クミコ / クミコ meets ピアフ

クミコ meets ピアフ CD ★ 2007/9/12 発売
avex io ★ IOCD-20229  \2,000

映画 「エディット・ピアフ〜愛の讃歌」 公開記念
イメージミニアルバム
1
2
3
愛の讃歌
バラ色の人生
群衆
4
5
6
水に流して
雀のように
私の神様
「愛の讃歌」〜 「クミコ meets ピアフ」  Yahoo!動画で配信中
2007年9月6日〜10月5日 → 終了
映画「エディット・ピアフ〜愛の讃歌〜」スペシャル試写&クミコ ミニライブイベント
2007年9月13日札幌 14日名古屋 19日福岡 21日大阪 26日東京で開催

 2007年2月フランスで公開され、8週間で500万人を動員した映画「エディット・ピアフ 愛の讃歌」(原題は「LA MOME」)が、日本でも9月30日ロードショー公開される。その公開記念イメージミニアルバムで、クミコがシャンソンの女王エディット・ピアフの持ち歌に挑む。
 愛と歌に生き、1963年47歳で壮絶な人生に幕を下ろしたピアフ。彼女の哀切な歌声は今なお世界中の人々を魅了し続けている。一方、長い雌伏の後、やっと48歳で表舞台に躍り出たクミコ。歌にかける二人の想いが融合する試みだ。
 6曲のミニアルバムだが、クミコがこれだけピアフの歌を本格的に取り上げるのは初めてだ。

 「愛の讃歌」はピアフの代表曲としてだけでなく、シャンソンの代表曲でもある。元々はピアフの友人だったイヴェット・ジローのために書かれたもの。作詞はピアフ自身で、妻子あるボクシング世界チャンピオン、マルセル・セルダンとの情熱的な不倫愛に葛藤している中で、セルダンへの想いを綴ったものだ。ニューヨーク公演に来ていたピアフが、「船じゃ遅過ぎる、飛行機で来て」と言ったその一言が彼の命を奪ってしまうことになる。セルダンの乗り込んだエールフランス機が墜落し、生存者はいなかった。その悲報を聞いた直後、ピアフはジローに電話し、「イベットお願い。『愛の讃歌』は歌わないで...私が彼だけのために、あの歌を歌いたいの」と伝えた。ピアフの悲しみを深く理解し、ジローはレコーディングを終えていたにもかかわらずレコード発売を取り止めたという。
 日本で有名になったのは越路吹雪の歌唱と岩谷時子の訳詞による功績が大きいだろう。原詞はもっと激しい内容だが、岩谷時子の意訳が日本で受け入れられる要素になったといえよう。
 クミコは数年前からこの曲をコンサートやライヴで本格的に取り上げてきた。覚和歌子訳の別バージョンもある。今回は「王道」バージョンの編曲で歌う。
 参考文献 / 『ピアフ 愛の手紙 あなたのためのあたし』(セルダンとの往復書簡 大野修平訳 平凡社)

 「バラ色の人生」は歌手マリアンヌ・ミッシェルのためにピアフが作詞・作曲した。恋心が直截に歌われており、ピアフ自身もレコーディングし、彼女の代表曲の一つになっている。
 「群衆」はペルーのワルツ曲「誰も私の悩みを知らない」がオリジナル。ピアフは南米ツアーを行なった際、アルゼンチンでこれを聴いて気に入りレコードを持ち帰って、フランス語詞を書いてもらい歌った。日本のシャンソン歌手も結構取り上げている。
 「水に流して」と「私の神様」はともに作詞ミッシェル・ヴォケール、作曲シャルル・デュモンによりピアフのために書かれた。共に強い意志を感じさせる歌詞だ。
 「水に流して」をクミコは若い頃「銀巴里」で、一度同じ岩谷時子の訳詞で歌ったことがあるが、その時はまだ流すものがなくしっくり歌えなかったという。様々な人生経験を重ねた現在、初めて歌の世界を歌い込むことができた。歌詞にあるように「もう後悔しない」と力強く歌う。
 「私の神様」は当初、水夫の物語として書かれたが、ピアフはその歌詞が気に入らず、愛する人を自分の元に引き留めておきたいという内容に書き直させた。クミコ自身の訳詞で歌う。
 「雀のように」は歌手フレエルのヒット曲で、ピアフがパリの街角で歌っているのを聴いたキャバレーの経営者に見いだされ、“ラ・モーム・ピアフ(小さい雀)”という芸名でプロ・デビューするきっかけとなった曲だ。ピアフのレコーディングは残されていない。クミコは野圭吾の訳詞で昔から歌ってきた。

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 Edith Piaf の映像(YouTube)
 1.Hymne a L'Amour 愛の讃歌  2.La Vie en Rose バラ色の人生
 3.La Foule 群衆  4.Non je ne regrette rien 水に流して
 5.Mon Dieu 私の神様

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  クミコ音楽酔星
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