎわいがしのばれます。
本川越駅と川越駅、どちらからでも徒歩5分。
 多くの信仰を集める喜多院の苦抜き地蔵さん   (川越市小仙波町喜多院)
 川越の喜多院は関東天台宗の総本山で、一月三日の初大師のだるま市には驚くほどの人出があります。この喜多院の境内、慈恵堂(大師堂)のすぐ左側に「苦抜き地蔵さん」といわれるお地蔵さんがたっております。願をかけますと、世の中のすべての苦しみをとり去り、楽しいことを授けてくださるといわれ、旗や絵馬がいっぱいに整然とおかれておりまして、人々の信仰がいかに多いかを物語っています。
 このお地蔵さんは昭和三十二年(1957)の造立です。本間某という人が堂の改築を記念して奉納したものだと記されておりました。喜多院にお参りにきた人は必ず立ち寄るということで、お供え物が山積みになって、かたづけるのにたいへんだそうです。いつ拝見してもよく洗われ、掃除のゆきとどいたお姿は、気持ちがよく、つい手をあわせて「どうか苦しみを取り去ってくださいませ」とお祈りしたくなります。
  (後略)
本川越駅より徒歩約15分。川越市駅からは徒歩約18分。川越駅からだと約23分。
 田植えの手伝いをするお地蔵さん   (川越市石田)
 川越市石田本郷折戸の地蔵堂には「田掻き地蔵」「鼻取り地蔵」などとよばれている、めずらしいお地蔵さんがあります。
 むかしのお話です。そろそろ田植えも近づき、田に水がはいり馬をもちだし、田掻きの季節がやってきました。ところが、折戸に住む、あるお百姓さんの家では人手がなくて困りはてておりました。
 そんな時です。突然どこからともなく元気そうな若者がやってまいりました、「私でよければ、その馬の鼻を取りましょう」といって、あざやかな手つきで馬の鼻をとり田掻きをはじめました。
 お百姓さんもおどろくばかりの手ぎわのよさで、その若者はあっという間に田掻きをおえてしまいました。
 みごとにしあがった田をながめておりましたお百姓さんは、若者にお礼をと、ふりかえりますと、もう姿がありません。
 「はて、今どき、きとくな人だ。いったいどこの人だんべえ」と、泥のついた若者の足あとをたどって行きますと、なんとそこは村はずれの地蔵堂ではありませんか。
 そして、中にお地蔵さんの足もとを見ますと、泥でまっ黒によごれておりました。「さては、さっきの若者は、お地蔵さんであったのか」と、あらてめてお礼を申し上げ、今まで以上にお地蔵さんを大切にするようになったということです。
川越駅よりバス・桶川行<石田>下車徒歩25分。またはバス・芳野中行<石田本郷>下車徒歩10分。
 子どもの夜泣きにピタッときくお地蔵さん   (川越市笠幡)
 川越市笠幡の高麗街道沿いの四辻に千日堂がありますが、上宿の方に夜泣き地蔵さんと呼ばれる石のお地蔵さんが立っております。
 むかしのお話です。黒浜の方にたいへん幸せな親子が住んでいました。子どもはまだ母親のお乳から離れておらず、どこへ行くにも一緒でした。そのうえ一人っ子でしたので、母親はそれはそれはかわいがっておりました。
 ただ一つの悩みとえば、どうしたことか夜泣きがひどくお医者さんにみてもらったり、いろいろ手はつくしたのですが良くなるどころか、ますますひどくなる一方でした。
 そんなある日のことです。上宿の方に用事ができまして、母親は子どもをおぶってやってきました。途中道ばたに人がたくさん集まっていますので「はて、なんだべえ」とひとりにたずねてみますと「ここのお地蔵さんは、子どもの病気によくきくので、みんなお参りしてるんだべえ」とおしえてくれました。
 これはいいことを聞いたと、さっそく母親はお地蔵さんの前にひざまずき、一心に願をかけました。
 そして、三、七の二十一日願かけが終わった頃、不思議なことに、あんなにつづいていた子どもの夜泣きがピタッとやみ、前にもまして元気でじょうぶな子どもになったそうです。
 このことが評判になり、道ばたのお地蔵さんは「夜泣き地蔵さん」と呼ばれ、願をかける時は泥のだんご、成就したときには白い米のだんごをお供えしたそうです。
笠幡駅より徒歩20分。
 辛いものをたって願をかけるとんがらし地蔵さん   (川越市増形)
 川越市増形の、あるお大尽の家の近くにはむかしより稲荷さまと庚申さまとお地蔵さんがありました。その中でもお地蔵さんは「とんがらし地蔵さん」と呼ばれ、たくさんの人から親しまれていたそうです。
 むかしのお話です。たいそう辛いものの好きな男がおりまして、とにかく辛いものには目がなく、とくにとんがらしが大の好物で、どんなものにでもとんがらしをふりかけて食べていました。そのせいというわけではないのでしょうが、この男、からだ中にいぼができておりまして、それが悩みのたねでした。お医者さんにかかり、薬草もつけ、願かけなどもしましたが、いっこうにらちがあきません。最後の神だのみと通りがかりのお地蔵さんに、持っていましたとんがらしを差し出して申しました。「お地蔵さん、おら、このとおりいぼで苦しんでおります。どうしても治りません。このいぼを取ってくれましたら、大好きなとんがらしを断ちます。願いをかなえてくださいまし」そして、とんがらしでからだ中にあるいぼをゴシゴシこすったそうです。すると三、七、二十一日間の満願の日、何と不思議なことに、あんなに頑固だったいぼがすべてコロリと落ちたそうです。男は大喜びで、とんがらしを倍にしましてお地蔵さんに供えました。
 これが評判となり、かなり遠方からも、人々がとんがらしを手に願かけにやってきたといいます。そのため、お地蔵さんは赤いとんがらしでいっぱいになり、誰いうとなく「とんがらし地蔵さん」と呼ばれるようになりました。
南大塚駅より徒歩35分。
その他
「川越の民話と伝説」 新井博 有峰書店新社 1990年 ★★★
 梶原の池(大東地区)
  (前略)
 あるとき、源頼朝は那須野(栃木県北部)へ狩りに行っての帰路、川越の池辺(いけのべ)あたりまで来たところで、当座の余興として、主だった家臣と馬の疾走競走をした。なにせ那須から旅を重ねてきたので、人間も馬も疲れていたが、負けずぎらいの頼朝のことだから、それを強行したのである。
 参加した者も、内心ではあまり気が進まなかったが、手心を加えてご主君をわざと勝たせるようなことをすると、あとでどんなおとがめを受けるかわからないので、全員全力疾走した。ところが、頼朝の馬が途中で悲鳴をあげてしまい、動かなくなってしまったのである。やむをえず競争を中止して、馬を休ませることにした。
 池辺一帯は、彼の有力な家臣の一人である梶原平蔵景時の所領で、その辺の地理をよく知っていたので、さっそく頼朝を案内して清水の湧き出る小さな池へつれてきた。ただちに馬に水を飲ませたり、冷たい水を何回もかけて足腰を冷やしてやった。しばらくすると、馬はすっかり元気をとり戻したので、ふたたび競争が開始された。
 頼朝は最初から出足よく、ぐんぐん他の家臣を引き離し、とうとう優勝してしまった。彼が小踊りして喜んだことはいうまでもない。これはきっと、さきほど馬を休ませた池の水が、きいたからに違いないと、梶原平蔵に言葉をかける一方、それまで愛用してきた馬の鞍を沈めて感謝の意を表し、あわせて武運長久を祈ったのである。
 だから、この池の底には馬の鞍があって、池の主となっていると信じられており、それ以来、「梶原の池」と呼ばれるようになった。現在池辺の熊野神社の東にある池がそれで、弁天さまがまつられている。
 参考=太陽寺盛胤「多濃武の雁」埼玉叢書第二 昭和4年3月

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 梶原景時(かじわら かげとき)
?〜1200(?〜正治2)鎌倉前期の武将。
(系)鎌倉影長(異:景清)の子、母は横山小野孝兼の娘。(生)相模。(名)平三。
1180(治承4)大庭影親に従い源頼朝を石橋山に破ったが、捜索の時その所在を知りながら見逃したといわれ、間もなく頼朝に参じた。文筆には携わらないが話術に巧みで、大いに頼朝の意に適ったという。源義仲と平氏の討伐に軍奉行として源範頼・源義経に従い勲功をたてたが、屋島では義経と事ごとに対立し、その不義を頼朝に訴えて遂に失脚させた。侍所所司、厩別当となり、'90(建久1)頼朝上洛には後陣髄兵の奉行を務める。頼朝死後も宿老の1人として重んぜられたが、'99(正治1)結城朝光を讒訴したことから御家人に弾劾されて失脚。上洛して武田有義を将軍とする計画を立てたが露見して、駿河国狐崎で討死した。和歌を嗜んだ。
(参)大森金五郎「梶原景時に就いて」(「日本中世史論考」1928)。

 東陽寺の黒蛇(大東地区)
 東陽寺(大袋81番地)には、境内北隅の低い所に、昔から弁財天がまつられていた。昭和43年7月、本堂を新築したとき、この弁財天も低地から高い所へ移し、しかも土盛りしたり、台石のまわりをコンクリートで固めたりして、すっかり新しくなり面目を一新した。
 さて、この工事をしているときの出来事である。
 寺の世話人たちが忙しく立ち働き、ブルトーザーは、エンジンの音をけたたましく上げて、地面を整地していたが、台石へコンクリートを打ち込むために小休止した。みんな思わずタオルや手拭で汗をふこうとしたときである。ふと見ると、一ぴきの蛇が西のほうから作業員や世話人たち数十名の間を、少しも臆することなく、ゆうゆうと通って行くではないか。
 人々は思わず背筋がこおる思いで、ただあっけにとられていた。蛇は体長1メートル、胴周り約12センチあり、背中は黒く、下腹部にかけてやや赤味を帯び、からだ全体が薄灰色がかっていてコケでも生えていそうである。だれかが、
 「蛇だ! 蛇がいたぞ」
と叫んだ。みんな蛇のほうを向いたが、手にスコップや鍬、ほうきなどを持っているものの、だれもただあっけにとられてしまい、手出しはできなかった。
 蛇はそんなことはおかまいなしというように、大勢の人々の足元をゆっくりとぬって一路台石のほうへ進み、台石のわずかなすき間を見つけて、中へするすると入っていってしまった。ハッとしてわれにかえったときには蛇の姿はなく、皆は顔を見合わせててただうなずくだけだった。次の作業に移るために、ほんの少し手を休めたときの出来事であった。
 見ていた人々は、この蛇はずっとむかしから弁財天をお守リしてきたもので、台石がコンクリートで塞がれる前に、少しの間隙をぬって、ふたたび弁財天をお守りすべく、けなげにも、小さなすき間を見つけて中へ入ったのだろうとうわさし合った。
 だから、いまだに蛇が入った台石のすき間は、コンクリートで塞がれていない。
 参考=「川越市立大東西小学校百年記念誌」記念誌編集委員会 昭和50年2月

 石の亀(喜多院)
 喜多院の本堂のうしろに、松平大和守家の墓所がある。いずれも川越在城時代に亡くなった五人の城主の墓である。ここの入口の所に大きな石製の亀がいて、背の部分が破損しているが、首を持ち上げて目をむき、口を大きく開けながら怒りの形相をしている。
 むかし、松平大和守家の家臣の一人が、城主の使いとして喜多院へ来たとき。駕籠に乗ったまま正面の玄関へ横づけした。関東における天台宗の総本山で、かつ徳川家康公を祀った東照宮があるという格式の高い寺へ対し、城主ならともかく、一家臣のとった行動としてはあまりにも無礼であると、とがめられてしまった。家臣は責任を感じて即座に駕籠の中で切腹して果てたのである。
 喜多院や川越藩ではこの純心な家臣に心をうたれ、手厚く埋葬したうえ、石で亀を刻んで霊を弔ったという。
 なお、この石亀は不思議なことに、いくら泥をかけておいても、必ず泥の中から現れてくるといわれ、また天候によっても浮き沈みするという。
 参考=「石の亀」口碑伝説第一輯 川越之部其の一 埼玉県立川越高等女学校郷土室 昭和10年10月

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作成:川越原人  更新:2009/8/30