小江戸・川越は、秩父と並んで埼玉県を代表する観光地だ。その川越の総鎮守・氷川神社の境内には、柿本人麻呂をまつる人麿神社があり、その隣りには山上憶良がつくった「惑へる情(こころ)を反さしむる歌」の歌碑が建っている。万葉集を代表とする二大歌人が、どんな理由から川越と関係をもっているのか。人麿神社からみていこう。
人麻呂は、万葉集に長歌18、短歌66の84首を残している。枕詞や対句構成を巧みに使って、長歌に、短歌に王権を重厚壮麗に讃え、また地方への旅の悲しみをイメージ豊かに、そして愛する人との別れを切々とうたい上げた。
中でも私が最も好きな歌は、旅の歌の中の、
ともしびの明石大門(おほと)に入らむ日や榜(こ)ぎ別れなむ家のあたり見ず (巻3 254)
スケールの実に大きい歌であり、家郷恋しの感情が圧倒的な迫力で伝わってくる。人麻呂は実体がはっきりしないところがあって、持統朝の宮廷に仕えた官人でありながら、吟遊詩人として各地を回ったとする見解もある。
ところで、川越氷川神社の人麿神社については、同神社名誉宮司山田勝利著『柿本人麻呂と川越』に詳しいので、同著を借りて紹介したい。
川越の旧家綾部家に伝わる家系図によると、同氏は石見国美濃郡戸田の出生とも伝える人麻呂の子孫で、平安期に丹波国何鹿郡綾部庄の下司となり、綾部氏を名乗った。下って永正2年(1505)に綾部庄から近江国を経て川越に移住、その際始祖人麻呂を氷川神社境内にまつった。家系図では人麻呂の命日は3月18日だが、現在例祭は1月おくれの4月18日。この日には綾部一族が同社に集まって、氏神祭をとり行っている。
ここの御神体は、えぼしをかぶり、直衣(のうし)を着け、脇息(きょうそく)に身を寄せ筆を手にした人麻呂が、詩想をこらしている姿の木彫像。高さ16.5aほどの杉材で、作は鎌倉時代の歌人で彫刻家の頓阿(とんあ)法師といわれる。
人麻呂研究は、江戸時代の国学者契沖(けいちゅう)以来今日まで、多くの学者によってなされ、人麻呂が没した土地は万葉集2・223「辞世の歌」の題詞から、石見国とみるのが多数説だ。出生地は大和国とする人が多いが、明白な証拠があるわけではない。川越綾部家の系図では、出生地は石見国美濃郡戸田である。その戸田にも綾部家があって、柿本神社をまつっている。
また、戸田の綾部家は語家(かたらい)とよばれているという。折口信夫はその著書の中で、人麻呂は柿本人麻呂という歴史的実在の詩人のほかに、柿本族の中に人麻呂≠ニ称する同名の吟遊詩人が複数存在したと想定した。山田はこれを受けて、東西の綾部家の遠祖もこうした詩人の一人として、諸国を巡遊したのではないかと記しているが、おもしろい見解である。つまり、その一人の漂着地が川越というわけだ。
これらのことは伝説や推測にすぎない、といってしまえばそれまでだが、人麿神社が川越氷川神社の境内にあって、490年もの間、綾部一族によって奉斎され続けてきたことも、また事実。
いま安産の神、学業成就の神と崇拝されている人麿神社が、本来の歌の神様として歌人や文学愛好者に崇められるようになってほしいと願うのは、私一人だけであろうか。
川越市宮下町の氷川神社境内に「山上憶良(やまのうえのおくら)の令反惑情(まどえる こころを かえさし むる)長歌碑」がある。「三芳野名勝図絵」の著者中島孝昌の孫、芳嶺の建てたもの。みずから揮毫した碑で、高さ1.7メートル、幅1メートル。明治十六年五月建立。碑陰記に、芳嶺は家号を絹屋といい、世々、鍛冶町に住し維新の際町役人となったが、老を以て職を辞し、家に清閑した。資性考順磊(らい)落奇敏、学を好んで詩を好くし、漢隷(れい)に妙を得、という意が記されてある。学者で、詩人、書家というわけだ。
碑面の憶良の長歌は、万葉集巻五に載っているもので、序と反歌がついている。序は、漢文体、長歌反歌は万葉仮名で、その通りに筆写彫刻されている。
序には、父母妻子を顧みず、いたずらに空想にはしり、本来の君臣・父子・夫婦の道にもとる一部の人をいましめ、惑える心を歌でひるがえさせようとしたという意が述べられている。万葉仮名は避けて読みやすく表記すると、次のようである。父母を 見れば尊し 妻(め)子見れば めぐしうつくし 世の中は かくぞことわり もち鳥の かからはしもよ 行方(ゆくえ)知らねば うけぐつを ぬぎ棄(つ)るごとく ふみぬぎて 行くちふ人は 岩木より成りてし人か 汝(な)が名告(の)らさね 天(あめ)へゆかば 汝がまにまに 地(つち)ならば 大君います この照らす日月(ひつき)の下は 天雲の むかぶすきはみ 谷ぐくのさ渡るきはみ 聞こしをす 国のまほらぞ かにかくに 欲しきまにまに しかにはあらじか山上憶良が、筑前の国府にいた時、神亀五年に制作した。あのころは、律令時代。戸口を基準とする賦役が国家収入の大部分だったわけで、兆口は厳しく罰して、責を隣保近親同戸者にも負わしているほど。それにもかかわらず、そうした行為に及ぶものがいたのは、いろいろの理由があろうが、ひとつには老荘思想が歓迎されたためらしい。それを国守の憶良が儒教の道徳観で歌をもってさとした。だが実際にはどれだけの効果があったかは、すこぶる疑わしい。こうしたことは、昔も今も同じだ。
(反歌) ひさかたの天路(あまじ)は遠しなほなほに家に帰りて業(なり)をしまさに
「その声調が流動性でなく、むしろ佶屈(きつくつ)ともいふべきである。」斎藤茂吉の評の一節であるが、憶良の歌は、思想的な内容をもったものや、それを直接表現したものが多い。だから、散文の調子をもちやすい。漢文の教養も深かった。それも輪をかけ、漢文口調のかたい調べが出た。
氷川神社の境内は、あまり広くない。が、砂利を敷きつめて清潔だ。欅の巨木が多い。陰に腰をおろして、思う。憶良には自然の歌は少ない。彼の眼はいつでも、俗世に悪戦苦闘する人間にそそがれていた。彼もまた、官位・富への執着はつよい。だから生と死と、富と貧を歌って、泥くさい歌になる。だが、それが憶良の歌の魅力だ。
頭上から、音がふってくる。
欅の梢が、高い空で風に鳴る音である。
文学碑の碑文は、その土地と何らかのつながりがあるものであろうが、凡そ縁のないと思われる川越市宮下町の氷川神社境内に、「山上憶良の令反惑情(まどえるこころをかえさしむる)の序、長歌、反歌」を刻む碑がある。
万葉集巻五に載っているもので、序は漢文、長歌、反歌は万葉仮名で、その全文を隷書で、篆(てん)書の題額とともに表に書き、陰は楷書で記している。碑表の意を大略書くと、
まず序には、父母妻子を顧みず、いたずらに空想にはしり、本来の君臣・父子・夫婦の道にもとる一部の人をいましめ、惑える心を歌でひるがえさせようとした、というのである。次いで、その長歌は、父母を 見れば尊し 妻子(めこ)見ればまぐしうつくし 世の中は、かくぞことわり―と歌い出し、だから父母妻子を捨てて行く人は、人間ではない。天へ行くならば、お前の心のままにすればいいが、地上には天皇がおられる。その立派な国の中でしたい三昧にするのは道理に外れるぞ―と結んでいる。そして、反歌、山上憶良が、筑前守として国府にいた時、神亀五年に制作した。律令時代、戸口を基準とする賦役が国家収入の大部分で、兆口は厳しく罰して、隣保近親同戸者にも責を負わせているほどであった。それにも拘らず、そうした行為に及ぶものがいた。それを国守の憶良が、儒教の道徳観で歌をもってさとした。実際に、どれほどの効果があったか疑わしいが。
ひさかたの天路(あまじ)は遠しなほなほに家に帰りて業をしまさに(天への道は遠い。素直に家へ帰って生業に励み給え)
さて、この碑の建立者は、中島与十郎である。その事は、陰にくわしく記されてあって、書いたのは、氷川神社祠官山田衛居である。与十郎は、『三芳野名勝図会』の中島孝昌の孫で、芳嶺と号し、家号を絹屋といい、鍛冶町に住み、維新の際町役人となったが、老いて職を辞し、家に清閑した。性は磊落(らいらく)で、学を好み詩を善くし、漢隷に妙を得、と記されてある。学者で、詩人、書家というわけだ。
そして更に詳しく、与十郎の人物を称え、二人が十年来の親友であることを述べている。
碑陰はもともと建碑の趣意を記すことが主目的であろうが、この撰文はやや与十郎素描に傾斜した感じがある。この事に着目して、疑問を投げかけ、建碑の経緯をくわしく考究したのは、埼玉大学の山野清二郎教授で、明治前期の川越の文学サロンの力が結集して、輪を広げ、川越の町に文学的な盛り上がりを喚び起した一つのあかしとしてとらえられる碑だと、その論文の終りに述べる。(埼玉史談33巻、3号)細かく紹介できぬが、憶良の歌と碑のつながりが、納得できるような論考をすすめており、貴重な研究であった。
建碑は明治16年5月。高さ1.76b、横1b、厚さ14aの根府川石に、中島与十郎が精魂を込めたと思われる筆致で隷書が書いてある。タテ2.5、ヨコ3.5a大の字だ。そう思わせるのは、刻字のうまさである。彫りは、浅い丸彫りで、ていねいに刻んでいる。いくら名手の書でも、刻字が悪ければ、その書のよさを伝えることは不可能である。それくらい刻字は生命だという事である。彫工は山崎太右衛門。明治の実直な職人なのだろう。職人芸が生きて今に伝わる。碑は、鳥居をくぐって左側、舞殿の傍らに建っている。
川越氷川神社境内の人麿神社の右隣りに建っている山上憶良の歌碑は、高さ1.7b、幅1bほどの自然石が使われている。
碑表の上部に「令反惑情歌碑」と篆(てん)書で浮き彫りにされ、その下に序、長歌、反歌を併せ、400字からの文字が原文で刻まれているから大変読みにくい。
序の意味は、ある人は父母は敬うことは知っていても孝養を尽そうとせず、妻子を脱ぎすてた履物よりも軽んじて、かえりみない。自ら「倍俗先生」(ばいぞくせんじょう)と称して、空疎な思想にとらわれている。これは生業を捨て、山沢に逃げ込む民と同じで、惑える情をもつ者である。このような者に歌を贈って、そのころをかえさせようとするものだ。
長歌は、三段の内容から成っていて、まず父母を尊敬し、妻子をいとおしむのは世の中の道理である。それはいくらもがいても逃れがたい。二段目は、それにもかかわらず破れたくつをぬぎ捨てるように、現実を遁れようとする者は名を名乗れと、問い詰める。最後は天上ならば勝手だが、この地上は天皇が統治する最上の国だ。そうしたものではあるまいと訓戒する。(巻5 800、801)
憶良がこの歌を作ったのは、神亀5年(728)7月21日、当時国守をしていた筑前国嘉摩郡(今の福岡県嘉穂郡)。このころ律令政治のきびしさから、農民の浮浪逃亡や課役忌避が多くなり、朝廷ではたびたび禁止令を出して取り締まったが、効果が上がらなかった。
領民に対して生業を督励し、敬老など善行者の表彰を行い、民衆の声を聞くことは、国守の任務であったから、歌人である憶良は歌をもって、領民をさとそうとしたというのが通説。
では、どうして憶良のこの歌が、川越のこの地に建てられたのか。歌碑の裏側に回わると、碑の建った明治16年(1883)5月、氷川神社祠官山田衛居によって「碑陰記」が記されており、建碑の経緯がわかる。
それによれば、碑は友人の中島守謙(通称与十郎)が建てた。守謙は、川越鍛冶町の絹屋の当主で、学を好み詩をよくし、ふだんから酒を愛した。また歴史を語るのを好み、忠孝の話になると、感激して涙を流した。先ごろ古歌一編を書き、これを産土神の境内に建てようとの相談をうけた。それに賛同して、同志を募って建てた、と読める。
この碑陰記については、埼玉大学の山野清二郎教授がさらに詳しい研究(「埼玉史談」33巻3号)をしており、実際の歌の選択は、古典に深い知識をもっていた山田衛居が、当時の世情や人心にふさわしいものとして憶良の歌を選んだ、と述べている。
山野教授はさらに、明治前期の川越に生まれた、中島らの文化人を中心とする文学サロンの盛り上がりがこの碑を建てたものとみて、その意義を評価している。
憶良の令反惑情歌については、国司の立場から人の守るべき道を説いたものとする従来の説に対し、現在では嘉摩三部作の「子等を思へる歌」「世間(よのなか)の住(とどま)り難きを哀しめる歌」と関連づけて、人間憶良の悩みと、国司憶良の立場との相剋から出たもので、憶良の孤独と苦悩を読みとるべきであるという説が強く述べられている。
それはさておき、「山柿の門」ともたたえられる万葉の二大歌人の神社と歌碑が、うぶすなの杜(もり)に相並んで建つ川越という地に、私は敬愛の気持ちを抱き続けている。
万葉集巻十四は全巻東歌(あずまうた)だから、埼玉で詠まれたと思われるものが、いく処にも出てくる。
武蔵野の占(うら)へかたやきまさでにも告(の)らぬ君が名占に出にけり (三三七四)
――武蔵野で鹿の肩骨を焼いて占ったが、まことにには打ちあけもしないのに、愛していることが占に出てしまいました―東国処女はこう嘆く。
万葉では、君とは、相聞の場合、女から男へむかって呼んだ例が多い。古来、占には亀ト(きぼく)鹿トなどあった。ここでは、鹿ト。鹿の肩の骨を焼いて、裏面にできる裂け目によって占った。人には告げ得ぬ相手の名が、人目に立ってしまった。恐らく母にも告げない心持――と私注で土屋文明はいう。
このころ、妻問婚(つまどいこん)である。子は母と同居。成長しても同じだから、妙齢の娘は、母の厳しい監督下にある。戸主やその他の戸内でも恵まれた人たちだけが、妻を自分の家に迎えられた。だから、普通は夫婦同居は望めない。愛するもの同志は、ひそかに逢って制約をかこつばかりである。
恋は、障害の中でこそ、激しく燃焼する。相逢う束の間の歓喜は大きい。東国相聞歌の生活背景は、ふつう、物言う牛馬の生活である。激しい労働と、貧困。人間らしさを感ずるのは、恋愛の時だけではなかったか。
だから、自由な解放的と称する、現代紳士淑女の恋愛百態の中にあの激しさを見い出すことはない。だが、どちらが、魅力的だろうか。
万葉時代、彼らは、武蔵野に群棲した鹿を狩猟した。食用。毛皮は衣類。骨は器具、卜占用にしていた。その鹿狩りの時、鹿の群れを発見する物見台が鹿見(ししみ)塚、という。「鹿」を「シシ」というのは狩りの場合。「シシ」とは肉の意である。それ以外、万葉集では、カ、シカ、サヲシカなどと詠んだ。
だから、鹿狩りが行なわれ、鹿見塚の望まれる所に住む、娘の歌ということになる。でも、武蔵野はもともとそういうところなのだから、どこにでもあてはまりそうな気がする。ただ、現在いわれている武蔵野と、あの当時の武蔵野とは、範囲の規模が違う。――それは、国府の所在から考えても、府中市から狭山丘陵へかけてを中心とする一帯であろう。――田辺幸雄の学説である。
この東歌の誕生の地は、ここであるという碑が、川越市富士見町に建っている。東上線と川越線に川越街道(254号)が交差するあたり、東方に小高い丘がある。古墳である。頂上に浅間神社をまつり母塚と、いう。
2メートルほどの仙台石に、「埼玉県指定史蹟、万葉遺蹟、占肩之鹿見塚」と大書刻字されている。元知事、大沢雄一の筆による。
建碑の由来を碑陰に記している。
――前略――往古東国の人々が、武蔵野に棲んでいた多くの鹿を狩して、その肩骨を焼いて吉凶を占う風習があった。この故事から情緒深い占肩の歌が遺され、地名をシシミ塚と称していた。然るにいつしかシロミと転訛して城見塚と書改められたこともあったが、今もシシミ塚として一町七畝余もある。また新編武蔵風土記にも遺跡としてその小名が地籍に記されている。この地には上代の古墳が遺存し、父塚、母塚と呼ばれ、母塚の丘陵上には、富士浅間神社を祀り――後略――
柴田常恵、小川元吉、岸伝平三氏の調査によって、昭和二十一年に県指定史蹟となったとつけ加える。ただ、これだけでは、母塚そのものが鹿見塚と誤解される、と郷土史家の岡村一郎氏はいう。
街道の西側で線路に接しているあたりに、東西五十間に及ぶ一大古墳があった。ただいつ頃か取り崩されてしまった。当時の調査書では、これが本当の鹿見塚だという。――鹿見塚の真の所在地が忘れられることを恐れるのである。この場合重要なことは万葉集の歌と関連があるなしではなく、これだけ大きな古墳があったということ自体が、川越地方の古墳の分布状態を考えるうえに学術的価値をもっていることである――と書いている。だから、その旨を記載すべきだとつけ加える。
「かたやき」は鹿トである。と考えてくれば鹿見塚のあるところが、発祥地の候補にはなるが、契沖の代匠記のいう「カタヤクト云ハ亀ヲ焼ナリ」となると、全く事情が違ってくる。諸説のわかれるところだ。この歌も、個人の感動から詠われ、やがて農耕歌謡――大勢で歌われる民謡へと発展していったものであろう。
母塚に登る。雑然とした川越の街路は、ただただ車の洪水を見せるだけである。
川越線の川越駅で下車して東北方へ約十分あるいてゆくと富士浅間神社がある。その境内には埼玉県指定史跡となっている万葉遺跡の鹿見塚歌碑がある。碑は母塚と呼ばれる円墳のぼる石段の左傍に建てられている。この古墳丘陵上に富士浅間神社はまつられているのである。この地には今でも上代の古墳がかなり残されている。
古くこの地に住んだ上代の東国人は武蔵野に棲息していた鹿の群れを狩りしては食料のひとつとしていた。また慣習としてその鹿の肩骨を焼いて、さまざまの卜占に用いていた。すなわち焼いた骨の裏面にできるいろいろな割れ目の形により、占いをおこなっていたのであり、これが世に鹿ト(かぼく)と称しているものである。
そして、このことから万葉集に占肩灼(うらえかたやき)の歌が遺っており、またここの地名が鹿見(ししみ)塚として古くより伝わることになった。
その万葉集の歌は、巻十四の東歌のところに、
武蔵野に占(うら)へ肩灼きまさてにも告(の)らぬ君が名占に出にけり
とあるものである。これは相聞(恋愛)の歌であり、意味は「武蔵野で鹿トをして、鹿の肩骨を焼いてみたので、今まで人々には決して告げないでいたあの人の名がまさしくその占いにあらわれて、知られてしまった」というのである。
鹿トは亀トと共に古来のト占法の主要なものであるが、ともに非常に早くより大陸から伝来したもので、古事記神代巻にも記されている。(I)
国鉄川越線、東武東上線の川越駅東口を出る。東南方へ歩いて約十分、鹿見塚、富士浅間神社がある。その境内には、埼玉県指定史跡となっている万葉遺跡の鹿見塚と歌碑がある。歌碑は鹿見塚、母塚とも呼ばれる円墳にのぼる石段の左傍に建てられている。この古墳丘陵上に富士浅間神社がまつられている。この地には今でも上代の古墳がかなり残されていて、近くに父塚と呼ばれる古墳もある。
古くこの地に住んだ東国人は、武蔵野に棲息していた鹿の群れを狩りし、食料のひとつとしていた。また、慣習としてその鹿の肩骨を焼いて、卜占(ぼくせん) に用いていた。焼いた骨の裏面に出来るいろいろな割れ目の形により、占いをおこなっていたのである。これが世に鹿ト(かぼく)と称しているものである。そして、このことから、万葉集に占肩灼(うらえかたやき)の歌が遺(のこ)っており、またここの地名が鹿見塚として古くより伝わることになったのである。万葉集巻十四の東歌、
武蔵野に占へ肩灼きまさてにも告(の) らぬ君が名占に出にけり
がその歌である。これは相聞の歌である。この歌は、「武蔵野に占へかた灼き」と、部落全体が武蔵野の広場に集って、占いし、形に焼き露(あらわ)し、私はたしかに言わなかった恋人の名前が、あわれや占いに言いあてられてしまったという女心の悲しみが、切々たる哀感をもって、素朴な姿で歌われているのである。ここに我が郷里の、祖先達の社会生活の中に、占いというものが、いかに絶対的なものとして信じられていたかが知らされる。それは素朴な祖先達の心であり、幼稚な思考のわりきり方であるのを知り、単純な社会への郷愁を呼ぶものである。そうして今、私達の周囲には、この占いへの信頼に似たものが数多く残されていて、貧しい心の奥深くに根をはっている。私達はこの種のものに、日々の生活を、かけがえのない生命さえも、左右される愚かしさを持っているのである。
万葉集巻14の230首ほどの短歌は、「東歌(あずまうた)」と呼ばれ、作者名は記されていない。国名の分かっている歌、不明の歌と分けられているが、埼玉に関係すると思われる歌もいくつかある。次の歌は、武蔵国のものである。
武蔵野に占(うら)へ肩灼(や)きまさでにも告(の)らぬ君が名うらに出にけり (3374)
(武蔵野で、鹿の肩の骨を焼き占いをしたら、今まで決して口に出さないあなたの名前が、占いにあらわしてしまいましたよ)というほどの意である。万葉集では、「君」とは女性から男性にむかって呼んでいる例が多いので、女性の歌であろう。占いは「裏ナフ」の意で、裏の目には見えない部分を知ること、つまり分からないことを神に問うことから、当時随分多く行われたと思われる。骨を焼くものに、亀ト、鹿トなどがあったが、ここでは鹿の肩の骨を火にあぶり、そのヒビ割れの形によって判断する鹿トである。
「占に出にけり」は、占いに出てしまったという意だけではなく、占いで分かって、ああどうしよう困ったなあという嘆きなのである。人の噂と、何より母親に知られることを恐れたのではないか。夫が妻の家へ、男が女の許へ通う妻問い婚の時代、娘は母と同居しており、重要な労働力の娘は、母の厳しい監督の下にあった。この占いは、村の若い衆が集まって、この女の思っている男の名をあらわした、というふうな場面も想定できるが、娘が身ごもって、相手の男を母親が占うというようなことではなかったかと思う。
このころ、人々は武蔵野に群棲していた鹿を狩猟し、肉は食用、皮は衣類に、骨は器具、そそてト占用にした。その狩りの時、鹿を発見する物見台が、鹿見(シシミ)塚だった。「シシ」は肉の意で、鹿をシシと言ったのは狩りの場合で、それ以外は、カ、シカ、サヲシカと詠んでいる。
鹿狩りが行われ、鹿見塚のある場所は、武蔵野のどこにもあてはまりそうな気がするが、この東歌の誕生の地はここであるという碑が、川越市富士見町にある。前回の父塚の近くにあって、頂上に浅間神社を祀る母塚で、高さ約5bの円墳の前である。
碑の高さ190、横93、厚さ11aの仙台石で、高さ40aの台石にのる大きな記念碑である。表の中央に「萬葉遺跡 占肩之鹿見塚」と大書し、右肩に「埼玉県指定史蹟」とする。元埼玉県知事大沢雄一氏の書。刻字は仁村仲氏。陰に建碑の由来を記している。
それによれば、万葉集には本県に関するものが14首あり、この歌もその一つで、東国の人々が鹿を狩り、その肩骨を焼いて吉凶を占う風習があった。ここにシシミ塚があり、柴田常恵、小川元吉、岸伝平三氏の調査で昭和21年3月に埼玉県指定史跡に決定した、という内容である。それを記念して、碑は昭和29年11月に建立された。
ただ母塚が鹿見塚ではなく、ここから少し離れた西側に、東西50間に及ぶ一大古墳があって、東上線が大正3年に開通する際、破壊され消滅してしまったが、土地の小名に「シシミ塚」「シロシ塚」と記録されていたという。
「鹿見塚」という地名だけで、この歌の誕生地とするのは問題があろうが、記念碑の建立によってこの相聞歌が後代の多くの人々の口辺にのぼるとすれば、それは喜ばしいことに違いない。
川越市富士見町に、国道16号線をはさんで2百bほど離れた位置に、父塚と母塚という古墳がむかい合っている。ここにそれぞれ碑がある。碑自体には関連はないが、父母という対称の名前なので二つとも訪れてみたい。
父塚は、6世期中ごろの円墳といわれ、愛宕神社を祀っているが、境内に次の句を刻んだ芭蕉句碑がある。
名月に麓のきりや田の曇 はせを
碑の高さ227、横105、厚さ18aの根府川石で、表には句の左下方に、三芳野連という建立者が、左側面には、安政四年丁巳夏六月 法眼董斎正祐書 宮亀年鐫と揮毫者と石工の名が刻まれている。
陰には、その発企人の良雪庵原里暁、大中居の新井高成、そして三芳野連の三芳野庵原葎斎、以下柳澤里水、市川進斎、原田東丘、岡本里發、原田旭、福岡里榮、稲生里悦らの名が列記されている。建碑の経緯は分からないが、芭蕉句碑には直接芭蕉に関係のある百回忌、二百回忌という時、あるいは曾遊の地などの他は、自分たちのグループや宗匠の何かの記念にはやはり「俳諧の祖芭蕉」の句を刻んで、その徳にあやかろうとしたのであろう。天保14年の百五十回忌は、芭蕉句碑建立の空前の盛り上がりがあったといわれているが、安政4年は、その14年後であり、気運の高まりが続いていたのかも知れない。
書は、碑面をいっぱいに使った流麗なもので、能筆というべきだろう。その書を江戸に住んだ宮亀年が彫っている。年代から考えて恐らく初代であろうと思われるが、筆太の箇所を平たく彫り、深彫は避けている。筆勢をよく見ており、筆のかすれなどもていねいに神経を働かせて刻んでいて、なかなかのもの。刻のよさを存分に見せてくれる。
この碑は、建立時から140年に近い年月が経過しているが、汚れや罅(ひび)、瑕(きず)がなく、いい状態で保存されている。路傍の草の中に崩(く)えなんとする古碑の風情もわるくはないが、やはり原景が保たれればそれは一番いいことだと思う。
芭蕉の句は『続猿蓑』の中にあるもの。名月が照りかがやいているが、麓は薄霧が立ちこめて、そのため田圃が曇っているように見えるという美しい叙景の句である。
元禄7年8月15日、伊賀上野の兄半左衛門の邸内に新築した「無名庵」で月見の会を催した時の句といわれている。この時、次の句も作られている。
名月の花かと見へて棉畠
芭蕉の門人の服部土芳の書いた『三冊子』には、この二つの句について対置させ―「名月に麓の霧や田のくもり」といふは、姿不易なり。「花かと見えて綿畠」とありしは新しみなり。―と書いている。その「不易」「新しみ」について、同書には(不易というのは、新しいとか古いとか、または変化、流行にかかわりなく、俳諧の誠に立脚した姿をいうのである)という意を書いており、また(新しみは、俳諧の花ともいうべきものであって、師芭蕉は常に新しみを願って痩せる思いをされたものである)という意を記している。芭蕉は、この句が作られた日から2カ月に満たない10月12日に、亡くなってしまった、秀句が、能筆と優れた手刻者を得て残されたという、いい碑である。
元禄七年六月、伊賀の門人たちは師のためにささやかな庵を新築した。江戸は深川、上方では義仲寺に庵があり、京は京で去来別荘(落柿舎)の便宜があるのに、肝心の郷里に身の置きどころの一つもなくてはさまがわるい、と考えたからだろう。場所は上野城下町の東北はずれ、赤坂にあった兄松尾半左衛門宅の裏手である。芭蕉は七月十日過ここに入った。わずか二か月たらずの安住だったが(九月八日大坂へ立った)、その間、寛文十二年の東下以来初て、ただ一度に終った郷里での月見をしている。自ら十五夜の献立をつくり、人々を招いて厚情を謝した。
伊賀上野は布引山地の西、柘植(つげ)川と服部川と長田川の合流地点に出来た小盆地のなかの台地で、霧が多い。句は、むこうの麓に霧がかかり田の面も曇って見える、と解してわかるが(通説はそう解している)、「名月に、麓の霧や田のくもり」という作りはあまりにも芸がない。「名月や麓の霧も田のくもり」となぜ作らなかったのだろうと考えたところで、読に気がつく。「名月に麓の霧や、田のくもり」。この「や」は並列の助詞ではなくて、切字(間投助詞)なのだ。
花と霞(春)が寄合(よりあい)の詞なら、月に霧(秋)も寄合だろう。『山家集』に、「霧隔月」という題で「たつたやま月澄む峰のかひぞなき麓に霧のはれぬかぎりは」。句の心はどうやらこれらしい。「いかでわれ清く曇らぬ身になりて心の月の影をみがかん」と詠んだ西行にとっては、かれがのこした夥しい月の歌はすべて修行のひとつだが、俳諧師にはそうはゆかぬ。「月」は心月(しんげつ)たる前にまず季語である。西行ならぬ自分には麓の霧がはれても「田のくもり」はのこる、と言いたいのだ。
二十三年ぶりである。伊賀山里の月見はやはりいいなあ、と告げて郷党に対する挨拶としている句には違いないが、この時期、一門内の不協和音はようやく耳に障り、とりわけ酒堂・之道の確執は当面の心労のたねだった。伊賀衆の相も変わらぬ沈滞ぶりについても、零している(八月九日付、去来宛)。「田のくもり」は、俳諧師なればこそ見いだした心の曇でもある、というところにこのいぶし銀のような「名月」の句の面目がある。
市内連雀町の熊野神社境内に、元杢網(もとのもくあみ)の歌碑が、たてられてある。
山ざくら咲けば白雲散れば雪
花見てくらす春ぞすくなき 落栗庵元杢網
根府川石。高さ120センチ。幅110センチ。杢網は、ここに暫く住んでいた、という。妻知恵内子は、小ケ谷町出身といわれる。
吉屋信子の小説「浅間は燃ゆる」で、紹介された歌人杉浦翠子(みどりこ)は、当市出身である。兄は福沢諭吉の女婿福沢桃介。画家非水の夫人。北原白秋、斎藤茂吉、古泉千樫などに師事。のち「短歌至上主義」を創刊。昭和三五年没。意志と知性に裏づけられた生命の真実を歌う、と主唱したが歌は叙情に勝っている。「三芳野名勝図会(ずえ)」三巻の著者中島孝昌は鍛冶町の出身。俳諧・狂歌にも勝れたが、郷土史研究によって後世に裨(ひ)益した。墓は喜多町広済寺にある。作家・考証家として活躍する稲垣史生も市に住む。
故事「元の木阿弥」にちなむ狂名(元木網)の持ち主は、どんな人物なのか。元木網こと金子喜三郎は、享保9年(1724)、比企郡杉山村(嵐山町)に生まれた。通称大野屋喜三郎、狂名はじめは網破損針金(あみのはそんはりかね)、のち元木網と改める。別号、落栗庵(おちぐりあん)。画号、嵩松(すうしょう)。京橋北紺屋町で湯屋を営み、のち天明元年(1781)、剃髪隠居、西久保土器(かわらけ)町に庵を構えて、天明狂歌の一中心となった。「江戸中半分は西の久保の門人だよ」(狂歌師細見)と評され、唐衣橘洲(からごろもきっしゅう)・四方赤良(よものあから)(大田南畝)らと並ぶ存在であった。妻知恵内子(ちえのないし)ことすめ(川越の出か)も高名な狂歌師であった。著書として『浜のきさご』(狂歌作法書)、『新古今狂歌集』等がある。
木網の素顔は、随筆『奴凧』(南畝)にこう描かれている。「大根太木(おおねふとき)(狂歌師)が、辻番の給金請け取りに奉行所の待合所にいた時、傍らに『湖月抄』を読むくせ者がいた、尋ねると、大野屋喜三郎といい、京橋北紺屋町の湯屋である」「木網は男前で、前髪の剃り跡が青々と鮮やかで、いつも居士衣(こじえ)のような物を着て、紫の服紗(ふくさ)で包んだ物を背負って歩いている」「時の諺では『木網は、兼好をいっぺん湯がいたようだ』と」。彼の好学ぶりや『古今狂歌袋』に描かれた姿等が髣髴と浮かんでくる。
「あせ水をながして習ふ剣術のやくにもたたぬ御代ぞめでたき」。
ここに込められた風刺は、十分に共感できる。
「又ひとつ年はよるとも玉手箱あけてうれしき今朝のはつ春」
「盃の手もとへよるの雪の酒つもるつもるといひながらのむ」。
国学の素養が深く、平明なことばを選んだ彼の狂歌は今も新鮮で理解しやすい。文化8年(1811)6月28日没。夫婦の墓所は、東京深川の正覚寺にあり、嵐山町には辞世「あな涼し浮世のあかをぬぎすてて西へ行く身はもともくあみ」が刻された供養塔(県指定旧跡)が建つ。嵐山町杉山の薬師堂に、天井画の<雲龍>が保存される。(黒沢 栄)
島崎藤村は、明治四十三年妻の冬子が亡くなってから、二十年ほど経って、加藤静子と再婚した。藤村五十六歳、静子三十二歳であった。藤村が、大正十一年雑誌「処女地」を創刊した時、静子は河口玲子の筆名で参加していたし、また十四年「藤村読本」を編集した時援助している。藤村のよき理解者だった。
その夫人の母を加藤みきといい、川越出身だった。藤村は、義母と折り合いがよく、夫人とともに、よく川越を訪れた。みきさんも藤村の飯倉宅に、出かけたらしい。昭和十年、みきさんは亡くなり、川越の中院に埋葬された。
その墓石の文字が、藤村によって書かれた。釈迦堂の左に、白御影石で建てられている。表に「蓮月不染乃墓」。裏に、昭和十年五月没、加藤みき、七十三歳とある。戒名は茶道の名からとったらしい。藤村らしい、実直な感じのいい筆蹟である。
藤村年譜によると、大正十四年の項に六月より「藤村読本」(全六巻)を「処女地」同人たりし加藤静子を助手として編む≠ニある。
「処女地」は島崎藤村を中心として大正十一年に創刊された婦人雑誌であるが、この加藤静子はのちに藤村夫人となったひとである。
やはり年譜を見ると昭和三年十一月加藤静子と結婚、十二月埼玉県川越に義母を訪ふ≠ニ記されている。昭和三年といえば、藤村が畢生の大作「夜明け前」の準備に着手したころである。
この藤村夫人は川越と縁が深く、夫人の生母・加藤みきは茶道をよくしたが、その生涯を川越に送った。お互いに深く心に通うものがあったのであろうか、藤村は夫人とともに折に応じて川越を訪れているし、またみきさんも時々上京して藤村宅を訪れており、相互に往来がしばしばであった。
特に昭和七年には義母(みき)七十歳の祝いに藤村夫妻は川越を訪れ藤村は自作のいろはかるたを義母に贈っている。例えば「犬も道を知る」「櫓は深い水、棹は浅い水」「鼻から提灯」「鶏のおはようも三度」「星まで飛べ」……といったものであり、藤村の精神の諧謔な一面を知る上に参考となる。
みきさんは昭和十年五月に七十三歳で没し、藤村夫妻により川越中院に埋葬された。その白い御影石の墓塔には、藤村の自筆による「蓮月不染乃墓」が刻まれている。この蓮月不染とはみきさんの茶道方面の名にちなんだものである。
中院の楼門を入ってゆくと、釈迦堂のすぐ左にひっそりと立っている。それは藤村の枯淡の筆跡といかにもふさわしく、またみきさんの人柄をよくしのばせているようである。(I)
| 文学者名 | 碑 文 (表) | 所在地 | 建設年月 | 筆者及備考 |
| 安部 路人 | 城下町の古き鐘楼につく鐘の曇り夜空に春めきて聞ゆ | 養寿院境内 | 昭和43年3月 | 蘆笛同人兎眠書 |
| 一笑斉喜楽女 | 老の坂ふりさけ見れば死出の山くだらぬことをいふてなげくな | 連雀町蓮馨寺境内 | 光圃書 | |
| 元 杢網 | 山ざくら咲けば白雲散れば雪花見てくらす春ぞすくなき | 連雀町熊野神社境内 | ||
| 落栗庵高濤 | ひとりかけふたりかけたる桶の輪のたがかけぬらむあすの日もまた | 幸町多賀町薬師神社 | 昭和11年5月 | (再建) |
| 文学者名 | 碑 文 (表) | 所在地 | 建設年月 | 筆者及備考 |
| 大野 一水 | 陽を恋うて睦み合う鳩冬の寺 | 東明寺境内 | 昭和60年10月 | 自筆 |
| 正岡 子規 | 砧うつ隣りに寒き旅寝哉 | 大手町八百勘前 | 昭和37年10月 | 伊藤泰吉書、署名のみ子規 |
| 水原秋桜子 | 共に遂げしいさをを見よと鳴く雲雀 | 南台狭山工業団地 日本ヘキスト鞄熬園 | 昭和46年4月 | |
| 柳沢 東丁 | 秋風や直ぐなる故に道さみし | 小仙波喜多院境内 |
| 文学者名 | 碑 文 (表) | 所在地 | 建設年月 | 筆者及備考 |
| 武者小路実篤 | 武蔵野に生きている藤間の里 | 熊野町三 | 昭和45年 |
| 文学者名 | 碑 文 (表) | 所在地 | 建設年月 | 筆者及備考 |
| (巻14−3374) | 埼玉県指定史蹟 万葉遺蹟 占肩之鹿見塚 (碑陰に 武蔵野に占へ肩灼きまさにても告らぬ君が名うらに出にけり) | 富士見町浅間神社 | 昭和29年11月 | 大沢雄一書 |
| 山上憶良 | 万葉集巻第五所載反惑情歌併序
(令反惑情 まどえるこころをかえさしむる) 筑前国守山上臣憶良作 或有人知敬父母忘於侍養不願妻子軽於脱履自称倍俗先生意気…… 反歌 必左迦多能阿麻遅波等保斯奈保奈保…… (ひさかたのあまぢは遠しなほなほき家に帰りて業をしまさに) | 宮下町氷川神社境内 | 明治16年5月 | 中島与十郎書 |