川越の歴史6(騒動)


<目 次>
騒動・一揆・運動歴史読本262埼玉県の歴史川越歴史随筆秩父事件日本の歴史21みて学ぶ埼玉の歴史

 トップページ  サイトマップ  →  歴史(1)  (2)  (3)  (4)  (5)  (7)  年表  写真集
騒動・一揆・運動
「歴史読本262 特集 徳川300藩騒動録 昭和51年12月号 新人物往来社 1976年 ★★
 列藩騒動録総覧/関東地方/明和伝馬騒動(川越藩)
明和元年(1764)
藩主 秋元凉朝
関係者 間瀬九右衛門、兵内

 中山道の往来激増のため、幕府は増助郷の課役を強いた。板橋から和田宿までの上野、武蔵、信濃の二十八宿に高百石につき人足六人、馬三疋である。これに反対する農民は、明和元年十二月免除を要求して蜂起する。助郷を命じた道中奉行安藤弾正は、間道をとおって江戸に逃れ、騒動を幕閣に伝えた。団結する農民を恐れて、命からがらの体たらくであったろう。
 老中松平武元は、同十二月二十九日増助郷免除を触れることを関東郡代伊奈忠宥に命じた。かれらの要求はは通ったものの、川越周辺の六十九ヵ村の一揆勢はまだ翌年の正月五日まで打ちこわしを続けていた。家老の間瀬九右衛門らは藩士を指揮して城下の入口を固め、防備した。そして、一揆が鎮圧され、責任ある者の犠牲を数えるのは、常に同じことであった。武州児玉郡関村の名主兵内は発頭人として獄門にかけられ、他に三百六十九人が処罰された。領内取締り不行届き、藩主凉朝も山形へ転封となった。

「埼玉県の歴史」 小野文雄 山川出版社 1971年 ★★
 伝馬騒動
   (前略)
 江戸時代を通じて、県内には、現在までに判明しているだけでも約五〇の農民騒動が発生しているが、その七〇パーセントが中期以降におこっている。また地域的にみると県の北部に多く、南部に少ない。これは県の北部が秩父山地およびその山麓地帯で生産力の低い村が多く、経済的に恵まれなかったのに対し、県の南部は平地がひろがり、江戸を近くにひかえて、経勢的にも恵まれていたためと解することができよう。
 これらの農民騒動のなかでももっとも大規模のものは明和元年(1764)に発生した伝馬騒動(天狗騒動・武上騒動ともいう)である。この年は朝鮮使節の来朝により、高一〇〇石につき金三両一分と銀七匁五分という高額の国役金が賦課されていた。ところが幕府は翌二年に日光東照宮で一五〇回忌の法要が営まれることを理由に、日光道中および中山道筋の助郷役を増強する計画をたて、その年から助郷村の調査に着手した。岩鼻代官所ではこの指令を受けて手代を本庄宿に出張させ、群馬県佐位郡・那波郡・新田郡および埼玉県の児玉郡・榛沢郡・賀美郡・那珂郡・秩父郡など九五ヵ村に対し、村役人の出頭を命じたが、これを知った村々では大騒動となり、道中奉行へ訴訟をおこそうという機運が高まってきた。そのうち誰がだしたものか、『閏十二月十六日に村々の百姓のうち十五から六〇までの男は一人のこらず、十条(美里村)の身馴川原に集まれ、もし集まらぬ場合は、その村に乱入して讐(あだ)をする』との触れがでたから、一揆の人数はふくれる一方であった。この報を聞いた幕府はただちに勘定奉行所の倉橋与四郎を派遣し一揆を鎮撫させようとしたが、一揆はこれを無視してさらに熊谷宿に押しかけた。このとき熊谷宿助郷村々の農民をあわせてその数は七〇〇〇人にもおよんでいたという。これを知った忍藩では、ただちに役人および足軽兵を熊谷に派遣して警備をかためさせ、町の商人たちも本陣に集まって一揆にそなえた。このため一揆が二十七日に宿場に進入するとたちまち衝突がおこり、一揆側は多数の負傷者をだして追い散らされた。しかし鴻ノ巣宿・桶川宿などでもすでに同宿助郷の農民が結集しはじめていた。事態を重視した幕府はついに増助郷中止を決定し、郡代伊奈半左衛門に農民の鎮撫を命じた。半左衛門はただちに役人を桶川宿に派遣し、増助郷中止を触れさせたから、一揆はようやく解散した。
 ところがそのあと晦日から翌年正月にかけて、各地で農民の富農襲撃、すなわち打ちこわし≠ェはじまった。打ちこわしにあった家は足立郡で一軒、比企郡で二軒、高麗郡で六軒、入間郡で三軒、埼玉郡で四軒におよんでいる。そのほかにも多数の富農がねらわれたようであるが、あるいは金品をだし、あるいは炊出しをするなどによって難をまぬがれた家も多い。また打ちこわし≠ノあった家のなかには、足立郡川田谷村の甚佐衛門のように多数の人足をやとい、打ちこわし≠むかえうった家もあった。打ちこわし≠ヘ目的をもたぬ烏合の衆であったから、川越藩(秋元氏)からも藩兵が出張するにおよび、正月八日ごろまでにすべて鎮圧された。
 こうして幕府をおどろかせた伝馬騒動もおさまったが、幕府は事後処理として一部村役人を処罰するとともに、騒動に加わった農民たちを捕えて処分をおこなった。このとき児玉郡関村(美里村)の名主兵内は事件の首謀者とされ、死罪獄門に処され、その他流刑・入牢・追放などの刑に処されたものは群馬県下を含めて三六〇名余におよび、その三分の二以上が村役人層であった。これらのなかには入牢中病死したものも一〇数名におよんでいる。なお兵内は義民としてその一〇〇年後の文久三年(1863)神にまつられ、現在も地元の人びとが毎年欠かさず祭りをおこなっている。兵内の義挙をうたったものに兵内くどき≠ェある。
   兵内くどき(文久三年作)の一節
 …………ここは名におう十条河原、其の日集る人数のほどは、凡そ一万八千余人、名主兵内諸人に向い、当時お上の御無理な事や、時の役人非道な故に、しかし大勢騒立つなれば、上のおきてを破るも道理、吾はもとより諸人の為に、捨る命は覚悟の上と…………(以下略)
   (後略)

「川越歴史随筆」 岡村一郎 川越地方史研究会 1981年 ★★★
 5.明和二年の武上騒動

「秩父事件 自由民権期の農民蜂起」 井上幸治 中公新書161 1968年 ★
 明治国家がまさに確立されんとする時期、秩父の渓谷を中心舞台に蜂起し、「無政の郷」を現出した農民たちのエネルギーはどのようにして発揮されたのか。事件の策源地に生まれ育ち、この事件を歴史家としての原点とする著者が、新資料をもとに、 困民党の反権力意識、行動形態、組織など農民の主体的基盤となるものを解明する。 ここには、農民の生き生きとした変革の精神があふれ、さらに従来の見解に対して再検討を迫るものがある。

Y.本陣の崩壊/軍隊の出動

 埼玉県首脳部は、困民軍は一直線に寄居を突破し、浦和に向かって進出をくわだてる可能性があると判断しており、三日午前六時には(山県)内務卿にたいして警視庁巡査七〇名を浦和に派遣するよう電報で要請しているが、これは却下された。 東京鎮台の参謀の高井少佐は笹田書記官につぎのように語る。
  内務卿ハ川越地方ノ事最モ懸念ナリ、一端此ニ及ブトキハ害又少々ニアラズ、注意スベキ事云々
  スデニ派遣スベキ(鎮台兵ノ)隊名モ定マリ居レリ云々
 山県が川越地方を警戒したのは、おそらく輸送機関のないためであったろう。県は川越地方に憲兵隊を重点的に配置したため、寄居に出張した県令の電請により、鎮台兵は児玉地方に派遣されることになったのである。
Y.本陣の崩壊/包 囲
 いま困民軍にとって、秩父全体が自由な作戦場であった。
 これにたいして寄居本部は、警官およそ四三〇名、来援の憲兵三小隊、鎮台一中隊の大兵力となり、これを寄居口・飯能口・八幡山口・小川口の四方面、七ヵ所に派遣し、秩父から平野に進出する主道はもちろん、間道まで閉鎖することになった。 この守備態勢は四日には確立した。さらに三日には川越士族五三名を動員して、小川口の間道坂本に配置することにした。 県の本部としては、なんとしても浦和の県庁へ強請の進撃をくとめなければならなかった。 
Y.本陣の崩壊/「運命ヲ俟タン」
 織平が周三郎の事件で手まどり、皆野に来たとき、すでに栄助のゆくえはわからなかった。「故ニ自分モ逃ゲルヨリ外ナキト思ヒ」その場に居合わせた善吉、為吉、荻原勘次郎ほか吉田某など、五名で蓑山にのぼり、山道づたいに慈光寺のある比企郡平村に出たのは五日の朝だった。 ここで織平と善吉、勘次郎は為吉とわかれ、その日は川越の大黒屋という宿屋で不安な夜をおくり、翌日、東京に出るまで二度ばかり不審訊問を受けたがなんとかきりぬけ、三人で東京にはいり、神田小柳町の宿屋にとまっているところを押えられた。
 為吉は川越から所沢に出て、途中で吉田とわかれ、七日東京にはいった。品川の妓楼で一泊したのち、芝に住む同郷の菊池藤助の家で二泊し、一五日まで旅人宿におり、そこで捕らえられた。
Z.山中谷/粥仁田峠
 めぼしい幹部は戦列をはなれてしまった。しかし、その時刻に皆野における本陣の解体を知らず、峠に哨兵線を張ったり、出動の途中であったりした部隊にとって、戦闘はこれからはじまるところであった。
 山県内務卿が川越方面について埼玉県の注意を喚起したことは、警備の上にいくつかの反応を起した。一一月三日、川越では警察と群長の斡旋で、士族五三名をつのり、その夜のうちに外秩父に出発させたのも、反応の一つであった。
 外秩父から川越方面に出る道は小川口とよばれ、粥仁田峠をこえる坂本口、二、三の峠道をたどり慈光寺の村に達する西平口にわかれていた。両方の地帯の郡境は、分水嶺の外側の斜面までのびるために、古くから外秩父とよばれている。 秩父の内部では遊撃隊が自由にはせまわり、軍用金の徴発や焚出し、人夫駆出し、高利貸打ちこわしが自由におこなわれているが、この作戦を外秩父に延長すると、警察はこれを秩父から平野部、川越方面への出撃と解釈することになる。 

「日本の歴史21 近代国家の出発」 色川大吉 中公文庫 1974年 ★
資本主義創世記(二)/山県の心痛 に秩父事件の川越に関する記載があります。
 大宮郷占領のしらせは、十一月三日の朝になって、ようやく山県有朋のもとにとどいた。笹田からの電報によると、賊軍はさらに二手に分かれ、一隊は名栗をこえて川越へ、もう一隊は小川をめざし、北回りに川越に入って合流し、浦和の県庁へ乱入のみこみである、と。
 山県が憂慮したのは、戦闘が東京近郊でおこなわれ、その連鎖反応が内外に波及することであった。これは内務卿兼参謀本部長山県有朋の体面をいちじるしく傷つける。 かれはすぐに憲兵二小隊の増援の措置をとり、午後二時特別仕立ての汽車で浦和へ出発させた。さらに東京鎮台の参謀高井少佐を同行させた。笹田は浦和駅へかけつけ、参謀らをむかえて意見をきいた。
 「其談ニ曰ク、内務卿ハ川越地方ノコト最懸念ナリ、一端此ニ及ブトキハ害亦少々ニアラズ」
 川越警備を第一とし、憲兵一小隊を飯能・名栗に急行させて敵に備え、もう一小隊を二つに分けて、その一隊を松山から小川にむけて配備した。高井参謀はそれから寄居の本部に急行。その寄居では金崎村での敗戦によって、この寄居本部すら危険におちいったと騒いでいた。
 (中 略)
 客観的に見て、このときの政府側の配備はまったく見当ちがいだった。かれらがもっとも恐れ、重視していた飯能口や小川からの川越→浦和→東京進攻などというものは、農民軍には計画すらなく、まったくの蜃気楼にすぎなっかた。 むしろ、児玉郡へ突出して中仙道の深谷へでるか、信州へぬけるコースこそが、もっとも現実化する可能性があった。

「みて学ぶ埼玉の歴史」 『みて学ぶ埼玉の歴史』編集委員会編 山川出版社 2002年 ★★
近代・現代/日清・日露戦争の時代
  ・女工哀史と廃娼運動
近代・現代/戦後の民主化
  ・労働組合の誕生

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 安部磯雄(あべ いそお)
1865〜1949(慶応1〜昭和24)明治・大正・昭和期のキリスト教社会主義者・社会運動家。

 島田三郎(しまだ さぶろう)
1852〜1923(嘉永5〜大正12)明治・大正時代のジャーナリスト・政治家。

 木下尚江(きのした なおえ)
1869〜1937(明治2〜昭和12)明治・大正・昭和期の小説家・思想家・社会運動家。

 MacArthur,Douglas(マッカーサー
1880〜1964 アメリカの陸軍軍人。


 ▲目次  サイトマップ  トップページ  →  歴史(1)  (2)  (3)  (4)  (5)  (7)  年表


作成:川越原人  更新:2009/8/30