/桐の花
/天の園(第六部)
/大地の園(第一部)
/〃(第二部)
/〃(第三部)
/〃(第四部)
/東京駅物語
/花
/鐘楼の町
/鉄塔武蔵野線
/桂子と圭子
四月の日曜と祭日、二日つづきの休暇を利用して、わたしは友達と二人連れで川越の喜多院の桜を見物して来た。 それから一週間ほどの後に半七老人を訪問すると、老人は昔なつかしそうに云った。
「はあ、川越へお出ででしたか。わたくしも江戸時代に二度行ったことがあります。今はどんなに変りましたかね。 御承知でもありましょうが、川越という土地は松平大和守十七万石の城下で、昔からなかなか繁昌の町でした。 おなじ武州の内でも江戸からは相当に離れていて、たしか十三里と覚えていますが、薩摩芋でお馴染があるばかりでなく、 江戸との交通は頗る頻繁の土地で、武州川越といえば女子供でも其の名を知っている位でした。 あなたはどういう道順でお出でになりました……。 ははあ、四谷から甲武鉄道に乗って、国分寺で乗り換えて、所沢や入間川を通って……。 成程、陸を行くとそういう事になりましょうね。 江戸時代に川越へ行くには、大抵は船路でした。 浅草の花川戸から船に乗って、隅田川から荒川をのぼって川越の新河岸へ着く。 それが一昼夜とはかかりませんから、陸を行くよりは遥かに便利で、足弱の女や子供でも殆ど寝ながら行かれるというわけです。 そんな関係からでしょうか、江戸の人で川越に親類があるとかいうのはたくさんありました。 例の黒船一件で、今にも江戸で軍が始まるように騒いだ時にも、江戸の町家で年寄りや女子供を川越へ立退かせたのが随分ありました。 わたくしが世話になっている家でも隠居の年寄りと子供を川越へ預けるというので、その荷物の宰領や何かで一緒に行ったことがあります。 花の頃ではありませんが、喜多院や三芳野天神へも参詣して来ました。 今はどうなったか知りませんが、その頃は石原町というところに宿屋がならんでいて、江戸の馬喰町のような姿でした」
老人の昔話はそれからそれへと続いて、わたし達のようにうっかりと通り過ぎて来た者は、却って老人に教えられることが多かった。 そのうちに、老人はまた話し出した。
※甲武鉄道:現在のJR中央線
この続き「川越次郎兵衛」の話は、このページを見て下さい。
「江戸の御金蔵破り」があった翌日、見るからに国者(くにもの)とわかる男が江戸城本丸表玄関前に立ち、東照宮のお告げにより天下を自分に渡すべし、と叫ぶ。武州川越の者の名の笠をつけていたため川越藩屋敷に連行されるが、調べると野州宇都宮の者であることがわかる。八丁堀同心・坂部が川越藩屋敷に受け取りに行くが、縄抜けされてしまう。半七に内密の依頼がくる。
四月になって、番太郎の店でも焼芋を売らなくなった。駄菓子とちっとばかりの 荒物をならべている店のまえに立つと、要作は町内の使で何処へか出たらしく、女房のお霜が店番をしていた。それを横目に見ながら、半七は隣りの自身番へはいると、定番の五平があわてて挨拶した。
番太郎の店 当時は各町(ちょう)の入口には必ず木戸が設けられ、朝は六ツ(午前六時)、夜は四ツ(午後十時)にはその木戸の開け閉めをさせていた。そのため木戸の脇に木戸番専用の小屋を設け、そこに詰めている者を番太郎とか番太と呼んでいた。町内の雑用もこなし、また拍子木を打って時を知らせて歩いたりもしていた。図のように普段は、冬は焼芋を売ったり、夏は金魚を売ったり、そのほか草鞋や蝋燭なども売ったりしていたのである。『江戸府内絵本風俗往来』。◎「次郎兵衛はどうしてお葉と懇意になったのだ」と、半七はまた訊いた。
「船のなかで……」と、お霜は答えた。「ご承知でもございましょうが、川越から江戸へ出ますには、新河岸川から夜船に乗ります。その船のなかで懇意になったのでそうでございます」
お磯の身売りについて、お葉は玉の下見に行った。その帰りの船が次郎兵衛と一緒であったので、互いに心安くなった。
新河岸川から夜船 新河岸川を上下する帆掛け船。棹を使う船頭の姿が見える。この新河岸川は、埼玉県川越市東部で赤間川等の河川を合わせて荒川とほぼ平行に流れ、北区北部の岩淵水門で荒川と合流、隅田川となる川で、流長26キロ、その舟運は寛永十五年(1638)三月、川越仙波東照宮が大火のため焼失、再建資材を江戸から新河岸川を利用して運搬したのに始まる。松平信綱が藩主になると、領内の伊佐沼から流れる川に多くの屈曲をつけ、舟の運航に適するように水量を保持する工事をし、上・下新河岸など多くの河岸場が設けられた・そして川越を夕方出ると、浅草の花川戸に翌日昼前には着くというので、川越夜船といわれたりした。『目で見る埼玉百年』。
五重塔 (J-text日本文学学術的電子図書館の中にあります)
露伴が谷中にいた頃――五重塔の話
(前略)
こうして朝に夕に、白木の五重塔を眺めて暮らしていた露伴は、これを物語とすることを思いついた。度重なる江戸の大火や、安政の大地震や、彰義隊の兵火にも耐えて聳える塔である。銀杏横丁を新聞連載の原稿を投函しにゆく道すがらにも、露伴は立ち止まって塔を眺めて愉快になった。
露伴の家に出入りの倉という大工は、ちびてはいたが、良い道具をつかい、腕もたしからしかった。なにより谷中辺の古い大工の話にくわしく、のっぽりという腕の立つ大工や、越後の源太という大工の話を聞いた。もちろん目の前に聳える五重塔の工法、いわゆる斗きょうの組みの話や明治に入って行なわれた改修の話も聞いたであろう。
少しずつ塔の物語は露伴の中でふくらみ、生彩を帯びて建築の本なども漁るようになった。こうして建築的ともいえるゆるぎない構成をもつ名作『五重塔』ができあがった。
「 (引用略) 」
クライマックスである。塔の上の決死の十兵衛、加勢の心意気をしめす源太。塔が建ち上るところで、物語は終るはずだったが、「国会」連載中にじっさいに激しい暴風雨があり、露伴は現実の五重塔が気づかわれてならなかった。それを書き足して『五重塔』は成ったのである。もちろん、塔が建つところまででいいではないか、という谷崎潤一郎のような評もある。
その後、私は寛永寺の浦井正明先生に、谷中天王寺の富興行の話を聞いた。寺に保存された「富一件記」を解読すると、寛政の五重塔の再建はなかなかの難工事で、途中に思わぬ大風のため新築中の塔が倒壊し、このためにまた最初からやり直したので、予想外の大きな借財がで、寺は負債の返済に苦労したことも見えるという。
果たして露伴はそのことを知っていたものか。歩いてゆける距離に天王寺はあり、その資料はずっと寺に保存されていた。建築学の本も漁り、考証に手を抜かない露伴はそれも読まなかったとはいいきれない。
(後略)
追記 私たちが『谷中五重塔事典』を出し塔再建の動きが報道されると、露伴邸に出入りした大工倉のご子孫石井鶴江さんから手紙と露伴の「自作の由来」のコピーをいただいた。ここで露伴は倉を「無学の聖人」「詩趣のある男」と評価し、主人公の「幾分かモデルに使」ったと述べている。鶴江さんによると、倉は本名を石井倉蔵といい、谷中三崎町五十二番地に住み、露伴の向島の家の茶室なども造り、墓所は谷中自性院にあるという。鶴江さんは「倉を舅とする祖母は五重塔を大切に思い、焼けたときはどんなに口惜しがったことでしょう。焼跡より燃え残りの木材の一片を拾って、大切にタンスの中に保管しておりました」とあった。
(後略)
青空文庫
彼女の夫がまだ大きな商家の若主人として川越の方に暮していた頃のことだ。当時、御国替の藩主を迎えた川越藩では、厳しい御触れを町家に廻して、藩の侍に酒を売ることを禁じた。 百姓町人に対しては実に威張ったものだという川越藩の新しい侍の中には、長い脇差を腰にぶちこんで、ある日の宵の口にひそかに多吉が家の店先に立つものがあった。 ちょうど多吉は番頭を相手に、その店先で将棋をさしていた。 いきなり抜身の刀を突きつけて酒を売れという侍を見ると、多吉も番頭もびっくりして、奥へ逃げ込んでしまった。 その頃のお隅は十八の若さであったが、侍の前に出て、凄い権幕をも畏れずにきっぱりと断った。 先方は怒るまいことか。そこへ店の小僧が運んで来た行燈をぶち斬って見せ、店先の畳にぐざと刀を突き立て、それを十文字に切り裂いて、これでも酒を売れないかと威しにかかった。 何と言われても城主の厳禁をまげることは出来ないとお隅が答えた時に、その侍は彼女の顔を眺めながら、「そちは、何者の娘か」と言って、やがて立ち去った。
藤村の思い出
(前略)
若いころに私が藤村と接触したのはその程度であるが、大正の末に京都に移った後、偶然の機縁で新しい接触の道が開けた。それは新しい藤村夫人静子さんを通じてである。
そのころ私の家では静子さんの親しい友人の伊吹信子さんとなじみになり、昭和の初めごろ信子さんは私の家に住んでいた。静子さんはその前から藤村の飯倉片町の家に家政婦のようにして住み込んでいたのであるが、いよいよ結婚しようかと思うということで、信子さんに相談するために京都へ見え、私の家に泊られたことがあった。それで私の家でも静子さんと知り合ったのである。
静子さんはある意味ではちょっと風変わりの、現代に珍しい婦人である。全身が藤村崇拝の結晶のようで、文字通りにおのれの一切を創作家藤村にささげた人であった。ちょうどそのころ、藤村は『夜明け前』の準備に取りかかっていたのであるが、静子夫人はそういう創作活動が自由にのびのびとできるようにと、ただそれだけに努力を集中した。衣食住の一切のことから、さまざまの人間関係に至るまで、藤村の趣味や性向を絶対の権威として、すべてをそれに合わせるように努めた。それはいわば奴隷の態度であるが、静子さんはみずから進んでその態度を取ったのである。
藤村は相当に殻の固い人であったし、その趣味や性向もかなり独自であったから、それを絶対の権威としてその世界の中に閉じこもっている静子さんの姿は、外から見るとちょっとおかしくも見えたが、しかし創作家である藤村にとってはこれは非常な慰めであったろうと思われる。創作に熱中している時には、人事関係のきしみなどは非常に煩わしく感ぜられるであろうが、そういう煩いはすべて静子さんが引きうけ、藤村をいつも藤村崇拝の雰囲気で包んでおこうとしていたように見えた。藤村がその自伝的小説のなかで詳しく描写しているさまざまの煩累も、静子夫人の努力で、よほどその圧力を減じていたであろう。『夜明け前』の読者は、この作が従前の藤村の作よりもよほど明るくなっていることを気づくに相違ない。
(後略)
島崎藤村と川越・中院の関係については、このページをご覧下さい。
中院(島崎藤村と中院)(川越インターネットモールのなかにあります)
明治維新に先きだつ元治元年(1864)水戸藩内「天狗党」は尊王攘夷を強行しようとして、筑波山にけっ起したが、幕府はこれにたいして激しい攻撃の軍を進めた。 天狗党の一部は茨城県那珂湊の部田野原の戦いに敗れて降伏し、隊員のうち江橋五右衛門以下230人は罪人として川越藩に預けられた。 江橋五右衛門は翌慶応元年(1865)4月2日死罪打首の刑に処せられ、菊池忠右衛門等18人の武士は抑留中それぞれ病に倒れてその遺骸はいずれも広済寺に埋葬された。 川越藩主松平大和守は慰霊のため永代供養料金15両と水府浪士19柱の位牌を当寺に奉納した。
――創作ノート――
群馬県の高崎から、新潟県の宮内へ直行する、上越線打通工事の最後の難関、清水トンネルが完成し、上越線が正式に開通したのは、昭和六年の九月一日のことである。
今年六十二歳になる藤村冬子は、いまでもそれを忘れることが出来ない。もう四十四年も前のことである。冬子は藤辰(ふじたつ)という指物師の娘であったが、現在(いま)は、日本橋人形町の大きな料亭「二本桜」のおかみになっている。主人もかくれた旦那も、現在はいないようである。
戦前、戦後を通じて、彼女の身の上にも、同世代の女性と同じように、いろいろな苦労や浮き沈みがあったようである。しかし、日本橋でも四、五番をくだらない、和洋取りまぜの、独得の料理を出す「二本桜」の、帳場のある部屋に坐っているいまの冬子は、どう見ても六十代には見えない。五十ぐらいの感じである。すこし大柄の顔と躰つき。坐っている和服の膝や腰のあたりには、まだ女盛りの、色っぽい感じさえある。桜色の、艶やかな顔と掌が、いつも着る一越(ひとこし)ちりめんや紬(つむぎ)、そしてお召の色彩とよく似合って、大輪の妖しい花が咲いたように見える。
彼女は雇われマダムなどではない。戦後、まったくの自力で、この料亭を築いたという。冬子は戸籍の上で、いままでにその姓が変ったことはない。籍を移すような結婚を、いちどもしたことがないということである。
藤辰は、彼女が生れ育った埼玉県川越の、生家の屋号である。父親は藤村辰之助といった。徳川時代から指物師が家業で、先祖の藤村覚之丞は、時の藩主に可愛がられ、苗字帯刀をゆるされて、居間の欄間や、奥庭の小神殿などを造ったことがあるという。
代々の当主は、江戸の指物師に負けない箪笥、長持など、家具類を多くつくって名が通ったが、明治からは桐の箪笥専門になり、父親は藤村辰之助を略して藤辰とよばれた。
冬子はひとり娘であったが、兄がひとりあった。冬子の娘時代の開花は、冒頭にしるした、昭和六年九月一日の上越線開通の機会からはじまるのであるが、それを思い出す彼女は、いつも藤辰の娘の冬子と、他人(ひと)様からの、当時の自分の呼び名を胸のなかに喚びおこしておいてから、それを思い出す癖がある。
戦争終結の昭和二十年、つまり三十二歳までが、彼女の波瀾の多い前半生である。いろいろなことがあった。また現在までの後半生にも、いろいろなことがあったようである。
私は、つまりこの小説の語り手である私は、料亭「二本桜」の常連などではない。たまたま必要があって、徳川期からの、近代家具史を調べているうちに、ふとした機会から彼女のことを知ったのである。名のある桐箪笥屋の娘として、育ち歩んだ彼女の来歴を聞いているうちに、家具史のことはともかく、戦争前の昭和史を背景に、藤辰の娘、藤村冬子の歩んだ足跡を、別なかたちで綴ってみたいような気持になったのである。もちろん伝記ではない。六十の彼女の、率直な告白をメモしながら、私自身の感じる、客観的なひかりを、さまざまな登場人物の姿に当てることも許して貰った。
人はどんなひとでも、不思議ともいえるような来歴を持っている。女性においてもまた当然である。結果からみて、女性であっても、容貌の美醜にほとんど関係のないような運命を辿るひともある。しかし、藤辰の藤村冬子の場合、容貌のすぐれていたことが、彼女の運命の変転に重大な関係があったように思える。また、彼女自身も気づかないような、おんなとしてのつよい魅力を秘めていたことも、その前半生を動かす、大きな要素になっているようにも思われる。
戦前と戦後では、日本の国情がガラリと変ってしまった。男や女の気持も、その習俗も、大きく変ってしまった。戦後生れのひとが、戦前の男女のあり方や、生活の習俗を見ると、異国のひとを見るような思いがするかも知れない。この移り変りから戦後の激動期、そして現在までの彼女の歩みにレンズを当てても、ひとの心を打つような幾つかのドラマが浮びあがってくるかも知れない。
しかしここでは、指物師の娘であった藤辰の藤村冬子の前半生を、メモと調査を骨子にして描いてみた。
ゆめの一日
試験の発表日の朝、保はひとりで米屋さんをでた。屋号を<マス屋>といって、川越では古い米屋だ。主人はかつらのいとこにあたる。さすがに川越は城下町だけあって、ゆく道みち、なにやら保はそのおちつきのある町並みに心しずまるのを感じた。
中学校は町の東北のはずれ、初雁城とよばれる川越城の城あとにあった。正門をはいったところに、数本のクスの大木が清潔な森をなしていて、校舎はそのおくからはじまり、それは県立中学校にふさわしい威風ある建物であった。だがその日も正門はとざされていて、通用門からはいるように立て札がしてあった。
ぞくぞくと人びとがつめかけはじめた。砂利をしきつめた通用門の広場をつきあたるまえに、右がわに<博物教室>と札のかかったふうがわりな建物がある……それに保はいきなり心ひかれた。――というのは、かれとかつらは試験の日、かれがでてくるたびにこの建物の石段であうことにきめた。おたがいに顔を見ただけで、つまった息がすーとぬけたのであった。
「どうだったい……?」
「わかんねえや……」
「まあ、いいよいいよ……」
これだけの会話で、つぎの時間のはじまるのを待ったのである。――きょうもおかあさんがそこにこしかけているような気がして、そこの石段がなつかしいのであった。
博物教室のわたり廊下からかぎの手に、ふつうの教室がつきでていた。寄宿舎に通じるばかながいわたり廊下がそこからはじまっている。
その外壁の高みに、じつはもうさっきから試験の発表ははりだされていたのである。それを保はひとりで見るのがこわくて、なんだか博物教室の石段でじめじめしていたのである。しかしいよいよ追いつめられて……ようやくはり紙の下にきて立った。――保のまわりの人びとは、息をのんで発表を見つめている。ひそひそ話しながらごたごたしている。そのまんなかで、保は人にぶつかられ、ぼーっとさせられ、そしてつっ立っている。
自分が、すてネコかすて犬みたいな気がしてくる。米屋のにいさんが、せっかくいっしょにいってやろう、といってくれたのに、なぜきてもらわなかったのだろう、とくやまれた。
――いくら目をさらのようにして見たって……ないものはないのだ。――ひや汗がぶつぶつふきだした。首すじから血がさがっていくのがわかる。頭がつめたくなるのに、からだのほうは火あぶりにあっているようだ。たおれそうになる。考える力もぬけ、ただ立ちっぱなしだ――本家の水車があらわれる……ムクじいさんの顔がたちはだかる――人びとは入れかわりたちかわりするのに、保はその場にくぎづけだ。いまはまったくのぞみもたえた。自分がどこにいるのかさえ、わからなくなりかけるのだ。
気がつくと、かれは町をせっせと米屋へむかって歩いていた。町はごくふつうで、お店もならんでいて、もうすっかり春なのに、保の心のなかには、ひとかけらの光もなかった。――町じゅうが知らん顔なのである。
(後略)
五百羅漢とサクラ草
(前略)
先生はさきにたった。通用門をでた。すぐ左に折れて、尋常高等学校のへいにそっていった。まるで散歩にいくみたいだった。
チンチン電車の発着所前をすぎても、先生はまっすぐいった。するとまもなく縁日で名高いお不動さんだ。カメのたくさんいる池がある。連中はそろそろうれしくなった。
(へーえ、これが強制運動か……)
連中は、きつねにつままれたような気がした。池のはたでさわいだ。カメをめずらしがるやつがおおぜいいた。保もそのひとりだった。
「はやくせい!」
先生がどなった。
べつの門からでると、そこの道は、どうしたって喜多院へいく道だ。そこからは目と鼻のさきだ。喜多院は有名なお寺だ。この連中には、<三代将軍家光誕生の間>なんかどうってことない。境内がすてきなのだ。環境がすばらしいのだ――およそ川中生で、ここになんらかの思い出を持たない者はない、といってもよいくらいの<喜多院>だ。卒業して何年たっても、川越に用があってくると、ここだけはなつかしくて、たずねずにはおれないということだ。
「きょうは喜多院へいくんですか。先生?」
「バカをいえ」
ひとことふたこと話すうち、もう門前そば屋の前で、石の門のあいだから境内が見えはじめた。五月の午後の日がおどっている。サクラの老木の幹が赤く若やいで、枝えだはにおいだしそうな葉ザクラだった。
(やっぱり先生は、喜多院が目あてだったんだ……)
みんなそう思った。殊勝げな顔して、先生についてゆく。
「十分間、時間をあたえる。」
「わあっ!}
「さわぐでない!」
西から南から、こい空気の森の気配が流れてくる。かたむいた太陽が、つきあたりの丘をそめている。丘の上の、慈眼堂の屋根がわらもそまっている。のぼってみると、天海僧正の墓碑もそまっていた。静かすぎる。
十分間ではいそがしい。五百羅漢も見たい。みんなかけおりた。五百羅漢は人気がある。連中を、いくら見てもあきさせなかった――ないしょばなしをしている幼なじみみたいなひと組、コンロで湯をわかしている風流人、一方があんましてやってるかと思えば、一方はいい気持ちで腕まくらしてねむっている、といった気のあったどうし、サルをだいていい気になっているかわり者、これはしくじったと頭をかいているお人よし、たいこをたたいてうかれているのんき者、めがねをかけたハイカラなじいさん……などなど――ならべたらきりがない。どれもこれも気むずかしい顔なんてしていない。大人物ぞろいだ。そろって笑顔だ。みんなでとぼけあってさわいでいる。だが、あれもこれも、なにかを考えている顔だ。ふかい顔だ。どのひとりだって、じっとそばにいると、すきになってしまいそうな聖者ばかりだった。
十分間はあっというまにたった。五百羅漢のさくの外に、沙羅双樹の木がある。これは本物のシャラノキで、ふつういわれている夏ツバキなんかではないそうだ。
先生はいちばんさきに、ちゃんとその木の下にきて待っていた。
一同は、番所の山門から外にでた。
「先生よう、やっぱり伊佐沼へいくんですか?」
「あたりまえだ。」
「かけなくっていいんですか?」
「心配するな。」
まもなく町はずれだった。たちまち一望の平野にむかうことになった。この一望の天地は、二毛作田の特徴で、森と農家がたんぼのひだにしずみこんで見える。旅人にはたまらない風景かもしれない。けむりも見える。あのけむりを、この連中は、それぞれ村で、大宮の機関庫のけむりといって、ながめて育っているはずだ。保も唐子の山の上から、そういってながめた。
もうだれも、走ろうなどと考えるバカ正直者はなくなった。遠足みたいに、そのひどい砂利道をザクザクと歩いた。買いたてのくつもこれではたまるまい。
「もうすこしいくと」と先生がいった。「サクラ草の原っぱがあるはずだ。いまさかりだろう。荒川の堤防のむこうから大宮にかけては、サクラ草の名所だからな。」
先生がこんなことをいうので、連中はますますのんびりした気分になってしまった。なんともわけのわからない、うすきみのわるい強制運動であった。
(後略)
水ヨウカン
(前略)
かれは、ワラをもつかむ気持ちになっていた。こんなときまたいじわるく、かれの目が、なんともめずらしい看板に、がっしりととらえられた――その看板は、いまのかれには救いの神だった。
かれはその店の前に立った。なかのようすを見るよりさきに、まずもう一度、その看板の文字をしかと見とどけた。
<ないものはない>――とある。
それもペンキで書いたあんちょこなものではない。鉄なんかのはめこみの字だ。大きくかっ色に、二階の窓の上に横書きされてある。
(ああたすかった……ここならあるだんべ。)
かれは店にはいると、岩田屋のときと同じようにいった。相手にでたのは、かれより一つか二つぐらい年上に見える小僧さんだった。
――てんで話が通じなかった。むこうはじれったそうにするし、こっちはぽかんとした。もういちど保がくりかえしていったとき、年とった人が、背をまるくして机にかじりついたままいった。
「それはね、あんた、店をまちがえたのではないかい。」
「ちがいます。看板を見て、買いにきたんです。」
「ではね、店のなかをよく見てごらん。」
いいながらその人は、顔をあげ、片目でくわえこんでいた筒形のめがねをはずした。
「うちはね、時計屋だよ。」
「はい……でも……」
「――<ないものはない>……と書いてあるっていいたいんだろ。だがね、あれは時計のことだけをいってるんだよ。」
「…………!」
保は、だんだん頭がひえてきた。はじめてあたりをきょろきょろ見た――<洋品雑貨>と見たのは、時計だのめがねだのだった。はじめて岩田屋の店とよく似てる、と思ったのはまちがいであった、と気がついた。
(ぼくは、やっぱり唐子のヤマザルだなあ……)
「ね、見たとおり時計屋だろ。」
「はい、すみません……さいなら。」
「あのね! 岩田屋さんへいってみな……あそこならあるだろう。」
「……すみません。」
<あと三日>がますます頭にきてしまって、保は、自分の知恵はこれまで、と見きりをつけて家へいそいだ。
(後略)
へっぽこ風来坊
あれだけたのしみにしていた唐子行きの情熱が、火が消えたようにどこかへかくれてしまった。このおれに、こんなことがあろうとは……と、思いもよらなかっただけに、保はわれながらあきれた。
(しかたがねえや……とにかく中学をやめる決心をしたんだもん。それをまだおかあさんにいいそびれているんだもん。)
そこはさすがに保で――なにしろ風来散歩ときたら、五歳のとき、村のこじきのあとをちょこちょこついて歩いたのがはじまりで、小学三、四年のころだったが、ついに久仁子から<サンキチ>と異名をたてまつられたほどの散歩きちがいだったから、その特技に、かれはいく日かをたすけてもらうことにした。
――歩いた。じつに熱心に歩いた。川越の町を中心に、東西南北――町からうんとはなれて、農家のちらほらある村はずれの道をえらんで歩いた。ありがたいことに、秩父山脈だけは、どこを歩いているときも、いつもこっちをむいていてくれる。歩いてみて、なるほどとわかるのであった――川越城が初雁城の別名でよばれるわけも、この地一帯を初雁の里とよぶわけも、そして川越中学の帽子の徽章が、わたる雁の姿を表現していることも……いまかれは、雁のわたるみのりの秋を想像した。するとすべて、なるほどと胸にくるのであった。
(川越と雁……このゆたかな農村と雁……雁と川中……まったくだ。ふかい縁だ。でっかい月はのぼるし、入間川の水は清いし……まったくだ。)
かつてかれは、川中生となったからには、せめて川越城のあらましぐらい知りたい、と殊勝な考えを持ったことがある。
かれが図書館で読んだのによると、川越城は長禄元年(1457年)に江戸城と同時にきずかれている。はじめはちっぽけな城だったが、のちに寛永十六年(1639年)に、松平信綱によって一大城郭に造りかえられた。こんなぐあいに川越藩が江戸幕府からだいじにあつかわれたのは、川越周辺の広大な地域が、幕府の穀倉地帯の名にはじないだけのゆたかな土にめぐまれていたのによる。そのころは、もっともっとたくさんの雁がわたってきただろう。雁と川越とはきってもきれない仲なんだ。だから川越中学のグラウンドを<初雁の庭>とぼくが名づけたって、わるいことはないんだ。
まあこれはともかく、東、西、南、北と性こりなく歩いているうちに、四日間があれっと思う間にすぎた。
(後略)
森と月とあしたと
(前略)
散歩のふたりは、川越の郊外、大仙波をさして歩いている。畑なかの小道をえらんで、南へ南へと歩いている。染色学校(いまの川越工高)の横手をすぎてしばらくゆくと、やがて前方に浅間神社と愛宕神社の森が立ちはだかってくる。月光はいよいよあびるようだ。そのすこし右わきに、遠慮がちに孤独に立っているのが雀ノ森の杉林だ。
ふりかえると、光西寺、中院、東照宮、喜多院と、それらの森がまったく一つにかさなりあってしまって、なにやら夜の森が王者を誇っているみたいだ。いまやふたりの視界には、森だけがあった。ふしぎな月夜といわねばならない。
ようやく広い道にでた。左に折れると浅間さまが左がわにきた。わずかに坂道となる。カエルの声が空からふってきた。その声で頭上を鳴き鳴き飛んでいたゴイサギの声が消された。
「新河岸川は、水が光ってきれいだろうな」と柿沼がいった。「川のむこうは一望のたんぼだし……田の水もきれいだろうな。」
「このお月さまですものね。」
「とうとうだれにもあわなかったね。ひとっ子ひとりいないね。こんないい晩……もったいないね。この名月を、ふたりでたっぷりよくばるとしようよ。」
「いいですね。」――(やっと柿沼さん、しゃべりだした。ああよかった!)
しかし、あとがつづかなかった。思ったとおり新河岸川は、ずうっと遠くまで銀光りして流れていた。たんぼの上は、月に反射してぼうっと明るい。ふたりは川のへりにならんで腰をおろした。
「保くん!」
と柿沼がいった。それもしばらくたってからのことだった。
「はい……?」――(夏子さんのことでなければいいがな……こんな晩は、柿沼さんのためによくねえよ。)
「あのね。」
「はい。」――(夏子さんのことっだったら、ぼく相手をしねえから……)
「きみね……」
「はい。」――(いやに気をもたせやがる……)
「きみ、この新河岸川のこと、なにか知ってるかい?」
「いいえ、なにも……」――(ああよかった。こうこなくちゃあ。)
「そう……この川はね、いまこそこんなただのドブッ川だけど、むかしは<新河岸川の舟運び>といってね、たいしたところだったんだぜ。それも二百何十年というむかしからね。」
「ふうん……こんな川が!」
「つまりね、むかしは荷物を運搬するのに、人か馬か車しかなかったろう。えっちらおっちら、この城下町の川越から江戸までね。そんなことじゃあらちがあかなかった。舟にかぎる。舟ならいちどきにたくさんつめるし、はやくもはこべる。<舟運び>だ……とだれしもそう思うのだけれど、なかなか実行できない――ぼく、こないだ本で読んだんだけど、このあたりに住んでいた人で、名まえを沢田甚右衛門といったそうだが、その人がこの川岸をひらいて港をつくった……正保四年、一六四七年のことだというんだ。これがはじまりでね……」
「ふうん!」保はにわかにのり気になった。「ことしは大正七年、一九一八年だから……ええと……二百七十一年まえのことになりますね。」
「そうなるかな……それでね、のちに新河岸川が、上下二つの新河岸にわかれたり、それから四十年ばかりのあいだに、寺尾河岸とか扇河岸とか牛子河岸とかいうのができて、この五つの港をひっくるめて五河岸とよんだ。遠くの町や村からも産物があつまってきてね。五河岸はその集散地としてさかえにさかえた。盛りの一時期には、このあたりには問屋が三十軒もあって、百そう近い舟が江戸と川越のあいだをたえず往復していたそうだ……ねえ、保くん……!」
「はい……?」
「この静かな月夜の、このさびれはてたドブッ川を見ていると、ここにそんなむかしがあったなんてうそみたいだね……」
「まったくですねえ!」
「まったくむなしいもんだなあ。一時代の文明なんて……」
「そんでよ……!」と保はいきなりとんきょうにいい、質問戦術をとった――(柿沼さんが、しんみりこんなことをいいだすと、どうもあとがろくなことじゃあねんだ。)――「そのにぎやかだった五河岸が、いつ……なんで……さびれちゃったのですか?」
「それはね、わりあい最近のことなんだ……原因は鉄道の発達さ。わかるだろう? ――明治二十年代から大正にかけて、川越を中心に、地方の町と東京をつなぐ鉄道が、じわりじわりと発達してきてね……そのためさ。」
「鉄道じゃあかないっこないですよね。」
「鉄道ばかりじゃないんだ。大正二年には、自動車という大敵が埼玉県にもあらわれてね、つい去年の六月には、川越―所沢―田無―東京の日本橋と、乗合自動車路線が開通したといわれている。」
「ふうん!」
「そりゃあね、かないっこないさ。でもさ……のどかないい風景が消えていくというのは、さびしいことだね……去年は、入間川―飯能間の鉄道馬車が消えたしさ。」
「まったくです!」
それきりで、柿沼はまただまりこんでしまった。
(後略)
もの思い
(前略)
安部立郎先生という人は、川越の旧家の生まれで、川越中学第一回の卒業生でもあり、早稲田大学を卒業すると、そのまま郷土史家として、このふるさとの町にとどまった。郷土の歴史に関するたくさんの著書もあり、はやくから後輩の指導に志をいだき、心身の鍛錬の場として川越学生同志会を創立した。はじめは御嶽神社のがけ下の一軒の古家を借りて、そこを会員たちの集会場とした。先生はなんとしても図書室がほしかった。先生自身の蔵書をそこに持ちこんだのをはじめとして、会員たちの持ちより図書もすこしずつふえ、やがてどうにか図書室らしいていさいがととのった。
先生の理想は、学生相集い、書を読み、語り、機関誌を発行し、弁論を練磨し、それらによって向上し、あわせてつねに自然を友とし、自然の魂をわが魂とする。そしてスポーツのほうはとうぶんテニスとする、というのであった。
森山稔が保をさそいにきたちょうどその夏には、同志会の集会場、つまり図書室はすでに南久保町という通りにうつっていた――まず最初に先生の理想に賛同した鹿戸彦四郎という人が、ともかくも二階建ての、そのころとしてはりっぱな建物を新築して、同志会でつかえるようにしてくれた。つづいて町のおおぜいの識者たちの協力もあって、その貧相だった集会場兼図書室が、内容外観ともに見るまに堂々たる図書館らしい姿となって、人びとの目をひいた。そしてその年、町立図書館に昇格した。
会員の中学生たちは、毎月一度の定例集会がなんともたのしみだったのである。よい季節には遠足もたのしんだ。雪中行軍もやった。ウサギ狩りもやった。遠足は、郷土の歴史、自然観察、考古学的の知識をやしなうことも兼ねた。ときには先輩も参加した。旧制高校の時代であったから、その誇りあるバンカラぶりや、大学生の静かなまなざしに、後輩たちは異常なこうふんの目をかがやかしたものだった。
(後略)
太陽行軍
四年甲組の四十何名が、川越の町をはずれて、六月初旬の大地の光のなかをのんびりと行軍している。どっちをむいても、森も村も眼路はるかだ。田植えまえの、気の遠くなりそうな広い二毛作田が、いまさかんに水をひく準備でいそがしそうだ。田をおこすのにひきだされた馬も赤牛も、主人とともにいっしょうけんめいだ。人も牛馬もまるっきり小さく見える。
午後の最後の授業の軍事教練を、しかも高学年が、こうしてぶらっちゃら町はずれを歩くなんて、めったにないことだ。それだけに下級生にもどったみたいな気がして、むやみとたのしい。
いうまでもなく伊佐沼をめざしている。川中では、なんぞというと伊佐沼だ。とちゅうもいいし、沼もよい。距離もほどほどだ。なんとありがたい場所を持ったものだ。
きょうは小槇中尉がたいへんごきげんで――「伊佐沼まで行軍する!」――ということで、堂々の行進で校門をでた。でるとすぐ――「歩調やめ!」で、整然たる並み足となる。そのまま町はずれとなり、気の遠くなりそうな歓喜の太陽の広野に、まさにさまよいでたというわけだ。
それからは自由行進だ。自由行進とは、ぶらっちゃらの別名と解釈できるのである。小槇中尉のゆるしがあったのだから、各自自由行進にはいった。
てんでんばらばら、いろんなグループができる。小槇先生は、あれこれとグループを訪問し、話しかけ、先生もたのしそうである。
「よかったな、諸君。ことしの運動会もすばらしかった。ご苦労であった。」
「そんなによかったですか?」
「よかった! とくに五年生と合同の軍事教練の実況には、見物人も感嘆しおった。わしは感激家だからな、なみだがでそうでこまった。」
「先生の号令がいいからですよ。」
「いやなに……その号令にこまったのじゃよ。」
「まったく、すごかったです。」
「そうだったかな……伊草の橋へマラソンの監督にいってからも、感動がのこっておった。」
(中略)
「うむ! きょうはばかにいい天気だ」とかれはいった。「腹がへったな。どうだみんな、てんぷらを食う気はないか?」
「天気とてんぷらと、どういう関係にあるのですか?」
「文句のあるやつは食うな――どっちにしても天という字がつくではないか。そんなへこたれた顔をしているくせに……そんなやつには食わせぬ。」
「ヒェー……食います食います!」
なにしろ午後も三時をすぎている。腹のへっていないやつはひとりもいない。てんぷらときいて、きゅうによろよろするやつもあらわれたくらいだ。」
食いたい。だが金がない。金を持っているやつと持っていないやつとでは、持っていないやつのほうがだんぜんおおいようだ! ――顔つきでわかる。
「心配するな」と小槇先生はいった。「わしは、ここに三円持っておる――ひとりが五銭ぶん食うとして……なんとかなるわな。わしがおごる……それ突撃!」
伊佐沼は、九十川というのを持っている。水のきれいな、川とは名ばかりの堀川だ。それに二枚橋という、これまた九十川ならではといった、いかにもひなびた、ため息のでそうなかわいい橋がかかっている。てんぷら屋はその橋のたもとにある。このかいわいの人は<にめえばしのてんぷら>というが、川越あたりではそうはいわない――ひとくちに<伊佐沼のてんぷら>といってしまう。通りすがりや、沼にあそんだとき、まず寄りこむ店だ。このあたりの農家の人びとや、沼で漁をする人びとにとっては、いのちのせんたく場所といった店だ。いうなれば、土と水のにおいのただなかのかれらのサロンだ。
いなか家のすきまだらけのだだっぴろい店も、中学生であふれた。店の主人もかつて勇士であった人みたいで、びくともしないで、一家総動員ではじめた。おちつきはらって、揚げるそばから大皿にもりあげてはこんできた。
(中略)
ここのてんぷらは、一つ一つがわりあい大きめだった。というのは、ころもがたっぷりついているということだ。腹のへった中学生にはもってこいだった。それにしてもひとりあたり五銭ぶんだから、あっけなかった。あっけなくとも、たのしかった。なんともうまかった。それでもひとりで五つか六つは食べられただろうか。野菜ばかりで、ここの名代の伊佐沼でとれる雑魚とハスではなかった。
帰途、だれかがそれをブウブウいうと、先生はわらった。
「ぜいたくをいうな。あのおじさんは、気をきかせてくれたのだ――中学生には、質より量だからな……どうだ、うまかったか?」
「うまかったです。」
「腹の虫はおさまったか?」
「どうやらおさまりました――どうもごちそうさま、先生!」
「いやどうも……おそまつさまでした。きょうは、いろいろとたのしかったな……諸君もたのしかったか?」
「はい。こんな軍事教練ははじめてです。」
「わしもはじめてだ。だが、これも軍事教練のうちだ。」
(後略)
第九話 時のかけら
(前略)
康彦は、昨年の十二月いっぱいで勤めていた光学機器の会社を辞めた。
同僚は、こんな時に辞めるなど自殺行為だと言い、康彦もそう思ったが、突然に噴き出した辞めたい気持ちを抑えることはできなかった。康彦は藁半紙に辞表を書き、「よした方がいい」と思いながら上司にそれを差し出した。
上司は、康彦を見て、
「お母さんは、そんなに具合がわるいのか」
と、眉をひそめた。そういう理由もあったのだと、康彦は思った。
母の幾乃は、三月十日の大空襲のあと、川越の病院に勤めていた長男の隼人を、夫とともに頼って行った。が、それからは気苦労の連続であったようだった。
夫の知文は、父親の代から下谷で内科医院を開業していたせいか、人から礼や世辞を言われることには馴れていたが、それを言うことはできない人間だった。農家の好意でトマトや胡瓜をもらっても、見ようによっては横柄な態度をとっていたらしい。病院にいる若い先生の親だからと気を遣ってやったのに――と、大分、悪口を言われたという。
相談相手が欲しかったのか、幾乃は一度だけ、川越へこられないかという手紙を書いてきた。まだ終戦にならない五月末のことだった。
あの時も、ふと心が揺らいだと、康彦は思う。が、母への返事には、「戦場も銃後も心は一つです」と書いた。「戦場の兵士達が死んでも国を守ると誓い、銃後の父母が息子の命はお国に捧げたと、ひたすら名誉の戦死を望んでいる時に、私一人が仕事を捨てては参れません。私の仕事も、お国への大事なご奉公です……」
康彦は苦笑した。あの時は皆、本気でそう思っていたのだった。だからこそ、康彦をそばへ呼びたかった幾乃も、以後、手紙すら寄越さなくなったのだろう。
知文の態度を周囲に詫びているうちに、今度は、隼人が病院の娘と結婚すると言い出した。婿養子になるというのである。
病院の娘とは二年も前から恋仲で、隼人は康彦に、お前が医学の道を選んでいてくれたら――と、恨みがましい手紙を書いてきたことがある。その頃から、早く下谷へ帰ってこいという父と、娘と結婚するなら跡を継いでくれという病院長の板挟みになっていたのだった。空襲の激しいさなかに結婚話を持ち出したのは、下谷の医院が焼けてしまった今しか、婿養子となることを承知してもらえる時はないと思ったからだろう。
知文は、怒り狂った。隼人は長男で、父親の跡を継ぐと言っていた息子だった。下谷の医院は焼けてしまったとはいえ、戦争が終れば再建する余裕もある。病院へ勤めたのは、娘と恋仲になるためではない、医者としての経験をつむためではなかったのか。
が、戦争は、終りそうで終らなかった。知文は、一月ほどたった七月に、息子の結婚を承知した。あちこちに気兼ねをしている幾乃を見ているうちに、弱気になってしまったのかもしれなかった。
八月、隼人は正式に婚約した。水口夫妻と病院長夫妻が顔を合わせただけの婚約で、結納も何もないと、隼人が康彦に知らせてきた。
そして八月十五日がくる。
知文は、下谷へ帰る気持を失った。
無理もないと、康彦は思う。
知文の夢は、水口医院に診療室を二つつくり、親子で患者の治療にあたり、長患いをしている者をその地域からなくすことだった。てきぱきと診療をすすめる息子の姿と、のんびり子供をあやしながら診療をする自分の姿とが、脳裡にはっきりと描かれていたにちがいない。
だが、息子は病院の娘にとられた。病院の娘の三沢という姓をなのり、病院の最も大きな診療室で患者を診ることがきまっている。
「いまさら下谷へ帰ったところでどうなる……」
自分はもう若くない。のんびりと、子供をあやしながらの診療しかできない。
急に白髪のふえてきた知文を、幾乃はせきたてた。
家を焼かれた人達が、焼跡にトタン板のバラックを建てているというじゃありませんか。うちの土地にそんなバラックがいっぱい建ってしまったらどうするんです? どこかへ行ってくれと、トタン板の家を壊すことができますか?
朝に晩に幾乃の心配を聞かされて、知文も重い腰を上げた。そのとたんに、幾乃が倒れた。下谷へ帰れるとほっとして、それまでの疲れが噴き出したらしい。
康彦は、休暇をとって川越へ行った。上司はその時のことを覚えていたのだった。
(後略)
知華子へ。お前が最後まで好いてくれなかったお祖母ちゃんは、大正四年、川越で生まれた。今でこそ川越は「小江戸」などと呼ばれ、有名な観光名所になっているらしいが、私の生まれた頃はのんびりとした田舎町だった。けれども城下町だけあって、どこか雅な雰囲気は残っていたかもしれない。
今でも町はずれの新河岸川(しんがしがわ)の風景をよく思い出す。鉄道は通っていたけれども、川を下ってくる舟はたくさんあった。そこで米が積まれると、大八車や馬車が町に向かっていっせいに動き出す。私はそれを見るのが好きだった。いつだったか、川の風景を作文に書いて、学校の先生に誉められたことがあった。
「天野さんは観察力がすぐれていて、表現が豊かだ」
と朱字で書かれた文章をよく憶えているよ。そう、私の姓は天野のままだよ。あなたのお母さんも、あなたもずっと天野のままだ。あなたは一回別の姓を名乗ったけれども、すぐに元の姓になった。
私たち女三代、ずっと旧姓というものがない。夫の姓にならなかった。これは不幸なことだろうか。私にはわからない。知華子はたぶんとても不幸なことだと思うだろう。いちばん先端の生き方をしている知華子が、いちばん古風なことにこだわっていることが私には不思議だよ。
知華子は、私の母のことを一度も尋ねたことがなかったね。全く興味も持たないようだ。あたり前だろう。祖母の母などというものは、若い女にとって、それこそ大昔の人間だ。
語るほどのこともない。平凡な女だった。無学だったし、凛(りん)とした強さも持たないために、私たち子どもは無用の苦労をした。ところが八十歳を過ぎた頃から、私は母のことをしきりに思い出すようになった。笑いながら話す時のしぐさとか、ご飯をよそってくれる時の湯気の温かさなど小さなことを毎日思い出す。それは「恋しい」という表現がぴったりするほど切実なものだ。私の死ぬ時は本当に近いのだろう。二年前に亡くなった、このホームの人もしきりに言っていたものだ。この頃、母親のことばかり考えている。空怖ろしくなるほど、母のことが恋しくて恋しくてたまらない。老人が子どもに還るというのは本当なのだなあ。あの世で、母親が手招きをしてくれているんだろうなあと……。
私の父親は大工をしていた。母は三人の子どもを産んで育てた。女、男、と続いて私は末っ子だ。父は大工といっても、普通の家を建てるのではない。宮大工といって、神社やお寺を建てる。時々は招かれて、金持ちの茶室をつくることもあった。父は棟梁になるほどの頭や才はなかったけれども、腕は確かだったらしい。ただの大工ではない、特別の選ばれた職人だということを、それはそれは自慢していた。
いちばん上の姉は、尋常小学校を出るとすぐに、川越の蔵のある家へ奉公に出た。兄も父親の後を継いで、別の棟梁のところへ行くことが決まっていた。あのままいけば、私たち一家は貧しいけれど、平穏な日々を過ごせたに違いない。
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投稿者:sakura 01/10/23 Tue 12:36:45 川越の歴史・本に興味を持っています。今、婦人公論で林真理子さんが 川越花柳界が出てくる小説を連載中です。なかなか面白いですよ。料亭山や・ や山吉デパートがでてきたりします。 |
姑イトは、小柄のうえに少し腰が曲がりかけているため、一層小さく見えた。芳太郎より上背のある安比奈と並ぶとなおさら小さく見えた。
白いものが多くなった髪をきゅうっと頭上で丸めて、そこにいつも小さなつげの櫛を差していた。その櫛をいとおしげに鏡の前で拭っている姿を目にしたとき、安比奈はこの老女の中にあるなまめかしさを直感したのである。決して枯れてはいない女≠……。
イトは、十八歳のとき京都の呉服屋から嫁いできた、と言った。イトの体にも心にも、幼い頃から織物への思い入れが沁みこんでいたのだろう。おそらく、織物の世界しか知らずにこの六十五年近い人生を生きてきたのではないかと思われる。しかし、自分を素直に生かし、誇りをもって生きてきたであろうことを考えると、最も幸せな人生だったのだと、安比奈にも思えるのであった。
「京都は日本の着物の中心でもあります。そやから、そりゃ華やかです。川越の織物は豪華さでは京都に負けるかも知れませんけど、川越織りの良さがあります。京都はお公家さんなどの着物の歴史の上の華やかさやけど、川越の着物はどちらかというと庶民の生活の中から生まれてきた着物です。確かに川越斜子織りや川越絹手は絹で織られていますが、豪華さ、華やかさを競うものではありません。斜子織りは黒紋付きの羽織に用いられ、絹手は、夏の袴地じゃな。絹平を川越にもってきたのは、柳沢吉保のあとの秋元喬知という人でな、甲斐から転封されたとき技術を持ってきたという。川越織りの中でも、私はやっぱり唐棧が一番好きやね。『川唐』という名で全国に名を知らしめたのですから、木綿や言うてあなどってはいけません」まぶたの垂れた目に光が宿る。
川越の住人として、イトは「川唐」を心から愛しているのを知る思いだった。
「それほどまでお義母さまが唐棧に魅せられた一番の理由は何でしょう?」
品質において、決して絹におとらない織物であるということは充分に安比奈も認めている。しかし、イトの中には、もっと別の意味があるような気がしていた。結婚後間もなく安比奈は尋ねたのである。
「唐棧はな、江戸庶民の意地の象徴やったんです」イトははるか歴史を見やるようにして言い切った。
庶民の意地≠ニいう言葉に力が入り、しっかり安比奈を見つめている瞳にも信念がこめられている。安比奈は身のひき締まる思いだった。
「織物が意地の象徴とは?」
「江戸時代には厳しい身分制度があったのは知っとりますね。その身分制度のもとでは、庶民は、どんなにお金持ちでも絹を着ることは許されなんだ。それでも、絹をどうしても着てみたいという人だっております。そんな人たちに、絹そっくりの特質をもつ唐棧がもてはやされたのは当然やったんです。粋な通人やお金のある人は、こぞって唐棧を着たんやね。それにな、唐棧は絹よりも値段が高かったのですよ」
「木綿が絹織物よりも高価だったのですか?」
「そうや。なんせ舶来品の糸しか使えんのやから。どんなに貴重品だったか知れません。庶民の中でも、特に裕福な者や、着物通の粋な者にとっては、唐棧を着て歩くことは精一杯の身分制度に対しての反発やったと、わたくしは思うんです。わたくしはな、そういうふうに、社会に無下に流されるのに反抗し、自分の意志を通そうとする心意気が好きなんです。木綿はあくまでも木綿です。でも、木綿やからと言うて卑屈にならずに、堂々と絹を超えられるという自信と誇りを持った織物やから、それが魅力なんでしょうな」
自らの心の内を見つめるようにイトは言った。安比奈には、その言葉が、イト自身の生き方と重なって、いつか自分も、イトのように自信と誇りを持った生き方がしたいと、そのとき考えたのであった。誰にも彼にも敵視され続け、自分の出生を恨んで歩いてきた安比奈には、イトの生き方がどれほどうらやましく思えたか……。
「わたくしは、この川越の蔵造りに生きる機屋の女将です。最後まで守ってゆかねば亡くなった夫に申し訳が立たんのです。唐棧の名前だけでも残したいと思うとります。安比奈さん、あなたにも頼みますね」
言い切った老女の口調には、自らを勇気づけ、決して時代に流されるものか、という思いがひしひしと感じられた。意地なのである。そのときの安比奈には、伝統を守り伝えるという重みとはどれほどのものか充分理解できるはずはなかったが、イトの側(そば)にいると、彼女の思いが自分の中にも移行してくるのを感じるのだった。
この小さな体のどこに、これほどの熱い思いが渦巻いているのだろう
今にも闇の中に消えてしまいそうなイトが、奥の部屋に去ってゆくその後姿を見つめながら不思議だった。
農道は静かな住宅地にわたしたちを招き入れ、附近の路地を細かく縦横に曲がったわたしたちは、遮断機が下りて警報を発している踏切にぶつかりました。踏切対岸の空地に、塔高の低い男性型鉄塔が無表情で立っています。
「この線路、何線かな?」アキラが踏切待ちに苛立ったように尋ねました。
「さあな――?」わたしには予想もつきませんでしたし、推理してみようとも思いませんでした。
既に空気には青みが生じてきていました。余計な枝番鉄塔で足許を掬われたのは大誤算でした。わたしは改めて甘痒い焦りを感じ始めていました。やがて左方向から線路の鳴る音がして、『本川越』と小窓に表示された8輌編成電車が喧しく通過してゆきました。
「西武新宿線かぁ!」アキラは電車を見送りながら踏切を渡りました。
わたしたちは踏切の傍に自転車を停め、線路伝いを駆け抜けて、低層アパート裏側の空地へ突っ込みました。番号表示板の数字は『27』、そして結界は苅られた雑草の棄て場と化しています。わたしは手当たり次第に枯草をほじくり返して地面の下にメダルを埋め、慌ただしく駈け去りました。
続く鉄塔を求めて住宅地を走っているうちに、わたしたちは狭い路地から小さな茶畑へ迷い込みました。その奥まった民家の庭先に、塔高を増した男性型鉄塔が立っていました。鉄塔はまるで物干場か石燈籠のように使用され、結界にはさまざまな小道具や工作物が散らばって、人の生活の跡が染み込んでいます。近づこうものなら、家の中から誰か人が飛び出してきて文句を言われそうでした。数秒わたしは戸惑ったあと、意を決して結界内へ駆け込み番号表示板に心の打撃を被りながらも、手っ取り早くメダルを土の中に押し込んで、後も見ずに自転車で遁走しました。
「あの鉄塔、26-1(のいち)だ」自転車を次の鉄塔へ走らせながら、わたしはアキラに報告しました。
「どうなっちゃってるんだろう?」
「のいち鉄塔ばっかりだね」アキラは気楽なのか深刻なのか判らないような口吻で言いました。
「このまま代わり番こに、ずーっとのいち鉄塔が出てきたら、どうしようもねえぞ」わたしは弱音を吐きました。
次の鉄塔は民家の屋根を圧するように高く秀で、それを目標に走るわたしたちは住宅地を通り抜けて、複数車線の幹線道路に突き当たりました。朝方の出発依頼、遭遇した最大の道路でした。自動車の騒然たる通行に切れ目がなくて、伸びやかな男性型鉄塔が立っている道路の向こう側へ渡るには信号待ちをしなければならず、わたしたちは横断歩道へ回ったところ、道路上に掲げられた案内標識版の表示で、その道路が国道16号線であることが判明しました。16号線は、父の運転する自動車に乗せられて幾度か走った経験がありましたが、わたしたちの家から16号線まで来るには、自動車でもかなりの時間がかかりました。<こんなところまで来たのか――>わたしは感じ入ると同時に、いつか父の運転する自動車の助手席から、この鉄塔を見ていたことがあったはずなのだと考えて、懐かしいような感傷を覚えました。
信号が緑に変わり、わたしたちは横断歩道を渡り始めました。建物が道路で跡切れて、見通すことができた西の空には終末のような夕焼けが染まっていました。
「もう夕方になったよ、みっちゃん」アキラが最後の陽射しを受けながらわたしに告げました。「もうすぐ日が暮れる」
わたしは何も応えずに自転車を走らせただけでした。
赤橙色の陽射しは、鉄塔の影を歩道に長く落とし、番号表示板の数字『26』を柔らかく照らしていました。26号結界は、歩道の外側に区切られた前面コンクリート装で、中央部分だけ正方形の凹みが造られ、そこに土が溜まって草が生えていました。その小さな正方形の中心に、わたしは指先で穴を掘ってメダルを埋めました。
わたしは立ち上がり、次の鉄塔を見定めました。都会的な腕金装柱の繊細な男性型鉄塔が、夕景に黒ずんで立っています。上空は澄みきって明るい青さを留めているのに、地上には薄暗さの陰が差してきていました。
「アキラ、もしあれが25-1だったら、諦めて引き返そう――」わたしは次の鉄塔を見つめたまま呼びかけました。アキラがこちらへ振り返った気配がしました。「でも25号だったら、もう少しだけ行ってみよう」それを捨て台詞にして、わたしは自転車に乗りました。
「OK――」アキラは呟くように答えて、自分の自転車に乗りました。
平成十五年一月一日
江口美奈、三十二歳は三十六歳の夫の聡史と、まもなく一歳になる息子の翼と三人で横浜の自宅で新年を迎えた。深夜まで降り続いていた雨もあがり、晴天で穏やかな朝だった。
午前六時、美奈はいつもと同じ時間に起床し、朝食の準備をした。
「あなた、お雑煮ができたわよ」
「おお、うまそうだな。美奈、ビールも頼むよ」
「はーい。そう思ってグラスも冷やしてあるわよ」
聡史はパジャマ姿のままリビングに入って来て、テレビのスイッチを入れた。お正月の特別番組が多かったが、聡史はあえてニュース番組のチャンネルにして食卓についた。翼はまだ隣の部屋で静かに眠っていた。
美奈は以前、川越で婦人警官をしており、主に交通違反の取り締まりを担当していた。二十三歳の時、高校時代の友人の紹介で大手の銀行に勤務する聡史と知り合い、半年後にプロポーズをされ、二十四歳で結婚した。美奈は結婚してしばらくは仕事を続けていたが、二年経っても子供が授からず、仕事をしながら産婦人科に通い出した。しかし精神的にも肉体的にも疲れ果て、とうとう不妊治療に専念するために仕事を断念した。そして三年間の辛い通院の結果ようやく妊娠に至り、翼を出産した。その二ヶ月後、夫の仕事の転勤で現在の横浜のマンションに引っ越してきた。
二人は雑煮を食べながらテレビを見ていた。
『新年早々ですが、大変かわいそうな事件が起こってしまいました。岩手県遠野市の伊藤直樹さん四十三歳の長男で五歳の友樹君が、昨夜突然喘息発作を起こし、近くの病院に救急車で運び込まれました。しかしその病院にはあいにく外科の当直医しかおらず、小児科のある病院へ行くようにと診察を断られました。救急隊が小児科医のいる総合病院へ連絡しましたが、小児の急患が重なっていて対応できないと言われました。そして雨の中、救急隊が受け入れ先を探しながら走っている間、友樹君は救急車の中で息を引きとったようです。小児科医の不足による悲しい事件がまた起こってしまいました。現在はこの小児科医に断られた遠野西総合病院で、友樹君は最後の処置を受けているところです』
女性レポーターは息を切らしながら早口で喋った。冬の東北は寒さが厳しく、レポーターの吐く息は真っ白だった。
「たらい回しにされてしまったのね、かわいそうに。何とかならなかったのかしら」
「そうだなあ」
二人は、画面を見つめていた。
『あ、両親と思われる二人が、たった今タクシーで到着しました。すみません、友樹君のお母さまですね』
何人もの報道関係者が友樹の両親に近寄っている。
『は、はい。すみません、急いでおりますので』
『ご両親の伊藤直樹さんと伊藤桂子さんが、たった今この遠野西病院に駆けつけました。そして急いで病院の中に入って行かれました。今回は子供さんをご近所の方に預けて出かけていた時に起こってしまった惨事のようです』
画面には、友樹君の母 伊藤桂子さん 四十一歳≠ニあった。
「え、親がいない時に起きたのか、それはかわいそうだったなあ」
美奈は聡史の空になったグラスにビールを注ぎながらテレビを見た。
「ねえ、今確か伊藤桂子……って。私この人知っているわ」
「どうして?」
「川越の産婦人科で一緒だったの」
「それって、翼を出産した澤田病院のこと? でも、この事件は岩手県で起こっているんだよ。人違いじゃないか? それに伊藤桂子って名前は結構有りそうだし」
澤田病院は関東でも不妊治療で有名な病院である。院長のほかに産婦人科の女医が三人もいるため一般の婦人科の患者も多く、とにかくはやっていた。
「だから覚えているの。あの頃、私は産婦人科に月に五、六回通っていたでしょう。診察や注射でね」
「ああ、美奈はいつも待ち時間で苦労したって言っていたね」
「五、六年前になるかしら。看護師さんが『イトウケイコさん』って呼んだ時に、二人の患者さんが同時に返事をして立ち上がったの。看護師さんがあわてて手に持っているカルテを確認して、『大変失礼しました。同姓同名ですけど、木へんのほうの桂子さんどうぞ』って言ったの。そうしたら三十五歳くらいの品の良い女性が、もう一人の二十五歳くらいの圭子さんに会釈をしながら先に診察室に入って行ったの。若い方はOLさんかしら、とても綺麗な人だったわ」
「ふうん、しかし五、六年も前のことをよく覚えているね」
「確か、次の週も二人に会ったからね。働いている女性は受診の時間帯が結構同じになることが多いのよ。それに週にニ、三回通うこともあるから、会う確率はかなり高いのよ。今度はその看護師さんも二人に気がついて、はじめから『木へんの伊藤桂子さん』って少し笑いながら呼んでいたの。周囲にいた常連の患者さんたちも笑っていたわ」
「なるほど。じゃあ、その人かもしれないね」
「五歳というと、きっとあれからすぐにできた子供さんね。本当に気の毒に」
テレビは現場中継からスタジオに戻っていた。そして正月にもかかわらず小児科医の不足の問題、及び気管支喘息について専門の医師を含め数人のゲストがコメントをしていた。
(後略)