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メインストリートのならず犬

その日はいつもと何一つ変わらない一日の朝だった。
なぜ自分の心の中で何一つ変わらぬなどという表現をするのか、、、私の場合はそれは不快さや退屈さを意味することが多いようだ。
まず朝、目が覚めて頭が重かった。これは昨晩中々寝つけなかったせいだ。しばらくベッドの中でボーッとしていたのだが仕方なしに起きることにした。若いころなら、たとえ目覚ましに叩き起こされてもすぐにまたぐんぐんと眠りの海に流されてしまい完全に起きて顔を洗うまでは結構スリルのある時間を過ごしたものだったが中年になると体が変わってしまうらしい。目が覚めると睡魔が再び襲うことはあまりないのだ。シラーっとした感じで現実がすぐに横たわっている。心なしか寝床も昔にくらべて冷えているように思う。
それから、朝食を食べる。これも惰性、いつもたいして食欲もないのだ。そのくせコーヒーがやたらと飲みたいと思うのは頭がぼやけていると思っているせいかもしれない。実際は頭が寝ぼけているわけではないし、肉体が眠いわけでもない。そうかといって活力のある朝を素直に肉体が迎えているという感じも乏しいからコーヒーの刺激にたよるのではと思う。つまり若い頃より元気がないのだ。
それから家を出て重いかばんを抱えて駅へ急いだ。今日はM大で1時限から講義がある。のんびりしてはいられない。駅の改札口を抜けるとホームに続く階段を上る。ここまで来ると私の肉体と精神はロボットのように自動操縦モードで勝手に目的地へ行く為の行動をしだす。ホームで回りの人間を見渡し、顔ぶれをチェックする。滑り込んできた電車に乗り込むためにいつもの場所の何枚のドアの中から一番楽そうなところを選んでいる。
電車が走っている間はなるべくものを考えないようにする。窓の向こうの景色を見ながら昔好きだったテレビドラマを思いだしたりする。これが一番心の平安によいようだ。
次の駅につく。そして次の駅。車掌のアナウンスを聞きながらドアが開いて人が乗り込んでくる。グーと押されて胸のあたりに圧力がかかる。しばらくしてドアがしまり発車。電車の混雑にはもうとうの昔に無神経になっているのだ。非人間的な状況にあるということを進んで受け入れているつもりはないのだがこうするより他にないし 回りの皆もそうしているのに一人で駄々をこねても仕方ない。私の場合は週に一日だけこの朝の通勤地獄を味わえばよい。ここにいるほかの人たちに比べればきっと私など恵まれている方だろう。このまま、じっとしていればよい。いつも そう自分に言い聞かせて電車に乗っている。しかし、どうしても慣れることのできないものもあるもので、都心近くになって、やたらとアナウンスで(停止信号です。)だとか(前の電車がつまっています。しばらく停車いたします。)などと告げられ電車がノロノロになったり停止したりするとイライラがつのってくる。
こんな時は何を考えればよいのだろうか。私だけでなくきっと全員が頭に来ているに違いないのだ。そうだ。皆がすべて一つの感情に支配されている。それも毎朝。これは凄いことなのかもしれない。いや待て、何が凄いものか。
人間なんて個性を大事にするなどと言って一人一人いかにお互いが違うかばかりを気にしているが実際は何から何まで同じことを繰り返しているものなのだ。人の一日の行動を冷静に観察してみればよい。感情の起伏も多分同じだろう。私たちは全く同じ、、というか非常に似たようなことを飽きもせずに繰り返している。それなのに、自分は他人とは全く違った人間だと思っているしそういった自己主張をしない者は程度の低い人間のように思われるのだ。本当は皆、とても似通っているのに、、、。まあ、いいか。私は自分の考えが変な風に展開したりするとまあいいかと一人言をつぶやいてやめようとする癖がある。
こんな風に考えるようになったのは あいつらが来たからだ。今あいつらと言ったのはまさにそうとしかいいようのない連中だからだ。あいつらは、、、。彼らでもなければ、それらとも言い得ない妙な連中。
最初は私の犬がいきなりしゃべり始めた。人間の言葉をだ。むろん、犬の骨格から考えて人間の言葉を話すなどということはありえない。つまりテレパシーだ。犬のしゃべる言葉が私の頭に聞こえてくるのだ。今のところこれが聞こえるのは私の周りでは私しかいないようで仕方なしに私はこのことを人には黙っているのだが。
そのうちにしゃべる犬の仲間が現れてきた。カラス、ネコ、兎。さっきテレパシーといったが全くこれが都合よくできているものでこれら動物も私に話しかけてくる。もちろんこちらの話も先方は理解をしているのだ。
不可解なことに私との会話の内容から推して動物たちは人間と同等の知能を有しているようだ。彼らはそれを当たり前のことだと考えているし逆に人間を野蛮で醜いエゴを持った下等な存在のように見ているふしさえあるのだ。
それは 今まで私が書いてきた数々の奇怪な冒険譚を読んでいただければなんとなくわかってもらえると思う。
動物は言う。人間が生きていられるのは俺たちが日夜人助けのために身を粉にして働いてやっているおかげなんだと。でも人間に害をなす動物もいるのだ。それは大体猿の姿をしているがまあ妖怪と似たようなものだと思って間違いない。動物園のサル山の猿が人に仇をなしているとはどうも違うように思う。これはあくまでも私の推論だが世の中には不思議なことがまだまだあり、人間と動物だけでなく 他の何か善なる存在や邪悪な存在も絡み合ってこの世界を構成しているのかも知れないのだ。
そんなことを考えているとようやく電車が終点にすべりこんできた。いっせいにドアが開き大勢がわっとばかりに電車から吐き出され大きなホームにあふれる。乗換え口を目指して殺到するように早足で歩く皆に混じって私は呆然と立ちすくんでしまった。私はそれを改札口に集合している老人会の団体旅行のグループを見て思い出した。
今日はM大は創立記念日で講義はすべて休講だったのだ、、、。
いつものことながら、こんな時は私は孤独を感じる。今までもよくこんなポカばかりやってきた。皆のようにてきぱきと動くことが子供の頃から苦手だったのだ。だから会社勤めはしないですむよう今のような職業についている。思い込みも激しいがどこか能天気なところがある。今だって隣にいる誰かにいやあ休講なのすっかり忘れてここまで来ましたわなどと話しかけたくなったり、授業をしなくてすむので得をしたようなうれしい気持ちで一人笑いをしている。
ゆっくりと振り返ると電車のこちら側の扉が閉められた。ホームの向こう側へ回って今来た電車に乗り込み家に帰ろうと思う。全くたわけた私。世の中から少し踏み外れた場所で生きている私。いつも犬に馬鹿にされてしまう私。
あの変な動物たちに仲間だと思われている私。
帰りの電車は空いていた。当たり前だ。通勤電車の反対方向でしかも各駅停車。私は自宅に帰るのまであわてるつもりはなかった。というか急行電車のホームまで歩く気力はなかったのだ。ガランとした車両に乗ると重たいかばんを座席の横に置いた。足を組んで少しのびをする。帰って何をしようか。寝なおすはもう無理だし、どこか本屋にでも行きたいがまだ時間が早すぎる。折角出てきて時間があまったのだから何か普段と違うことでもやってみればいいのではないか、、、そんなことを考えているときに私の目はのろのろとホームを歩いていく一人の男に釘付けとなった。老人というには若く見え初老というには少しくたびれて見える男。ぼっとした風采のあがらないまさに親爺という姿の男。
ー田中さんだ、、、。−
間違いないカラスの田中さんだ。私は心臓をぎゅっとつかまれたような気持ちだった。声をかけようにもきっと出なかったに違いない。グレーのジャンパーにこげ茶色のスラックス、黒い合皮の靴を履いた彼がのさのさと私の眼の前を歩いている。じっと前を見ている。私には全く気がついていない。彼はこの電車に乗り込もうとしているようだ。
田中さんはどう見ても初老の人間にしか見えないが実はカラスの変身したものでこれで結構部下を持っている。犬が妖怪退治をするときは掃除係りとして妖怪の死体や戦いの痕跡を人間の目から隠す役目をしている。
それにしてもなんという幸運だろう。私は彼に気づいていて彼は私を知らない。今まではあの奇妙な動物たちは不意に私の前に現れていつも私を事件に巻き込んでから風のように去ってしまっていた。今度は私がじっくり彼らを観察してやろう。
私は千載一遇のこのチャンスを逃す気はなかった。私は意を決してかばんで顔を隠すようにしてホームに出た。10mほど離れて田中さんがこの電車に乗り込むのを確認して少し離れた車両に乗った。慎重に中から彼の乗っている箱を目指す。中のトビラのガラスごしから隣の箱の田中さんを確認した。ばれないように探偵にでもなったつもりで開いたノートで顔を隠して座席に座る。この場所なら隣の田中さんには気づかれることはないだろう。私は尾行が完全に成功していることに興奮した。期待にワクワクしていると電車はドアを閉めてガックンと揺れて動き出した。さっきはイライラして見ていた風景も各駅停車の窓からは今は別ものに見えるようだった。
田中さんは電車の中では新聞を読んでいた。スポーツ新聞の真ん中のページあたりを眉根をひそめるようにして熱心に見入っている。こちらに気づく心配はないと思われた。乗り換えの駅でふらりと降りると又通勤の早足の人々の反対方向をのそのそと歩き別のホームへ行く。さっきの新聞は畳まれて尻のポケットにしまわれていた。
そして今度は明大前で降りると彼はとぼとぼと改札を出た。私は彼を見逃すまいと急いで精算をすませ後を追って駅前に出た。
彼はいた。銀行の前の宝くじ売り場にたって売り場の女性と何か話している。知り合いなのだろうか。
こちらは柱の陰でじっと様子を見ている。田中さんはサイフを出してくじを買った。なんだか選んでいるようだ。女性の気のない表情からしてどうやら彼は単なる客らしい。何枚か買って金を払うとたばこに火をつけた。あれはわかばという煙草で今時珍しい両切りの煙草だ。煙を鼻の穴から吹き出して彼は一枚、一枚と紙をこすりだした。スクラッチをしているようだ。全部はずれ。いや一枚最後のが当たったのだろう。くじのおばさんに見せてまた財布を出して何枚か買っている。じっとそれを見つめてから彼はこすりはじめた。一枚、又一枚と。結局一時間近く彼はこのスクラッチくじをしていた。何度かはずれが続き表情が険しくなっていくとそのうちあたりが出る。多分千円台なのだろう。それをまた元手にくじを買う。その時財布から少し足して買うのだが 当たり前のことだがくじははずれの方が多いのだからお金は大当たりがでないかぎりなくなってしまうのだ。
それでも彼は熱心にたばこを横くわえにしてくじをこすっていた。何度目かの又負けが込みはじめたときに彼は動きをやめてしばらくじっと最後のはずれくじを見つめていた。決断のときのようだった。それから急に空を見た。そして駅を見た。時間だ、、、か、もう十時か、、、とかこんな言葉をつぶやいたように見えた。そしてこちらに向かって歩いてくる。彼が立っていた道路ははずれくじがかなりの枚数散乱していた。ごみ箱がすぐそばにあるのに入れようとしない。全くしようもないことをするオヤジだとあきれながらも私は又一度物陰に隠れてから尾行を始めた。宝くじ売り場から駅の切符売り場の時計までは100mはあるからたいした視力ではある。
彼は口にしていたタバコを道路端にポイと捨てた。それから下に落ちていた電車の切符を拾うとそれを改札機にぱっとほうりこんだ。驚いたことに出入り口のゲートが空いた。彼は涼しい顔で通ると又ホームに向かって歩いている。私は青くなって券売機に小銭を入れて切符を買ったが、もうおそい。階段を降りてくる人ごみの中で私は完全に彼を見失ってしまった。なんという早業だろう。やはり人間でないものは想像もつかないことをするものだ。仕方なくカンで下りのホームに出てみたが彼の姿はなかった。見失ったか。
私ががっかりしていると誰かが私の肩を叩いた。
ー先生こっちですよ。−
田中さんは私を出し抜いたのがうれしかったのかにっこりと笑っていた。私もなんだか照れくさくてはあはあ息をするのをやめようとするのだがそうもいかない。ホームに出るのに階段を重いかばんを持って駆け上がってきたのだ
それから田中さんと私はくだりの各駅停車に乗り込んだ。田中さんはこれから競輪をやりにいくのだそうだ。
たいしたものですね。ギャンブルをおやりになるのですか、、、私はお愛想のつもりで言った。犬なんかにゃ逆立ちしてもできないようなことをカラスの種族はいろいろやるようだった。
郊外に向かう電車はもちろん空いていた。多摩川のほとりの京王閣競輪場に二人でとぼとぼと歩く。こうしているとなんだかくたびれたオヤジが二人行き場がなくなって車券買いに来たとしか見えない。
私はギャンブルは一切やらない。もともと勝負事は苦手なたちで妙に負けず嫌いな性格が子供のころから直っていないせいでもある。ばくちで負けが込んで笑っていられるようなそんなタイプの男でないことは自分自身が一番わかっている。
駅前から競輪場まで田中さんの部下の若い衆が何人もいてコンビニで立ち読みをしていたり自販機の前でたむろしていたりしている。よう!とかご苦労さんなどと田中さんが声をかけるとオハヨッスとかいいながらぞろぞろと彼の後についてくる。
ー凄いですね。カラスの皆さんはこんなお遊びもなさるのですか。ー
私がお世辞を言うと田中さんはぶっきらぼうに言った。
ーなあに、これも人助けですわ。−
はあ、そうなんですか、、、私は首をかしげざるをえなかった。犬がいつも繰り返しているセリフを彼が言うのはなんだか少し違和感があったし第一遊んでなんで人助けなんだ。
ー考えてもごらんなさいな。先生。こんな車券買いなんかして金なんかもうかるわけなんじゃないですか。−
ーはあ。−
田中さんは立ち止まってわかばを一本口にくわえて100円ライターをこすって火をつけた。かなりのヘビースモーカーである。
ー誰でも少し考えればわかるはずなんだが。わからないんだな。人間は。−
けむりを鼻からはきながら彼はしょうがないと言う感じで言った。
ーまあ、ギャンブルが三度のごはんより好きな人間は結構いますから、、、。−
ー盛り上げてやっているんですよ。私らカラスが、だってそうでしょう。人間は先を見る目がないから外してばっかしだしね。こっちがとってやんないと場が立たなくなっちまう。−
田中さんが言うには競輪競馬競艇オートレースなど公営ギャンブル場にはかなりの割合でカラスの皆さんがサクラの役で入り込んでいるのだそうだ。そうして人助けのために皆が盛り上がるように勝ち馬券を当て続けてやっているのだそうだ。
ーじゃあ、さっきの宝くじもやはり人助けで買っていたのですか。−
私が尋ねると田中さんはもちろんそうです。大きくうなずいてまっすぐに車券売り場へ歩いていった。手にはいつの間にか競輪新聞がギュッとにぎられていた。
ー何事も人助けなんですわ。−
彼はそういうと若い衆から貰った赤エンピツを走らせてなにか予想をたてているようだった。
第一レースから田中さんは車券を買い続けた。私は彼の傍らでそれを見続けた。人間にはない不思議な力を彼らが持っているのは認めざるをえないのは今までの経験からして十分にわかっていたし何よりレースを当てるという夢のような芸当を期待して私は大人しくスタンドに座っていた。
第一レースがはじまり登場した選手たちがゆっくりとすりばちのような形のバンクをぐるぐる回りはじめる。後になったり先になったりしながらペースが速くなりジャンジャンと鐘の合図と共に物凄い勢いで加速しゴールする。
初めてみたのであっけないというか、誰が勝ったのかもよくわからない。帽子の色とゼッケンの番号の違いで勝ち番が決まるのだろうか、、、。
勝ち番のアナウンスがあると田中さんは下を見た。そして彼の手から車券の紙がぱらぱらと床に捨てられた。
ーはずしましたか、、、。−
私が尋ねると彼はうなずいてそうですと重々しく答えた。なんだか淡々とした様子の裏にひどく悔しそうなそぶりが感じられて興味深かった。田中さんはもう眉根をよせて競輪新聞の次のレースの枠順をにらんでいる。
その日田中さんは調子が中々出ないようだった。それでも何度か惜しいレースもあった風にも見えたが幸運に見放されていたのだろう。カラスの若い衆は結構取っていて仲間同士ではしゃいでいるのがあちこちに見えた。なるほどこの競輪場の中は人間以外のものが結構いるものだ。
レースが終るたびに彼ははずれ車券を床に投げ捨て続けていた。もっとも彼だけでなくやたらとあたりは紙くずでちらかっている。はずれを持っていると次のレースに縁起が悪いのかもしれない。ゴミ入れに持っていくのが格好悪いという心理もあるのかもしれない。田中さんははずして天を仰いで嘆息すると汚いものを持っていたことに気づいたように車券をパラパラと床に捨てる。そして又わかばを吸いながら傍らの私など忘れて予想に集中し緊張した面持ちで車券の自販機にならびそれからスタンドに出て呆然とレースを見る。
後半は田中さんは私が声をかけてもううんとかそうでもないとか曖昧な返事しかしなくなり元気が次第になくなっていった。そしてあるレースではゴール際で競り合いに負けてずるずる後退した選手に向けてスタンドから興奮した罵声を浴びせた。あの選手を買っていたのだな。うとい私でもそれはわかった。田中という選手だった。
結局夕方まで一度も彼は取ることはできなかった。なんと言って慰めたらよいものか私もわからなかった。彼のサイフから一万円札が消え五千円札が消え千円札も何枚か残っているのかわからない様子だった。
ー今日は調子が出なかったのですか。−
一日の開催レースが終り蛍の光がマイクから流れる。ぞろぞろと競輪場のゲートに向かって皆と歩きながら私が尋ねると田中さんは無言だった。落ち込んでいるのかなと様子を伺うが淡々とした表情で歩いている。表情だけでは何を考えているのかわからない。
ーちょっと 寄っていきますか。−
駅前の一杯飲み屋の前で田中さんは片目をつぶってみせた。やきとんを焼くいいにおいの煙がもうもうと道路にまで拡がっていた。
縄のれんをくぐるとがたつくテーブルに安いビニールの鉄の椅子。田中さんはホッピーを私はビールを頼んだ。割烹着の年増のおかみが無愛想に運んできたホッピーをググッと一息にグラス三分の一ほど飲むと田中さんはうまいっというような表情で私を見て笑った。もうすっかり上機嫌というか。顔色までバラ色に輝きだしている。
ーここはねえ。結構うまいですよ。やきとんが、、、。−
あははは、、、彼は意味もなく笑った。まあ誰もがよくやるうれしいときのオヤジ笑いだ。負けをひきずらないというか、頭の切り替えが早いというか。彼はまるでさっきと人が変わったように饒舌になっている。それでもこの得たいの知れないカラスの化身にインタビューするにはいい環境になったわけで私としては有難いかぎりだった。彼は注文のやきとんの串をうまそうに食べながら元気に酒をあおっている。
ー田中さん、、、お住まいはやはり多摩川の方ですか。−
ーそうです。この近くの都営のA団地におります。−
ーえっー
この近くの森ですというかと思ったらとんでもない。A団地といえば私が結婚したばかりの頃、新築された都営住宅で入居の抽選は物凄い倍率だった場所だ。実は私も申し込んでダメだったのだ。
ーなあに、あんなもの。倍率なんて先生。我々カラスが応募して倍率を上げてやってるから見れるんですよ。−
その話をするとあんなくだらないものというような感じで彼は大きく手を振った。
ーそうなんですか。それにしても何で又、カラスの皆さんがそんなことをする必要があるのですか。−
田中さんはその時 ニヤリと意味深な笑いを浮かべてこう言った。
ー倍率が高いと当たったときに人間は幸せを感じるのです。くだらないものでも大勢の中から勝ち抜いたという満足感がないと人間は生きていけないのでしょうねえ。−
そうなのか。でもなんかおかしい。彼はそうやって人間を押しのけて都営住宅に住んでいるのだ。まあ私としても今更うらみや文句もないのだが、、、。
ーおい女将、お代わりくれ。ー
カウンターに向かって田中さんが大声をあげた。店は競輪帰りのお客でたてこみはじめていた。彼はじっと女将の手元を見ている。焼酎の入った一升瓶がグラスにそそがれる瞬間にひどく表情が険しくなった。
ーどうかしましたか。−
ーいや、ここの先代の女将が焼酎をケチるのがうまくてね。それでつい今でも手元をにらんでごまかされないようにする癖がでちまうんですよ。−
田中さんは又渋く笑って見せた。トロンとした目。もう大分酒が回っているようだった。
ー田中さん、前から聞きたかったんですが。カラスは死なない。なぜならカラスの死体はどこにもないっていう話があるでしょう。あれ本当なんですか。−
いつもながら子供っぽい話題から抜け出せない自分が哀れに思えるがこちらもビールの酔いが回ってきて気持ちがよくなっていた。
田中さんは運ばれたホッピーに少し口をつけてから言った。
ーカラスだって死にますよ。まあ、カラスの中には他の動物と比べて長生きするのがいるというのは本当ですがね。−
ー田中さんは失礼ですがお幾つでいらっしゃいますか。−
ー私ですか、、、。大体200歳くらいですか、、、。−
ー、、、。−
ー天明の飢饉の頃です。生まれたのは、、、。−
まじまじと彼の顔を見る。どう見ても五十代位の平凡そのものの風采の上がらない親爺に見えるのだがもし本当なら仙人のような存在と考えなければいけないのだろうか、、、。しかし目の前の仙人は 朝から宝くじに没頭し競輪にのめりこみ 今は幸せそうにやきとんをほおばりながらホッピーを飲んでいるのだった。そのうちに彼の足元にわかばの吸殻がちらかり始めた。灰皿に捨てずにコンクリートの床に捨てているからだ。この店ではそれを見て誰もとがめる人もいないがマナーの悪いことは間違いない。
ー田中さん。前から思っていたんですけど。どうしてカラスはゴミばこをあさって散らかしてしまうんでしょうね。あれは本当に迷惑だと思うのですが、、、。−
私も彼の真似をして大声でビールのお代わりを注文して何気なくだが一度どうしても聞いてみたいと思っていたことを質問した。田中さんはとんでもないという顔しておしんこの菜っ葉を箸でつまんで口の中に放り込んだ。
ーそれはね。先生。人間があまりにもくだらないものを作って大事な資源や生き物を無駄にしているのでそれを見せつけるために道路にさらしているんですよ。つまり反省をうながしているのです。それなのにさっぱり反省せんのですわ。人間は、、、。−
ー私はいたずらだと思っていました。−
ーそれは違うんですよ。人間以外の動物が何か物を散らかしたり汚したりするのを見たことありますか。迷惑をかけているのはそもそも人間とその社会の方なのではないでしょうかね。ー
田中さんに言わせると人助けのカラスの軍団は大勢でギャンブルをしたり、新規公開株や公団住宅や都営の墓地の抽選に参加したりして人間社会を盛り上げてやっているのだそうだ。当たればうれしい。自分は人より幸運なのだという感情がないと人間はだんだんみじめになり死んでしまう。それをなんとか助けてあげようと日夜努力しているのだそうだ。
ーまあ人間のやることで私らがお手伝いしないものはないと言っていいくらいです。現に私の息子は今度中学を受験させるのだが あんなものでも人間は優越感にひたりたくて夢中になっているんだからねえ。−
ー息子さんいらっしゃるのですか。−
ーええ、、、考えてもみて下さいな。生まれて子供のときから競争競争で神経をすり減らして、満員電車に押し込められて年寄りになるまで働かされてそれで団地に住むのが夢だなんてね。私なら死んじゃうね。まあ私たちカラスが協力して人間の大好きな幸運というものを人間に提供しなかったら絶望で皆発狂してしまうんじゃないでしょうか。−
煙草の煙を吐きながらカラスの田中さんの言うことに私は大きくうなづかざるを得なかった。なんだかとても正論というか。彼の言うことは現実的にも思えるのだ。
ーそういえば一つだけ我々カラスが人間のお手伝いができないものがありましたよ。戦争です。−
田中さんがにたありと笑った。歯ぐきが黄色かった。彼の笑顔がちょっと毒のある不気味なものに感じられてきた。私の犬が持っている健全な精神というか前向きな行動力とはカラスの世界は少し違うようだった。話してみると感じるのだがカラスは人間そっくりのことをして生きている。人間を軽蔑しからかったりして遊んでいるのだ。
ーところで、先生。犬のヤツは先生みたいな立派な人間と知り合いになれて大喜びしていましたよ。−
ーはあ、、、。−
ーところがだ。ちょっと私心配なんだな。この頃少し犬は張り切りすぎています。少し、力を抜くように先生から言ってやってもらえませんか。このままやりすぎるとヤツだって先生だって危ない目にあいかねない。ー
田中さんはわかばの煙を大きく吐き出しながらぽつりと言った。
ーなんでもほどほどにせんといけません。ほどほどがいいんです。ー
田中さんは何度も自分の言葉にうなづきながらそう言った。
ーわかるでしょ。先生なら。−
ーええ。まあなんとなく、、、。−
次の日、二日酔い気味の頭をかかえて庭に出ると犬がヴェランダに出て変な格好で得意のストレッチをしていた。私の顔を見て鼻の穴をふくらませて笑った。
ー昨日はカラスの親爺と飲んだんだってな。−
ああと答えてコーヒーを胃に流し込む。あれから泥酔した田中氏をA住宅まで送っていって戻ったら夜中近くになっていた。どういう仕組みかもうその情報が犬に伝わっているようだ。
ーなんだか、おまえのこと心配してたぞ。田中さん。−
私が思い出して話をするとフンというような顔をして犬はくるくると尻尾を振った。それから後ろ足でカタタタと景気よく首をかいた。それからつぶやくように言った。
ーなあに、今度のヤマは連中には頼まない。−
ーなんだ又なんか。たくらんでいるのか。−
しようがない奴だという顔をしてはいるものの好奇心が又ムクムクと湧いてきた。
ー今度は俺たち犬だけでやるってことさ。あ、、、それからもちろんあんたも仲間ね。−
勝手に決めるんじゃない!などといっては見たが多分私はうれしそうな顔をしたのではないかと思う。いつもこうやって目の前の小動物にたぶらかされていくのがくやしくもありうれしくもあったりするのだ。

(続く)



それからいつものように犬を連れて多摩川の河川敷に散歩に出かけた。昨日のカラスの田中さんとの深酒がまだ少し残っているようでまぶたが重かったがぽかぽかとしたいい陽気で気持ちがよい。引き綱を持って歩いているのだがそんなことおかまいなしに犬はさっさと先を歩き立ち止まってはえへらえへらと一人笑いをしながらくんくんと立ち止まっては道端の匂いをかいでいた。飼い主の歩くペースなどお構いなしに道をふさいで熱中している。
「おい もういい加減に立ち止まるのはやめろ。」
私が声をかけると犬はこちらを見もしないでいいじゃあないか急ぐ旅じゃなしと言い返した。
「毎日同じところの匂いをかいでるじゃないか。もうわかってるんだろう。」
私がそういうと犬は何を言うんだという顔をして首を左右に振った。、
「とんでもない。これがねえ。アアタ、毎日違うんですよ。色々とね、、、うふふふ。」
気持ちの悪い奴だ。何が毎日違うというのだ。確かにここを通る町内の散歩の犬たちが小便をひっかけてその匂いが残っているのだろうが どうしてそこまで鼻まで草に埋めて匂いを賞味しなければいけないのか。大体犬は人間の三万倍もの鋭い嗅覚をもっているそうじゃないか。
「まあ、そう言いなさんなって、、、あんたら鈍い人間にどう説明したってわかる話じゃないと思うね。匂いってやつはね。」
犬は前を歩きながらうそぶいた。いやな奴だ。道端の匂いをかぎながらこちらの心を抜け目無く読んでいる。犬と私はテレパシーのようなものでつながっていて言葉を介さなくとも会話ができるのだ。犬とはその辺にいるワンちゃんの話ではない。つまり私のところへ貰われてきた犬(ちなみに色は白)にそんな能力がそなわっていたのだ。
ついでに言うと犬は変身もする。人間の男になるのだ。そうなる時はなぜか私は若い女性の姿になっている場合が多い。全く迷惑な話だがこれはこれでワクワクする冒険の時でもあるのだ。その辺の事情はできるかぎり正確に事件簿として今まで書き記してきたつもりだ。
(いずれ時期を見てこの事件簿を発表することに当事者に誰の不利益にもならないころあいに、、、ええっと、、、。)
犬につきあって立ち止まってシャーロックホームズの中のワトソン博士の独白の文章を思い出していると犬がこちらを振り返ってにやりと笑った。
「全く何考えているんだかねえ、、、。」
「うるさい!」
私は怒鳴った。私の本当の犬はメスなのだが 人の言葉をしゃべる時はなぜかオスになっている。純情でどんな暗闇の夜でも私を待っているかわいい犬がある日得体の知れないモノに乗っ取られてしまったのだ。
しかも、今、目の前にいるしゃべるオス犬は物腰がなぜかオヤジ丸出しで品が無く、純情さのかけらもなく、ことあるごとに人間を見下し馬鹿にしている。つまりそういう発言を私に向かって繰り返すのだ。罰当たりにも主人の私に対してそうしているのだ。私は今まで何度と無くそれに対して怒りを爆発させてきた。ところがこの犬が人に変身した時はなんだか凄くかっこよくてシャイな男になる。ワイルドで温かみがあって誰だって好印象をもつだろうと思うのだ。
私は無言でため息をついた。全く変な関係に陥ってしまったものだ。それから私は奴に引っ張られて歩きながら一人つぶやいた。変な犬とかっこいい男、変身した女性の私と様々の冒険。一体これからどうなるのだろう。全く想像もできない。すべては前を歩くこの一匹の不可思議の獣にゆだねられているのだ。
それにしても今日はよい天気だ。あくびが自然と出てくる。
前から一匹散歩の犬がやってくる。顔見知りのスパニエルだ。こんにちはと飼い主同士があいさつするとうちの犬がかけよって相手の肛門に鼻をつけた。
「やめろ、恥ずかしくないのか!」
私は心の中から奴にテレパシーを送った。ぜーんぜんと奴が答えた。そしてまだクンクンとお互い尻の匂いをかぎあっている。こういうときは飼い主同士はなんとなく気まずい気持ちでいるものだ。つつしみがないというか下品ではないか。それを人の気も知らないと言うか何と言うか、、、。
「やめろ、、、。」
今度は声に出して言ってみた。こういう時でもこいつらは平気だ。そこで仕方なく我々飼い主がヨシヨシといって引き離すのが常なのだ。
「あのなー。おまえだって普通の犬じゃないんだろ。どうしてあんなみっともないことをするんだ。こっちが見ていて恥ずかしくなる。」
「あれはあれで 色々と大事なことがわかるんだぜ。うふふふ、、、。」
犬は気持ちの悪い笑みを浮かべた。
「自分だって散歩の時、お気に入りの奥さんとすれ違うとじっといつまでも見ているじゃないかよ。」
「馬鹿。あれは相手が気がついてないからいいんだ。」
「そういうもんかねえ、、、。」
アハハハと又馬鹿にしたような笑いをした。蹴飛ばしてやりたくなったがじっとこらえた。奴はとても敏捷でしかもずる賢い。
「まあ。いいさ。今日は少し付き合ってくれるかい。」
「ああ、そのつもりだ。」
いつもの散歩ならUターンをする所を越えて私たちは橋を渡って多摩川を越えた。二子玉川の駅が目の前に見えた。それから今度は橋を降りると川沿いにある林の中に入って行く。このあたりはT急グループの広大な敷地があってテニスコートや駐車場つきの娯楽施設もある。かつては子供を連れて私もしょっちゅう通ったものだ。
「ここだ。ここだ。」
犬は大きな看板を見てあごをしゃくって言った。(犬の楽園、”犬だ多摩川”はこちら)とペンキで書いてあった。
(犬だ多摩川)は私もよく知っている。敷地内に沢山の種類の犬を放し飼いにして入場料を払って中に入るとその中の犬と遊んだり散歩したりできる。施設としてはたいしたものではないのだが珍しい犬もいて中々人気がある。いい商売を思いついたものだと初めて来た時は感心して私も時を忘れて犬に触った。
「おい。ここなら 何度も来た事あるぞ。」
「そうかい。今日はでもお遊びはなしだ。中には入らない。」
(犬だ多摩川)のゲートの横にはペット用品などの関連グッズを売る店が並んでいる。
犬は私を引っ張ってその中のペットのトリミングセンターというガラスばりの店に向かった。外から見ると犬の床屋のことで 中で制服の店員が犬がシャンプーをしたり毛をかったりしていた。犬と私が正面に立つと勝手に自動ドアが開いてしまった。しまったと思ったが犬は勝手しったように中に飛びこんで行く。
いらっしゃいませの複数の掛け声で私はどきまぎしてしまった。こんなところに入るのは初めてである。もちろんウチのクソ犬をシャンプーしたり散髪させるつもりなど全くない。
その時、ようといって奥の一人が私たちに声をかけた。手にハサミを持ってヨークシャーテリアのトリミングをしていた若い男だ。作業を中断してこちらへやってくる。
「ちょいと邪魔するぜ。仕事中だったかい。」
犬が言った。いやいいんだ。という風に男は手を振った。
私はその男を見た。そして唖然とした。すらりとした長身、、、というか痩せた体格で背が異様に高い。髪の毛は茶色で肩までたらしている。そしてその顔はどこをどう見ても犬顔だ。面長でくりくりした目。すっと伸びた鼻の下の結んだ口は大きくはないのだが両端がちょっともちあがっている。人間の顔なのだがどうみてもこれは犬のものだ。というよりこの男は人間ではない。犬が変身しているのだ。私にはでも人の姿をした犬にしか見えない。それにしてもこんなへんてこな生き物を見たのは初めてだ。
「いそがしいのに悪いなあ、、、。」
私の犬がそう声をかけると男は口を開いた。
「大丈夫だベロ。ちょうどお昼休みを取ろうと思っていたところだベロ。」
「紹介するわ。こちら俺の飼い主。」
犬はそう言ってあごをしゃくって私を見た。
「そんでこれが仲間のマロン西だ。」
長身の犬男は私に近づいて私の手をとって握手をした。
「マロン西だベロ。よろしくだベロ。」
何か言葉を発すると最後の語尾にベロという癖だあるようだった。私は穴のほどの好奇心で西を見つめていた。最初はアフガンハウンドの変身かと思ったがが少し違う。気品がない。お調子者の顔つきだ。わかった。これはダックス、ミニチュアダックスなのではないだろうか。それにしても人間の名前まで持っているとは驚きだ。
マロン西と名乗る犬男は振り返って僕ちょっとランチ行ってくるからあとは頼むベロと店員に言った。
すると、はーい チーフと元気のいい返事が返ってきた。他の皆は人間だ。この店では人間よりも犬の変身した奴のほうが上にいるらしい。
白い半そでの制服のまま奴と私と犬とで外に出る。西は快活に歩きながら犬とおしゃべりをしだした。(犬だ多摩川)のことがテレビに紹介されてお客が何割もふえたこと おかげで仕事が忙しくなったこと売り上げアップで臨時ボーナスを貰ったこと、パートを雇ったが若い人間は気が利かず困っているなどとひっきりなしにしゃべっていた。
「もう 長いんですか。ここで働いているのは、、、。」
私が訪ねると西はそうだベロと元気よく答えた。
「あのう、、、。皆が何か言いませんか、、、そのあなた どう見ても変身している風に見えるし、、、。」
私がそういうと彼はぱっと長い髪を手でかきわけて甲高い声をあげた。
「疑う人間なんか この辺には誰もいないベロ。我々がみーんな教育したおかげで人も動物も分け隔てなく生きている町になったベロよ。」
それから 西はいかに自分たち犬が心のせまい人間を愛を持って接して心の目を開かせてやっているのか長々と自慢した。まるで(犬だ多摩川)は人間の矯正施設か何かのような言い方だった。歩きながら西と犬は大声でしゃべりながらそうだそうだ全くだという感じで自分たちの努力をたたえあった。これで言えば私はうちの犬に矯正されて愛にめざめたということになるのだろう。
「おっと、こっちが近道。」
「そうそう。」
西と犬が街路樹の並ぶ道からいきなり細い道に入った。私は知っている。この先は(猫だ多摩川)という施設があって犬たまと同じ位人気があるのだ。連中が猫に対抗意識を燃やしているのは明らかだ。私は心の中で犬達の狭量を笑ってやった。
それからランチのメニューの出ている小さな喫茶店風の店に入った。ドアを開けて西と犬が店に入っても誰も驚かなかった。やはりこの辺の人間は動物たちに教育されているのかも知れなかった。ボックス席に座ると西はスパゲティのナポリタン、私はコーヒー、犬はアイスクリームを頼んだ。
西は落ち着かないというかじっとしていない奴ですぐに店の写真週刊紙をぱらぱらめくったりスポーツ紙を何誌も走り読みしたりしている。本当に字が読めるのだろうか。怪しいものだと私は思った。犬はといえば床に寝そべって大きくあくびをしている。それからカーペットの毛をむしっている。そして又あくびをした。ひどくくつろいでいる様子だった。西は今度は一般紙を見ながらあーあ今日も面白いテレビ全然ないやと言った。それにしても、店の中の人はこの傍若無人な異様な姿を見ても全く注意を払おうとしない。早く来たアイスクリームを床においてもらって犬がペチャペチャそれを食べ始めた。
私は正面に座った西の顔をじっと見つめていた。奴は新聞の星占いを熱中して眺めていた。ちょっと首をかしげているので説明してやろうと思った。
「これは生まれた時の星座で未来のことを占おうとしているコラムで、、、。」
「そんなことわかっているベロ。」
極めて無遠慮に西が私の言葉をさえぎった。うちのクソ犬同様無礼な奴だと思った。
「じゃあ 星座が判ればそこを読めばいいね、、、。」
「僕は蠍座、上昇宮は山羊座だベロ。」
「くわしいんだね。」
「そりゃあ そうさ。僕のお母さんは星占い師だったベロ。」
思わずもう一度西の顔を見た。まさか人間が母親だなんて、、、まさか、、、そんなことあるはずがない。私はひきつった笑いを浮かべて自分の妄想を打ち消した。
「犬の世界でも占星術をやっている人がいるんだ、、、、。」
私の頭は混乱しているのか矛盾した表現の言葉を発してしまった。西は私の顔をじっと見てイヤイヤと左右に首を振った。
「お母さんは銀座の三越で鑑定の常設コーナーを持っているくらいの名人だったベロ。銀座のマダム ルノルマンと言えばその筋では有名だったベロ。」
「、、、。」
私も今度こそ西の顔をじっとじっと見つめてみた。なるほど人間の姿をしてはいるがどこをどう見ても犬のはずだ。それにしても西の話はあまりにも異常なことに思える。越えてはいけないものを越えているのではないか。何か恐怖心のようなものまでが私の心臓を冷たくとらえているようだった。西はおもむろに新聞をたたむと両手を膝に置き。窓の外をものうげに見つめて一つため息をついた。
「お母さんは僕を身ごもってからすべての占いを断ったベロ。そして事務所をたたむと政治家やお金持ちから貰った宝石を全部お金にかえて伊豆の山奥に山荘を買ったベロ。」
「、、、。」
「愛はあったと思う、。二人の間には、、、。しかし それよりもなによりもこれは大きな実験だったベロ。」
そういって西は今度は私の顔をじっと見つめてニッタリと笑った。私は息が苦しくなった。立ち上がると床に寝ている犬の引き綱をとった。無言で店をでようとドアのところまでひきづった。
「おいおい、どうしたんだ。」
「いいから 来い。」
「なんか あったのかよ。」
犬はのんきにそう言った。私はまくしたてた。
「おまえたちは異常だ。人間と動物が仲良くなるのは賛成だ。本当に私だってお互いがわけへだてなく幸せにくらせばいいと思っている。しかし それにしても越えてはならない線というものもあるのだ。少なくともこれ以上は私には耐えられない。」
すると突然に私の背中で奴が爆笑しだした。犬がたまらないといったうれしそうな表情で無言で私の顔見ている。それからクックッと下を向いて笑い出してそして堰を切ったように西と同じく爆笑した。その時私は悟った。私はかつがれたのだ。西の奴、最初から私を騙そうとして作り話をしていたのだ。
「まあ、そう怒りなさんなって。」
犬は私をなだめて席にすわらせようとした。顔には満面の笑顔。西はまだテーブルを叩いて笑い続けている。私は今の今まで犬というものは自分の友だと感じていた。私も人間だから犬でも好きなタイプと嫌いなタイプがある。それでもひとしなみ犬を私は愛してきた。犬もそれに答えてくれたと感じている。ところが目の前のこの犬男には腹がすえかねるほどの怒りを感じてしまっていた。人間の店員がコーヒーとスパゲティが運んできた。間違って置かれてはと思い何か言おうとしたら先に西がコーヒーはあっちだベロといった。
「あーあ。だまして悪かったベロ。」
くすくす思い出し笑いを繰り返しながら奴は口をケチャップで赤くしながらおいしそうにナポリタンを食べていた。私は仕方ないのでわざとかつがれてやったのだというような態度をとろうとして まあまあ面白かったでしょうと言ってやった。
「まあ まあどころではないベロ。」
西が又言った。
「人間と犬の間に子供が生まれるわけないベロ。そんなの常識だベロ。まあ僕は知っているベロ。テレビのクイズ番組でも一番答えられないのは大学教授だベロ。」
おい、、、私は心の中で犬を呼んだ。一体こいつはなんなのとだと奴に聞いた。まあそう怒るなよとテレパシーで奴が答えた。
今度のミッションには西の力が必要なんだ。犬は私に言った。
テーブルの向こうに座るマロン西と名乗る犬男の顔を私は又まじまじと見つめた。くりくりした目、長い鼻筋に茶色のロングヘアー、、、好奇心の塊のような振る舞い 落ち着きの無い態度はどれをとっても このあたりによくいるミニチュアダックスを想像させた。軽薄でやたらと人に甘えたがるあの犬種は私の好むところではない。私の好きな犬はもっと質実剛健で凛とした気品のあるジャーマンシェパードや秋田犬のような寡黙な犬だ。

そう思いながら足元を見ると私の犬がひっくり返ってひじ枕をしてカーペットをむしっていた。それから大きな口をあけてあくびをしている。何を考えているのか、天井を見つめていた。全くだらしのない奴だ。私の本当の犬はもっと可愛い純なメス犬なのだが奴が現われるとこんな風に態度がふてぶてしくなりあまつさえ飼い主の私を馬鹿にしたりするのだ。さっきもさんざん私を笑いものにした忘恩の無礼を私は決して忘れないつもりだ。それにしてもここの店の人も客もこんな変な連中がやってきて大騒ぎしてもまるで気にもとめようとしない。

ーどいつもこいつもおかしな奴らだ。ー

私は心の中で毒づいた。

私がコーヒーを飲み終わらないうちに西はスパゲティナポリタンを凄いスピードで平らげそえものの刻みキャベツまで器用にフォークに乗せて一口にした。

「あの、、、口のまわりにケチャップついてるよ。」

私が言うとわかってるベロと言ってすました顔で物凄い長い舌を出すとベロロンと360度回転させて自分の口を一ぬぐいした。顔は人間でも舌は獣のものだ。私は思わずあたりを見回した。だれも気がつかなかったらしいのでほっとした。それにしてもどこから見ても犬と人間のあいの子のような変な生き物だ。

「そろそろ行くかい。」

犬があくびをして言った。店を出ると三人とも無言で歩き出す。どこへ行くのだろう。

通りを渡って又、T急グループの敷地に入る。ここからは木立に囲まれた公園のようなスペースになっている。テニスコート、マロン西が働くペットセンターや犬だ多摩川や猫だ多摩川などの施設もある。大方次なる再開発に備えてグループが更地にしておくつもりでこんな風に土地を遊ばせておくのだろう。

前を歩く犬が遊歩道のところでふと足を止めた。それからフンフンと自分の匂いをかいでから私の方を振り返った。そして私の顔を見て笑った。気味悪い笑いだった。なんだろうと思い私は西の方を見た。奴も足を止めて無言でじっと私の顔を見ている。なんだか二人とも急に真面目な表情になったので私は不安を感じた。

「なんなのよ。一体、、、。」

一言連中に向かってつぶやくと自分の声を聞いて私の全身に軽い衝撃が走っていった。女になっている、、、。さっきの一瞬で私は女性に変身していたのだ。

私は自分の姿が気になった。西の好奇の目にさらされているのが息苦しく思われた。それほど西は視線をとめてじっくりと私を見ている。

「なかなか見事なもんだベロ。」

西は言った。それからちょっと手をのばして私の肩のブラウスの襟の折れをなおすと両手で自分の長い髪の毛をパっと後ろにたくし上げて天をあおいだ。

それから又三人で歩き出す。といっても私の犬は今日は犬の姿のままだった。

「どうしたのよ。いつもならおまえだって変身するのに、、、。」

私が不満そうな声を出すと犬はてくてくと歩きながら今度はそうは行かないんだと説明を始めた。

「今度のミッションでは俺は人間にはなれない。俺は犬のままでそのかわり俺の能力だけあんたが引き継ぐことになる。俺は表には出れないんだ。」

犬の言っていることはいつものように訳がわからない。私は人間の姿の格好のいい犬に会えないのが不満なのだ。女の自分になると肉体と精神の結びつきが強くなるのか、、、いや単に欲望が走り出すだけなのかも知れない。頭はいつもながら混乱しだしている。自分で自分がわからなくなる。犬のやることの一寸先も見通すことができないのだ。

「能力ってなんなのよ。」

「これからわかる。」

犬の姿のままの犬と人間に変身したマロン西と女性に変身した私はガラガラの大駐車場に入るとアスファルトの照り返しの熱を浴びながら中央部に足を進めた。この辺でいいかな。と犬がつぶやいた。三人で立ち止まった。私はあたりを見回した。平日の昼下がり河川敷の風景が見える。しばらくじっとしていたがあたりには何も起こらない。その時行くぞとつぶやいてお座りの体勢の犬ががくりと首を垂れた。

瞬間、あたりが白くなったような気がした。体が軽くなったような気持ち。不意に空から何かが迫ってくるような気がした。もの凄いスピードで巨大な中華丼が空から落ちて来るのがわかった。このままでは下敷きになってしまう。私はよろけながら頭を抱えた。

目の前には公園の木立が見える。

ーあそこに逃げようー

そう思ったら不意に今度は家ほどの大きさの草団子が木立から地面に水平に突進してきた。私はとっさにイナバウアーの体勢をとって団子の襲来をよけた。すると次の瞬間には顔を向けた多摩川の方向からおびただしい量の放水がこちらに向けてなされているのが見えた。いやこれは放水どころではないダムの決壊だ。川の水が逆流して竜巻になりこちらに怒涛となって押し寄せてくるのだ。

水が迫ってくるというよりも頭から川に落ちてしまったような感じで私は水の中に全身を埋めた。息苦しいというより気持ちが遠くなっていく方が早い感じがする。死という字が頭に浮かんだ。深い水の底にぐんぐんと沈んで行く。そして気を失った。

「おい 大丈夫か、、、。」

遠くから犬の声が聞こえた。つぶった目を開けると空が見えた。太陽がまぶしい。今は

水から引き上げられたようだ。とても幸福な気持ちがする。いい匂い。これは私の好きだった匂いだ。なんだったか思い出せない、、、記憶の中の好きな匂いが何十倍何百倍も素敵になって私を包んでいる。枝豆の匂いのような独特の臭みが胸を一杯にさせるのだ。

「気がついたら 首を縦にふってくれ。」

犬の声がした。私は2回うなづいた。顔を何かが覆っているのがわかった。やわらかなマスクのようなものが鼻と口をふさいでいる。よい匂いはそれのようだった。私は寝かされている。キョロキョロ目を動かしてあたりを伺うと西の顔がすぐ近くに見えた。どうやら私は西に膝枕されて横になっているようだ。

「よく聞いてくれ。今俺の嗅覚 つまり犬の鼻の能力がそっくりそっちへ移っているんだ。だから、普段のように鼻を使うと物凄い量の情報が脳に行っちまう。それはとても危険だ。だから そっと鼻を利かせてくれ。呼吸と一緒に匂いをかぐのはよしにして 呼吸は呼吸で単独で行い 必要な情報分だけちょっと鼻をきかせればいいんだ。」

犬がわかったかというので又2回うなづいた。そっと顔のマスクがとられた。マスクではなかった。これはマロン西の手の平だったのだ。つまりいい匂いとは犬の足裏の匂いだったわけだ。

ゆっくりと起き上がる。それから駐車上の真ん中に座った。まだなんだか膝がガクガクしていた。たしかに呼吸だけをすれば匂いは来ない。犬と西は心配そうに私を見ている。遠くの木立が見えた。ちょっと鼻を利かせてみると顔を風圧で飛ばされるかと思うほど木や草の匂い 土の匂いが殺到してきた。

「さっきは家位の草団子が飛んできたと思ったわ、、、。」

私がそういうとそれは幻覚というもんだベロと西が言った。

後ろの川を見てほんの少し鼻を微妙に聞かす。巨大河川の水の情報が目の前に大画面の映画のように広がった。

ーなるほど、、、。−

それでは空から来たUFOのような巨大な中華丼の正体は何なのか、、、。この答えはすぐにわかった。これは駅前のリンガーハットの厨房の煙突から来た匂いに反応してのことだった。そんなことの詳細が考える必要も無いほどはっきりと知覚できるのだ。

「なんとなくわかったわ、、、。」

私はそれだけ言うと立ち上がった。 犬の嗅覚は人間の2万倍と言われている。実際2万倍という値がどういう能力を意味するのか私には今までわからなかった。テレビでこないだ見たが人間の足裏の匂いが靴裏にしみこんで地面に残ったものを明確に犬は判別できるとも言う。その時は果たして本当かどうかなどと想像を働かせてみたものだがこうしてその能力が今私の鼻の中にあるのだ。

三人で歩き出す。どこへいくのだろう。公園を抜けて駅の方へ向かう。私の横には西がしっかりとはりついている。さっきのようにパニックになって道端を転げまわったりしたら大変なことになると思っているのだろう。前を歩く犬も心配そうにちらちらこちらを振り返っている。

「大分落ち着いてきたみたいだな。」

「うん、もう平気みたい、、、。」

それだけ言って私はこの不思議な世界に浸った。犬の前では平静を装っているがおとぎの国にいるような気分だった。目の前にあるありふれた光景は今はどこにもない。この素晴らしい匂いの世界。ありとあらゆるものが特徴のある匂いを放っている。もし何か気になってもそこまで行かなくともよい。手にふれる必要も無い。ただ ちょっと注意を払いさえすればその物体の匂いがこちらの鼻に飛び込んでくる。その匂いを手繰っていけばどんどんと違う世界に入ることができるのだ。匂いにはそれぞれ履歴のようなものがあって色々なことがわかるのだ。しかもどんなものでも いい匂いに感じることができるのだ。人間が自分が嫌いな色でも目になんの負担を感じないように 犬の鼻になってしまえばどんなものでもそれは傾聴すべき情報なのだ。

犬の足が止まった。目の前にコンビニエンスストアがある。入るのかなと思ったらそうではないらしい。自分が犬の姿で入れないせいなのか。

「よし、ちょっと実験してみよう。さっきから時間もたっているから大丈夫なはずだと思う。ここから店の中の冷蔵ケースの隣の食品の棚の上に並んであるものがなんだかわかるか。」

私は簡単にうなづいた。店のガラスまどには目隠しがあって中は見えないがここの歩道にいたって中からの匂いをたどっていけばすぐに陳列棚の奥の惣菜、弁当売り場の様子が手に取るようにわかるのだ。

「そんじゃあ、一番上の棚から読んでいってもらおうか。」

なるほど これはテストってわけか 私はすっかりうれしくなった。テストで簡単な足し算引き算を出してもらった子供のように私は奮い立った。

「左から、行きます。高菜おむすび、塩鮭むすび、シーチキンマヨネーズおむすび、梅しそむすび、梅ぼしむすび、葉等昆布むすび、ゴマ昆布むすび、焼肉むすび、えび天むすび、赤飯むすび、焼きおにぎり、鱒鮨むすびでーす。」

「今のところパーフェクトだベロ」

ガードレールに腰をおろしている西が言った。すげえじゃんと犬がウインクして見せた。

道路にいながらでも易々と情報が取れる。取れるというより飛び込んでくるといった感じで胸がわくわくするほどこれは面白いあそびだ。魔法のめがねで厳重に密封されたくじの中身を自分だけが見ているような危ない楽しさを感じる。

「そんじゃあ下の段行こうか。」

「OKよ。下は左から 3個おにぎり梅鮭昆布たくわん二切れ、となり言って巻き鮨セット

おしんこシーチキンカニかまぼこ、次は助六セット 太巻きと稲荷、次行っておむすびバスケット、鳥からあげ、ゆで卵つき、となりはカルビ焼肉弁当、とんかつ弁当、のり弁当、鮭弁当、幕の内デラックス弁当、中華弁当でおしまい。」

「これまた全部当たっているベロ。」

西がつまらなそうに言った。犬も驚くでもなく当然のような顔をしている。犬の嗅覚の能力ではこんなの朝飯前ということなのだろう。私も何も誇るつもりもなかったが多少は得意さが顔に出ていたらしい。でも犬たちの世界では当たり前なのだろうが私は今人間の世界では間違いなく超能力者(エスパー)なのだ。それにしても連中の浮かない顔はなんなのだろう。なんだかつまらなそうな、いやそうな、暗い表情だ。

私は不審に思ってもう一度匂いをたどってコンビニエンスストアの奥の弁当売り場まで

心を飛ばせた。匂いをかぐだけで頭の中で様子が浮かぶ。弁当のプラスティックの容器の色や包装の具合、がんばれば商品についているJANコードだって読めそうだ。

「ちょっと、、、ちょっと待ってよ。」

不意に自分でも気がつかないうちに私は何かおかしいと感じていた。

「おにぎりの海苔の匂いが違うわ、、、。のり佃煮の中身のものは有明産の海苔ではない。どうしてかしら、、、。」

答えは又すっと頭の中に降りてきた。つまり海苔の香りがごまかせる具の場合は等級を 落としたり産地を変えた海苔を使っているのだ。包装には有明産使用かいてあるのに、、、。

「せこいことをするものね、、、。」

私がひきつった笑いをすると全く人間様のすることはなあ、、、。と犬がやっとわかったかというような顔つきで言った。私の嗅覚はますます鋭くなっていったようだ。品物を見分けるなどというレベルではない。その物質の分子レベルまで微妙な情報が次々と脳に運ばれていく。

それにしても。すべての売られている食品がどうしてこんなに香料、食品添加物を使っているのだろう。調味料とは言いがたいような食欲を刺激するような化学物質がどの食品にも異常なくらい綿密にふりかけられているのがはっきりとわかる。

ー我々は毎日こんなものを食べていたのか、、、。−

がっかりというより情けない思いがする。野菜もそうだ。本来の自然の匂いより薬品の匂いの方が強い。一体こんなものを食べ続けていたら人間の体はどうなってしまうのだろう。

「ま、そういうことだベロ、、、。」

私の顔を見て西がポツンと一言つぶやいた。情けない思い。浅はかな人間の知恵はドッグフードにも加えられた添加物の種類にもはっきりと今の私には感じられる。犬は黙って食べているが皆わかっているのだ。

「何をやっているのかしらねえ、、、。」

私もひきつった笑いを浮かべてそう言った。欲望が何とも知らない得たいの知れない欲望が人間を虜にしているようだった。その欲望を満たすためには人を蹴落とさなければならない。だから、わからないようにこっそりと商品に細工をする。自分のものが売れればお金が入る。商売敵に勝つにはそれが一番。だから色々工夫する。工夫して恐ろしい物を作る。誰も知らないだろうと思って店に並べてそして自分も他のものでそれを摂取しているのだ。

反省のしようがないほど今の我々にはそんな欲望にしたがう性がしみついているようだ。もうどうにもとまらない。どこにも逃げ場がない。私たちのほとんどすべてがそういった暗い欲望によって支配されているのだ。

「まあ、そう落ち込みなさんなって。」

犬が珍しくやさしい声でなぐさめてくれた。私は下をむいて恥ずかしさのあまりうつむいていた。元気を出さねば、、、という思いがふと浮かんだ。その思いは急に強くなってきた。ワクワクする。うれしい。匂いだ。いい匂いがする。素敵だ。大好きだ。

私たちがいる歩道を一人の年配の男性が歩いて来るのが見えた。私は今のワクワクした気持ちや匂いの源がその男性から発せられているのに気がついた。男性はこちらに向かって歩いてくる。私はその姿を見ていた。何の変哲もないオヤジなのだが目が釘付け状態だった。男性は私の前を通り過ぎた。私はご馳走の前にほうりだされた餓死寸前の人のように彼のあとを追った。気が遠くなった。あまりの幸せな感動につつまれている。

「やめるベロ!」

気がつくと後ろからマロン西が私を羽交い絞めにして立たせようとしていた。私は両手の自由を失ってもしゃがみこんだ体勢で前の男性を追いかけようとしていた。

「正気に戻るんだ!」

犬が叫んだ。あせっていたのだろう。ワンワンと吠えている。はっと我に帰ると自分のしていたことが認識できた。歩道にノタノタ歩いている男の後ろにくっついていってしゃがんで尻の匂いを嗅ごうとしていたのだ。

「す、凄い力だベロ、、、。」

西は顔を真っ赤にして私を全力で引きとめようとしていた。それにしても 何と言うかぐわしい匂いだろうか。犬同士が鼻先を互いの肛門にくっつけて匂いをかぐのが今はよくわかる。好奇心を刺激し謎を与え答えが欲しくなる。そんな匂いだ。どんな言葉もおよばないほど色々なことがわかってしまう一本の映画とでもいったらいいのだろうか。時間の感覚が消し飛んでしまうほど(肛門の匂い)はたまらない魅力があるのだ。

もう大丈夫、、、と私がしおらしく言ったので西は私から離れた。今回は西の助けが必要だと犬が言った理由がわかった。私が尻の穴の匂いに狂って暴走するのを押しとどめる役だったのだ。

ーなるほどね。なーるへそー、、、。−

私はぽつりとつぶやいた。私の両目はすでに他所をさまよっている。おお、向こうからアスリート風の若い男が歩いてくるではないか、、、。私は脱兎のごとく走り出すと男の方へ向かい脇を通り過ぎてから背後に回った。中腰になると男のズボンに当たるほど鼻を近づけて匂いを嗅いだ。ふーんと胸がふくらむほど息を吸うと一瞬にして世界がバラ色になった。私はそのとき 今までの人生で一番、面白く おいしく 愉しく 幸せだった。ところがすぐに又腰に手を回して引き離そうとする奴がいる。西だ。

「邪魔よ。離しなさいよ。」

私が逆上してどなると西は落ち着け、冷静になるベロ!と素っ頓狂な声を張りあげた。

傍らではもうどうしていいのかわからんという風に犬が私たちの周りをぐるぐると走りながらワンワンと大声でほえまわっていた。

「わかったわよ。もう大丈夫だって、、、。」

我に帰った私は面倒くさそうにいって立ち上がった。いきなり抱きつくなんてふざけるのはいい加減にしなさいよと言う風に私は西をにらんでこの場を取り繕うとした。

ーそうやって油断させといて、、、ー

抜け目無く私の脳は勝手に作戦をたてている。西はもう私の横にぴったりついてバスケットボールのガードのように立ちふさがっていた。


人間なんて 人間の力なんて人間の行為なんてちっぽけな物だ この大きな地球にくらべれば、、、などと昔は考えたものだが 今はとんでもない。 人間が撒き散らす CO2のせいでその地球の気温はうなぎ登りに上がり 各地で異常気象が起こっている いたるところで水没 地崩れ ハリケーン 河川の決壊が起こってしまっているのだ。
しかしー。
一体この先人類は 地球の未来は 地球に住む生命はどうなるのだ、、、。などと考える余裕はその時は私には全くなかったのだ。
その時、私は女性だった 本当は男なのだが どうしたものか 家で飼っている犬と冒険をする時は若い女性の姿に変身することが多いのだ。普段ならなぜそうなるのか 死ぬほど悩んでしまうところだが 女性になった時の私はやたらと元気がよくて 普段のうじうじしたところがまるでない。ちょっと考えが足りなさ過ぎるかと思ってしまうほど行動的になってしまうのだ。それもこれも犬のせいだ。
犬、、、私の犬。私が生まれて初めて飼った犬。どれほど私は子供の頃に犬が飼いたかったことだろう。そしてその願いは決してかなわなかったのだ。小さい頃、拾ってきた子犬を両親に見せて あっさりと捨ててくるように言われたその時のつらさ。情けなさ。夕暮れの草むらに子犬をおいて走って逃げる時の後ろめたさ。こんな経験を持っているのは私だけではないはずだ。
そして、どんなに子犬が可愛いものであるか、子供が子犬に友達であって欲しいか知っている人も沢山いるはずだ。
結局今まで生きてきて私は一体何がしたかったのだろう。かつてとりとめなく考えにふけったことがあった。映画や音楽、小説に夢中になることもそれは素敵なことに違いないが やはり退屈が恐いというか 刺激が欲しかったという一言につきてしまうような気もするのだ。そうなると 恋をしたりグルメを気取ったり、酒飲んで騒いだりするのも つづめて言えば刺激が欲しかったからということになってしまう。お金が欲しいのも 休みが欲しいのも いやなことをしたくないから 見得をはりたいからというあんまり人に自慢できるような気持ちが発するものではないようにも思う。
ところがー。
犬を飼う。犬と暮らす。犬と遊ぶ。犬と憩う。
これにはそういった私という人間の持つ自分勝手な邪念があまり働かないような気がする。犬と二人して日向ぼっこをしていたりお互い見つめあったりして時のすぎゆくままにしている時 私はそれ以上何も欲しくないように感じる。
私は犬といるとかなりな割合で心が満たされているようなのだ。満たされているということはもうその場は何も欲しい物がないと感じることだ。この毛むくじゃらでくさい匂いのする生き物がそばにいてくれるだけで私はある意味欲望から解放されているように感じるのだ。
しかしー。
 これはあくまで 普通の犬といるときの場合ではある。これからが本題だ。私の犬はなぜか異常な能力を発揮して私と言葉を交わすことができてしまう。又犬は仲間がいて それはカラスや猫、その他 くだらない小動物なども私と話ができてしまうのだ。
そして 時々私と彼らは冒険をするー。
ここまで来て私のことを気が狂っていると断定される人も多いだろう。それは全く正常な判断力がなせることである。私も信じてくださいとお願いする気もない。
「でも もしも あなたが かなり思いいれが強い性格で小さい頃とっても犬が飼いたかってそして つらい別れをした経験があれば 今度子犬を飼ってごらんなさい。そしてできるだけ時間を作って犬と一緒にいてみてください。そうしたら ある時から突然 急に犬があなたに話しかけてくるかも知れません、、、。そうんなことがなくとも ここにこうして私といればどこからともなく彼らはやってきて皆さんを不思議な世界に案内してくれるのです。それでは今日はどんな風に彼らがあなたに話しかけてくるのでしょう、、、いつものように覗いてみようではありませんか。」
案内役の私はおとぎ話の語り口で揺り椅子に座り 暖炉の前でテレビカメラに向かってウインクする。手には古ぼけた大きな革張りの本、カメラはその広げたページにズームインする。筆記体で書かれた古ぼけた黄色いページがぼやけて風景に変わる。
さあ いよいよお話の始まりだ!

昼下がりの二子玉川の駅前で 女性の姿の私と私の犬、そして人間の姿のマロン西が大騒ぎをしていた、、、というとこから話の続きははじまる。
犬の嗅覚というものを突然与えられてしまった私はあらゆる匂いに酔いしれていた。人間にとって痛覚を伴う色彩がないように 犬には不快な匂いと言うものは存在しない。匂いは履歴でもある。ちょっとした物の匂いでもその過去を知ることができるのだ。それにしてもなんと不思議な情報、すべてが躍動している。風に乗って、あっちからもこっちからもそれら漂い、混ざり合い溶け合って又一段と二段と三段と魅力的な世界を作り出しているのだった。
でも私はそんな一般的な匂いの世界に興味を失っていた。私が欲しいのはお尻の匂いだ。どうして犬が肛門に鼻を近づけあって挨拶をするのか今はよくわかる。
マロン西が私を後ろから羽交い絞めにしてもそれを引きずって私は歩道を歩く人々のお尻に顔をつけていってしまうのだ。
「やめるんだベロ!みんな見ているベロ!おかしいベロ!』
西の怒鳴り声を背に私は又 歩道の先を行く若い男性の後ろ姿に吸い寄せられて行った。そういえば少し足も速くなったような気がする。
後ろ姿しか見えないがその男が私にはレオナルドデカプリオのように見えた。
犬はもう気が動転したのかワンワンとしか吠えない。私の周りをぐるぐる回っている。
「ちょっとどきなさいよ。」
そんな行く手を邪魔する犬の背中を大又でまたぐと飛び六法を踏むようにして私は頭を突き出して私はお目当てに突進していった。かぐわしい匂いまであと5mか、、、。
ジェット機が着陸するように斜めに私は最短距離を測って腰を低くして膝をたたむと歩道90cm位のところに位置する男の臀部にむけて軽い気合と共に宙を飛んだ。
ところが そこに間一髪でマロン西が割って入ってきた。軽くもみあって西の鼻先をキスしてしまった。何よこの犬は、、、人間の姿をしていても 犬の匂いがぷんぷんしている。普段は臭い臭いといっているが私はこの匂いが好きだ、、、でもちょっと今はそれよりも 人間のオXツだろうが。
その時 西の目がピカピカと光った。一体なんだろう。少しキョトンとしてしまう。西はなおも 低く身構え男にタックルに行こうとする私の邪魔をするように膝をついてウルトラマンのスペシューム光線のような格好をした。腕を十字にして それから大きく両手を広げる。それから素っ頓狂な大声で叫んだ。
「おしり ナーイナーイ」
西の目が又ピカピカと光った。一体なんだ。それから腕を十字にして大きく広げ叫ぶ。
「おしり ナーイナーイ」
何度も西はなんとも形容しがたいパフォーマンスを繰り返した。こちらが恥ずかしくなるような大声を張り上げて、、、歩道を行く人たちが呆れて振り返ったり通りの女学生たちが声をあげて笑っても西はずっとこのお尻ナイナイを叫んでいる。
そしてそのお尻ナイナイ踊りは意外な効果を発揮していった。いつの間にか私は冷静さを取り戻していたのだ。つまり西は私を正気に戻そうとしていたのだ。それでも口で言ってもわからないほど鼻の魔力は凄いものがあるのだ。
「もう いいわ。わかったから。」
私は照れ笑いをして膝まずいている西の肩に手をおいた。
「あーあ びっくりしたベロ。これじゃあ 人間に匂いなんて嗅がせるのは百億万年速いベロ。」
西が大声で叫んで両手をヒラヒラさせた。そして昼休み時間とっくに過ぎたベロといって長髪をひらめかせて犬だ多摩川の犬の床屋のトリートイメントセンターの職場に帰って行った。
「なあ、奴は役にたつだろう。」
後ろ姿を見送りながら犬が言った。よほどあせったのかまだ太い息をしている。たしかに 奴も犬だった。なんでも一生懸命。目的のためには我を忘れる。そしていつでも誠実だ。私は最初はなんて生意気な奴だと思ったけど 今は少し西のことが好きになってもいいかなあと感じている。
少なくとも あのまま 騒ぎを大きくしてXX病院送りになって拘禁衣をきせられたまま仲間の患者のお尻の匂いをかいで一生終わるよりよかったに違いない。(それもちょっと魅力的ではあるが、、、) 

結局犬の嗅覚の能力を持つのは危険すぎるということで犬は私にこの魅力的な力を与えることをやめてしまったようだ。ところが 私はこの素敵な能力のほんの一部を自分の中に宿することに成功したらしい。
様々な匂いを嗅ぐことができるのだ。もちろんこれは庭でゴロゴロしている犬には内緒にしておいた。奴は気付いてないのだ。犬の嗅覚のほんのわずかでもこの鼻の中に残っているのなら間違いなく私は人間の世界では超能力者ということになるだろう。次の日に私はさっそく又二子の駅前に来ていた。どの程度の能力か こっそり試してみる 一人一人の人間の匂い、ドーナッツの匂い 中華の匂い 空の匂い 土の匂い 排ガスの匂い インクの匂い どれも鮮やかだ。モノクロの映画を見ていていきなり総天然色になった変化したようなとでも言うべきだろうか、、、。世界は変わった。私の中と外とで。
私は高島屋デパートの中の紀伊国屋書店へ行き 大好きな本の匂いを嗅いでみた。
案の定、本の内容 経済 文学 芸術 紀行などによって微妙に匂いが違っているのを発見した。いやこの場合は発嗅したとでも言うべきなのだろうか、、、。
言葉とは観念とおきかえることができるとして その観念 思念というものに匂いがついているのだ。匂いとは空気中を漂う細かな物質のことを鼻で感じ分けることだと思っていたがそうでもないらしい。
もっともこれは目で見ても同じことで 同じものを違った気持ちで見ると印象がまるで違う時がある。好きになったものが嫌いになったり そんなことはしょっちゅうあるものだ。
それにしてもいちいち手にとって見なくていいというのは素敵なことに違いなかった。閉じられたままの本の表紙の匂いをそっと鼻の中にいれるだけで内容のよしあしが感じることができるのだから、、、。小一時間も私は本屋のすみからすみまで秘密の花園に遊ぶ蝶のように匂いを嗅いで楽しんだ。この上ない愉悦の時だった。
それから駅前の雑踏の中をまだ少し酔ったような気持ちでふらふらと歩いている。夕闇がせまっていた。買い物、夕食 帰らなきゃ、、、などという思念が匂いとなって当たりに満ちている。大勢の人がいっせいに夜に向かって行進をしているように感じた。
その時だった。私の足がとまったのは、、、。
駅の構内と歩道の境目のあたりで立っている男に私の目が行った。もちろん男の匂いを先に私は嗅ぎ取っていたのだった。ところが その男には何の匂いもなかったのだ。
歩いていて急に地面がなくなったような違和感から私はその男の顔姿を見ようとしたのだった。
男は帽子をかぶっていた。そして角ばった大きな昔風のサングラスをしていた。誰かを待っているような風だったが私の顔を見ると複雑な表情の笑いをしてまっすぐにこちらに向かって歩いてくる。待っていたのはあんただよ。男の顔がそう言っていた。
それから私はこの匂いのない謎の男と肩を並べて通りを歩いた。何を話したのかあまり思い出せない。男はやわらかい口調でとりとめない世間話をしたようだった。その話し方がどこかで聞いたことのあるような 記憶の中で初めてでない話し方なのだ。私は気持ちがよくなって彼の話に相槌を打っていた。何でもいいから話して欲しいそんな気持ちだった。
私と男はそのまましばらく歩いて住宅街の一角にある小さな公園のベンチに二人で座った。年恰好も似たような中年男が二人、誰もいない公園で風に揺れるブランコを見つめていた。
「昔は舗装道路自体がなかったですよね、、、。だから雨がふると地面というか道は泥でぬかるんでいたるところに無数に水溜りができて その水溜りに自動車の油が落ちてそれが広がって虹のように見えるんです。」
男の言葉は私の想像力というか記憶力を刺激する。私の頭の中に自分が小さい頃に見た水溜りの無数の油の虹がくるくると変幻自在に形を変え始めた。
「美しかったですね、、、。そう言えば、、、。」
私はうっとりとして記憶の世界に遊んだ。さっき会ったばかりのこの男は私の心の奥の奥まで見透かすようにソフトな語り口で様々なとりとめのない話をして聞かせる。
私はそれを聞きながら眠りにつく子供がお話をねだるように男の世界に全身を埋めようとしていた。気持ちがよい空間がそこにはあった。いつまでもこうしていたいと思った。つまり心が満たされていたのだ。それは他に欲しい物が見つからないというのと同じ意味の言葉だ。
ほんの少しの間、私は鼻を動かすことを忘れていた。男はひっきりなしに世間話をしている。どうして男に匂いがないのか。私の疑問は少しぶりかえしはじめていた。
”それはこいつが人間ではないからだよ”
私の心の奥底で誰かがぶっきらぼうに言った。それを聞いてうとうと居眠りしていた私の注意力が目覚めたようだった。男の横顔を見てみる。私の心を見透かしたように男もこちらを見てにっこり笑った。
「みんな そうなんです。おわかりでしょうけど、、、あなたなら、、。」
男はそういった。何がそうなのか 私にはわからなかったがわかる。においがないのだ。
男は人間ではない。妖怪なのか。妖怪だって匂いがするように思うのだ。いやするはずだ。それらしい匂いを私は今日だって二度か三度人ごみの中で味わっていた。急にこの男がとても恐ろしくまがまがしいものなのだと思えてきた。それでもこの男のソフトな語り口、微妙な優しさの物腰や表情がたまらなく懐かしい。この人でも妖怪でもない男の回りはどこか眠りをさそうようなうっとりとした世界でもあるのだ。
さっき”おわかりでしょう あなたなら”と男の言った意味がわかった。この男の世界は私の世界でもあるのだ。男は私を語っている。私の記憶を 私の願望を。そして私の心を支配しようとしているのだ。
男は私に何も押し付けることも無く 何を奪うわけでもなく ただ私の世界のどこかを語ることによって私の中に入り込もうとしているのだ。
「つまり こういうことなのではないでしょうかね。私たち二人こうしてここの座っていられる。そのこと自体がとても素敵なことなんだ、、、。」
男は話している。私たちは共有している。私たちは支えあっている。私たちはこうしているだけで完璧なのではないか、、、。私は又まぶたが重くなってきたようだ。男の言うことは正しい。男は私のどこかに侵入してきている。そして私を支配しようとしている。私を取り込んで何をしようとしているのだろう。
何度も言うがここまで考えることができるのは匂いが男にないせいだ。こいつは人間ではない。かと言って妖怪でもない。息をするたびに私の心の中に注意信号がぽつりとつく。犬に貰った嗅覚を頼りに私は何とか重たい頭をめぐらせた。
「いいんです、、、。いいんですよ、、、。つまり みんなそうなんですから。」
男は又やさしくささやくように愛情を込めて意味不明な言葉を言った。私は気がついた。この男の目的が何なのか。男はいつころからかこのあたりにやってくるようになったようだ。5年前の世田谷の工事現場でOLが惨殺されて捨てられた事件、烏山の一家皆殺し事件、宮前区の通り魔事件もこの男が関与している。早い話がこの男がやらせたのだ。犯人は別にいるとしてもそれをあやつっているのはこの男だ。
まだまだ 男のしたことは多い。子供を殺す親、信じられない残虐な手口で痕跡を残さない犯罪の多くにこの男は関わっている。一体何者か、私はわからない。多分わからないだろう。この男のことを探れば探るほど男は私の中に深く入って来るのだから、、、。私はすべてをこの男の何かと交換しなければならなくなってしまう。この世の中でそれほど危険なことはないだろう。
男と私はそれからしばらくとりとめのない話をして別れた。私は男の話に耳を奪われ通しだったがなんとか最後の自制心を盾に自分を守りぬいた。私の必死の努力にも男はまったく興味を示さず たんたんとしていた。そして立ち上がる私をしいて引きとめようともしなかった。やわらかい笑みを浮かべて又会いましょうと言った。
私も笑顔でその言葉にうなづいていた。人間なら絶対に抗することのできない男の笑顔だった。
重たい頭をして家に戻った。庭に出ると犬が私の顔見るなり 会ったのかと言った。
ああと私は言った。犬は深刻そうな顔をして遠くの方を見ていた。まるでそこの方角にあの男がいるようだった。犬にはでもわかるまい。男の行方など、、、私はそう思った。
「今回はやめにしとけ。」
私は声をかけた。犬は意外そうな顔をしてこちらを見た。
「なんでだ。やつをのさばらせておいていいと思ってんのかよ。」
「そうは思わない、、、。思わないがおまえには無理だ。」
犬の背中をだきよせて指で毛並みをかいてやる。普通なら気持ちよさそうにしているのだが犬は体中を緊張させていた。
「おまえの力の凄いのはよく知っているさ。たいしたもんだ。でもな。あれは猿の妖怪なんかとは訳が違うんだ。」
犬はいらついたような顔をして又遠くの空を見上げている。下唇が少しめくれてうなり声をあげそうな感じだった。
「あのな、、、。」
そこまで言って私は黙ってしまった。私は会ってきたからよくわかる。表裏の全くない純粋無垢な動物の犬には全く理解できない世界もあるのだ。人間には二つの面がある。どんな人間にも影の部分はあるのだ。暗い部分、闇、狂気が。たとえ聖人のような人格者でもその分普通では考えられないほど大きな闇のエネルギーが存在している。でもどうしてそのことを犬に説明したらいいのだろう。私は困った。犬の奴は危険なことをしようとしているとカラスの田中さんが言っていたのを思い出した。
「あいつは お前には無理なんだ、、、だってあれは、、、。」
私は腕組みした。あれは人間そのものだからだ、、、と言おうとしてやめた。すべての人間の闇の部分と永遠に太刀打ちを続けてボロボロに滅びる犬を見るにはとても忍びない。それでも なんとか理解させなければいけない。私は思った。
私の深刻な顔を見て犬は何を思ったかニヤリと笑った。
「昔、宮沢賢治というえらい日本人がいた。彼はこの世界の人がすべて幸福にならなければ私は決して幸福にはならないと誓いをたてそうだぜ。」
「アホか。そんな偉い人と私を一緒にするんじゃない。」
犬の冗談につきあおうと思うのだが頭が妙に重たい。そして家の中に入ると鏡で自分の顔を見てぞっとした。そこには公園でわかれたあの男とそっくりの顔があった、、、。

長い間読んでくださった皆様 本当にありがとうございました。皆様のご活躍を期待しております。これからも夢と空想の中でお会いしましょう!さようなら!