生まれながらの将軍家光
雀の子
幕閣の重鎮の座
江戸は、よく火事に見舞われた。中でも最大規模のものは、俗に「振袖火事」といわれる明暦の大火だ。江戸市中の大半が焼けた。
この明暦の大火が起きたときのこと。江戸城中も大変な騒ぎとなった。防火設備もほとんどない当時、飛び火があればたちまち炎上してしまう恐れがあったからだ。炎上は焼死をも意味する。
城内では、右往左往して逃げ惑う様があちこちで見られたのだが、とりわけ大変なのは大奥だった。大奥は女性ばかりである。そして、文字どおり城の奥にいたわけだから、城全体の様子などわからない。本丸、西の丸は知っていても、そこまでいく方法を知らない。不安は不安を呼び、大奥は大騒ぎとなった。
その様子を見て、老中の松平信綱が坊主十数人を引きつれ走りでてきた。そして坊主に下知をくだした。坊主たちはそれに従って脱兎のごとく西の丸に走った。
風向きからすれば、西の丸の方向は安全なので、そちらに大奥の女性たちを誘導しよう、というわけである。
坊主たちは、西の丸に至ると、すぐさま通り筋の畳を裏返し始めた。そして次々と裏返していき、大奥まで一本の道筋≠つくった。
道筋ができると、信綱は大奥の女性たちにいった。
「諸道具は捨ておき、速やかに西の丸へ赴かれよ。諸道具は後日、それぞれに相渡す。道は裏返し畳である。暗くともわかるはずだ。さ、速やかに」
女性たちは、競って足袋を脱ぎ、裏返しになった畳の上を小走りに駆けていった。こうして大奥の女性たちは無事に西の丸へ避難することができた。
松平信綱は、知恵伊豆として知られた名君だ。慶長元年(1596)に、代官の大河内金兵衛久綱の子として生まれた。幼名は長四郎。叔父の松平右京大夫正綱の養子となったのは六歳のときである。松平正綱は、三河(愛知県)の十八松平のひとつ長沢松平家を継ぎ、旗本取締役や御勘定奉行をつとめた。正綱には実子があったが、家督を養子の信綱に継がせたのは、信綱のすぐれた才能に強くひかれたためだといわれる。
家光の誕生後まもなく召し出されて小姓となり、そば近くつかえた。小姓として次の間で休んでいた信綱が、足の指で戸口をおさえ、寝入っていても戸があけば目をさますように心がけたという有名なエピソードがある。よく気のつく人物だったらしい。
元和六年(1620)に五百石を給せられたのを皮切りに、小姓組番頭へすすみ、家光の将軍宣下の礼に従って上洛したさいに、従五位下伊豆守に叙せられ、やがて大名に列した。そして忍藩の城主として三万石を領するにいたるが、その彼が知恵伊豆ぶりを発揮するのは、寛永十年(1633)に阿部忠秋・堀田正盛・三浦正次・太田資宗・阿部重次らろ六人衆になり、さらにその二年後に土井利勝・酒井忠勝・阿部忠秋・堀田正盛と連署の列に加わってからだ。
天草の乱にさいして戸田氏銕(大垣藩)とともに島原へ派遣されたこともあるが、信綱の才能はむしろ民政面にあり、野火止用水の開削をはじめとする武蔵野の開拓、城下町の整備などに多くの治績を残している。
江戸期に入ってからの城地の拡大は例が少ない。信綱の権勢と信頼があってはじめて可能だったと思われるが、川越城を四万六千坪の規模にひろげたのは彼であり、しかも種々くふうをこらしたことがわかる。城の拡大と並行して城下町の町割りも行ない、正門の西大手に面した札の辻を基軸に、縦二十三条、横七十八条の道路を長方形に碁盤割りし、武家屋敷・社寺地・町家などの区域を決め、足軽や中間は組屋敷に割りふられた。
重臣層の武家屋敷は西大手と南大手前に置かれ、その南に家臣団の屋敷がつづき、下級藩士は、外郭や江戸街道の入口近くの組屋敷に住んだ。町家は上五町が商人町、下五町が職人町で、その十か町で惣町を構成し、伝馬問屋を中心とした江戸町は、西大手わきに設けられた。また社寺地は軍事的配慮もあって城下の外縁、とくに北から西へかけて位置していたが、しだいに移転し、やがて蓮馨寺・養寿院・行伝寺・妙養寺などの周辺は門前町をかたちづくり、商人町となる。
だが信綱の治績で注目すべき事柄は、玉川上水や野火止用水の完成であろう。信綱は実父の代官大河内久綱につかえていた手代たちを積極的に家臣団へ組み入れ、領内の整備・開拓事業などに活用した。島原の乱がおさまって、ようやく徳川幕府も内政面に主力をそそぐようになるが、その一環として関東各地の治水事業も推進される。
信綱は入封後の数年間は、水田地帯の整備に力を傾けたが、それが緒につくと、こんどは畑作地帯の開拓にのりだす。正保四年(1647)の加増のおり、信綱はみずから希望して武蔵野に五千石をうけたが、水源に乏しく、治水問題が緊急の課題となった。
そのころまで江戸の市民たちは、飲料水を神田上水に仰いでいた。しかし十七世紀の半ばになると、人口の急増に追いつかず、水不足となり、あらたに玉川から水を引く計画がたてられた。総奉行は松平信綱、水道奉行は伊奈忠治、工事の請負人には枡屋庄右衛門・清右衛門兄弟があたった。しかし枡屋兄弟は、工事に二度も失敗し、かねてから用水計画に具体案をもっていた信綱の家臣、安松金右衛門と小畑助左衛門が起用される。
枡屋兄弟の苦労ぶりは、杉本苑子の『玉川兄弟』にくわしいし、安松金右衛門については三田村鳶魚の『安松金右衛門』という名著もある。安松らは夜を昼についで工事をすすめ、上水工事は一年半で完成した。
信綱には玉川上水の開削に成功した暁に、そこから野火止へ分水するねらいが、当初からあったものと想像される。安松はその意を体して動いた気配があるし、いっぽう枡屋兄弟はそれに不満だった形跡もうかがわれる。それはともかく、信綱は玉川上水完成の功績を認められ、野火止への分水を許されたのである。
安松金右衛門と小畑助左衛門は、いずれも大河内久綱の配下に属する手代で、かねてから関東北部の農政・土木面に通じていたが、松平家の家臣になってからも、種々献策することがあったらしい。
金右衛門は、主君信綱から、野火止への分水工事について相談をうけたおり、黄金三千両はかかりましょうと答えた。すると信綱は、
「いずれこの地を去る日が来るかもしれないが、開拓されれば、のちのちの世をも潤すことになる。公儀への御奉公を考えれば三千両は惜しくない」
といって、この事業に着手したという。
ところが用水溝は完成したが、水が流れない。一年ほどたって信綱は不安になり、安松に尋ねた。
「水はいかがした」
「来るはずの水がまいりませぬ。おそらく何か理由があるものと考えます」
「どういう理由か」
「なんとも、それはわかりませぬ」
信綱は安松の技量をしんじていたが、これではとらえどころがない。そのままに過ぎて翌年になった。しかしまだ水は流れない。そこでかさねて信綱は安松に尋ねた。安松は平然としている。答えも前と同じだった。さすがの信綱もいささか疑いをいだきかけたが、そこはやはり信綱である。信頼するほうに賭けて待った。
そして三年後の秋、大雨とともに大地の裂けるような音がひびき、それまでの水のなかった掘割りに、どっと流れが押し寄せ、一気に新河岸川までつづいた。信綱はあらためて安松をよび、加増すると同時にいった。
「これまでそちを責めるようなことばをもらしたが、ついに修理しようともせず、信ずるところをつらぬいたのはみごとである」
この話はよく知られているが、信綱の安松への信頼があってはじめて、安松も自信をもって工事をすすめることができたのである。
また河川による運輸面にも力をそそぎ、新河岸川の蛇行を改め、上下河岸を設けて、剰余生産物の輸送に貢献した。新河岸川の船問屋は、藩と密接な関係をもち、公用的性格が強く、江戸からの肥灰取引き、藩米の積みおろしなどに利用されたが、商業が発達するにつれ、町方によっても活用され、商品輸送の動脈と化してゆく。そして信綱につづく輝綱の代には川越街道も整備され、ますます商業的性格をもつ城下町としての様相を深めてゆくのだ。
信綱はあるとき、領内の農民に向かって「隠れ蓑、隠れ笠、打出の小槌、延命袋」のことわざについて語った。雨が降っても休まず、蓑笠をつけて田畑を耕すようにつとめれば、打出の小槌同様、富がもたらされる。富裕になれば、おのずと寿命も保たれるという意味だが、これは信綱の夢だったのであろう。
信綱の墓所は、新座市の野火止にある平林寺だが、その一郭には安松金右衛門も眠っており、野火止用水の支流も境内の雑木林をぬって流れている。武蔵野の野趣をとどめた平林寺周辺は、信綱の時代の自然を現代にも伝えてくれるように思われる。
大河内松平氏の研究(相互リンク)