・「春日局」ゆかりの町
川越と聞いて、すぐ思い浮かべるのが特産のサツマイモ。「小さい頃のおやつといえば、決まっていもせんべいか蒸しいも。それもあんまり甘くない、安物ばかり食わされた……」。そう話してくれたのは地元の友人だ。何だか、ダサイタマ≠フ県にいかにもありそうな、暗い話を持ち出して申し訳ない。ところが、平成の新時代を迎えたあたりから、川越を訪れる観光客が急増しているという。
NHKの大河ドラマ「春日局」の放映(平成元年)が、その起爆剤となったのである。江戸城の北西の守りとして重視された川越藩は、徳川幕府の厚い保護を受け、有力大名がその任にあたった。三代将軍家光やその乳母春日局の部屋がある客殿や書院をわざわざ江戸城から、川越の喜多院へ移築したのも、そうした政治上の結び付きが強かったからである。やがて物資の供給も盛んになり、江戸との往き来も激しくなると、人々はいつしか川越の街を「小江戸」と呼ぶようになった。伝統ある城下町はその後、幾たびの大火に耐えながら、昔の面影と文化を伝え、今や埼玉県下でも有数の大都市として発展を続けている。そんな訳で、川越の街につきまとうダサイタマにあるイモの町≠ニいう暗いイメージはもはや一掃されてしまったのだ。
川越へは、東武東上線と西武新宿線、JR川越線の三線が通じているが、散歩コースに最も近いのが西武新宿線の本川越駅である。東上線なら川越市駅(川越駅とまちがえないように)がよい。各駅には観光協会が作った散歩用の絵地図が備えられているので、着いたらそれをもらって、記載されたコースに従って歩けばよい。
市内の見るべきところは、実に沢山あって、地図を見ただけではしんどいと思うかも知れない。しかし実際に歩き始めると、意外に観光ポイントは接近しているのが分かり、一日あれば主だったところは回れる。半日なら、寄りたいところを予め選んで回るか、気ままにコースを辿って時間が来たら駅へ引返せばいいのだ。なにしろこの町は、土産物屋、古美術店、名物の飲食店など、ついふらっと入りたくなる店が非常に多いので、無理して長い距離を歩こうと考えない方がよい。川越は、寄り道する楽しさが大きな魅力なのだ。・迫力満点の蔵造り
本川越駅から北へ真っ直ぐ伸びる道が市内散歩のメイン・ストリートで、前半が中央通り、後半が一番街通りと呼ばれる。しばらくは普通の商店街が続くが、やがて左手に蓮馨寺が見えてくる。永禄十年(1567)、川越の城将となった大導寺駿河守政繁が、亡くなった母の蓮馨尼のために建てた寺で、開山は感誉上人。徳川時代は浄土宗関東十八壇林(坊さんの大学)の一つだった。本堂に呑龍上人の像が安置され、「子育ての呑龍様」として親しまれている。
さらに商店街に沿って歩くと、前方に真っ黒く分厚い壁の家が現れて、急に街の印象が変わる。ここから先の一番街通りに、川越を代表する伝統建築、蔵造りの商家が最も残っている。城下町川越は江戸時代、周辺農村地から運ばれる物資の集積地となり、商人は川越街道や市内東側を流れる新河岸川の舟運を利用して、物資を江戸へ供給し、富を蓄積していった。蔵造りはそんな商人の富の象徴のように見えるが、実際には、江戸時代の商家は板屋根、石置き屋根のものが多かったようだ。市内に蔵造りの家が多く建てられるようになったのは、明治二十六年の川越大火がきっかけである。町の三分の一、約千三百戸を焼失するという大被害を受け、商人たちは防火対策として、江戸の町にあった耐火建築の蔵造りに注目した。当時、新しい耐火建築ではレンガ造りが広まりつつあったが、川越の商人は伝統の蔵造りにこだわり、レンガは屋敷の塀や地下蔵に補足的に使ったという。
現在、市内には二十棟の蔵造りが国や市の文化財に指定されている。この一番街通りに固まって残っているのは、見学する上でも有り難い。まるで時代劇の撮影所の中を歩いているような気分になって嬉しくなる。主な見どころを順に紹介すると、まず右手に川越名菓いもせんべいの老舗「亀屋」がある。創業は天明三年(1783)。店の裏手には文庫蔵や工場に使っていた蔵を利用した山崎美術館がある。川越の画家で近代日本画の基礎を築いた橋本雅邦の作品を中心に展示されている。通りをもう少し歩くと、蔵造りの商家に混じって古い洋館が現れる。これは埼玉銀行(現あさひ銀行)の支店で、現在も営業中。その先には、日常生活に使われた古い民具を公開する服部民俗資料館がある。昔は、履物屋と薬屋を営んでいた商家で、ご主人が親切な説明をしてくれる。その説明によれば、通りに立つ電柱は美観のため、いずれ地下に埋設されるという(現在その工事は完了している)。その斜め向かいにあるのが、川越市蔵造り資料館。煙草の元売捌所を営んでいた蔵造りの商家を公開している。建物は川越大火の直後に再建されたもので、通りに面して二棟の店蔵、奥に来客用の奥座敷、さらに文庫蔵、台所、煙草蔵、文庫蔵(三番蔵)と続き、店蔵にはレンガ造りの地下貯蔵庫を備え、家族は別棟に住んでいた。細長い敷地を有効に使った機能重視の設計が光る。
その先を少し進んだ反対側には、国の重要文化財に指定されている大沢家住宅がある。呉服商の近江屋半右衛門が寛政四年(1792)に建てた蔵造りで、関東でもかなり古い町家の一つだ。間口が六間と広く、白壁塗りなのが特徴だ。
午前十時頃から歩き出せば、この辺りでお昼時となろう。ゴーンという重みのある鐘の音をその頃に聞くことができたら、幸運だ。小江戸川越のシンボル、時の鐘が告げた正午の時報である。最初に建てられたのは、寛永年間(1624〜44)の頃で、川越城主酒井讃岐守忠勝の命による。櫓の高さは、奈良の大仏と同じで16.2メートル。明治の大火でこの櫓と鐘も焼失したが、その後再建され、現在でも一日四回、鐘音を街に響かせている。なお、時の鐘の少し東寄りに「いせ清」というそば屋がある。細めの機械打ちめんだが、結構コシがあり、風味もよい。天せいろ、天ぷらそばがおすすめだ。
コースは一番街通りからはずれて、小さな路地を入っていく。蔵造り資料館の先に左折を示す指導標が立っている。正面に見えてきた寺は養寿院で、鎌倉時代中期に建てられた。天文四年(1535)、住持の隆専により曹洞宗に改宗し、江戸時代には、幕府から朱印十石を安堵されて栄えたという。寺宝の銅鐘は国の重要文化財に指定されている。
養寿院の前を右折すると、左手に色とりどりの幟がはためく小路がある。かすり姿のおばさんの呼び込みにつられて入っていくと、店先にはあめ玉や麩菓子など、昔懐かしいお菓子があふれている。さすが菓子屋横丁と呼ばれる所だけあって、十数軒のお店が軒を並べて、手造りの菓子や食事を提供している。その中の一軒「田中屋」では、菓子造りの道具の展示や菓子造りの体験コーナーがある資料館と、川越出身で、さし絵、装幀画家として戦前に活躍した小村雪岱の美術館が併設されている。横丁には、いもそうめん、いもアイス、いもきんつばなど、サツマイモを使ったアイディア食品も売られている。・川越城址を歩く
横丁を通過すると、交通量の多い県道に出る。市の指定コースでは、県道を左へ少し行き、新河岸川にかかる高沢橋を渡って、川沿いを下流に向かうが、汚染された川を見ても仕方がないし、途中、それほど重要な観光ポイントもないので、ここでは省略し、氷川神社へ直接向かうことにする。県道を東へ進み、江戸時代には高札が立てられたという「札の辻」の交差点を横断して真っ直ぐ進む。途中、右側に「吉寅」というすき焼きとフランス料理の店がある。明治十年の創業で、川越で最も早くカレーライスを出した店として知られている。昼食向けに、スペシャルカレーを始め、サービス・ステーキ、城下町定食といったメニューもあり、ファンが多い。
市役所を左に見ながらさらに進み、養護学校の前の道を左折すれば、氷川神社に着く。
氷川神社は、欽明天皇の時代(539〜571頃)に大宮の氷川神社の神霊を勧請して建てられた。川越城の鎮守として歴代城主の保護も厚かった。本殿は三間社・入母屋造りで、銅瓦葺き。比較的小さな建物だが、軒下に五十種に及ぶ彫刻が施され、中国童子の絵や祭りの様子も描かれており、見応えがある。
氷川神社の例大祭は、毎年十月十四、十五日に開かれる(現在は、10月の第三土曜日とその翌日の日曜日に行われてる)。日本三大山車祭りに数えられている川越祭りは、この神社のお祭りだ。川越城主松平伊豆守信綱が、慶安二年(1649)に神輿や獅子頭などを寄進したことが祭りのきっかけになったといわれる。祭りの前日には提灯に灯が入り、山車のお囃子が打たれる。翌十四日、朝太鼓が鳴り、先ぶれの役、町内の代表者、一の拍子木、手古舞の女の子、鳶職らが列をつくって氏神の氷川神社へ参詣していく。山車はそれぞれの町内を回る。十五日は「曳っかわせ」と呼ばれる各町内の山車の引き合わせで祭りはクライマックスへ突入。山車と屋台が他の町内を順番に回り、夜には主だった辻に何台もの山車が集結する。舞台をクルッと回して山車が向かい合うと、テンポの速い祭り囃子とユーモラスな踊りが演じられ、歓声が湧く。お囃子の乱れた方が負けで、その山車は相手方に道を譲らなくてはならない。二日間、街は人波で埋め尽くされる。江戸天下祭りの様式を取り入れた祭りは、同じ江戸の建築様式である蔵造りとマッチして、毎年、川越の街に江戸情緒をよみがえらせるのだ。
氷川神社を後にして、これからコースは南へ下っていく。指導標に従って歩いていくと、武家屋敷に似せた真新しい建物が左手にみえてくる。最近、完成したばかりの川越市立博物館である。原始・古代からの川越の歴史を、複製や模型などによる立体展示で教えてくれる。ビデオルームではクイズを解きながら町の歴史が勉強できて、子供たちに人気がある。
博物館を含めて、その南側の一帯は、川越城の跡で、市民には初雁公園の名で親しまれている。野球場やプール、テニスコートなどがあるが、何と言っても見逃せないのは、川越城の建造物で唯一残っている本丸御殿である。
川越城は長禄元年(1457)、上杉持朝の命により、家臣の太田道真、道灌父子が築いたものだ。上杉氏は六代にわたって居城にしたが、天文六年(1537)に小田原の北条氏綱に攻略され、後に北条氏の家臣福島綱成が入城した。ところが天文十五年(1546)に、上杉朝定、憲政と古河公方による連合軍八万余の包囲攻撃を受ける。しかし綱成は、氏康の援軍もあって夜間に奇襲し、何とか城を守った。これが史上、名高い川越夜戦である。天正十八年(1590)、徳川家康の関東入部にともなって川越藩が置かれ、八家二十一人が城主をつとめることで、江戸城の北西の守りの要となった。
歴代城主の中でも松平伊豆守信綱の名はつとに知られる。寛永十年(1633)老中となり、三代将軍家光、四代家綱に仕えた。島原の乱を鎮定した功績により、寛永十六年(1639)、川越藩主となる。信綱は早速、大火により被害を受けた川越城の大増改築に踏み切った。本丸、二の丸、三の丸を構え、さらに三つの櫓と十二の門より成る、平城としては大規模なものを築いた。
しかし明治維新により、城はその後解体され、現在は本丸御殿の唐破風の玄関、櫛型塀、大広間など八つの部屋を残すのみである。玄関の前に立つと、さすがにその大きさと威容には、思わず唸ってしまう。中へ上がって、廊下を歩きながらガランとした大広間のたたずまいを見ていると、居並ぶ重臣たちの姿が幻のごとく目の前に浮かび、消えていった。
幻といえば、川越城には七不思議と呼ばれる伝説が残っている。その一つ「霧吹きの井戸」には、敵の攻撃を受けた時に井戸の蓋を開けると、たちまち霧があたりにたちこめて、城を包み隠してしまうという話があり、その井戸の跡は、公園内に残されている。
本丸御殿の向かい側の林には、三芳野神社がある。大同二年(807)の草創といわれ、社名の三芳野は、『伊勢物語』に出てくる「みよし野のたのむの雁もひたぶるに 君が方にぞよると鳴くなる」という歌の「みよし野(川越北部の古い地名)」から採ったという。本殿と拝殿を相の間でつないだ権現造りの社殿は、寛永元年(1624)、川越城主だった酒井忠勝が徳川家光の命により建てた。社殿各部の太い木割り等に桃山時代の壮麗な気風が残っている。
この神社は、本丸城内にあって四方を土塁と堀に囲まれていたため、参道も細長く、暗い。昔は一般人の参詣も恐らく難しかっただろう。そんなことからか、童謡「とおりゃんせ」の歌詞は、ここが発祥地といわれている。歌詞を口ずさみながら歩くと、確かにそう思えてくる。
神社を出て右折し、五分程歩くと、住宅街の中にこんもりした森が右手に見えてくる。この高台は川越城富士見櫓の跡である。城内の三つの櫓のうち一番高かったので、ここを天守閣の代わりとした。森の中には小さな神社がある。・市民の憩いの場、喜多院
道を一旦戻り、途中から指導標に従って南下していく。このあたりは新興住宅地で、車の通行も少なく静かに歩ける。やがて左手に浮島神社が見えてくる。境内に小さい池があり、昔はこの付近が沼沢地であったことを思わせる。そんな土地柄から浮島の名も付いたという。
神社の前から斜め右の道を進むと、大通りへ出て、再び城下町らしい町並みになる。向かい側には、成田山川越別院がある。失明して生きる意欲をなくした下総の国の石川照温という人が、成田山新勝寺のお不動様を信仰したおかげで目が見えるようになった。彼はさらに修行を積み、嘉永六年(1853)に廃寺となっていたここ本行院を、成田山新勝寺の別院として再興したのである。毎月二十八日に開かれる蚤の市に人気があり、大勢の市民が訪れる。
成田山川越別院の前は、川越大師の名で親しまれてきた喜多院の参道が通っている。国の重要文化財に指定されている切妻造り、本瓦葺きの山門をくぐると、目の前に広々とした境内が広がる。沢山の鳩が飛び交い、子供たちがエサを手にして、後を追いかけている。何軒かの出店の前にはベンチが置かれ、老人たちは、お茶を飲みながらのんびりとおしゃべり。主婦のグループは、アイスクリームにみそおでんに焼きだんごと、どっちかというと食べる方に夢中(失礼!)のようだ。いずれにしても、川越散歩の最後に喜多院へ訪れると、歩き疲れたせいもあり、この居心地のいい境内でゆっくりとくつろいでしまう。
喜多院は正式には星野山無量寿寺喜多院といい、平安初期の天長七年(830)、淳和天皇の命により慈覚大師円仁が創建した勅願所が開基とされる。その後、元久二年(1205)の兵火で炎上し、永仁四年(1296)に伏見天皇の命で尊海僧正が再興した時、慈恵大師を祀って官田五十石が寄せられ、以後、天台宗の関東総本山として隆盛する。正安三年(1301)には後奈良天皇から「星野山」の勅額を賜った。が、天文六年(1537)、北条氏綱と上杉朝定の戦いで寺は再び炎上してしまう。
その後、無量寿寺に入山して寺勢の盛り返しに尽力したのが、徳川家康のブレーンとして知られる天海僧正であった。天正十六年(1588)、寺内の仏蔵院である北院の入って、北院二十七世を継ぎ、慶長十六年(1611)には川越へ鷹狩りに来た家康と親しく接見し、信頼を得る。家康は寺領四万八千坪と五百石を下し、北院の改築を命じた。この北院がやがて喜多院と呼ばれ、寺の総称となっていった。寛永十五年(1638)の川越大火で、ほとんどの建造物を焼失した時も、三代将軍家光から直ちに再建の命が出され、天海の願いで江戸城紅葉山にあった書院、客殿なども移築されたのである。このように、三代の将軍たちと深いつながりを保った天海がいたからこそ、喜多院は幕府の厚い庇護を受けられたのだ。
国の重要文化財に指定されている客殿、書院、庫裏などは拝観できる。客殿から眺める小堀遠州流の庭園も落ち着いた雰囲気で、日本人に混じって外国人もうっとりしながら、江戸の世界に浸っている。美術ファンには、やはり重文指定である狩野吉信作の「紙本着色職人尽絵」が見逃せない(ふだんは模写の展示、実物はゴールデン・ウイークのみ展示)。六曲屏風一双の上下二段に二十五種類に及ぶ近世の職人たちの風俗が細かく描かれている。また、山門の南側の一角にある五百羅漢もぜひ見学しておこう。五十年の歳月をかけて彫られた五三五体が鎮座し、ユーモラスな表情で観光客の笑いを誘う。
境内をそのまま南へ歩いていくと、三大東照宮の一つである仙波東照宮の前に出る。元和三年(1617)、徳川家康の遺骸を日光へ移送する途中、天海が四日間の法要を営んだことから、寛永十年(1633)に建てられ、大火による焼失ののち、寛永十七年(1640)、時の城主堀田加賀守正盛によって再建された。日光東照宮に比べれば、模型みたいな小さな建物だが、華やかな飾りや極彩色の塗りはやはり見事。建物のほとんどが国の重要文化財に指定されているが、社宝は拝観できない。
道路に出て、さらに南へ向かえば、星野山無量寿寺仏地院にあたる中院がある。東照宮建造の折に、現在地に移された。草木の手入れが行き届いた境内は、日本庭園のような趣があって気持がいい。明治の文豪・島崎藤村の義母である加藤みきの墓がある。
ここから本川越駅へ向かえば、市内の主な観光ポイントを訪ねながら一周したことになる。細かく回れば、まだ数日はかかりそうな興味の尽きない町といえる。だから、余り欲張らないで歩いた方がいいのだ。散歩中、チェックしておきたいお店もきっと幾つか出てくるはずだ。
食事処で忘れてはならないのが、うなぎ屋だ。戦前までは、川越産の天然うなぎが市場に出回っていたそうだ。松江町の「いちのや」は天保三年(1832)の創業で六代目。うなぎのコース料理もある(月曜休み)。同じ松江町の二丁目にある「小川藤」(金曜休み)も大正時代の創業。うな重とうな丼しか出さない仲町の「小川菊」(木曜休み)も老舗で、親子二代のファンもいるという。
なお、川越市の北隣、川島町白井沼には遠山記念館がある。地元出身の実業家、遠山元一氏の生家を開放して、氏の美術コレクションを展示している。展示品は国の重文指定の作品五点を含む日本、中国、中近東の工芸品が中心だ。
城下町として栄えた川越は、現在でも黒塗りの蔵造り商家が軒を連ね、その繁栄と賑わいから小江戸と呼ばれた江戸時代の面影を残してくれている。
西武新宿線の終点・本川越駅で降りたら、駅前の交差点を東に向かおう。お茶屋のある四辻を右に入ると、静かな雰囲気の中院。左に曲がれば日光、久能山とともに三大東照宮のひとつ仙波東照宮だ。ここからダルマ市や五百羅漢で知られる喜多院の境内に入る。この寺は天台宗の関東総本山で、慈覚大師が創建したと伝えられるが、焼失して永仁4年(1296)に再建された古刹。書院や客殿などは国の重要文化財に指定されている。
朱塗りの多宝塔の脇から境内を出たら、西山歴史博物館や中央公民館の前を通って川越城跡に向かう。本丸御殿には歴史資料が数多く展示されているので見学してみよう。
伊佐沼には、いったん戻って左折し、新河岸川を渡って田園地帯を歩く。ほぼ一直線の農道の先には埼玉中央卸売商団地の建物が見える。団地についたら中を突き進み、フィールドアスレチックの施設のある伊佐沼公園を抜けると伊佐沼に到着する。沼のほとりは美しく整備され、道路沿いにはサクラ並木。弁当を広げるにはもってこいの場所である。
その伊佐沼の北端からは、再び田園地帯の中を市街地に戻る。城下橋を渡ってすぐの川越市立博物館では、これから歩く蔵造りの町並みの予備知識が得られる。館内は展示もさることながら、広くゆったりとしているので疲れた足を休めるのにも最適だ。
新河岸川に沿うサクラの並木道をたどり、高沢橋のそばから細い路地に入っていこう。ここは、菓子屋横丁と呼ばれ、10軒ほどの駄菓子屋が軒を連ねている。なかでも田中屋にある駄菓子の資料館では、昔のおもちゃや菓子作りの道具などを展示していて興味深い。
その路地を抜けて、広い道路に出たところが一番街通りだ。この辺りでは蔵造りの商家がまとまって見られるので、じっくりと見学していこう。重要文化財の大沢家住宅をはじめ、黒塗りの重厚な商家のたたずまいには、ただただ圧倒されてしまう。目の前を走る車さえなければ、江戸の昔にタイムスリップしてしまった気分にさせられる。
この通りから少し外れたところに建つ木造3階建ての鐘楼は「時の鐘」と呼ばれる川越のシンボルとも言えるもの。400年近くも昔から時を知らせてきたこの鐘は、今でも午前6時、正午、午後3時、午後6時の4回鳴らされる。ちなみに現在建っている鐘楼は明治26年(1893)の大火の後に再建されたもので、4代目にあたるそうだ。
歩行時間 合計2時間40分
本川越駅(15分)中院(20分)川越城本丸御殿(40分)伊佐沼(40分)城下橋(25分)菓子屋横丁(20分)本川越駅
著者が実際に歩いた50のコースが、地図イラスト(大舘ミミ子作)付で紹介されています。
●「おばけん猫の小江戸めぐり」出版によせて
埼玉県川越市在住のデザイナーで漫画家の小幡堅(愛称・おばけん)さんと愛猫のチビが、地元川越の町々を歩き、その風景や人々をチビの言葉で紹介する「おばけん猫の小江戸めぐり」は、朝日新聞の埼玉版で2001年9月から翌年10月まで続いた計45回の連載企画です。
「川越を斬新な形で紹介できないか」という発想は、おばけんさんという貴重な住人の「発見」から始まり、ご主人に従順な飼い猫の存在や、町の雰囲気と時代に合った癒やし系の画風が相まって、結実しました。それがいいのか悪いのか、企画の「独創性と独断性」に関しては、ちょっぴり自負しています。
「面白い本を見つけましたよ」。後に「おばけん担当」となる甲斐俊作記者(現・大阪本社地域報道部員)が私に示したのは、小幡さんが四半世紀も前に初出版した奇妙な漫画本「芥川龍之介〜鼻〜小幡堅」でした。支局の本棚に長年ひそんでいた「とっても変な本」の中身は、グロテスクともいえる人間の姿態と、さまざまに形を変える鼻、鼻、鼻。14センチ四方の変形版で単色刷り。おまけにページ数の記載ははく、何ともいえない迫力を感じたのを覚えています。連載を始める年の春のことです。
それから幾日もたたないうちに、甲斐記者が小幡宅を訪ねました。そこで見たものは、優しいアヤ子夫人とチビの暮らしから醸し出された想像を超える作品群でした。あのグロテスクな筆致とは異なり、ほほ笑ましく、愛嬌があり、おちゃめで、ほんわかと和めるものばかりでした。「ファンタジー」と甲斐記者が叫んだかどうかは分かりませんが、その場で「朝日の紙面で描いてみませんか」と打診してしまいました。
以降、数カ月間の打ち合わせ場所は、決まって市内の居酒屋。杯を重ねるごとに妙案?がうかび、「一回目は時の鐘」「市民にあまり知られていないところも訪ねましょう」……。
江戸文化の影響を受け、小江戸と呼ばれる川越は、市によると年間四百万人の観光客が訪れるといいます。その魅力の一つが「古さと新しさの共存」なのでしょう。いにしえの面影が21世紀の都市空間に溶け込んだ姿は、住民ならずとも自慢できる要素だと思います。おばけん猫は、そんな「川越の宝」ともいえる光景や建物、催事などを紹介してくれました。小幡さんの筆による洒脱な文章も、読者の共感を集めました。
そういえば、県内に住んでいながら川越には行ったことがない、という読者が随分いたのには驚きでした。「切り抜きを携え、ゆったりとした時が流れていそうな川越の町をいつか散策してみたい」という投書に勇気づけられました。
(中略)
チビとご主人による「小江戸探索」は、いまだに続いています。「いつ再開するの?」と、続編を願うお便りは、いまも尽きません。ありがたいことだと思っています。お先真っ暗な閉塞感が漂う昨今だからこそ、小幡さんの「絵と文」は有用なのです。正月に開かれた「原画展」も大盛況でした。味わい深い「おばけんの世界」を、この本でも堪能していただきたいと思います。
2003年5月朝日新聞西埼玉支局長(現・浜松支局長) 伊藤典俊
出世稲荷
「小江戸情緒」と言ったって川越は駅に近づくほど近代的になる。でも、百貨店や家が密集する町中に、樹齢600年というイチョウの巨木が2本あるのにはびっくりだ。新緑も良かったが、紅葉もすばらしいに違いない。
その巨木にはさまれるようにして細い参道があり、突き当たりに出世稲荷がある。わがご主人様は巨木がどうのこうのと言いながらも、どうやら「出世」の2文字に気を取られている様子。どこで手に入れたのか、帰りにはちゃんと油揚げを供えているんだから。
羅漢様
喜多院の境内に僧侶の石像が535体ある。「五百羅漢」といい、50年かけて造られたらしい。一つひとつの表情の豊かさが気持ちをほっとさせてくれる。
夜にお詣りをして、一つずつ頭を撫でると体温の温かさを感じる羅漢様があって、その羅漢様は撫でた人の親兄弟に似ているというんだな。
僕も手をのせてみた。……。ぬくもりはない。猫はだめなようだ。ふと隣の羅漢様をみると、ひざの上に友達を発見。動きだしたら遊んでやろうと思ったのに、動かない。残念。
のっぽポプラ
川越から桶川に向かうと入間川の土手下、左側に大きなポプラの木が2本ある。前は一面の田んぼ。天気と木の魅力に誘われて、ここで絵を描く人もいる。
ポプラは3本あったというお便りが来た。僕のご主人が持ち主に尋ねると、三十数年前に土地を買った記念にさし木にした5本のうちの3本が育ち、5年ほど前、落雷で1本枯れたんだそうだ。
登ろうかと思ったが、見上げてやめた。あんまり高いので目を回すこと間違いなし、だ。
※現在、このポプラは1本も残っていません。
いも地蔵
川越駅東口から猫の足でも5分の妙善寺。境内には大きなサツマイモを三つかかえた愛きょうのあるお地蔵さんがある。イモ文化発展と健康を願って建立されたそうだ。
「川越いも」がとれるようになって250年。妙善寺のある所は昔は仙波村と言い、イモ栽培が盛んだったという。
毎年10月13日は「いも供養」があり、今年も多くの人が訪れた。僕もご主人と可愛いお地蔵さんに般若心経を読んで香をたき、手(前脚?)を合わせてきた。今日だけはお地蔵さんも大きく見えた?
大正のシンボル
川越は建物の資料館のようだ。蔵の江戸に始まって明治、大正、昭和、平成と駅に近づくほどビルビルと高くなる。
蔵造りの通りに屋根が緑色の「あさひ銀行」(現、埼玉りそな銀行)川越支店がある。入り口のプレートに「登録有形文化財です 文化庁」とある。時の鐘を江戸のシンボルとすれば、大正はあさひ銀行では、と思う?
赤いポストをしたがえて堂々と建つ姿は品格があり、ご主人も川越の第二の「シンボルだ、シンボルだ」と感心している。