松平信綱(知恵伊豆)


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人物叢書 松平信綱」 大野瑞男 吉川弘文館 2010年★★
 江戸前期の老中。将軍家光に仕え、知才溢れる忠勤により小姓から老中に出世する。島原の乱を鎮圧し、家光の死や由井正雪の乱・明暦の大火などの危機を乗り切り、幼君家綱を助けて幕府の確立に尽力した。川越藩主としても城下町を復興、農政にも意を用い、「小江戸」川越の基盤を築いた。その才知から多くの逸話が残る「智恵伊豆」の実像に迫る。
 
はしがき
第一 出生そして正綱の養子
 一 信綱の誕生と生地
 二 実父大河内久綱
 三 母深井氏と一族
 四 養父松平正綱
第二 家光小姓から大名へ
 一 生い立ちから大名まで
 二 年寄並・六人衆ついで老中
 三 智恵伊豆の面目
第三 武蔵忍藩主
 一 忍藩主となる
 二 信綱の領地と年貢
 三 家光の狩猟
 四 「江戸図屏風」と信綱
第四 島原の乱と「鎖国」
 一 朝鮮外交と信綱
 二 島原の乱
 三 「鎖国」の完成
第五 川越へ加増転封
 一 川越入部と領知
 二 川越城再建と城下町整備
 三 喜多院・仙波東照宮の再建
 四 川越氷川神社の祭礼創始
 五 家臣団の構成
第六 川越藩政
 一 新河岸舟運の開設と治水事業
 二 年貢割付と慶安総検地
 三 野火止用水の開削と武蔵野開発
 四 信綱の勧農政策
 五 榎本弥左衛門が記す信綱
第七 老中として
 一 信綱の勤役
 二 信綱の奉書加判
 三 信綱の家臣宛書状
 四 庄内藩主の後見
 五 取次・指南と国目付
第八 家綱を補佐
 一 家光の死
 二 由比正雪の乱
 三 明暦の大火
第九 信綱の死と余慶
 一 信綱の死とその子女
 二 信綱の徳風余慶
 三 信輝旧領高の問題
 四 その後の大河内松平家
 五 明治以降の大河内家
おわりに

「名君・暗君 江戸のお殿様」 中嶋繁雄 平凡社新書 2006年★★
 第三部 明暗九十八人のお殿様
幕閣をうごかす
松平信綱 川越(埼玉県川越市)七万五千石 慶長元年(1596)〜寛文二年(1662) 子爵

「江戸老人旗本夜話」 氏家幹人 講談社文庫 2004年★★
僕等はみんな老いてゆく
 三十九歳の憂鬱
智恵伊豆の知恵
 偉大な叔父
 松平信綱伝説
巻末対談
 斬られて死ぬのは難しい
主な引用資料および参考文献
●『三子より之覚』(『川越市史』資料編近世U 川越市総務部市史編纂室 1977年)

「軍師と家老 ナンバー2の研究 鈴木亨 中公文庫 1999年 ★
■幕閣の実力者
松平信綱 ひたすら滅私奉公に徹して、組織を磐石にした平時の宰相
生まれながらの将軍家光
雀の子
幕閣の重鎮の座

「お殿様たちの出世 江戸幕府老中への道 山本博文 新潮選書 2007年 ★
第三章 側近老中制の完成
 一 家光側近による老中制
  側勤めを望んだ松平信綱

「日本史泣かせるいい話」 後藤寿一 KAWADE夢文庫 1999年
 ・畳を裏返して、大奥の女性を火事から救う
 江戸は、よく火事に見舞われた。中でも最大規模のものは、俗に「振袖火事」といわれる明暦の大火だ。江戸市中の大半が焼けた。
 この明暦の大火が起きたときのこと。江戸城中も大変な騒ぎとなった。防火設備もほとんどない当時、飛び火があればたちまち炎上してしまう恐れがあったからだ。炎上は焼死をも意味する。
 城内では、右往左往して逃げ惑う様があちこちで見られたのだが、とりわけ大変なのは大奥だった。大奥は女性ばかりである。そして、文字どおり城の奥にいたわけだから、城全体の様子などわからない。本丸、西の丸は知っていても、そこまでいく方法を知らない。不安は不安を呼び、大奥は大騒ぎとなった。
 その様子を見て、老中の松平信綱が坊主十数人を引きつれ走りでてきた。そして坊主に下知をくだした。坊主たちはそれに従って脱兎のごとく西の丸に走った。
 風向きからすれば、西の丸の方向は安全なので、そちらに大奥の女性たちを誘導しよう、というわけである。
 坊主たちは、西の丸に至ると、すぐさま通り筋の畳を裏返し始めた。そして次々と裏返していき、大奥まで一本の道筋≠つくった。
 道筋ができると、信綱は大奥の女性たちにいった。
「諸道具は捨ておき、速やかに西の丸へ赴かれよ。諸道具は後日、それぞれに相渡す。道は裏返し畳である。暗くともわかるはずだ。さ、速やかに」
 女性たちは、競って足袋を脱ぎ、裏返しになった畳の上を小走りに駆けていった。こうして大奥の女性たちは無事に西の丸へ避難することができた。
 ・顔を立てながら席を譲らせる知恵

「日本名城紀行2 南関東・東海」 小学館 1989年 ★★
 知恵伊豆と野火止用水
 松平信綱は、知恵伊豆として知られた名君だ。慶長元年(1596)に、代官の大河内金兵衛久綱の子として生まれた。幼名は長四郎。叔父の松平右京大夫正綱の養子となったのは六歳のときである。松平正綱は、三河(愛知県)の十八松平のひとつ長沢松平家を継ぎ、旗本取締役や御勘定奉行をつとめた。正綱には実子があったが、家督を養子の信綱に継がせたのは、信綱のすぐれた才能に強くひかれたためだといわれる。
 家光の誕生後まもなく召し出されて小姓となり、そば近くつかえた。小姓として次の間で休んでいた信綱が、足の指で戸口をおさえ、寝入っていても戸があけば目をさますように心がけたという有名なエピソードがある。よく気のつく人物だったらしい。
 元和六年(1620)に五百石を給せられたのを皮切りに、小姓組番頭へすすみ、家光の将軍宣下の礼に従って上洛したさいに、従五位下伊豆守に叙せられ、やがて大名に列した。そして忍藩の城主として三万石を領するにいたるが、その彼が知恵伊豆ぶりを発揮するのは、寛永十年(1633)に阿部忠秋・堀田正盛・三浦正次・太田資宗・阿部重次らろ六人衆になり、さらにその二年後に土井利勝・酒井忠勝・阿部忠秋・堀田正盛と連署の列に加わってからだ。
 天草の乱にさいして戸田氏銕(大垣藩)とともに島原へ派遣されたこともあるが、信綱の才能はむしろ民政面にあり、野火止用水の開削をはじめとする武蔵野の開拓、城下町の整備などに多くの治績を残している。
 江戸期に入ってからの城地の拡大は例が少ない。信綱の権勢と信頼があってはじめて可能だったと思われるが、川越城を四万六千坪の規模にひろげたのは彼であり、しかも種々くふうをこらしたことがわかる。城の拡大と並行して城下町の町割りも行ない、正門の西大手に面した札の辻を基軸に、縦二十三条、横七十八条の道路を長方形に碁盤割りし、武家屋敷・社寺地・町家などの区域を決め、足軽や中間は組屋敷に割りふられた。
 重臣層の武家屋敷は西大手と南大手前に置かれ、その南に家臣団の屋敷がつづき、下級藩士は、外郭や江戸街道の入口近くの組屋敷に住んだ。町家は上五町が商人町、下五町が職人町で、その十か町で惣町を構成し、伝馬問屋を中心とした江戸町は、西大手わきに設けられた。また社寺地は軍事的配慮もあって城下の外縁、とくに北から西へかけて位置していたが、しだいに移転し、やがて蓮馨寺・養寿院・行伝寺・妙養寺などの周辺は門前町をかたちづくり、商人町となる。
 だが信綱の治績で注目すべき事柄は、玉川上水や野火止用水の完成であろう。信綱は実父の代官大河内久綱につかえていた手代たちを積極的に家臣団へ組み入れ、領内の整備・開拓事業などに活用した。島原の乱がおさまって、ようやく徳川幕府も内政面に主力をそそぐようになるが、その一環として関東各地の治水事業も推進される。
 信綱は入封後の数年間は、水田地帯の整備に力を傾けたが、それが緒につくと、こんどは畑作地帯の開拓にのりだす。正保四年(1647)の加増のおり、信綱はみずから希望して武蔵野に五千石をうけたが、水源に乏しく、治水問題が緊急の課題となった。
 そのころまで江戸の市民たちは、飲料水を神田上水に仰いでいた。しかし十七世紀の半ばになると、人口の急増に追いつかず、水不足となり、あらたに玉川から水を引く計画がたてられた。総奉行は松平信綱、水道奉行は伊奈忠治、工事の請負人には枡屋庄右衛門・清右衛門兄弟があたった。しかし枡屋兄弟は、工事に二度も失敗し、かねてから用水計画に具体案をもっていた信綱の家臣、安松金右衛門と小畑助左衛門が起用される。
 枡屋兄弟の苦労ぶりは、杉本苑子の『玉川兄弟』にくわしいし、安松金右衛門については三田村鳶魚の『安松金右衛門』という名著もある。安松らは夜を昼についで工事をすすめ、上水工事は一年半で完成した。
 信綱には玉川上水の開削に成功した暁に、そこから野火止へ分水するねらいが、当初からあったものと想像される。安松はその意を体して動いた気配があるし、いっぽう枡屋兄弟はそれに不満だった形跡もうかがわれる。それはともかく、信綱は玉川上水完成の功績を認められ、野火止への分水を許されたのである。
 安松金右衛門と小畑助左衛門は、いずれも大河内久綱の配下に属する手代で、かねてから関東北部の農政・土木面に通じていたが、松平家の家臣になってからも、種々献策することがあったらしい。
 金右衛門は、主君信綱から、野火止への分水工事について相談をうけたおり、黄金三千両はかかりましょうと答えた。すると信綱は、
 「いずれこの地を去る日が来るかもしれないが、開拓されれば、のちのちの世をも潤すことになる。公儀への御奉公を考えれば三千両は惜しくない」
といって、この事業に着手したという。
 ところが用水溝は完成したが、水が流れない。一年ほどたって信綱は不安になり、安松に尋ねた。
 「水はいかがした」
 「来るはずの水がまいりませぬ。おそらく何か理由があるものと考えます」
 「どういう理由か」
 「なんとも、それはわかりませぬ」
 信綱は安松の技量をしんじていたが、これではとらえどころがない。そのままに過ぎて翌年になった。しかしまだ水は流れない。そこでかさねて信綱は安松に尋ねた。安松は平然としている。答えも前と同じだった。さすがの信綱もいささか疑いをいだきかけたが、そこはやはり信綱である。信頼するほうに賭けて待った。
 そして三年後の秋、大雨とともに大地の裂けるような音がひびき、それまでの水のなかった掘割りに、どっと流れが押し寄せ、一気に新河岸川までつづいた。信綱はあらためて安松をよび、加増すると同時にいった。
 「これまでそちを責めるようなことばをもらしたが、ついに修理しようともせず、信ずるところをつらぬいたのはみごとである」
 この話はよく知られているが、信綱の安松への信頼があってはじめて、安松も自信をもって工事をすすめることができたのである。
 また河川による運輸面にも力をそそぎ、新河岸川の蛇行を改め、上下河岸を設けて、剰余生産物の輸送に貢献した。新河岸川の船問屋は、藩と密接な関係をもち、公用的性格が強く、江戸からの肥灰取引き、藩米の積みおろしなどに利用されたが、商業が発達するにつれ、町方によっても活用され、商品輸送の動脈と化してゆく。そして信綱につづく輝綱の代には川越街道も整備され、ますます商業的性格をもつ城下町としての様相を深めてゆくのだ。
 信綱はあるとき、領内の農民に向かって「隠れ蓑、隠れ笠、打出の小槌、延命袋」のことわざについて語った。雨が降っても休まず、蓑笠をつけて田畑を耕すようにつとめれば、打出の小槌同様、富がもたらされる。富裕になれば、おのずと寿命も保たれるという意味だが、これは信綱の夢だったのであろう。
 信綱の墓所は、新座市の野火止にある平林寺だが、その一郭には安松金右衛門も眠っており、野火止用水の支流も境内の雑木林をぬって流れている。武蔵野の野趣をとどめた平林寺周辺は、信綱の時代の自然を現代にも伝えてくれるように思われる。

「徳川家臣団」 網淵謙錠 講談社文庫 1986年 ★
 第十八話 松平信綱

「武将名言100話」 桑田忠親監修 立風書房 1983年 ★
第7章 武功派大名の名言
 85 松平信綱

「日本の歴史16 元禄時代」 児玉幸多 中公文庫 1974年 ★
 佐倉騒動

「歴史に学ぶ不況に勝つ経営術」 童門冬二 廣済堂文庫 2001年 ★★
 日本人は“日本式経営”ということばに幻想と錯覚を抱いていないだろうか。戦国時代、江戸時代の中小企業というべき武将・大名・商人たちの経営ははるかにきびしく、しかしゆたかで、ふくらみのある経営術を駆使してきた。歴史のなかから“真の日本式経営術”“元気のでる経営術”を学ぶ。
 川越城主チエ伊豆≠フ経営感覚……松平信綱

「日本史の群像」 黒羽清隆 三省堂選書18 1977年
V 歴史人物ノート
 1 島原一揆の人びと――原の古城にいった日

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 松平信綱(まつだいら のぶつな)
1596〜1662(慶長1〜寛文2)江戸前期の大名。
(系)大河内久綱の子、叔父松平正綱の養嗣子。
(名)亀千代、のち長四郎、伊豆守、俗称知恵伊豆
 1604(慶長9)徳川家光の誕生とともに家人となり、以後、その政治に携わる。1633(寛永10)老中となり、1635武蔵国忍に2万6千石を与えらる。1639島原の乱鎮定の功などにより武蔵国川越藩主となり、6万石(のち7万5千石)を与えらる。3代家光・4代家綱に仕えて慶安事件をはじめ、1657(明暦3)江戸大火、1660(万治3)大老堀田正信弾劾事件などを処理し、幕府創業の基礎をかためた。
(参)北島正元編「江戸幕府―その実力者たち」上、1964。

 大河内松平氏の研究(相互リンク)


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作成:川越原人  更新:2010/9/18