北条氏の検地方法
1577(天正5)年に武蔵国入間郡府川(ぬのかわ)郷(埼玉県川越市)で実施された検地を例に、村高・年貢額・知行高それぞれの計算方法をみてみよう。
検地の結果、同郷の田の総面積は14町5段小10歩(=145.36段)、畠の総面積は24町2段半30歩(=242.58段)と把握され、それぞれの等級は、田が上田、畠が中畠と認定された。
まず田の総面積に段別の基準貫高(この場合、上田なので500文)を乗じる。
145.36段×500文=72680文=72貫680文……@
これが同郷の田の貫高である。
つぎに畠の総面積に段別の基準貫高(この場合、中畠なので165文)を乗じる。
242.58段×165文=40026文=40貫26文……A
これが同郷の畠の貫高である。
つぎに田の貫高(@)と畠の貫高(A)を合計する。
72貫680文+40貫26文=112貫706文……B
これが同郷の村高となる。府川郷の住民はこの村高、すなわち112貫706文を基準に北条氏に諸税を納めたのである。しかし、112貫706文はあくまでも村高であって、これがそのまま年貢になるわけではない。年貢額は村高から農民の生活、再生産に必要な諸経費(控除分)を差し引いたものであり、府川郷の場合、20貫文の控除が認められている。
したがって、府川郷の農民が実際に領主に納める年貢額は。
112貫706文−20貫文=92貫706文……C
となる。そしてこの92貫706文という年貢額が、同時に府川郷の領主が北条氏に対して軍役をつとめる基準、すなわち知行高となるのである。
江戸近郊都市・川越平賀源内の項で、「源内は秩父鉄鋼山の開発に際して川越藩とも関係があった」と記していますが、具体的な内容は書いてありません。
染谷家の事業に関心を抱いたのには、創業の経緯のほか、川越という立地拠点があった。
ちなみに近世都市としての川越の基本的な性格は城下町に、門前町、宿場町の要素が加わったものである。 川越城の築城は遠く太田道真・道灌父子によって15世紀半ばに行われた。
その後、上杉・北条の時代を経て、16世紀末、徳川家康の関東入国とともに、酒井重忠がこの地に封ぜられる。 重忠入封当時1万石だった川越藩は、柳沢吉保の時代には11万石にもなる。 兵農分離などの政策が実施され、家臣団と商人・職人の城下集中により、町場の骨格がつくられた。
さらに天海僧正で有名な喜多院ほか諸寺も配置され、門前町としての資格も備える。 藩主は、酒井のあとに堀田正盛、松平信綱が入るなど、川越藩は、江戸の北方の重要な固めとして、忍藩とともに重視された。
元禄11年(1698)の史料によると、川越十ヶ町とその周辺の家数985、人口5946とある。 単に城下町であるだけでなく、陸上では川越街道、水上では新河岸川舟運によって、江戸との関係が深く、商工業も発達、小江戸の名で呼ばれるようになる。
ちなみに新河岸川は、正保4年(1647)松平信綱によって開かれた。ここを夜舟出すると、浅草、深川、日本橋あたりに明け方に到達できる。
このような経路により、江戸の風俗は、いち早く川越に伝えられた。染谷家も、この状況に乗じて、業容を拡大し、江戸との関係を深めたのである。
『川越市史』(資料篇近世U)によると、川越の商業では、十組問屋仲間が勢力をもっていた。 これは江戸の問屋連合にならい、業種ごとに商人を一番〜十番の組に入れ、各組から1名の大行事を選び全体を統括した。
現在、確認できるのは、一番組=油仲間、三番組=照降仲間、五番組=釘鉄鋼物打物仲間、六番組=塩・干鰯・糠屋仲間、七番組=魚屋仲間、八番組=餅菓子仲間、 十番組=米仲買・穀問屋・味噌糀・材木・炭・搗米・建具・曲物各仲間の混合である。
しかし、ここには、川越の商業として重要な位置を占める呉服太物類が入っていないし、染谷家の家業もこの分類ではわからないが、慶応2年(1866)の町方資料によると、 蝋燭仲間加入届書が残されているので、一つの仲間組織があったとみてよい。日常生活のレベル・アップにともなう商業経済の発展と、その組織化の傾向がこれによってうかがわれる。
近世の埼玉県域は、経済的にも政治的にも江戸の吸引力のもとにあったため、他県域にみられるような大きな「城下町」の発展はなく、川越以外は小城下町が形成されているにすぎない。
現在の川越は「蔵造りの町」として知られているが、これは城下町として繁栄を誇った往時の商家群を示すものである。もっとも現在遺っている蔵造りの店舗は、明治二六年の川越大火以後のものであるが、「小江戸」の名が冠されるように、江戸時代の川越は県域内第一の商工業都市であった。
城下町として整えられたのは、寛永一五年(1638)に堀田正盛が城主であったとき大火にあい、翌年松平信綱が入封し、城下町を大改造したときに始まっている。信綱は城郭を拡張し、武家屋敷の整備を行っているが、併せて町人町の町割も行っている。このときの町割によって町人町が形成されるが、その中心は上・下の一〇カ町と四門前町であった。上五カ町は、江戸町・本町・南町・喜多町・高沢町で、下五カ町は上松江町・多賀町・鍛冶町・鴫町・志多町で、四門前町は養寿院・行伝寺・蓮馨寺・妙養寺の門前町である。ところがその後の城下町の発展によって、隣接する郷村も都市化され町分に加えられることになる。元禄一一年(1698)の記録によると、下松郷・久保宿・猪鼻町・六軒町・杉原・堺町・石原宿などの郷分町があげられている。
町人町の人口は、元禄一一年には一〇カ町の家数三一八軒、うち店数二七九軒、人口二八二四人、郷分町の家数六六七軒、人口三一二二人である。幕末の慶応三年(1867)には、一〇カ町の家数六〇八軒、四門前町の家数二三二軒、人口は合わせて男二三一二人、女二一七四人となっている。これらの家数からも、城下の町人町が発展していったことを知ることができる。
川越藩の町方行政は、町奉行の下で行われることになるが、町方からは二ないしは三の町年寄がきめられ町全体を束ねている。町年寄には、町方草分けの加茂下与一右衛門家と、水村甚左衛門家が代々襲っている。
川越の豪商としては、前で述べた榎本弥左衛門などがいるが、江戸時代後期には関東随一の富商といわれた横田五郎兵衛がいる。
横田家は明和年間には酒・醤油販売を手広く行い、寛政三年(1791)には藩の御用達を命ぜられ、町年寄格となっている。翌四年には藩から知行三〇石を与えられ、文政二年(1819)には五〇〇石の士格に取り立てられている。
このような厚遇は藩への莫大な用立金のためであるが、文化九年(1812)から文政七年(1824)には、川越出金高三万二〇〇〇両余、江戸出金高二万二〇〇〇両余となっている。そして天保一五年(1844)までの出金高の合計は、六万四〇〇〇両余というたいへんな金額となっている。これに対し川越藩の返金はわずか九二五両のみであり、さすがの富商横田家もこれを契機に家運を傾けることになる。
(前略)
秩父絹や県域西南部の青梅縞と並んで、川越絹もさかんに取引されている。「川越斜子」「川越平」などとして知られているが、甲州の郡内地方から川越城主秋元但馬守が宝永元年(1704)移封のとき、郡内織の技術を持ち込んだといわれる。川越絹は川越町人によって織られ、高級な織物として江戸でも取引されているので、農村で製造される秩父絹や青梅縞とはやや異なった織物となっている。
政府は、明治五年十一月、国立銀行条例を定め、民間資本によって紙幣発行をおこなわせ、それまで乱発されていた不換紙幣の回収をして通貨の正常化をはかろうとした。これにもとづいて翌六年、小野組・三井組などの資本をもとにして東京に第一国立銀行が開設され、県出身の渋沢栄一もその総監役になった。しかし、この条令は金貨兌換などのきびしい条件がついていたために、全国でわずか四銀行しか開設されなかった。このため明治九年、条令を改めて兌換条件などを緩和したので、全国で国立銀行開設の機運が高まり、数年の間に一五三行が開設され,日本の資本主義的発展のうえに大きな役割をはたした。これは、全国で八五番目に認可された川越第八十五国立銀行の創立願書である。当時川越およびその周辺には、江戸期以来の豪商・地主が多く、これらが主体となって開設を出願したものである。資本金二〇万円のうち約半分は士族禄であるが、士族一人当りの出資は零細なものが多く、大株主は地主や商人であった。したがって開設にさいしては、黒須喜兵衛(頭取)や綾部利右衛門・横田五郎兵衛など、地元の豪商や地主が重役に就任した。
『武蔵国入間郡川越南町百七拾七番地ニ於テ、士族禄並正金加入ノ者ヲ募リ、資本金弐拾万円ヲ以テ銀行創立仕リ度、御願申上候(以下略) 明治十一年三月 』
この銀行は発足以来、条令にもとづいて一六万円の紙幣発行をおこなうとともに、一般貸付もおこなって堅実な経営がつづき、翌明治十二年六月の決算では一万三〇〇〇余円の利益をあげ、一割二分の配当をおこなったという。当時、県内に多数の銀行類似会社があったが、多くは高利貸まがいのもので、大資本による本格的な銀行は県内はじめてであったから、地域の信頼もあつかったのであろう。
ところで、全国に数多くできた国立銀行が、それぞれ民間資本を集めて紙幣を発行したことは、産業開発のうえでは大きな貢献をしたが、反面、インフレーションの傾向をますます深めた。このため松方正義が大蔵卿に就任すると、反対に金融引締め政策をとり、その手はじめとして日本銀行条令を定め、紙幣発行は日本銀行一手でおこなうことになった。このため、第八十五国立銀行も以後は普通銀行となり、明治三十一年には名称も単に第八十五銀行と改められた。この間、業績は着々と伸び、熊谷・秩父・本庄・松山・志木など県内各地に支店をもつようになり、資本金も一〇〇万円に伸び、その後も他の銀行を合併したりして資本金を増しながら、第二次大戦中、一県一行主義により、埼玉銀行として統一されるまで、約六五年間存続した。
198 川越競馬場
商工会議所所報の昭和九年の項に、第一回川越競馬会が1月15日から18日まで開催されたとある。場所は現在の市立商業高校の南方だが、町名でいうと新宿町六丁目と旭町三丁目にまたがっている。広さは縦七百米、横三百米、一周千七百米位あった。観客スタンド、事務所のほかに厩舎その他附属の建物があり、一隅には馬頭観世音の石碑まで立っていた。
199 川越競馬場
この競馬場は太平洋戦争がはじまる少し前まであったが、川越でもずい分血道をあげた人が多く、馬券は一枚一円だったという。かなり遠方からも客が来て市内の各旅館に溢れたが、前夜のうちに宿泊料を集めないと、取りはぐれる危険があったそうだ。年寄りに聞くと川越にはこの競馬場ができる以前にも、今成の熊野神社の北方に草競馬があって、結構面白かったという話である。
「川越競馬」の開催は二期に分かれる。前期は昭和4年から6年、後期は昭和8年から12年までである。「埼玉県競馬史」によると、前期のそれは通称「赤松園の競馬」と呼ばれ、入間郡田能沢村今成(現川越市今成町)に幅20メートル、長さ1000メートルのコースをつくった。これは時田伝左衛門(後に入間郡畜産組合副組合長となる)が自費で建設したという。後期は場所を川越市新宿に移し、1マイル(約1600メートル)の本格的なものとなっている。「川越商工会議所七十五年誌」によると、競馬ファンが殺到し活況を呈した。競走種別は駈走、速歩で障害レースは行わなかった。クラス付けは「大関」「関脇」などは付けず、甲、乙、丙、丁の四階級に分け、丁が一、二、三級に区分され、もちろん甲は最高位クラスである。1日35頭、1レース平均11頭が出走し、朝9時半から夕方5時まで12レースを行っていた。 (斎藤)
昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲に始まった米軍機の本土大空襲は、その後たちまちのうちに日本全国の大中都市に広がり、毎晩のようにどこかの都市が焼夷弾攻撃を受けて焼き払われていった。
首都東京は3回にわたる絨緞爆撃により、そのほとんどが灰燼と帰したほか、三鷹、八王子、千葉、横浜、川崎など大きな都市は真先きに焼き払われた。
しかし、川越市は幸いにして大きな空襲を受けなかった。これは軍事施設や軍需工場が市内になかったことと、田舎の平凡な都市であったせいかも知れなかった。
それでも何度かの空襲があり、そのうち何件かについては、人的にも被害があったようである。昭和20年6月、連雀町に2個の爆弾が投下され、この爆風により、一人が死亡し、翌7月には、東上線川越駅が数機の敵艦載機の機銃掃射による攻撃を受け、旅行者若干名が死傷したと言われ、また、同じ年東京近郊を空襲したB29爆撃機が川越市上空で火を吹き出し、高階村に墜落し、搭乗員達は住民に捕えられたと言う。
このようにして、戦争はいよいよ破局に近づき、遂に昭和20年8月15日正午、天皇の終戦詔勅の放送をもって戦争は終りを告げたのである。この詔勅放送に一億国民がひとしく慟哭して、一時は只呆然として何をなすべきか、われを忘れてしまった。しかし、やがて戦禍の中から全国民が日本再建を目指して立ち上がったのであった。
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※掲示板で川越の空襲についての情報をお願いしたところ、軍曹さんより下記のような投稿がありましたのでご紹介します。
空襲についてです No: 108 投稿者:軍曹 03/10/16 Thu 18:37:56 昔のことを思い出してもらいました。今のホームラン劇場の裏に一発落ちたのは、覚えているとのことでした。あと、旧広瀬病院に機銃の跡が残ってたそうです。空襲警報は、結構あったそうです。市内ではこんなところだそうです。あと、近くにアメリカの飛行機が落ちてパイロットが蓮馨寺で見せ物になったそうです(下駄で殴ったという未確認情報も)。 |
「もうすぐ3時になりますから、鐘が鳴りますよ」と、ひさしの低い店の中から、斜め上を見上げるように首を曲げて、おばあさんが教えてくれる。
小さな団子屋さん、炭火の上に醤油のたれが落ちて、香ばしいにおいが通りにまで流れてくる。
小江戸とよばれる川越の象徴のように、本や雑誌などに必ず登場する時の鐘――それは、川越の街の人々にとって、今でも生活の大切な区切りとなっているようだ。
「3時の鐘が鳴る頃には、たいてい売り切れてしまうんですよ」おばあさんは、朝6時の鐘から仕度を始めて、できただけのだんごが売れてしまうと、そこで店じまい、という生活を、「もうずっと昔から」つづけているだのという。
その昔≠ェ、20年や30年でなく、「3代ぐらい前から」というあたり、川越の街の歴史がしのばれておもしろい。
時の鐘≠フ近くの通りには、蔵づくりとよばれる、どっしりした土蔵づくりの店がいくつも残っている。
呉服屋、金物屋、せともの屋、菓子屋……ほとんどが4代、5代つづいて、同じ商売をしている。江戸時代からこれらの豪商たちには、苗字を許されている人が多く、御用商人として、城の表玄関から、大手をふって出入りができたのだという。江戸時代には、埼玉県でいちばんにぎやかな、商業のかんだった街ですよ。山崎嘉七さん(前出)は、老舗の菓子屋<亀屋>の6代目である。そういえば、すぐ近くにある金物屋<まるかん>のご主人も、新河岸川の船問屋<伊勢安>の斎藤さん(前出)も、やわらかな物腰と、上品な言葉づかいが印象的だった。
川越の歴史はご存じでしょうが、酒井忠勝、松平信綱、柳沢吉保という幕府のえらい人が、川越藩の城主になって来ているので、江戸との関係が深いわけですね。川越街道、新河岸川と、陸路でも水路でも、江戸に直結しているから、県内の物資がみなここに集まって来た、その名残りが、蔵づくりなのです。
気がつかれましたか、古いご商売の家のお年寄りと話をされると、みな言葉がきれいでしょう?
周辺の農村地帯の言葉とは、ずいぶん違う。このあたりにも、江戸と直接結ばれ、あるいは、藩を相手に商売をしていた伝統と格式がうかがわれるようだ。御維新でお城がなくなっても、商人は金を持っていましたし、商業の中心地という勢いはそのまま残ってましたからね、県下で最初の銀行が川越にできたのも当然の動きだったようです。第八十五銀行が開業したのは、明治11年、発起人のほとんどが、地元の商人と地主だったという。
そのあと、商工会議所ができたのも、県下で川越が一番先ですよ。そういえば、たしか電灯がついたのも川越が最初のはずです。
初代の頭取になった黒須善兵衛は、陸奥大掾(むつたいじょう)の位をもつ呉服屋、山崎さんの祖父は、はじめは取締役支配人、のち明治25年に、二代目頭取となって、亡くなるまでの20年間、菓子屋の主人と銀行頭取の二足のわらじをはきつづけていたという。商人にとっては、肩書きや名誉よりも、商売が大事ということは、よくいわれていました。わたしの祖父は、亡くなるまでずっと、自分は菓子屋だと誇りをもっていましたよ、店にいるかぎりは、かまどの前に立って、鍋の中のあんの煮え具合をのぞいていました。山崎さんは、90歳を越えても、まだまだ腕は確か、若い者には負けない自信があるという。だから、ときには、小言がでてしまうそうだ。
そんな風ですから、わたしが小学校を卒業した時にも、菓子屋の息子は、学問よりも菓子の修行が第一といわれましてね、当時、川越に第三中学があったのですが、東京・本郷にある古い格式の高い菓子屋さんに奉公にいかされました。
まあ、あの頃は、中学へ進む人は少なかったですけど、それでも、経済的にゆとりのある人は中学へ、という考え方が強かったですからね、やはり行きたかったですよ。
ところが、奉公に行って、朝早くから拭き掃除ばかり、手にひびが切れて、血がにじんできましてね、帰りたい、帰りたいと思っていたら、埼玉新聞だか、国民新聞だかに、頭取の孫が丁稚小僧になった≠ネんて書かれてしまって、もう、そうなると帰れません、辛かったですけど、歯をくいしばってがまんするしかない……。
繁栄していた商業の街・川越の曲がり角は、明治15年の高崎線開通計画だった。川越の町のなかを通過する計画を有力者が拒否、高崎線は、浦和・熊谷を通って開通することとなった。
つづいて、東北線の開通計画が出されたが、これは、はじめ浦和から岩槻を経て宇都宮へのびるはずだったが、岩槻が強硬に反対、逆に大宮は積極的に誘致にのり出して、18年、大宮・宇都宮間が開通した。
こうした経過をたどって、以後、大宮は、埼玉県内の交通機関の中心として発展するようになり、川越と岩槻は、繁栄からとり残されることになってしまったのだ。いわゆる新時代への動きに乗りおくれたということで、それまで、何かにつけ川越が一番と思いこんでいた人たちにとっては、かなり、あせりを感じたようです。<まちかん>金物店の宮岡正一郎さんは、子どもの頃の思い出に、「朝でも昼でも、家族全員そろって食事をしたことがない」商売の辛さを話していた。老舗の呉服屋のご主人は、「番頭や小僧が10人もいたのに、荷物かつぎとなると、息子の自分が真っ先によばれ」た記憶があるという。――いずれも、古い商家の店が大事≠フ考え方と、躾の厳しさを示すものなのだろう。
その後、国分寺との間に西武鉄道が敷けたり、大宮との間にチンチン電車が走るようになったりしたのですけど、やはり幹線からはずれたことは致命的だったということでしょう。
市制施行にも県下で最初(大正11年)にふみ切ったりしたのですけど、どうも、おくれをとりもどすには……。
もっとも、そのおかげで、昔のままの良さを残せたともいえると思いますよ。
蔵づくりの街並み保存ということをよく話題にされますけど、商店の中をみてごらんなさい。客がいない時でも、主人がきちんと店先にすわっているところが多いですよ。昔からの商家じゃどこでも、主人が朝一番早く店に出て、前を掃除し、打ち水をしたりしてるはずです。
川越市内に<菓子屋横丁>と呼ばれる一角がある。
直径1センチもある大きなアメ玉や、細くけずった竹串にさしたダルマ形のアメ、モナカの皮のように薄く軽い煎餅など、昔なつかしい駄菓子を売る店が何軒か並んでいるのだ。どこも、土間の一部が店先になっていて、その中で、夫婦二人が、アメを煮たりしている。
昭和の初め頃には、70軒ほどの駄菓子屋が軒をつらね、県内はもちろん、八王子・青梅方面や、栃木・群馬・長野などからも買いに来る人が多かった。すべて手づくりでやっていたのですよ。東京の神田や浅草の菓子問屋が、震災で焼けたあとは、仕入れに来る人もふえましてね。ところが戦後、何でもかんでも機械で作るような時代が来て、それでも頑固に手づくりをつづけていた結果、製造量がうんと減ってしまいましてね、残念ながら、今は細々と数軒でやっている程度になってしまいました。と語る山崎さんの店は、7代目の今日までの間に、数年間店を閉めたことがある。戦中・戦後にかけて、砂糖や上質の小豆が手に入らなくなった時のことである。
実際には、裏から材料を流してやるから作るようにという人もあったが、山崎さんは、それをことわって店を閉めた。そりゃあ辛かったですよ。でも、ヤミをやるのはいやでしたし、だからといって、代用品を使って作るのもいやで……。山崎さんは、その時、遠くを見るように悲し気な表情をみせた。
裃を着て、黒い漆塗りの箱を番頭にかつがせて、城中に菓子をおさめに行ったという誇りを、子どもの頃から教えこまれていたのですから、店を閉めるのは、死ぬほど辛いことでしたよ。
でもねぇ、どうも、川越の商人は、要領が悪いというのか、融通がきかないのか……。