「武蔵野」と呼ばれる川越一帯は、四季折々の自然に恵まれた地域です。そこには豊かな環境とそこに暮らす人々によって積み重ねられた「時」があります。
川越市は、ほとんど平地ですが、大昔には、市の南東部まで遠浅の海だったようです。貝塚なども発見されていて、比較的早い時期から住むのに適した土地だったと考えられ、市内を流れる河川の流域などには縄文・弥生時代の住居跡が見られます。
奈良・平安時代は、入間川西岸地域は三芳野の里ともいわれ、「伊勢物語」では「みよし野の田の面の雁もひたぶるに君がかたにぞ寄ると鳴くなる」と歌われています。
平安時代末から鎌倉時代にかけて、武士が荘園の実権を握るようになりました。常楽寺(上戸)周辺に館があったとされる河越氏は、鎌倉幕府の御家人として重用され、河越太郎重頼の娘は源義経の正妻となり、重頼の子の重員は武蔵国留守所総検校職になるほどの実力を持っていました。
長禄元年(1457)、上杉持朝の命により、家臣の太田道真・道灌父子が川越城を築き、川越の中心は現在の初雁公園辺りに移りました。やがて、小田原北条氏が勢力を伸ばし、小田原城の支城としましたが、豊臣秀吉によって滅ぼされました。天正18年(1590)の徳川家康の関東入部に伴い、ここに川越藩が置かれ、幕末まで続きました。
川越は、江戸の北の守りであり、豊富な物資の供給地として重要だったため、幕府は有力な大名を配置しました。その1人、松平信綱は、新河岸川を利用した「舟運」(しゅううん)を起して江戸との物流を確立、商人の町としても発達させました。
明治になると埼玉県一の商業都市として繁栄。主に穀物・織物・たんすが特産物でした。明治26年(1893)には、町の3分の1を焼失する大火に見舞われましたが、直ちに耐火性を重視して土蔵造りの店舗を建設。現在も残る蔵造りの景観を形成しました。
大正11年(1922)に川越町と仙波村の区域をもって県内で最初に市制を施行し、川越市が誕生しました。その後、昭和14年に田面沢村を編入、昭和30年に隣接する芳野村・古谷村・南古谷村・高階村・福原村・大東村・霞ヶ関村・名細村・山田村を合併し、市域を拡大しました。
埼玉県南西部地域の中心都市として発展。近年では、首都圏に位置する「歴史と文化のまち」として脚光を浴び古さと新しさが共生し、川越まつり・市立博物館・多くの文化財など観光資源とあいまって、毎年400万人近い観光客が訪れています。
民間事業による駅前の整備など、都市の近代化によって、まちは活気のあるものとしてさらなる発展を遂げています。また、歴史のある街並みの保全とともに既存の景観との調和に配慮した新しい建築物の施工・街路整備・電線地中化など都市景観を尊重したまちづくりが進められています。
「小江戸」と呼ばれた川越
大消費地・江戸と直結させて、めざましい発展を見せた川越。歴代有能藩主もさることながら、商人たちの類いまれな「商魂」が大きい
川越城は、江戸城を最初に築いた室町時代の武将・太田資長(道灌)の父・太田資清が、康正三年(1457)四月八日に竣工させた(当時の用字は河越)、と伝えられている。
江戸時代は、この城が川越藩主の居城となり、おおぜいの大名が転封を命じられて、たびたび入れ替わった。徳川幕府が江戸北方の防衛拠点として重視し、いつも有能な譜代大名を川越藩主にしたからである。
そのため、この地は他に先んじて近世都市の要素を備え、めざましく発展した。
天正十八年(1590)に初めての川越藩主として入封した酒井重忠は一万石だったけれども、元禄七年(1694)に藩主となった柳沢保明(吉保)は七万石である。元禄十一年(1698)に書かれた史料には、この川越十ヵ町および周辺の家数は985戸、人口は5946人となっている。
ここには天海僧正で有名な喜多院ほか優れた寺院がたくさんある。したがって文化の水準も高い。
歴代藩主の施政よろしきを得て、この町の商人たちは城下町、門前町、宿場町の利点を十二分に活かし、川越街道を利用する駄馬輸送や、新河岸川を利用する川舟輸送で、大消費地・江戸と直結させた。川越街道と新河岸川は、江戸時代初期に開発されたインフラストラクチャーといえるだろう。舟は大量輸送ができる。米、味噌、材木、炭、野菜をはじめ、ろうそく、髪油、燈油、釘、建具など、さまざまな商品を積んで川越を夜のうちに舟出すると、もう夜明けごろは江戸の各河岸で荷揚げができたという。
戻りの川舟で江戸へ集まってくる諸国の特産品を運び、それらに手を加えてまた江戸へ運んだり、ほうぼうの中小消費地へ送り出す。なにしろ前夜川越で拵えた餅菓子を、あくる日、日本橋、浅草、深川など水路に近い地域の菓子屋で売ったというから、現代の流通機構も顔負けだ。川越城下の経済発展によって富裕な商人が増えた。しかし、だれもがおしなべて富裕になったわけではない。当然、貧富の格差も増した。この点でも近世都市の面目躍如たるものがあり、「小江戸」と呼ばれた所以でもある。
『川越市史・資料篇近世U』によると、この城下町にも江戸を真似て、「十組問屋仲間」という大商人の同業組合が組織され、幕府より承認された。そうしてメンバーだけが利益を独占しようとしたのも江戸と同じであった。
以上、主として江戸時代の川越を説明したが、つぎに戦国時代の同地について述べる。
前述のように、この時代は「河越」と書いていた。おおよそ十倍の敵勢を北条氏康が撃破して有名になった「河越の夜戦」を紹介したい。
もともと河越城は扇谷上杉氏の持ち城だったところ、小田原の北条氏綱(早雲の子)に奪い取られていた。これを取り返そうとした山内上杉氏の憲政は、扇谷上杉氏の朝定とともに北条氏康(氏綱の子、早雲の孫)に一泡吹かせることにして、うまく今川義元(桶狭間で織田信長に討たれたことで歴史に名を残した情けない武将)の協力も取り付け、いよいよ氏康の家来福島綱成が守っている河越城を奪回すべく八万の大軍を関東各地から動員した。綱成が率いる河越城の守備兵は三千。まさに風前の灯である。
急報に接して救援に馳せ付けてきた氏康の手勢は八千だった。八万に対して八千だから十分の一である。この一割の兵力で一大夜襲を敢行して上杉朝定を討ち取り、上杉憲政を遠く上野国(いまの群馬県)の平井城(藤岡市)まで敗走させた。のちに平井城も氏康に奪われて、ついに上杉憲政は越後へ逃げ込み、長尾景虎(上杉謙信)に上杉の名跡と関東管領職を譲り渡すことになるが、そもそもの発端は河越(川越)の負け戦なのである。
もし、これがなかったら長尾景虎が上杉姓を名乗ることもなかったわけで、春秋の筆法をもってすれば、この土地が越後の国主長尾景虎を関東各地から小田原へまで雄飛する英雄上杉謙信を生んだともいえるわけだ。
海に面していた川越/仙波貝塚(立川ローム層と武蔵野ローム層/仙芳仙人の伝説)/ムラのはじまり/水の支配、豪族と古墳 /鉄と馬の文化/高麗郡の設置と焼畑・牧馬/社寺創建と荘園の台頭(伊勢物語と三芳野の里)
・起(おきる)の章 −中世のあゆみ−
鎌倉幕府の御家人として力を持っていた河越氏ではあったが、源頼朝と義経の不和により失脚。後に再興を果すが、平一揆の失敗により滅亡。
代わって、関東管領の上杉氏が川越一帯を治める。やがて、上杉氏は山内、扇谷に分かれ、これに古河公方の足利氏が加わり抗争。このときに川越城が築かれ、戦略上の要衝となる。
その後、城は北条氏が奪い、城下に町がつくられるが、北条氏は豊臣秀吉に討たれ、小田原落城に伴って支城である川越城も開城。動乱の時代を終える。
(「川越」の由来諸説)/河越氏と川越館跡/河越氏と源頼朝/北条氏の台頭と河越氏の再起/小手指原・分倍河原の合戦/再び小手指原の合戦 /室町幕府への反乱失敗/上杉氏の進出/太田父子の築城物語と道灌の最後/後北条氏の河越支配/河越夜戦/上杉時代の文化(農民文化・月待供養塔板碑 /太田道真・千句の連歌会/河越茶の歴史)/武蔵野の古道
・礎(いしずえ)の章 −近世のあゆみ−
関東に移り、江戸を居城とした徳川家康は、関ケ原の戦いで勝利を収め、江戸幕府を開く。
川越は、江戸の北の守りとともに物資の供給地として重要視され、有力な大名が配置された。
川越の城下町は、松平信綱によって整えられ、その町割りは現在も形を残している。
信綱は川越街道の整備、新河岸川舟運、新田開発などの事業を行い、江戸との結びつきを深め、江戸文化を随所に取り入れる。
松平斉典の時代、川越藩は17万石となり「小江戸」と呼ばれるにぎわいを見せる。
歴代の川越城主たち/小田原征伐と北条氏の滅亡/酒井重忠と川越藩主/川越城の天守(川越の市立て)/江戸図屏風に描かれた川越/天海僧正と喜多院(将軍の遊猟と川越) /川越街道/酒井忠勝と時の鐘/町割り/松平信綱の新田開発(信綱と羽生又左衛門/検地と武蔵野開発)/新河岸川舟運/川越まつり /柳沢吉保の三富新田開発/飢饉対策・社倉制度 (奥貫友山と榛の木)/伝馬騒動/商工業の発達と蔵造りのはじまり/二の丸炎上と蔵無尽/藩校と寺子屋/ペリー来航と明治維新の亡霊
・展(のびる)の章 −近代のあゆみ−
明治になっても城下町の伝統と豊かな産業を受け継ぎ、川越は埼玉県第一の商業都市として発展、穀物流通の中継地、織物の生産地としてにぎわった。
明治26年に町の3分の1を失う大火に見舞われると、川越商人は耐火性を備えた蔵造りに着目。
持ち前の財力で江戸の様式を取り入れた土蔵造りの店を建て連ね、今日の町並みを築きあげた。
その後、社会・産業構造の変化から時代の流れに立ち遅れた川越は、新たなる発展の足がかりとして大正11年に県内初の市制を施行する。
飯能戦争と川越藩の終わり/川越町のころ/穀市と農村(川越いもなど特産品)/農業経済(明治末期〜戦時下)/川越織物市場(川越唐棧)/金融機関の整備/商業の展開と商工会議所/川越鉄道史 /工業の近代化/一番街物語(川越大火と蔵造り)/市制施行/太平洋戦争はじまる
・拓(ひらく)の章 −現代のあゆみ−
戦禍から免れた川越は、いち早く復興を遂げ、昭和30年に隣接する9村との合併を果す。
これにより、人口は10万を超え、県西部地域の中心都市として発展する基礎を築く。
その後の高度経済成長に伴って道路の整備、工業団地の造成、公営住宅の建設などが行われる。
交通の利便性からベッドタウン、物流拠点としても発展、商業の活性化、駅周辺の整備なども進められる。
伝統と文化に培われたまちは、首都圏の文化財都市としても注目され、たくさんの人が訪れている。
終戦後の川越/町村合併T/町村合併U/地域開発/公共施設/農地改革と農業の変貌/商業の今昔/工業の飛躍/衛星都市への道/住宅開発と人口増/教育T/教育U/文化財都市/民俗 /町並みの変遷/福祉・保健/展望と課題T/展望と課題U
・ふるさと写真館
| 西暦 | 和暦 | 干支 | 事 項 |
| 1368 | 応安元 | 戊申 | 6月 足利氏満・上杉憲顕、武蔵河越に平一揆を討つ |
| 1469 | 文明元 | 己丑 | 10月 この年、大田資清、宗祇・心敬らを招き武蔵河越に句会を催す(河越千句) |
| 1546 | 天文15 | 丙午 | 4月 北条氏康、河越城に来援し、足利晴氏・上杉憲政・同朝定の軍を破る |
| 1841 | 天保13 | 壬寅 | 8月 川越・忍両藩に相模・房総海岸の警備を命ずる |
| 1846 | 弘化3 | 丙午 | 4月 幕府、川越藩に外国船の江戸湾内海侵入を必ず阻止するよう命ずる |
| 1866 | 慶応2 | 丙寅 | 6月 武蔵一円で打ちこわし(武州世直し一揆) |