武道の目次に戻る BACK NEXT 武道のページ

入門したての頃



 体育の授業が嫌いだった 皆の嘲笑や無視が耐えられなかった よく言う運 動会になると熱が出る子供だったのだ 一番悔しかったのは 小学校の時クラスで一番足 の遅い女の子とグランドを走らされて勝てなかったことだ どうしてこんなことをさせられた のか訳は覚えていない、、、子供の頃に足が遅かったり球技ができないのは信じ られないくらいに無能力な気分にさせられるものだ あの当時の劣等感は今でも十分にひきづっている
その後、水泳 自転車とスポーツは続けたものの子供の頃受けた傷は癒えるこ とはなかった
世の中に出て体育の時間のないのは幸せだと思う あれほど個人の努力でなん ともできないものはないだろう
色んな屈折した思いや劣等感が重なって三十近くになって今自分は板張りの道 場で突き蹴りの稽古をしている 若い人、運動神経のよさそうな人の動きに目が 奪われる でも今は何となくあまり気にせずに自分の世界に没頭できるようだ もっとも道場の雰囲気は厳 格だ
自分が古いからと言って威張る人もいなければ 技を見せびらかす人もいない  教えて貰うのもなんだか申し分けない位に懇切丁寧に扱ってくれる 遠くに行くには近くの人 からは離れられない 今自分がそれをよく感じている あの頃の人達も又教えて いることが学ぶことなのだと感じていたのだろう 
教えの中で「わかっているとか知っているのとできるというのとは違う」とあ る
頭の中でどう自分なりに消化されていても肉体と行動に体現されなければ意味 がないのが武道の世界だ
相手の理不尽な行動に対して我々動物が起こす行動はそれに立ち向かうことで ある
人間ならば話して聞かすことも可能であろう でもそれができない場合はどう するのか、、、
大人になって体育の授業がなくなって嬉しかったけど、人間として根元的な問 題は解決されていなかったように思う 結婚し守らねばいけない家族ができたことも大きかっ たのかも知れない
とにかく色んな劣等感のかたまりからはじめた武道修行だった そのせいか、 技ができる人に対してはあの人は運動神経がいいからできて当たり前だというようなすねた目 で見ていたのも事実だ
こんな見方は誤っている 入門すればすぐにでも感じる事だ そして何年か修 行していくと人と自分を比べることの無意味さにいやでも納得するようになる 
先に行こうと思うのなら今ある自分自身を改造していく他に道はないのだ 
ひがんだり うらやんだりするのは自然の感情である、しかし自分の人生を考 えるならそれをいったんどこかにおいて行じなければ 前には一歩も進めない   それがわかったのは幸せであった 子供の頃の週何回かの体育の授業は自分の 無能力を発表する場でしかなかったが今は人を気にせずに技に取り組んでいる  少しでも今よりうまくなりたかったし やれば自分なりにそれが実感できたのだ
それでも当時は今考えればひどいものだったと思う 相変わらず武道は野蛮な ものという偏見は持っていたし すべてにおいて力の発想が優先した 
私が当時考えた力とは一言で言えば筋肉の太さであり 運動神経の俊敏さのこ とである 早い話が自分が持って生まれた身体能力をいかに磨くかパワーアップするかと いうのが私の発想の基本であった 私は子供のころより運動神経がにぶく そし て入門も二十八才である
道場にいるかぎり又子供のころのように私は人に対して優越を誇れる地位には 登れそうもなかった 同年齢で肉体能力の低下を嘆く先輩の話を耳にするとやは り自分はアウトサイダーだなと感じた
小さい頃から門人として通って自然と技が身についたような人も中にはいる  そんな人達はまぶしいくらいに輝いて見える 真剣に取り組めば又、自分の上位の人に羨望 するのも自然の感情である 
越えられないものと越えられるものの区別が自分の中に大きな鉄の足かせのよ うにあったのだ
以前、流行したランチエスターの法則ではないが、身体能力が低い私が三十 近くなってから限られた時間を使って武道修行を初めてもそれ以上の悪条件の人を見つけて対 戦するしか勝つことはできない、、、とまあこんな具合の発想だったと思う
ところが 実際の修行においては勝つということや強くなるということが教え の中で一般の発想と異なる 一言で言えば対戦する、試合の中で相手との優劣を 決めるといった思考、発想が厳に排除されるのだ
数々の劣等感に悩まされていた私がその違いに気づいたのはあまりに遅かっ たように思う