私がクミコさんを一番多く聴いた場所が新橋にあった(もう過去形になってしまった!)シャンソニエ「アダムス」だ。
昔、最初に高橋久美子として聴いたのは「銀巴里」だったし、他の店でも聴いてきたが、回数でいくと「アダムス」がダントツだ。
「アダムス」の最初の店は新橋駅前の機関車広場に近い2丁目にあった。飲み屋が集まった古い雑居ビルの地下2階で、ネズミの走る音が聞こえるなんていうこともあった。20席もない狭い小さな店だったから、カウンター席は後ろだが、前のソファ席に座ると歌手の顔が目の前で唾の飛沫が舞ってくることさえあった。外の喧騒からはかけ離れて、暗い照明の下、毎夜シャンソン歌手やカンツォーネ歌手がそれぞれの唄世界を繰り広げていた。
ここで高橋久美子を聴いた最初がいつだったか、記憶はもう定かではない。「銀巴里」と同様、ここでもちょっと変わった唄い手だった。シャンソニエ(シャンソンを聴かせる店)といいながら、彼女のレパートリーはフランスのシャンソンよりも、フランス以外の海外や日本の古い唄、歌謡曲、ポップスなどの方が多かった。唄の種類はごった煮状態だった。
しかし、そもそもジャンルを問わず「唄もの」が何より大好きで聴いてきた私にとっては、ジャンルなど元々どうでもよくて、唄と唄い手が素晴らしければ最高だった。その点で高橋久美子、(その後改名して)高橋クミコ、クミコは、何より唄の描き出す世界が独特だったから得がたい唄い手だった。
「アダムス」は1995年11月に、同じ新橋の3丁目に移転した。今度はもっと新しいビルの地下1階で、広くなって詰めれば40人程が座れる店になった。足繁く通って高橋クミコを聴いたのも、そして、まともに話をするようになったのもこの新しい店になってからだ。
店はイベントでもなければ満杯になることはなく、客は大体10〜20人だった。それは他の唄い手でも大差なかった。
先日、2005年の唄い初めが横浜の都筑公会堂であったが、600人規模のホールに500人程が聴きに来ていた。後ろの方で聴いていたので、ふと中央ブロック席の1列を数えてみると12席だった。ということはそのわずか2列分ほどの人数で、「アダムス」ではクミコさんを長年聴いていたことになる。なんという贅沢な状態で我々は聴いていたのかと感慨深かった。
やがて店が終わったあと、クミコさん、ピアニストの上條 泉さん、店主の早瀬かず椰氏、事務所の平栗社長、古い常連数人で近くの中華料理店で飲みかつ食事をするのが恒例となっていった。話題によってはしんみりすることもあったが、ほとんどは、皆、心おきなく冗談を言いながらのにぎやかで楽しいひと時だった。
リクエストもよくした。私の定番は「織田一枝」、「こころ」、「愛しかないとき」だったが、「茶目子の一日」や「お定のモリタート」などをリクエストすることもあった。
その頃、「織田一枝」は他ではめったに唄わなかったから、「アダムス」で初めて聴いたという人も多いだろう。やはりこの曲が大好きなもう一人の常連であるTさんと二人で、しょっ中リクエストしていた。
作家、織田作之助とその妻一枝の物語を寺山修司が構成・作詞したもので、語りが重要な部分を占める。語りの盛り上がりと「アドバルーン」以下のメロディがとても印象的な曲だ。そして、歌手クミコの表現力は素晴らしかった。ドラマチックな一編の掌編小説が目の前で展開されるかのようだった。聴き終わったあと、私はいつも極上の赤ワインを味わったような充足感にひたった。
「クミコ音楽酔星」のトップぺージを飾る写真はこの曲を唄っている時のものだ。楽譜のようなものを左手に持っているが、ステージに立つ時、プロの歌手だから当然楽譜は持たない。これは語りの台詞が書かれたものなのだ。
そうこうする内、アルバム『AURA(アウラ)』に結実する松本 隆プロジェクトが外部であり、メディアで取り上げられ話題となった。それ以降、松本ファンも含め客が少しずつ増えていった。専門のメークアップ・アーティストやスタイリストが付いたこともあるだろうが、心の張りが大きいだろう。「女っぷり」が上がっていった、つまり美しくなっていった。
(...つづく) |
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