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悪霊の逆襲 2






陰陽師の(おまえは・・・の霊であるか?)などの質問に うんうんとうなづく被験者の姿を見て なんと時代錯誤なことをしているのだろうと思うのは無理もない
これらのことは(オマジナイ)として科学が発達していなかった頃 無知蒙昧な民衆がすがるものだったのだから、、、
科学的には全く根拠もなければ その存在価値を証明する何の手段もないものである
ところで、私の子供の頃の思い出であるが 弟が風呂場で一酸化炭素中毒で倒れたことがあった
その時、助け出された弟は完全に意識を失っていた しばらくはぐったりとして仮死状態と思う が すぐに痙攣をおこしはじめた 舌をかまないように口の中に叔父が懸命に割り箸を入れていたのを思い出す 引き付けはおさまったが弟は医者が来るまでの間は意識は戻らず倒れたままだった
そのうち 弟は野太い声で俺は死ぬと叫びはじめた 口調は大人びていて 自分の他にもう一つ別のものがここにいて そいつも一緒に死ぬと何度も断定するように繰り返して言った
あまりの異様なことに私達家族は言葉もなかった 弟は小学校の低学年でまだ母親に甘えているような年齢だった 多重人格などという言葉すら私は知らなかった
弟がテレビか何かの影響を受けてこのような妄想を作って口走ったとはとても考えられない
今風に考えれば あの時の大人びた口調からして 私達に訴えかけたものは普段の弟の人格とは又別のものであったようにも思われる
普段の生活の中で意識できる(私)というものが自分という人間のすべてであると考えるのは大きな間違いのように思う 私の乏しい人生経験から言っても年齢を増すことに私という存在はあいまいであやふやなものになっていっている
自分や他人 過去や未来 現実と情念などは私たちが普段見るドラマの筋書きのような明快な組み立てにはなっていないようだ そのことは今までも書いてきたつもりであるが、、、
話は変わるが こんな素朴な(シャーマニズム)に何かのヒントを見つけようとしている自分を考えるとやっぱり日本人だなあと思ってしまう
以前から 一神教を信じる外国の人達が日本人の宗教感のあいまいさ いいかげんさを手厳しく非難しているのを読んだり聞いたりしてきた
私自身も本当にいいかげんなものだなあと思う 子供の頃 クリスマスにはケーキを買って食べる前には(きよしこの夜)を皆で歌った記憶もある 今でも私は祝詞も読めば般若心経も読んでいる
私達は世界の人々に比べれば遅れている民族なのだろうか それでも基本的に他者を認めない(区別する)という考え方 発想の仕方が私達にないのは悪いことではないのではないかとこの頃感じるのだ
この(感じている)というところが又 人の非難を受けるところなのかも知れないが とことん つきつめた考え方が私はできなくなってきている
科学的にはそれは正しいことなのだろうが こと心を持った人間にとってそのような理詰めの考え方や態度は果たして人を幸せに導くであろうか疑問だ むしろ極端な結論に容易にむすびつきやすいのではないのではないかと思う
今世界で起こっている狂気のような無差別殺人は一体どういう考えから生まれたのかと思うのだ
生命を持ったものの世界には我々が正しいと考え作り上げてきたものとは別の法則があるような気がしてならない
例えばほとんどの生き物をじっと見つめていると何かしら親愛の情のようなものが浮かんでくる 見えない触手のような透明なものが互いの体から出てむつみあうような感じがする時もある
動物が捕食以外では生物を殺さないのも何かの理由があるからだろう
その答えを今の科学者が見つけるとはとても私には思えない むしろ彼らの最も興味の薄いところであるかも知れない 心が絡むから、、、
ある動物が捕食の為に他の動物を殺したとしても 互いの生命のどこかはむつみあっているような気がする この場合の 殺すという行為と生命の存在の矛盾が少ないように思うからだ 生命が形をかえたに過ぎないという気さえする
そんな意味で想像すれば人間の生命にも無数の生命が宿っているのは間違いないことと思う
シャーマンはその中の代表的なもののいくつかのバランスを整えて人間をあるべき方向に導こうとしたのではないか あるべき方向とは 生命を輝かすこと さかんにすることであったろうし それ以外にはなかったろう
原始的で蒙昧な態度かも知れないがどこにも破壊的な(悪)の存在が感じられない 今の私にはこのような豊饒や多産を約束してくれる私達のやさしい神への信仰のあり方がありがたく感じられる
すべての生命をいつくしむより他に幸福にいたる道はないと思うからだ