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| ★ ジミー・スコット / バイオグラフィ 1 ★ JIMMY SCOTT / BIOGRAPHY 1 |
| 1925 | 1950 | 1960 | 1970 | 1980 | 1990 | 2000 |
| 年 | 出 来 事 | ||
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| 1925 | 7月17日、アーサーとジャスティン・スコット夫妻の第3子、次男として、米国オハイオ州クリーヴランド市/ Cleveland, Ohio に生まれる。 |
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| 本名ジェイムス・ヴィクター・スコット/James Victor Scott 黒人とネイティブ・アメリカン(チェロキー・インディアン)の血が流れているようだ。 彼の後にさらに7人の子が生まれ、男5人、女5人の兄弟姉妹となる。 |
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| 母ジャスティン/Justine は地元の教会(Hagar's Universal Spiritual Church)でピアノを弾く音楽好きで、いつも前向きに物事に取り組んでいく人間だった。 |
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| 父アーサー/Arthur は生活力のないギャンブル好きの無責任な人間で、家庭も子供も顧みなかった。「父は家にはいたが、いないも同然だった。父親らしいことは何もしてくれなかった。」とジミー・スコットは語っている。父親の愛情に飢えていたが、それが与えられることはなかった。 | |||
| 10代前半に、ジミー・スコットは身長が4フィート11インチ(約150センチ)で成長が止まり、声も少年のようなハイトーンのままとなる。(身長は後に、30歳台半ばに再び伸び始め、5フィート7インチになったという。) 後に、カールマン症候群( Kallman's Syndrome )による ものであることが判明。ホルモンの欠乏によって未成年期の成熟障害が起こる遺伝性のもので、弟ケニーや妹の息子、叔父にも同じ症状があり、母親の家系に遺伝している。 独特の声質のため女性の声と間違われたり、不快な思いも体験するが、この声なくしては歌手ジミー・スコットは存在しない。 |
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| 1938 | 12〜13歳頃、通っていた男子校の学芸会でミュージカル「フェルディナンド・ザ・ブル」の役を演じ歌う。 | ||
| 11月13日午前8時5分頃、母ジャスティンが交通事故による出血多量で死去。 | |||
3日前の11月10日、娘(ジミーの姉、シャーリー)を学校に送っていく途中、通りを斜めに渡ろうとしているところへ、酔っぱらい運転の車が突っ込んできた。自分の娘を暴走車から必死に守ろうと娘を突き飛ばした勢いで両腕が後ろに振れ、車のドアの取っ手にひっかかりそのまま75フィート以上引きずられてしまった。右腕は完全にはぎ取られてしまったという。
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| 父アーサーは子供を養育することができず、また、親類も引き取る者がいなかったので、10人の兄弟姉妹は別々の施設に預けられ散り散りとなる。13歳という多感な時期のジミー・スコットにとって、最愛の母の死とそれに続く兄弟姉妹の離散はとてもつらい体験だった。古い友人のルシール・チャップマンによると、ジミーは 母親のことを思って、いつも母親の話ばかりしていて悲しげだったという。 | |||
| 放課後のアルバイトで、クリーヴランドのメトロポリタン・シアター/The Metropolitan Theaterで楽屋係の仕事をする。楽屋のタオル・石鹸の交換、掃除などを担当、出演していたバンド・リーダーのバディ・ジョンソンやキャブ・キャロウェイたちの身近で働く。 | |||
| 1940代半ば | ペンシルバニア州ミーズビルのクラブで初めてプロのステージで歌う。サックスのレスター・ヤングたちのオール・スター・ジャズ・グループの演奏中に飛び入りして、「 It's Talk Of The Town 」と「 I'll Close My Eyes 」を歌う。 | ||
| 1944 | 19歳の時、最初の妻オフィーリア(16歳)と結婚。 | ||
| 1945 | 白人ブルース・シンガーであり、後にソング・ライターとなるドク・ポーマス/Doc Pomus と知り会う。 | ||
| 後年、不遇をかこっていたジミーを元気付け、表舞台へのカムバックに奔走してくれることになるドク・ポーマスが、ジミーの出演していたニューヨークのクラブ「ベイビー・グランド/The Baby Grand」に聴きに来ていて、ステージが終わると訪ねてきたという。小児麻痺を患い脚の不自由なドクは脚に装具を付け松葉杖をついていたが、ニューヨークに不案内なジミーを あちこち案内して回ってくれたという。 | |||
| 1945〜48 | シェイク・ダンサーで曲芸師のエステル・”カルドニア”・ヤング/Estelle "Caldonia" Young のレビュー・ショウに加わる。 | ||
| テントを張りながら巡業するもので、一緒に米国中西部と南部を回る。エステルはジミーにとって第二の母ともいえる人で、エンターテイメントやショウの本質をいろいろ教えてくれた。 歌手のビッグ・メイベル/Big Maybelle とはこのショウで出会っている。 ルース・ブラウン/Ruth Brown ともエステルを介して知り合ったようだ。 |
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| 1948末 | ライオネル・ハンプトン/Lionel Hampton に認められ、その楽団に加入する。小柄で、また年より若く見えることからライオネル・ハンプトンにより、「Little Jimmy Scott」と名付けられる。 | ||
| 1950 | 1月5日、ハンプトン楽団名義でデッカに「I've Been A Fool」を録音、これがジミー・スコットのレコードデビューとなる。 | ||
| その3週間後の25日に録音した「Everybody's Somebody's Fool」がヒット。「ビルボード」R&B(リズム・アンド・ブルース)チャートに7週間チャートインし、10月に最高6位まで上がる。ジミー・スコットにとって最大の、そして唯一の大ヒットだった。後年のライブではこの曲が必ずアンコール曲として取り上げられている。 これも楽団名義で、レコードには歌手の名は表示されなかったが、独特の声と歌い方でジミー・スコットの名は一躍知られるようになる。 |
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| ハンプトン楽団の安給料などの理由もあって、ライブ以外は4曲の録音を残したのみで1年余りで退団する。しかし、ジミーは後年、ハンプトンのビッグ・バンドとの仕事は「最高に楽しかった」と回想している。 この4曲は1999年に発売されたCD『 EVERYBODY'S SOMEBODY'S FOOL/デッカ・レコーディングス・コレクション』で聴くことができる。 |
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| ソロ活動を始める。 | |||
| 1951 | ニューオーリンズをベースに活躍していたポール・ゲイトン・バンド/Paul Gayten Band に参加。 | ||
| その後25年間近く関わることになるフレッド・メンデルソーン/Fred Mendelsohn (当時リーガル・レコードのオーナー)と出会う。 | |||
| リーガル(Regal)・レコードと契約し、「Anytime Anyday Anywhere」、「Rain In My Eyes」を録音する。 | |||
| ニューオリンズのナイトスポット「リップズ・プレイハウス/Rip's Playhouse 」でのライブ音源がリーガルの録音で残っており、それは1991年、『 Regal Records : Live In New Orleans 』としてスペシャリティ・レコード/FANTASY/ SPECIALTY RECORDS から発売された。 |
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| しかし、リーガルは経営難に陥り、プレスを委託していたコロンビア・レコードにその債務と引換に所属アーティストの契約権を引き渡すが、メンデルソーンは惚れ込んでいたジミー・スコットの契約とマスター・テープだけは、自らが移ったロイヤル・ルーストへ持っていった。 | |||
| ルースト(Roost)・レコードと契約。「 ( I'm Afraid ) The Masquerade is Over 」、「 My mother's Eyes 」などを録音。 | |||
| 1952 | デッカの子会社であるコーラル(Coral)/ブランズウィック(Brunswick)へ移籍。 | ||
| コーラル・レーベルでビリー・テイラー楽団/Billy Teylor and His Orchestra、ラッキー・トンプソン楽団/Lucky Thompson and His Orchestra と数曲ずつ録音する。各4曲が1999年に発売されたCD『 EVERYBODY'S SOMEBODY'S FOOL 』に収録された。 | |||
| ルーストに戻り再び録音する。 | |||
| 1952-1955 | 音楽業界を離れ、故郷クリーヴランドに戻る。 | ||
| 1954or1955 | 2番目の妻である理容師のシャニー・ブランチフィールド/Channie Branchfield と結婚する。 | ||
| 1955 | サヴォイ(Savoy)・レコードと契約。 | ||
| メンデルソーンもサヴォイへ移籍し、ジミー・スコットの録音を手掛ける。メンデルソーンがこの移籍時に、ジミー・スコットのルースト原盤(21曲の録音が残っているという)を携えていったお陰で、その内9曲は1999年に発売された3枚組CDの『 The Savoy Years and More.../サヴォイ・イヤーズ・アンド・モア』で聴くことができるようになった。 | |||
| サヴォイのオーナーであるハーマン・ルビンスキー/Harman Rubinsky は強欲な人物であり、アーティストを自らの金儲けの道具位にしか思っていなかった。録音も低い予算でしか行わず、アーティストへの報酬も極めてわずかであった。当時の報酬は普通、レコード1枚につき2〜4セントのところ、半セントしか支払わなかったという。弁護士の資格を持つルビンスキーはミュージシャンたちが法的知識に乏しいことにつけ込んで、一方的な契約書を取り交わしていた。ジミー・スコットも彼の劣悪な条件の被害者であり、さらに後には他のレーベルで出そうとしたアルバム発売の妨害も受けることになる。 | |||
| 「When Did You Leave Heaven?」がミニ・ヒットとなる。 | |||
| 初のLPアルバム『 Very Truly Yours/ヴェリー・トルーリー・ユアーズ』(12曲)をメンデルソーンのプロデュースにより発売。ベースのチャールズ・ミンガス/ Charles Mingus が、ビートにずれて歌うジミーに合わせられないと、いったんスタジオから出て行ってしまったという逸話が残っている。 | |||
| 1956 | 2枚目のLPアルバム『 If You Only Knew/イフ・ユー・オンリー・ニュー』(10曲)をメンデルソーンのプロデュースでサヴォイより発売。 | ||
| 1957-58 | メンデルソーンがジミー・スコットをキング・レコードに連れていって契約。 | ||
| コーラスをバックにポップなR&B系のレコードで売り出そうとシングル盤6枚を出すが、販売結果は良くなかった。キングでの録音はまだLP化もCD化もされていない。 | |||
| 1958 | サヴォイと再契約。数枚のシングル盤を出す。 | ||
| 1960 | 3枚目のLPアルバム『 The Fabulous Little Jimmy Scott/ザ・ファビュラス・リトル・ジミー・スコット』(12曲)を出すが、低予算で満足の行くものではなかった。プロデューサーはハーマン・ルビンスキーだった。 | ||
| 1962 | カリフォルニアに滞在してクラブからクラブへと渡り歩く。 | ||
| 1963 | LPアルバム『Falling In Love Is Wonderful/フォーリング・イン・ラブ・イズ・ワンダフル』を録音する。 | ||
| 前年に自らのレコード会社、タンジェリン(Tangerine)を設立したレイ・チャールズ/Ray Charles に迎えられ、ジミー・スコットは自他共に会心作と認めるこの盤を完成した。 マーティ・ペイチ/Marty Paich、ジェラルド・ウィルソン/Gerald Wilson という一流のアレンジャーを迎え、素晴らしい編曲によるストリング・オーケストラ伴奏付きで、レイ・チャールズもピアノで参加。スタンダード曲を中心に10曲が収録された。絶対にうける、そしてこのアルバムが転機となって、すべてがうまく運ぶと本人も確信するほどの会心作だった。 |
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| ジョエル・ドーン/Joel Dorn はDJを担当していたフィラデルフィアのジャズ・ラジオ番組でこのアルバムの曲を流したところものすごい反響で、「7年間DJをやったが、あんな大反響は初めてだった」と語っている。彼はDJをやめる67年までかけ続けたという。 | |||
| しかし、市場に出るか出ないかという時に、ハーマン・ルビンスキーの横やりが入り、ジミー・スコットはサヴォイの専属であり、他のレーベルからはレコードを出せないと、アルバムを回収させてしまった。 このレコードは現在(2000年11月)に至るまでCD化されておらず、わずかに流出した盤がレア・アイテムとして高値で取り引きされている。版権を持っているレイ・チャールズ次第だというが、この幻の名盤の一日も早いリリースが待たれる。本当に早く聴きたい盤である。 |
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| ? | クリーヴランドに戻り、療養所などで働く。 | ||
| 1965 | 3番目の妻である看護婦のルース/Ruth と結婚。 | ||
| 1969 | 3月、アトランティック(Atlantic)でジョエル・ドーンのプロデュースにより、LPアルバム『 The Source/ザ・ソース 』(8曲)を録音。編曲はウィリアム・フィッシャー/William Fischer とアリフ・マーディン/Arif Mardin。
| ジミー・スコットが自ら望む通りに歌うことのできたこの盤の曲は「 Unchained Melody 」、「 Exodus 」など素晴らしいものが多いが、特に黒人霊歌の「 Sometimes I Feel Like A Motherless Child 」とジャズの名曲「 Day By Day 」は絶唱と言うにふさわしい内容で感動的だ。 |
しかし、この盤もまた、ハーマン・ルビンスキーの妨害により市場から回収されてしまう。 8曲の内、5曲は1993年発売のCD『 Lost And Found/ロスト・アンド・ファウンド 』に、1972年録音の未発表曲5曲と共に収録された。また、2000年11月にオリジナル盤の形で日本で初CD化され発売される。 |
| バイオグラフィ 2 へ To BIOGRAPHY 2 |
| 1925 | 1950 | 1960 | 1970 | 1980 | 1990 | 2000 |
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| 2000/11/25 |