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PART4

犬と私が睨み合いお互い一歩も譲らぬ気迫での無言の駆け引きをしている合間にも犬小屋の奥からはか細い声でニャーニャーと小動物の鳴き声が漏れ続けていた。
黙って動物を家に入れたことは断じて赦すつもりはない。私の決意は固いつもりだった。ところが犬の目をじっとにらんでいると どこを見ているかわからないような動きをすることがあるのに私は気がついた そのうち不意に瞳が笑ったり くるくると回ったりしだしたので私は犬が懐柔しようと又よけいなことをしだしたのだと感づいた。
「駄目だ、、、。」
重々しく私は一言言った。
「頼むよう。」
犬は両手をこすりあわせるようにしてくるりと回ってから哀願した。
何度頼まれても どんな格好をされても 猫を家に置くことだけは絶対できない。それは私のせいではない。私は哀れむように犬の顔を見て首を横に振った。
理由は私にあるのではない。私の家内にあるのだ。家内は元々東京近郊の大きな農家の出だ。多分小さい頃から家畜や動物が身近にいすぎたのだろう。そのせいか動物に関しても全く想像力というか特別な愛情を感じない人間だ。だから私が犬を飼うことで大騒ぎをしていても当時も極めて冷ややかにその様子を眺めているだけだった。
動物が人間のような感情を持ったりすると考えてしまう甘ちゃんの今どきのペット愛好家とは全く作りが違うのだ。
そしてその家内の最も嫌いなものが猫なのだ。
そこに座れと私は言った。はいはい。あはははと無駄な愛想笑いをしながら奴はあぐらをかいて座った。
「あのなあ、、、私はいいよ。別に猫がいても、、、私は構わない、、、でもな、、、。嫌いなんだよ、、、。 あいつが、、、。」
いつの間にか私の方がわかってくれというような顔をしてしまっている。どこで立場が逆転したのかさだかではないが ここはやはり言って聞かせて納得させるしかない。
そこまで言うと違う違うと犬はかぶりを振った。
「俺だってあんたの奥方のことはよく知ってるさ。好き嫌いもあの気性もな。だから飼ってくれなんて頼んでいなさ。」
誤解だ 誤解だ そんなんじゃないんだってばさあ。犬はそう言って又大げさに笑った。
じゃあ、何なんだよと私は言った。
「今晩一晩でいいんだ。置いてやって欲しい。」
「家には入れないからな。」
「もちろんさ。」
「それから泣かすな。バレたら騒ぎになるぞ。」
ううんと腕組みをして犬が考え始めた。そこだ、、、と呟いた。
この子猫は昨日猿からとりかえして来たものなんだ。もうちょっとのところで食われちまうところだったんだ。すんでの所で命拾いをしたわけさ。俺たちのおかげでな。でも今晩一晩俺が抱いて寝て匂いを消さないと妖怪に又狙われちまう。明日になれば親元に返すことができるんだ。
犬にそういわれるとなんだか私にも少しは面倒を見る義務のようなものがある気持ちになってきた。
まだ、おびえているから泣くんだよ。怖がってなあ。犬は可愛そうにというように大げさに首をすぼめてイヤイヤをしてみた。それからじっと私の目を見た。
ああ又こいつに踊らされるのか、、、私は奴の背中を掻いてやりながらぼんやりと考えていた。
結局その晩中、私はレンタルヴィデオ屋で借りてきた(パットン大戦車軍団)と(ヨーロッパの解放)全巻を大音量で居間に流し 時々、家人の様子を伺いながら なんだこの声は 捨て猫がいるのかなあ、、、ちょっと見てくるわと1時間に一度は家の周りを歩いて やっぱりいなかったわ。と言い訳をして又ヴィデオを見るという苦行を強いられてる羽目になった。それも12時を過ぎた頃から猫の鳴き声は次第に聞こえなくなった。寝たのかなと思った。少しは気持ちが落ち着いたのかも知れないなあ。などと考えたりもした。
次の朝は早くに目覚めた。牛乳を持って庭に出ると小屋からのそのそと出てきた犬がご苦労さんと私に声をかけた。
「よく寝てる、、、。」
小屋を覗いてみるとまだほんの小さな子猫がしっかりと目をつぶって犬の敷き布にしがみついて寝ていた。三毛猫だった。
「もう大丈夫か。」
私が聞くと犬はああと大きくうなずいてビッシャビッシャとトレイについだ牛乳を
「可愛いもんだな。」
「そうかい。まあ小さい時はなんでも動物は可愛いもんだ。人間だってそうなくらいだからな。」
「そう言えばまだ猫で知り合いというのがいなかったな。」
私がそういうと猫なんてなあ、役たたずなもんだからなあと犬が言った。
「人間の真似ばっかりしてちっとも働かないで遊んでばかりいやがる。しょうのない動物さ。」
「なんだ その人間の真似ってのは、、、。」
芸術さ、、、。と犬がぽつりと言うので私は腰を抜かさんばかりに驚いた。
犬が言うには猫という動物は他の動物と違って世の中をよくしていこうと努力したり働いたりすることの一切ない生き物なのだそうだ。そして普段は勝手気ままに遊びくらして美術や音楽になると異常なほど盛り上がるがそれ以外は互いに協力しあうことさえ稀なのだそうだ。
「三味線がよく鳴るわけだ、、、。」
そう言って犬は皮肉な笑いを浮かべてあくびをした。
愚か者め!と私は犬を叱った。
「おまえは人間の最も崇高ななものがなんであるかわかっていない。美を愛でる感性や芸術を感じる心ほど高級な働きはないのだぞ。」
これでも自分は大学で文学を講義しているのだ。美の本質についてどれほど孤独な思索を積み重ねてきたか私なりに知れないのだ。そしてわが命のあるかぎりその作業は終わる事はない、、、。
「わんわんと大声でほえまわって野山を駆け巡って来たおまえやお前の祖先どもが芸術を理解しないのは無理からぬことだろうがな。もし猫が芸術を理解しているというのなら そりゃあ大したものだ。」
犬のおまえに言っても無駄だろうけどな。私はそうも毒づいた。すると奴が食ってかかった。
「大したものなもんか。あんたらの芸術が高級だなんて笑わせるぜ。あんなもの暇つぶしにしても無意味な行為だ。余計なことしてエゴむき出しの感性で神経をすり減らしているだけだよ。人間様も猫もな。」
犬にしては険のある物言いだった。よほど猫とは馬が合わないと見える。それはそれとして芸術をけなすとはなんたることか。こともあろうに自分の主人の職業をけなすとは、、、。許せん、、、。私は犬の背中から手を抜き立ち上がって奴をにらんだ。
おまえ今日から路頭に迷いたいのかと怒鳴ろうとしたが早朝なので思いとどまる。
犬と芸術のことで議論をしていてそれを人がみたら何と言うだろう。いかんいかん、又私は足を踏み外すところだった。冷静になれと自分に言い聞かせた。犬の言うことなんか相手にするな。
その時どこかでカラスがカアと鳴いた。そしてその鳴き声が私にとっては一つの啓示となった。
ーそうか!ー
稲妻のようにある考えがひらめいたのだ。
おいで、、、と犬を呼んでよしよしと出された背中をかいてやった。
犬は頑固な面もある。生真面目で正義感が強く、いつも使命感に燃えている。勇気にあふれていて行動力は群を抜く。
ーしかしだ、、、。ー
私は心の中で笑った。こいつは芸術オンチだったのだ。だからこんなにムキになる。よくいるのだ。何でも器用にできるのに歌の歌えない奴。スポーツ万能なのに絵の描けない奴。ウッディアレンの映画を見て皆が笑っているのにキョトンとしている奴。
「よかよか、、、。」
私はドラマで覚えた九州弁で笑いながら犬の頭を叩いた。
ー誰だって苦手のものはあるもんだ、、、。そうムキになるな。決して恥ずかしいことではない。気にするな。おまえはおまえらしく、、、だ。自分は不器用ですから、、、。なんていいながらお前は生きていけばいい。ー
心の中でそうあざ笑いながら私は余裕で部屋に戻ろうとした。
「なんだ。なんなんだ。その笑いは、、、感違いしてもらったら困るぜ。俺は決して、、、。」
私の頭の中をテレパシーで察して犬は庭で抗議の声を発していたがこれ以上奴のプライドをズタズタにするのは酷なので聞こえぬ振りをしてやった。
居間に戻って久しぶりに気分がよい。ラジオをつける。NHK第一の名曲の時間でシューベルトの楽興の時を聴いた。これが終わると黒田恭一氏の二十世紀の名演奏をFMで聴くのがいつもの日曜の私の午前のメニューだった。ソファに身を沈めて心をかなたに遊ばせる。そこはこの世で一番美しい場所、ガンジスのほとりか、、、。ともあれ私はここにはいない。芸術の翼にくるまれて遠いところへ行くのだから、、、。でも、ちょっとその前に、、、。
ー芸術の嫌いな(理解できない)動物は庭で穴でも掘ってろ。ー
私がそう心の中で呼びかけるとうるせーと犬がテレパシーで返してきた

夕方になるといつものように家人の目を逃れるようにして庭の犬と目配せしあう。
車のドアを開けると後ろの座席に小学生くらいの女の子が座っているのに初めて気がついた。助手席に乗り込んだ犬が最初からこの姿のほうがいいだろうと言うのでそれもそうだとうなづく。
猫の毛どころか、気配のかけらでも残っていたらどんな揉め事になるかもしれない。
人間というものは自分の嫌いなものには敏感に反応するものだ。まして猫アレルギーの家内なら超能力を発揮して我々の罪を易々と暴くかもしれなかった。
「早くいこうぜ。」
「わかった。」
車は多摩川を渡り環八を越え国道をひた走る。後ろの女の子は無言で大人しく座っていた。
「この子、猫なんだよな。」
「ああ、、、。」
ちょっと、しもぶくれの顔立ちで目の大きな可愛らしい子供だった。表情が少し硬くて私と打ち解けるには時間がかかりそうだった。
「まだネンネなんだよ。」
こちらの考えを見透かすように犬がちらりと後ろを振り返ってから言った。それからにやっと笑った。歯が白い。さわやかな笑顔だ、、、と思っているうちに犬も格好のよいハンサムな人間の男に変わっていた。こちらが運転に気を取られている間の一瞬の変化だった。
ということは、、、ミラーを覗くと私もいつもの女性になっていた。
「やっぱりこうならなくちゃ 駄目なのかしらね。」
苦笑いしたものの慣れたものでもう女性に変身するのもあまり気にもならなくなっていた。自然に女言葉が口に出る。歩道を歩く男性の姿を別の生き物のように眺めていた。薄いブルーの絹のワンピース,襞のあるドレスみたいな感じのもので布地が光って美しい。化粧も派手めで口紅のルージュが鮮やかで目じりにスパンコールが散らしてあった。
「この子の家は劇場をやっているそうだぜ。」
犬がぽつりと言った。
「嘘!本当なの。楽しみねえ、、、。お芝居見れるかも。」
ラジオはベルディのオペラで盛り上がっている。本当はベルディはあまり好きではないのだが犬にあてつけるためにボリュームを大きくして聞いた。奴がうるさそうな顔をするので笑った。意地悪をするつもりはないのだがこれは朝の復讐戦なのだ。
それにしても一体、今日はどんな結末が待っているのか。胸のわくわくは収まらない。
車は環七を越えてもすいすい走る。三軒茶屋の五差路を斜め左だと犬がぶっきらぼうな感じで言った。
「どうしたの、機嫌悪いじゃない。ラジオうるさいかしらね。」
私が聞くと奴は短くうなずいた。きっとオペラが嫌いなんだろう、、、。というか音楽も苦手なんだろう。おまけに色々な他の芸術も理解できないでコンプレックスを抱えているのだろう。そして、それを人に指摘されるのもいやなのだろう。ああ、お気の毒に、、、。
いつもは颯爽としているのが売りの人間の姿の犬がちょっとしかめ面しているのが可笑しい。でもこういう犬の表情も渋くていいと感じた。男はぶっきらぼうなのも魅力があるわけだ。ジャンギャバンのように、、、。
「ねえ、ジャンギャバンって知っている。」
「知らない」
「映画見たことないの。」
「ないね。まだ俺三歳だし、、、。あんたと違って人生経験長くないから。」
女性に向かって年のこと言うんじゃないわよと言いたくなったがすねている犬の顔が可愛いので赦すことにする。
車は下北沢の雑踏の中へ入っていく。日曜で通りという通りどこも人であふれている。小田急線の大きな踏切の手前にその劇場はあった。近代的な商業ビルが立ち並ぶ中で木造の古びた建物が通りに立っていた。近寄ると思ったよりも大きい。外装はとにかく全部黒塗りでなんだか地面から自然に生えたような印象の不思議な存在感のある建築物だった。
犬は窓から首を出して建物の屋根の大看板を見ている。
「猫なり劇場、、、。あ、ここだ。」
犬が言った。後ろの座席の少女は飛び上がるようにして座席から立ち上がって窓にしがみついている。間違いない。
車を止めてどこもかしこも黒塗りの建物の正面の入り口にしつらえてある風呂屋の番台のような木戸をコンコンと犬が叩くと中年の男が顔を出して娘を見てあっと言ったきり奥へかけていった。
娘が木戸をくぐるのでとこちらもつられて中に入る。板敷きの大きな玄関の向こうまで下駄箱が並んでいた。すぐに転げるように母親らしい女性がやってきて女の子を抱きしめてわあわあと泣きだす。女の子は母親の首にしがみついたままみじろぎもしない。それから又すぐにちょっと年のいった顔の痩せた男があらわれて少女の顔を肩をつかんでじっと見つめていた。こちらも大粒の涙が目に浮かんでいた。
父親は大声で泣いている母娘の傍らでそれから地面に膝をついて我々に両手をついて丁寧に礼を述べた。
父親はこの猫なり劇場の小屋主で座長でもあるらしい。手を引かれように楽屋の一番奥にある座長部屋に犬と二人で通されると親子三人が畳に手をついてまた丁寧にお礼を言われてしまう。芝居がかった口上のような雰囲気でとうとうと父親が話しはじめるがさすがに貫禄があり 声に良く練られた渋さがある。痩せているのだが目玉が大きく、振る舞いにどことない大きさが感じられた。ジャンギャバンとはいかないが中々の存在感の役者なのではないかとすっかり感心してしまう。次に母親、同じような紋きり方の礼口上にはじまり娘の紹介家族の紹介などを巧みに話の中に交える。危ない命をお助けいただき、、、というところで懐紙を目にあて涙をぬぐう所作が芝居そのもので美しい。それが終わると娘の番ではじめてこの子の声を聞いたのだが、弱いながらもよく通る声できちんと礼を述べる事ができた。私たち二人のめいめいに手をつきお辞儀をする姿がなんとも可愛らしい。
私がすっかり感心していると隣にあぐらをかいている犬がつまらなそうにあさっての方を向いている。こらっと心の中でしかると私を見た。ちゃんとしてなきゃ駄目じゃないとテレパシーで言うと奴が返してきた。
「全くこいつらと来たらいつもこうなんだ。」
「何いっているの こんなに丁寧にお礼を言ってるんじゃないのよ。」
「芝居なんだよ。芝居。こいつらは現実と芝居の区別がつかないだ。」
全く仕様がない奴だと思いにらみつけてやる。お茶やお菓子を勧められているうちに廊下に人が急ぎ足で行きかいだした。
公演の支度の時間がせまっているようだった。どうぞ是非にと座長の父親に懇願されて私たちも芝居を見物することになる。案内の人に先にたってもらい不思議な仕掛けの沢山ある楽屋を通って席に案内される。古びた旅館のような板敷きの廊下を通ってこちらでございますとふすまを開けると向こうに大きく芝居小屋の空間が広がっていた。
あてがわれた桟敷は見れば花道、七三のまん前で一番いい席ではないか。
小屋の中は意外な位に広い。内装はすべてが木造で畳敷き。一階、二階の長押のずらあっと並んだ提灯に火が入り暗さはどこにもない。こちらの桟敷席から見下ろすと一階の桟敷にも客が半分方すでに入ってにぎやかに弁当を食べている。芝居見物の華やいだ雰囲気が高い天井までほんわかと昇っていくようだった。
正面の舞台の緞帳を見ると重たく下りたままだが金糸の背景に巨大な赤富士が映えていてその曙の光の中に無数の招き猫が空を飛んでいるという伝統的かつシュールな意匠で何とも言えずに豪華で素晴らしい。
「凄いわ。こんな素敵な劇場があったなんて、、、。」すっかり私は夢中になってこの幻想的な光景を眺めていた。
へんっというような顔をしてつまらなそうに犬は両足を投げ出している。全く素直でない奴だ。芝居の始まるこのウキウキとした時間が楽しいと感じることができないらしい
まあいい。こんな唐変木はほっておいて私は私の時間を楽しもう。

客はさっきからぞろぞろと木戸口から列をなして入ってくる。皆人間の姿をしているが猫なのは間違いない。ねえ、この人たち皆猫なんでしょうと後ろでひっくりかえっている犬に聞くと全部猫だようーと奴が投げやりに答えた。
失礼しますと後ろから声が聞こえて弁当が届いた。どうぞこれはマタタビ酒でございますと切子細工の酒盃と梅酒のような色をした液体の入ったどっしりとしたガラスの瓶が卓に置かれた。
興味津々で一口飲むが 甘さに深い味わいがあり かなりいけることがわかった。
弁当の折はかまぼこ、出し巻き、昆布巻き、子魚の佃煮、沢蟹の揚げもの、鳥の焼き物にふきとまたたびの煮物に鰹節をかけたご飯でやはり猫好みのものだったがこれもおいしい。
いじけている犬の弁当のふたも開けてやり、杯に酒もついでやるとしぶしぶ起きて奴も箸をとった。
これおいしいわよとマタタビ酒をすすめるがいらないと言って口にしない。どうしたの、お芝居嫌いなのと聞くと黙っている。 
ー可愛そうな芸術のわからない犬。
私も何も言わず笑ってやった。でもいいの。おまえが好きよ。マタタビ酒を口に含みながら犬に少しよりかかってみた。いつもつけているコロンの匂いが鼻をくすぐった。がやがやと雑談の声が小屋の中に満ちている。大勢の話し声が混ざり合ってお経のような音楽のような水音のような、、、不思議な感じだ。
それにしても気持ちいい。ここは夢の中かも知れない。その時思った。それともずっとむかし小さい頃の正月にこんな雰囲気の場所で芝居を見たことがあったのかも、、、。たしかにこんな風に陶然として大きな広い場所で何かが始まるのを私は待っていたことがある。
チョーンと拍子木が一つ、かなりしばらくしてから又チョーンと鳴った。それでもあたりは静かになるどころか皆の声が逆に大きくなっている。これから芝居が始まる合図に観衆が知らず興奮してしまっているのだ。
急に立ったり座ったり 着ているものをたたんだりと猫のすることも人間のすることと変わらない。拍子木の感覚は次第に短くなり幕があがるのが近くなったのを告げていた。
拍子木のつけの間がせまくなり館内のあかりが提灯の明かりを間引いたかように暗くなると天井の方から大きなライトがぽっかりと緞帳の赤富士と招き猫を映し出す。 とその時音もなく緞帳がスッと上にあがった。
全員の目が舞台に注がれた。
明るい舞台には座長と妻、そして私たちが助けた少女の三人が並んで武家のような装束、裃を着て土下座をしていた。
えっへん。えっへん。とちょんまげ姿の座長が何度もその姿勢で大きな咳払いを繰り返している。どうやら早く観客に席につくように促しているようだった。そして三人が面を上げた。 座長が口を開いた。
「本日は皆々様にはお忙しいところを当猫なり劇場にお運びをいただきまして篤く御礼を申し上げます。さて 皆様既にお聞き及びのことと存じますが私共娘が妖怪にさらわれまして危ないところ今日ここにお見えになられております。人間のひXち先生、犬の先生の両大先生にお助けいただいきました。誠に命の大恩人とはこのご両名様のことでございます。私共親子、これより生涯をかけまして両先生のご大恩にむくゆるために以後芸道修行に専念精進いたす所存にござりますれば今後とも猫なり座、猫なり劇場をごひいきを賜りますよう皆々様も隅から隅までずずいーっとひとえに願い奉りまーーす  。」  
ようようとあちこちからヤンヤの喝采が起こり、拍手がやまない。一人立ち、二人立ちするうちにスタンディングオベーションのようになって客が皆私たちの方を向きだした。ふて寝していた犬もこれには起き上がり 姿勢を正して手を振って答えていた。私は花道を見下ろす特等の桟敷席で立ち上がり一階と二階の客にお辞儀をして三階の天井桟敷には指差ししてから手をふってあげた。物凄い拍手と歓声でヒーローにでもなったようでえらく気分がよい。
「本日は両先生のご来臨をたまわりまして特別の出し物をつとめさせていただきます。」 緞帳が一旦降りてそう館内アナウンスが入ると 又がやがやどよどよと皆がざわめき騒ぎ始める。花道を乗り越えて客が何人か手帳を持ってきたのでサインしてあげた。
「どう 気分いいわねえ。大先生だって私達。」
「そうかい。よかったなあ。大学じゃ講師だもんな。」
犬の奴は何か悪いものでも食べたらしい。まったく乗り気をみせずに桟敷席でひっくり返っている。
「なんなのよ。おまえ芝居嫌いなの?」
「生憎と俺は芝居しないと面白くないような生き方してない.から。」
愛想のない奴だと思うが何か言ってやろうと思う間に小屋の中が暗くなり緞帳が又あがった。芝居がはじまったようだ。着物姿の女が一人座敷で座っている。すると大きな猿の着ぐるみを着た男がやってきてどっかりとあぐらをかいて座った。
猿はみぐるしく体を掻きながらなんだかんだとセリフを言っているのだが着ぐるみが邪魔で声がくぐもりよく聞き取れない。
どうも女をくどいているようだが、、、ということはこの女性のモデルは私でこれから犬が出てきて猿を退治する、、、、どうも以前、私たちが初めて妖怪退治をしたときのことをそのまま芝居にしているようだった。
それにしても手際が悪いとうか、台本がまずいというか、、、。間延びしたセリフがえんえんと続き場面も変わらない。
「つまんねえだろ。」
犬が背後でポツリと言った。
「こいつらはとにかくレベルが低いんだよ、、、。」
舞台は延々と続いているが客もなんだか見ているようないないような、集中力が感じられない。大半が弁当を食べたり酒を飲んだりしているようだった。
配られたプログラムを見ると題には(目覚めよと犬の呼ぶ声が聞こえる)と書いてある。
「それにしてもつまんないわねえ。誰、これ書いた作者は、てう、、、ちゅぇれ、、、ねえ、THULEってなんて読むのかしらね。」
「知らねえよ。俺は、、、。あんた。ドイツ語の先生だろ。」
「猫語までは知りませんよ。私は、、、。」
それにしてもつまらない。まあ作者が猫なら仕方ないか、、、人間ならゆるさないところだが、、、。
舞台は犬役の男も登場して三人でああでもない、こうでもないと言い合っているが セリフ自体が聞き取りにくく、どうもつじつまもあわないようだ。大勢の猫の観客たちも飽きてきててんでにしゃべりはじめている。
これでは、今宵の感興が台無しになるではないかと思うと悲しい気持ちになった。
「ねえ、いつもこんなにひどいのかしら。ここって。」
「いつもに決まってるさ。大体、芝居なんてどれも皆こんなもんだろう。」
その時、物凄くエキサイティングな考えが脳裏に浮かんだ。
「ねえ、飛び入りで出てなんかやろうか。これじゃあ、あんまりじゃない。」
「馬鹿いうんじゃないよ、、、。あ!
犬が飛び起きて私の前の卓の上のまたたび酒の入った酒瓶を見た。
「あー!こんなに飲んじまったのか。」
「何よ文句あるの。飲んでくれって言われたから飲んだんじゃないよ。
犬のあせった顔を見て何かあるのかと少し心配になってきた
「ここでこんなに飲んだら、えらいことになるぞ。
えらいこと、、、とはなんだろう。確かに芝居がまずいのと酒が上手いのでさっきから手酌でぐいぐいと飲んでいた。
少し頭の中が陶然としてきて上半身がふわふわとしているような気がするが酩酊とまではいかないつもりだった
犬はそれでもあせった顔で私をじっと見ている。どうしたというのか。顔からヒゲでも生えてくるというのか。
その時、後ろのふすまが開き案内の係りがやってきた
「えー、、、大先生。ご出演のお支度がございますので そろそろ楽屋までお運びをお願いもうしあげます。」
「、、、、。
犬と二人で顔を見合わせる。ちっと奴が舌打ちをした
「次の出し物にはあと一時間ほどございますが衣装合わせ お化粧と色々とございます。そろそろ、ご準備をお願いいたします。」
きちんと正座をして丁寧ながらもいかにも手馴れた物言いだった。
さっきの飛び入りの話、、、聞かれたのかしらと私が小声で言うと犬が違うと首を振った
「この小屋は見る者の願望がそのまま形になるんだ。だからさっき自分がそう思った瞬間からすべてはそんな風に展開してしまうんだ。おまけにまたたび酒をそんなに飲んじまったらな、、、。
「じゃあどうすればいいのよ。
「やれよ、出て行って踊りでも、漫談でも、軽業でもやればいいじゃん。」
「でも、、、、。」
さっきのはほんの思いつき、軽口で言ったに過ぎない。私は子供の頃より芸無しで主要五教科の成績はよかったものの人前で何かしてみせるなどということは生まれてこの方一度もなかったのだ
「心配すんなって、ここはあんたの頭の中のものがすべて実現するんだ。なんでもやりたいことは一通りできるようになっている。」
行って楽しんで来なよ。どうせ見ているのはわけのわかんない猫ばかりだし、犬にそういわれると信じられないことにそれじゃあやって見ようかなあという気持ちになるので驚く。多分これは大量に飲んだまたたび酒のせいに違いない。そういえばなんだか、お腹のあたりもかっかしてきた。目の前に投げ出された犬の長い足をじっと見ていると夢の中にいるようないい心持だ。犬は知らん顔して両腕を枕にして天井を見ている。
「ねえ、、、。」
「なんだよ。」
「一緒に出てよ、、、。私一人はイヤなの。」
「駄目だ。」
間髪をいれずに奴は言った。

なぜかその時、私はもう後には引けないという気持ちになっていた。
舞台は相変わらず 冗漫というか 稚拙と言うか 変な猫芝居をだらだらとつなげている。それを観客の側も喜んでいるとも思えず 実際ほとんど見てもいないようなのだ。
なんだか勿体無い。こんな素晴らしい劇場空間に私たちはいるのに舞台はひどい芝居。客はがやがや。そして桟敷にいる私の目の前の犬はふて寝、、、。
「ねえ、何か間違っているわよ。これじゃ全然つまんないわ。」
犬は無言だったが私が揺さぶると何にも間違ってないさ。ここはいつもこんなもんだからと言って寝返りを打った。
「ねえ、、、。私たちで出てなんかしようよ。きっとうけると思うの。ちょっとでいいから、、、ね。」
犬の背中をスリスリ少しさすってやる。普通ならこれで落ちるはずだった。ところが犬は相変わらずかたくなに天井をにらんでいる。
「だから、一人で出ればいいじゃん。後は舞台がなんとかやってくれるよ。」
あのねー!おまえはどうしてそう意固地で頑な動物なの!私は一人で出るのはいやなの。出たいけど一人はイヤ。おまえにつきあってもらいたいのよ!
バーンと犬の頭に大声でテレパシーをぶつけるとうるさかったのかさしもの犬も起き上がってあぐらをかいてこちらを見た。
「さ、行きましょう、、、。」
ところが私が笑顔で誘うと犬はつぶやくように又ダメな物はダメと言った。
「おまえもわからない奴だわね!」
私はいきり立って言った。
「一体おまえの無理難題に私がどれだけ付き合ってきたと思っているの。たった一度、あの舞台で少し皆の前に出てあげるだけのことをなんでそんなに渋る必要があるというの。」
私がにらみつけると犬はぽつりと言った。
「俺は自分の利得のためにあんたに物を頼んだことは一度もない、、、。」
そして又ごろりと横になった自分のひじを枕に不貞寝を決め込んだ。
「じゃあ、あれは何よ!いつもあげているでしょう。牛乳や食パン。ゆで卵。天カスだって、、、。おまえが好きだからあげてるでしょう。」
犬の好物のありったけを並べると犬は向こうを向いたままでたった一言、おいしい食事を有難うと言った。
見ると迎えに来た係りの人が下を向いてくすくす笑っている。
たかだか座興で舞台に立つというだけでこれだけ抵抗をしめす小心者を笑っているに違いないと思いたかった、がそうでなく私のことが大人気ないと笑われていることもあるかも知れないとも考えて犬に向かっての罵詈雑言はやめにした。
「もういいです。おまえには頼みません。私一人で行きます。」
そう言って立ち上がると犬はあさっての方を向いたままだった。
桟敷の襖を開けて案内の後ろで又長い廊下を歩く。いくつも暖簾をくぐると、関係者以外絶対立ち入り禁止の紙が貼ってある木戸を音もなく開けて楽屋に戻った。
それにしても犬のあの意固地な態度はゆるせない。今まであんなに可愛がってあげたのに、、、きっと芸術オンチだったことをからかっていたのが奴の癪にさわったのかも知れない。もし本当に犬がそうだったら私の言葉に相当傷ついていたのかも知れない。
それにしても、、、ちょっと舞台にたって二人でカラオケでデユエットでも歌えばいいと思ったのに、、、ここまで頑強に抵抗されるとは夢にも思わなかった。
舞台裏の空間は不気味なまでに大きい。おまけにうす暗い。天井がどこにあるのかもわからないほど高く、手すりに囲まれた奈落を見るとこれまた深い穴がどこまでも広がって見える。
舞台表のセリフや効果音もここは遠く聞こえるばかり、様々なロープや緞帳が何枚もたれさがり 巨人の洞窟に迷い込んだような不気味な感じさえする。
「さ、センセイ、、、こちらでございます。」
迎えに来た座長の奥さんに手を引かれてそこから支度部屋に行く。さあさあお急ぎお支度くださいね。などとつぶやくようにいいながら鏡の前にすわらされ身に付けていたアクセサリーを外させられた。それから立って服を脱ぐと襦袢を着せられぐっと背中を大きく開けさせられ白粉を刷毛で塗られる。その手つきの速いこと。あっという間に首まで塗ってから髪の毛を上にまとめられ顔中に刷毛が走る。それから目じりに赤い化粧。口元にも紅をさし、一抱えもあるカツラが運ばれてきた。
もうその段取りのよさというか仕事の速さというか、手品を見ているようで私は鏡をただ呆然と見ているだけ。見る見る変貌していく自分の姿に女の怪しい性のようなものが見えかくれし何とも興味深い。
化粧の横目で薄紫の矢がすりの着物が運ばれるのを見ている。あれを着るのか。ぽっかりと付けたカツラは重たくなんだか上からひっぱられて額や目がつりあがっているような感じだ。それから立ち上がって手伝いの女性が二人セイので着物を合わせ帯で巻く。ずっしりとした重さが足の裏まで感じられる。お腹を回っている帯はどう考えても不自然なまでに長く、私に似合わないのではないだろうか、、、。
それにしてもこんなもの着て私はこれから何をするのだろうか、、、。
当たり前の話だが和服を着たのはこれが初めてであった。目の前の座長の奥さんも支度の手伝いの女子衆も皆着物姿でまことに似合っているのだが男の私がこんな格好をして果たしてうまくいくのだろうか、、、何かバチでもあたるのではないか、、、などと変なことを考えてあっちを向いたりこっちを向いたりし着物を調えてもらってそれから姿見をちらっと見た。
清楚な腰元姿の私が(女の私が)そこにはあった。想像したよりずっと美しい。うっとりと眺めてしまった。軽く笑って見る。雛飾りのお姫様のようだ。今度は口元に手をおいて上目使いににっこりと笑って見ると顔立ちが艶然として吸い込まれていくような魅力をたたえている。
正直言ってここの部屋にいる誰よりも私は綺麗だ!そう確信すると男の時には思って見なかったほどの勝利感が腰のあたりをバネにして頭の先へ音を立てて突きぬけて行った。
それは電流が走るなどという生易しいパワーではない。女性というものはこんな感触を求めて日常あちこちをさまよっているのだろうか。それにしても恐ろしいまでの根源的な自己肯定パワーだ。
そんなことを思いながらもなぜか目は姿身に釘付けで自分に見とれている。見れば見るほど怪しい魅力があるような気がする。
これから舞台で何をするのか、肝心なことさえ忘れて私は自分で自分の姿にほれ込んでいた。
「センセイ、、、。お綺麗ですわよ、、、。」
奥さんの一言に不覚にも大きくうなづいてしまい。恥ずかしくて部屋をみまわすとお手伝いの人たちがもう一人もいなくなっている。
「私これから何をするのでしょうか。」
そう聞くと奥さんはただ笑いながらうなづいて はい、もうそれはうまくいくに決まってますからといって答えようとしない。
うまくいかなくても こんな姿になったことだけでもよかったと思いいつまでも見とれている。鏡に魂を吸われるとはこのことか。飽きるということがないのだ。
かつらに気をつけながら少し歩く。奥さんの手を引かれるようにして部屋を出て階段を降りる。狭い廊下を伝いながら舞台裏まで連れてこられた。
その時不意に着物姿の女の役者が追い越していった。闇から現れた後姿がほんの一瞬たちどまってこちらに会釈をすると舞台袖から鳥が羽ばたくようにして光の中へ消えていった。そして大きな舞台に一人立つ。
沸き上がる大きな拍手と歓声。見るとライトを浴びたその役者が大きな声でセリフをしゃべっている。今彼女の芝居が始まったのだ。
かけよるようにして袖から舞台を見てみる。まばゆいライトを浴びて演じる役者。その向こうの黒々とした観衆の人の群れ。
迫力のセリフが芝居小屋の空間に消え、役者はなおも声を張りあげる。反応を心配する必要はない。ここの楽屋にいれば呼吸一つでも役者の巧拙に舞台そのものが共鳴して見るものを突き動かしはぐらかせる。
さっきの桟敷で見るのとはえらい違いだ。見る方と演じる方の気迫がもろにぶつかり合いそのはじけた火花がこちらにも飛んでくる。
これが舞台か、、、これが芝居か、、、感心するというより なんだか体中ぐらぐら揺らされているような気持ちがしてそして恐ろしくなった。
こんな場所に出て何かしようと思った自分がとんでもなく浅はかに思えてきてどうしたらここから逃げ出せるのかなどと考えが背中のほうからじんわりと湧き起こり顔を引きつらせた。
「先生。お出番は次でございます。」
裃にちょんまげをつけた後見姿の役者がやってきて台本を見ながら一言私に言うといそがしげに奥に消えていった。
お出番て、、、一体何をすればいいのよ、、、。だんだんと気が遠くなって来た。またたび酒を飲んでつまんない芝居ねえなどと毒づいていたさっきと完全に立場が入れ替わってしまったのを今更ながらに後悔し恐ろしく思った。
「先生、どうぞ。」
見ると私たちが助けた座長の娘が背のないパイプ椅子を持ってきてくれた。これに腰掛けろと言うのだろう。そのころには頭の中は真っ白で言われたとおりにへなへなと座った。見ればこの子も和服の衣装で白塗りに化粧している。出番があったのだろうか。落ち着いたもの、、、というかなれっこなのだろう。
「なんだか怖いの、、、。やっぱり舞台なんか出来そうもないわ。」
引きつった笑いを浮かべてやっとそれだけ言うと 娘はかぶりをふって大丈夫きっとうまくできます。と言った。
「あのね。大丈夫じゃないのよ。あなたたちと違って私は経験がないの。だからもう緊張しておかしくなりそうなの。座長にやっぱりムリって言うわ。」
そう言いながら少し涙ぐむ。どうにかしてここから逃げ出さなければ、、、自分が撒いたタネではあるがとんでもないことを考えたものだ。大学では人前で話すといってもせいぜい50人程度の小教室で半分近く心ここにあらずの学生に講義をする程度の経験しかなかった。今はちょっと目をあげて舞台を見れば多くの観衆の前で演ずることの力業の物凄さを見ることができる。
「先生。大丈夫です。ここの舞台は出ればかならずうまく行くようになっておりますから、、、。」
「それは貴方たちの話でしょう。私は緊張してそれどころじゃないのよ。もう駄目。心臓が止まりそうよ。」
嘘ではない。膝から肩、指の先までガタガタと震えが来て歯の根まで合わなくなってきている。こんな調子であそこに出てスポットライトを浴びたら死んだ振り以外何もできないに決まっている。セリフもきっとアワアワアワと言うだけだろう。
さっきからガタガタと音がする。舞台の邪魔になるだろうと思い誰かが注意すればよいのにと気になっていたのだが座った椅子が私の全身の震えに合わせて鳴っているのがわかった。我ながらこれ以上自分の心臓に負担をかけさせるわけにはいけないと感じる。
ああ、、、もうダメ、、、。堪忍して、、、。
その時座長の娘の手から錦の布の小さなお札が出てきた。そして(これあがりどめのお守りです)と私の手の中に握らせてくれた。
「ありがとう、、、。」
そのお守りをひったくるように受け取ると懐にねじこみそのまま娘の手を握って私は言った。
「ねえ、一生のお願いだから、、、私と一緒に出てくれない。なんでも言うこと聞いてあげるから、、、。助けると思って、、、ね、、、。」
必死の懇願も娘は涼しげに笑って首を振る。それからがっくりとうなだれる私に言った。
「先生、お相手のご用意はできております。あれそこに、、、。」
娘の指差す方は足のすくむような光りの舞台で私は何のことかわからないのが、、、。
いや待て あそこに誰かいる!犬だ。舞台の向こうの袖に侍姿の犬が見えたのだ。
やはり白塗りの化粧にマゲを頭に乗せ黒羽二重の着物姿に刀を二本差して水もしたたるような美男の若侍の姿になっている。
犬は私と芝居に出てくれるのだ。躍り上がるような喜びは隠せない。やはり犬は裏切らなかった。あれほど嫌がっていたのに 意を決して私の為に火の中に飛び込んでくれようとしている。
手を振って見るがこちらに気づかずなんだか物思いにふけっているようだ。いや、こんなに暗い犬の顔を見たことはない。悲壮なまでに眉根をよせて刀の柄頭を左手でつかむときっと虚空を見つめ又嘆息している。
悪いことをしたのだ。この舞台が終わったら思い切り犬に謝ろう。芸術のことで傷つけてしまったこともやはりすべきことではなかった。私が大人気なかった。それなのに犬は私を見捨てない。
つらい顔をして立っている犬を見ると素直に反省の気持ちがわいてくる。犬は全くこちらに気がつかない。変わらずに憂いをたたえた表情を浮かべては刀の柄を握ってはがっくりと首を垂れている。
そのうちに舞台奥の鏡に犬の姿が映って見えているのだと気がついた。どちらにしても
苦悶の表情の犬を見るのはつらかった。
それにしても一体これから何が始ろうとしているのだろう。舞台裏はがらんとしていて人気もなく。座長の娘にいくら聞いても自然と演じることができますから心配いりませんというばかり、、、。
舞台では笛と太鼓が一時に鳴り、緞帳が下りた。演目が終わって引き上げる俳優たちの興奮した表情を見ていると又こちらの緊張がグンと高まった。
「先生。御出番でございます。」
座長がやってきて立ち上がる。さあこちらへと言われ階段を下りて地下の廊下を通り花道の元で出番を待つ。大きな暖簾のような薄い幕から檜の一本道が舞台につながっていた。
「本日、特別のご好意にて犬の大先生とひXち大先生によります仮名手本忠臣蔵より道行旅路の花婿をご覧にいれます。」
特別プログラムのアナウンスが館内放送されるとざわめきが一瞬にして消えた。少し化粧を直してもらっていると侍姿の犬が地下より現れた。こちらの方をちらりとも見ずに
まっすぐ舞台に向かうと胸をはり化粧着付けを直させている。誠に堂々とした役者ぶり
で落ち着き払っているようすは流れるような肩の動きが少しも変わっていない。こちらはもう生きた心地がしない位緊張して心臓の動悸が気になるのを通り越していた。
どうも犬の方が先に出るらしい。幕前で立ち尽くして目を閉じて微動だもしない侍姿の犬。ということは早野勘平。私はおかるということになるのだろう。
舞台の明かりが落ちた。館内がシンと一度に静まり返る。
三味線がしんみりと鳴り始める。極めてゆっくりに曲がはじまる。舞台右袖の簾の奥からこれまたのどかな声で唄がはじまる。
吉野山 霞たなびく たまほこの 旅路もゆかし この春の 
行く末誓い 二人して、、、
新内の曲に笛が入ると次第に鼓が鳴り出して盛り上げてくる。しばらくすると満を持したかのように桜を飾った舞台にあったスポットライトがするすると花道の幕前によって来た。
太鼓が鳴ると一気に幕が引き開けられて犬が花道に出た。豪雨のような拍手と歓声が耳をふさぐ。犬はゆっくりと唄にあわせていかにも侍といった風情で大またに歩をすすめる。花道の中央で立ち止まり一度見得を切りここで又凄い拍手。それをそのままにして新内にあわせ踊る。腰を落とし両手を巧みに動かして又つま先立ちから思案顔に振り返りして勇壮に繊細に、強弱硬軟を自在に演じながらも見る人をぐいぐいと引き寄せる見事な踊りっぷりに私は声もなく見とれていた。
犬の顔は汗もなく 冷ややかなまでに自分を捨て去って芝居小屋のすべてに自分の放射する何かを包み込もうとしているように見えた。
大した千両役者だ。それにしても犬にここまで踊らせる不思議の力がこの舞台にはあるに違いない。それなら私もなんとかやれるかも知れないなどと思って見るのだがもう出番は目前で又体中からガタガタと震えがやってきてしまっている。
後見から道中笠と杖を渡される。それを手に持ってみると出始めは道中笠で顔を隠して花道半ばまで進み正面を客席を向いてそれをはずして見せるという段取りになっているのが自然と頭の中に浮かんでくる。
なるほど 次にすることがわかるような仕掛けになっているのか、、、。
こうなったら怖いものはない、、、とまではいかないが、なんとかなるのではないか。犬だってあんなにやっているのだ。そう思って勇気を奮い起こして幕の前で待った。
幕間から見る犬の浴びているライトの明るいこと。あれに照らされると思っただけで心臓が何割も縮む気持ちがした。
「出番です。」
誰かが言った。花道では かる、、、かーると涼やかな声で犬の演ずる早野勘平が呼んでいる。
「あーい」
鶏がトキを作るような感じで勝手に腹から声が出た。と同時に派手な音をして幕が開き私は飛び出るように花道に出た。少しよろけてしまう。二三歩進むとなんとか止まり笠で顔を隠すのを忘れていたのに気がついた。
ライトは思ったより遥かに明るいものだった。それに足元から館内奥まで客全員の顔や弁当の中身まではっきりと見える。そして今その全員がわき目もふらずかぶりつくようにして私の全身を見つめているのだった、、、。
なんとか、体勢を立てなおして拍手を受けて犬の顔を見る。犬はどこか憂いをこめた眼差しで私の姿を遠見に見ているような所作をした。それから (いかに かーるー)と呼びかけた。
「あーいー。」
なんとか返事だけはした。目を伏せると観客のずらーと並んだ好奇の目が気になり又緊張に足がすくんでしまう。
ここで三味線がトツトツとなりはじめ犬の独白
主君塩谷判官が殿中にて刃傷の折 おまえと逢引をしていてその場にいあわせなかった罪の大きさに何度も我が身も腹切って果てようと思ったか知れないが家老大星由良助様の仇討ちの密書を受け取りここまで逃れた、、、。この先のことは知らず、おまえを実家にあずけたら私はすぐにご家老の元に行かねばならぬ。ここまで来れば討手の心配もあるまいが、、、それにしても人の運命、というものは誠に測りがたきものではあるなあ、、、、。
犬の顔に憂いがさしていた。鬢のほつれ毛がいつの間にかはらりと額にかかっていた。
己の失態から面目を失い、お家は断絶となり恋人を連れて追われる道中。なんとか武士の一分を立てたいと願えば恋女房とは別れねばならない。
そんな男の苦しみ、つらさをおさえた演技と長台詞で犬が見事に演じて見せた。その時私はさっき舞台の袖でみた犬の暗い表情は実はこの役作りをしていたのだと気がついた。
それにしてもここまで演じて見せるとは素人芝居の域を越えるどころの話ではないのではないか、、、
風が吹くような笛の音が成りだすと急にお囃子が始まる。さっと差し出す犬の手につかまり花道を渡り切って舞台中央に二人で歩いた。 舞台では天井から桜のはなびらがちらちらと落ちている。背景は吉野山の満開の千本桜。三味線は数を揃えて次第に賑やかになっていく。
これから二人で舞うのだ。まず犬の指差すあちこちを遠くあおぎ見てそれから両手を合わせて振り返りながら私が舞う。今度は私が指差す桜の名所を犬が仰いで舞う。水際だった犬の舞姿に観客は我を忘れて見入っている。どうしてか知らないが二人の呼吸はぴったり合っている。
残酷な運命に翻弄されながらもつかの間の愛に生きようとする二人。大きな苦しみを抱えながらもこの場は無邪気な恋女房の喜ぶ姿が楽しくて仕方がない。そんな様子を二人で演じ舞い踊る。
途中要所に来ると犬の手が私の背中に回りくっと反身になるのを手伝ってくれたり肩をおさえてすっと座らせてくれたりするのだが 本当に犬の二つの手のひらにこの身を任せていると何度もひらりひらりと蝶のように向きをかえて踊ることができ、その内ピタリと二人で収まることができるのだ。館内が陶酔したようにそんな私たちの踊りに見入っているのがよく感じることができた。
夢見心地の気持ちよさでどれくらい踊っただろう。時間は三分だったのか十分あったのかまるで思い出せない。最後に私が膝をつき犬と見詰め合って幕が下りた。
やんやの喝采。幕が下りてしまうとすぐに後片付けがどんどん始り舞台に人が入る。
開放感が体中をかけめぐりさっきまで緊張のあまり震えていた自分が可笑しく思える。これが舞台の魅力なのかも知れないなどと感じたりもした。
「いやあ、素晴らしかったですよ!センセイ!今日来たお客は一生の果報でございますよ。」
座長が満面の笑みでこちらにやってきてそう言った。犬は何処かへ行って姿が見えなくなっていた
こちらも楽屋に戻ると衣装を脱がせて貰い風呂に入った。座長の奥さんに如何でしたか私たち、、、と聞くとそりゃあ相方が犬のセンセイですからなどと言う。
「犬は芝居に出たことあるのですか、、、なんだかとても踊りもセリフもよかったけど。」
「あら、ご存知ないんですか。犬のセンセイは芝居の世界じゃ(おーそりてぃー)でございますよ。」
奥さんの見せてくれた雑誌(演劇界)の目次を見ると大きな見出しで巻頭特別寄稿とあり(人間にもわかる芸術、犬)とあるので私はあわててそれを閉じた。
犬の奴は一体何をしているのだろう。全くわからない変な奴、、、。座長の部屋にいるというので着替えをすませて行って見た。
暖簾をくぐると犬が風呂上りの浴衣すがたで窓に腰掛けて狭い空から月を見ていた。なんだか少しやせて見えた。でもさっきの舞台のせいもあるのだろうが ぞっとするほどいい男に見えた。私は畳に座ると何て声をかけたらいいのかわからずにテーブルの上の白い陶器の灰皿を見つめていた。
「疲れたかい、、、。」
少し疲れていたけどかぶりを振った。
「じゃあ帰ろうか、、、。」


私たちは猫なり劇場の裏木戸から座長に見送られて外に出た。まだ建物の奥からは舞台の三味線やお囃子の音が聞こえている。楽屋口と表札がある玄関のすのこの前に私と犬の履物が仲良く並んで置かれてあった。

大声を出すのはまずいのかも知れないと思い小声でそれじゃあどうもお世話になりましたと挨拶をする。座長が廊下に座って丁寧にお辞儀を返した。

犬は軽く手をあげてそれじゃ、、、と言ったきりで偉そうな態度をくずそうとしていない。

それでもそのままさっさと路地に出て黙って月を見上げている男ぶりのよさにさっきの舞台での犬の水際立った所作の数々が思い出された。

私はと言えば最前の振袖姿の腰元で犬と一緒に踊った時間の長いような短いような不思議な感覚がまだ忘れることができないでいた。

歯の根があわない位に緊張して震えていたのに光の中の舞台で犬に手を引かれてくるくると舞いだしてからは夢中な中にもどこかしっかりとした腰元おかるの性根のようなものが自分の中に生まれているような気さえした。まさに命をかけた恋の道行きを最初で最後のパフォーマンスとして表現しようと私なりにせいいっぱい演じたような気がするのだった。

「しばらく 歩くか、、、。」

犬にさそわれて私もうなづく。すぐには帰りたくなかった。こんな不思議な陶酔した気分をもっと味わっていたいと思った。

下北沢の街は夜も更けたというのに若い人でいっぱいだ。あちこちから音楽が流れきらびやかなネオンサインがきらめいている。私たちは人ごみで混雑した通りを避けるように線路際の暗い道を歩く。それでも通り過ぎる電車の轟音やひっきりなしにカンカンなる踏み切りや駅の照明のまぶしさが目の中に入りさびしいということはない。

歩きながら犬の腕をつかんでいつものように手を回してぶらさがった。こうしていると落ち着く。少し胸をおしつけるようにして甘えかかると犬は前をむいたままで少し苦笑したようだった。

「不思議だわ、、、。舞台に出る前は心臓が破裂するかと思うくらいドキドキしていたの。もう恐ろしくて どうしてこんなことをやりますなんて言ってしまったのか。死ぬほど後悔したのに、踊り終わって幕が降りた瞬間、なんだか凄く開放された感じがあってそれが素晴らしいのよ。そしてやりとげたんだって満足感が押し寄せて来たと思ったら、、、なんだかすぐにもう一辺くらいやってみてもいいなって気がしてきたの。」

「なんとかと役者は三日やったらやめられない、、、てことか。」

にやりと笑って犬の目がきらきらと光った。いたずらっぽい笑顔で星を見上げている。

「ちょっと寄って行くかい。」

どこへ、、、と聞こうとする間もなく線路沿いの道から又細い道に入る 住宅街の一角に黒々とした闇がひろがっていた。何本かの大きな木がある大きな洋館。

古ぼけた鉄格子の門柱には明かりもない。犬がギイイと押し開けて勝手に敷地に入る。前庭を通って石の階段を上がる。屋敷の窓には明かりが漏れている。誰かいるようだ。

「今晩は、、、先生、、、。俺です。」

外壁についていたインターフォンに犬が話しかけると中からちょっと待って今開けるから、、、と女性の声がした。

ガッタンと大げさな音が響いて鍵が開いた。建物同様に玄関扉も時代もののようだった。扉を開けてくれた女性に軽く会釈すると犬は私を連れて玄関に入った。

中に入るとプンと猫の匂いがした。目の前の若い女性は案内係りらしく今は私にも一目でわかる。人間の姿をしてはいるが猫だ。

そして廊下の奥のドアが開いてこの屋敷の女主人がゆっくりとした足取りで現れた。

あっという位の驚き。その顔に私は見覚えがあった。間違いない. この人はピアニストのフジコ ネコミング女史その人だった。

「珍しいわねえ。元気だったのかしら。アナタ。」

そう言って彼女はいたずらっぽく笑った。白のブラウスの上に不思議な花柄の刺繍の沢山ついたジャケットを着ている。犬はどうもと言ったきり黙って笑っている。

「さあ、そんなとこに突っ立っていないでお入んなさいよ。」

機嫌よく彼女は言うとすぐ脇のドアを開けて私たちを大きな客間に入れてくれた。

なぜ、犬がフジコ ネコミング女史と知り合いなのか、、、当然ながら私には全くわからない。奇跡のピアニストといわれ彗星のように現れたこの女性の演奏に私も魅了されてCDを買ってきて暇な時にはよく聞いていた。彼女の演奏を聞いていると子供の頃のことや懐かしい人の思い出が心に浮かぶことがある。自分で見たこともない情景が心の中に拡がったりすることもある。こんなことは私にとっては初めてのことだった。

今まで何度となく聞いてきたなじみのある名曲が急に生き物のように動き出して人の心を魅了する。芸術というものの真の力を体現できる稀有のピアニストだと私は感じていた。

広い客間の中は絵や彫刻が飾られていてちょっとした美術館のような雰囲気なのだがどれも雑然とした感じであまり高級感がない しかも床の絨毯の上には何匹も猫がゴロゴロと転がっていて勝手にニャアニャア鳴いたりじゃれあったりしている。

時代もののシャンデリアの暖かい光がそんな沢山の調度品に複雑な陰影を作っていて自分が古い映画の1シーンの中にいるような気持ちがした。

フジコ女史と犬はにこやかに笑いながら話をしている。隣に座って会話の中身を聞こうとするのだが 何を言っているのだがよくわからない。、、、だわね。とか、、というわけで、、、なんです。という風に肝心のところがモニャモニャと口の中で発音されてしまっているようだ。どうして聞き取れないのだろう。彼らは又別の世界でつながっているのかも知れない。不思議に思うとドキリとした。ひょっとしてフジコネコミング女史は人間ではないのでは、、、。

私の心配を見透かすようにして話をやめて犬が笑いながら言った。

「心配ないって。彼女は人間だ。」

フジコ女史が私の方を見ていたずらっぽくウインクして見せた。

「あなた。ご活躍だったんだってね。」

初めて話しかけられたので私は少しどきまぎしてしまい。ええ、、まあ、、、こちらの犬がなんとかサポートしてくれたんで最後まで踊ることができました。ああ、、、それから 着物が着れてうれしかったです、、、。などと答えた。

彼女はにこやかに笑いながら動物を大切にすることはとてもよいことなのよと言った。

彼女の話を聞いているとどうも彼女の(ご活躍)という意味が私がさっき猫なり劇場で踊ったことでなく妖怪の猿達を相手に小学校のグラウンドで大立ち回りを演じたことを指していることに気がついた。しまったと思ったが本人はそんなことお構いなしに動物の命をいかに大切にするかということをえんえんとしゃべっている。

こうやって相手を気にせず話しだすととまらなくなる様子などを見ているとその辺にいる女性とあまり変わりないなあなどと感じたりもした。

彼女の手からはタバコの紫煙が立ち昇っている。香りを楽しむように時折それを軽く口に持っていき吸っていたのだが消した。そして立ち上がると少しのびをして部屋の奥に行きそこにあるグランドピアノのふたに手をかけた。

「今夜はあれね、、、少し湿気があるみたいね。ふたをこうやって開けるときにわかるのよ。」

古いピアノ。ボディーにブリュトナーと象嵌がされている。椅子に腰掛けると無造作に彼女の指が鍵盤に触れた。音楽が始る。ショパンの夜想曲だ。数ある中で最も親しまれている長調のノクターンで彼女の得意のレパートリーの一曲のはずだ。

のびやかな旋律が立ち上がると左手の三拍子の伴奏がそれを温かく包み、空間を音の世界で満たし始めた。ピアノの音が異様に美しいと感じる。それと同時にどこからか透明な月の光のようなものが降りてきてあたりを照らしているような気持ちがする。静かな感動。別世界にいるようだ。

うっとりして音楽の世界に聞き入っているとそのうちに床にころがっている猫が二本足で立ち上がったり、逆立ちをしだした。一体何をしているのだろうかと驚いて見ていると一匹又一匹と人間の女性の姿に変身していく。さっきまで猫の姿だったのに今は若い女性の姿が6人部屋の床に座っているのだ。

彼女が弾き終えてピアノのふたをしめると中の一人が立ち上がってセンセイ、準備ができましたと言った。

オーケー、それじゃあ。行きましょうか。と言うと彼女は屋敷中の人間姿の猫を連れて外に出た。

「今日は私のおごりよ。」

フジコ女史の一言に皆はワーと歓声をあげて拍手を送っている。考えてみれば私も今は若い女性の姿になっているのだから猫が変身した女性たちの一員にしか見えないだろう。それからゾロゾロと駅前までおしゃべりをしながら皆で歩いた。犬も機嫌よさそうな笑顔をしていた。

どこへいくのだろう。こんな大勢で、、、と思っているとあれ見てみなと犬が指差した。

あっと声をあげた。下北沢の駅前のビルの屋上の大きな赤い印鑑のような四角い照明が「猫民」と変わっているではないか、、、、!まあ大変!とフジコ女史がおどけた声を出して皆が笑う。

がやがや歩道を歩きビルにつく。エレベーターに乗り込むと今日はこのお店貸切にしてあるからねとフジコ女史が笑いながら言った。

居酒屋を猫とフジコ女史、我々が乗っ取ってしまったらしい。それがどういうからくりになっているのか 考えても無駄なことはよくわかっていた。私の人生の中に突然乱入してきた一匹の人助けの犬のおかげで私は信じられないような体験をしどおしだったからだ。それが見てはならない世界だったのかどうかもこれも又謎としか言いようがない。

この連中と付き合おうとしたら目の前に展開することを受け入れ続けるしかないのだ。あまり深く考えないようにして、、、。

店に入るとテーブルに座る。先に飲み物の注文をしろと言われて私は生ビールにした。犬はお決まりのブラッディマリー。フジコ先生は赤ワイン。残りは皆またたびサワーだそうだ。カラー写真のメニューを広げて見る。料理は猫用のものではなくて安心した。タコわさ、鳥なんこつのから揚げ、ナスの一夜漬け等なんでもある。女の子たちが片端から注文を入れている。エレベーターのドアが開くたびに人間姿の猫たちがやってきて広い店内がどんどん埋まりだした。どうやらこのあたりの猫が変身を終えてかけつけているらしい。

乾杯が終わるとどっと座が盛り上がる。女の子の黄色い声のおしゃべりがなんともかしましい。そのうちにエレベーターから芝居がはねた猫なり劇場の座長以下劇団の連中が半纏姿で現れた。お店はもうあらかた満員でとにかく賑やか 皆で食べて飲んで大騒ぎをしている。あっちへ行ったりこっちへ行ったりして騒いでいる連中も多い。

私たちはフジコネコミング女史のテーブルで少し大人のような顔をして挨拶にやってきた座長の相手をしていた。

又、エレベーターが開く。見るとカラスの田中さんとその若い衆の姿が見えた。

おおい、こっちこっちと犬が呼びかけると田中さんがこちらを見てにっこりとうれしそうに手をあげた。

どうしたの田中さんと私が大声を出して握手を求めるといやあ、ちょっと顔を出さないと悪いかなと思いまして、、、と照れくさそうに笑った。

「俺が呼んだんだ。いつもお世話になってるからね。」

犬が言った。

「こないだは特に大変だったしなあ。今日はそんじゃあ 一杯ご馳走になろうかなあ。」

あはははと田中さんが見たことのないくらいの明るい笑顔で言った。

そうか これは妖怪の猿軍団を殲滅して猫を助けたことに対する慰労会の趣旨もあるのか、、、そう考えた瞬間私の表情は固くなった。首を伸ばして店を見渡した。

「大丈夫。心配いらない。兎は呼んでいない。」

犬が言った。そうか。それでいい。あいつの顔さえ見なければそれでいいのよ。これで後顧の憂いなく飲めるというものよ。アハハハ。私の心の奥にあるハシャギの虫が羽目をはずしたがってウズウズしているようだ。見るととなりのテーブルの田中さんが早くも真っ赤な顔をして頭にねじり鉢巻をして生ビールの大と格闘している。カラスの若い衆もメニューと首っ引きでオーダーを入れている。

座長がドンと店の太鼓を叩くとマイクを持って立ち上がった。

「ええ、本日はかくもにぎにぎしくお集まりくださいまして誠にもって厚く厚く御礼を申し上げる次第でございます。それではこれよりカラオケタイムとさせていただきます。それではトップバッター、皮切りをお願い申し上げます。カラスの田中大先生。どうぞ。」

田中さんがマイクの置いてあるレジ横にまでよろよろと歩いてきた。ウウウワーというイントロのコーラス。耳慣れたというか懐かしい演歌の大ヒット曲。えーとこれは、、、なんだったっけ。そうだ。津軽海峡冬景色ではなかったか。

上野の、、、発の、、、夜行列車、、、下りた時から、、、、青森駅は、、、雪の中、、、、。田中さんは東海林太郎のように直立不動でマイクを握り締めて歌っている。しかしその歌の遅いこと。

ついに彼が1番を歌い終わった時に全曲が終了してしまった。

皆あぜんとするがすぐにやんやの喝采になる。挨拶にこちらのテーブルにやってきた田中さんにフジコ女史があなた歌お上手ねえと声をかけるといやあ、、、そんなことは、、、、となぜか彼は大変照れていた。

それからはネコミング屋敷の猫ギャルや劇場のスタッフまでかわるがわるの演芸大会に座は盛り上がりすぎるくらい盛り上がりいつ果てるともない乾杯の嵐が吹き荒れる。

座長のアナウンスがはじまった。

「皆様、宴たけなわではございますが ここでフジコネコミング大先生様よりの皆様への日頃のご精進ご努力にたいしましてご褒美がございます。なんとニヤンとこれから皆でロマンスカーに乗って箱根の温泉一泊ご招待だニャー!」

ギャーという喜びの絶叫があちこちから湧き上がり 万歳万歳の大合唱。

フジコ女史は満足そうに片手をあげて答えている。まさに店内は興奮のるつぼといった感じで何人かは床にころがって絨毯をかきむしって喜んでいた。

私も犬と顔を見合わせて叫んでいた。さすがの犬も興奮を隠し切れないようでドンドンと床をふみならしていた。

これから箱根か、、、もう深夜だし電車は止まっているはず、、、そう思うとどうやってこれから出かけるのか期待に胸がふくらむ。一体どんなロマンスカーがやってくるのだろう。

トトロの猫バスのようなものかも知れないとちょっと想像してみた。

(おわり)