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幸せなベートーベン

題名のない音楽界でフジ子ヘミングのベートーベンの(皇帝)を聴いた
放映されたのは2楽章のアダージョからなのだがいつものように彼女の音が出るなり時がとまったような感覚に襲われてしまった 
ひたひたと波が寄せるように何かが心の中に満たされていく まさにこれが彼女の音、彼女の音楽だ
実によく聞き よくわかり そしてよく弾いている それも自分だけでなくその場にいるホールの聴衆にも丁寧によく噛み砕いてやりそしてそれがそっとつつましやかに饗じられているのだ 聴けば非常に個人的というか彼女独自の世界の音楽でありながら 聞く人の胸に静かにせまる音楽でしかもこの上なくやすらぎに満ちた音にそっととなぐさめられているように感じられる

こんなベートーベンを聞いたのは初めてだ ピアノ協奏曲でこの上もなく有名なこの曲は居丈高なオーケストラと野心に満ちたピアニストがどこにあるのかわからない虚構の高みに登るため 自分たちが偉くなるために繰り返し演奏されてきたものだ
ベートーベンの曲というものは 人間があらゆる苦難を乗り越えて崇高な何かにたどりつくというような暗黙のストーリーのようなものが絶えず背景にあり 演ずる側も聞く側もそのレールの上に乗って最後の感動を迎えねばならないようなそんな約束事が離れないものであるのだが彼女の演奏はそのようなものから一切無縁のようだ 彼女を聴いていているとそういった固定観念のようなものから自分が解き放たれたような気もする

それほど 無心で美しい音楽に聞こえた この曲を皇帝などと誰が名づけたのだろう
楽聖が譜面に残した純情無垢な音の数々はこうして聴けばむしろ田園交響楽を思い出してしまうではないか 
この曲ももう長いこと挑発的な演奏する若手のソリストの出世の踏み台のような演奏ばかりで私など通して聴くこともなかったのだが
彼女の演奏はまるで違う 本当に何を弾いても彼女は他とは違う 
最初はむしろ戸惑うほどだが私はすぐにこちらの方が本物なのだと感じてしまう 
彼女自身 自分にとって好きなもの嫌いなもの いいもの悪いものを正直に自分の中で見つめて生きてきたからこんなに嘘いつわりなく音が出せるのだろう そしてそのこの上なく率直に音が我々の耳に届くのではないだろうか 
人はそれぞれ色々な思いを持って生きている 彼女の音を聞いていると彼女の思いや考えが私にはよくわかる気がするし そうやって心が通い合うことがとてもうれしく思う
彼女はひたむきに美しい音色をつむぎだしている そして私はそれを無心に聴いているのだ 
彼女の音楽は誤魔化しがないから無理に作る必要がない 普通この曲は妙な階段風の盛り上げがオケとソロの間に仕組まれていて 最後に行くに従ってわざとらしくなりつまらなく聞こえるものだが 彼女の演奏は実に明るい素直さに満ちている
透明な湖の底を空からのぞいて 浅瀬に貝殻や宝石が光るのを見渡しているようななめらかな音楽がどこまでも美しく果てしなく広がっていく 曲想が進んでも時間は止まっている 
終楽章の繰り返されるテーマはまるで森の鳥たちが呼び合っているようではないか!